水迎の花嫁②
「水迎の花嫁」の続きとなります。
設定の仕方がわからず、7万文字を超えてしまいましたので、2部に分かれてしまいました。
ご容赦ください。
襖を開けると、そこには他の部屋とは明確に違う雰囲気が漂っていた。
壁には立派な掛け軸があり、四方に立てかけられた書棚。
部屋の中央には大きな机があり、引き出しがずらりと並んでいた。
どれも、これも整然と並び長い年月を経たにしては不自然である。
まるで、人の営みを拒絶するかのような冷たさがそこにはあった。
澪は息をひそめながら、引き出しに手をかけ静かに一つずつ開けていく。
最初の引き出しには儀式で使われたと思われる破れた祝詞。
紙片の端に残っていた文字は墨がにじみ、ところどころは判読が不能になっていた。
辛うじて読めるもの――それは。
「――水の底より現われし御身、****を宿し、我ら四家の血をもって道を開かん。
ひとたび花嫁を迎え、
その身を清き供物とし、
黒き水を沈めた給え。
――その際、*****刀を用い
現との***を断ち切らしめよ。
さもなくば、供物は******
**************
.......さすれば、永きにわたり潤いを得ん――」
澪は息を呑む。
そこから先は、まるで誰かが記述を隠すために破り取ったかのように無くなっていた。
何かを隠すためか?それとも、持ち出されるのを恐れたのか?
次の引き出しには何も入っていなかった。
ここを出る際に持ち出したのだろうか?
三番目の引き出しには鵜飼さんの家で見たものと似たような巻物が一つ整然と収められている。
澪は躊躇しながらも、それに手をかける。
巻物には呪術的な文言が並んでいる。
水底ニ眠ル声ヲ封ジヨ。ソノ名呼ブコトナカレ。
名ヲ知ルモノハ水トナリ、水ハ命を削グ。
まだ続きがあったが、読んでいると頭が重たくなり、耳鳴りが広がっていく気がした。
まるで、誰かに読むなと言われているような気がしたので、読まずに引き出しに戻してしまった。
巻物をしまうと、空気がふっと動き、背後の障子がわずかに揺れた気がした。
まるで、部屋全体がここにあるものを読まれるのを拒んでいるかのようだった。
恐る恐る最後の引き出しに手をかける。
重く閉ざされていたが、力を込めると「ぎぎ......」という嫌な音ともに中が現れた。
中には小さな木箱が収められている。
表面には、蛇のような文様が刷り込まれている。
そっと蓋を開けると、中には黒ずんだ古鍵がひとつ。
取り出してみると、それは鈍く曇った真鍮の鍵だった。
細かい装飾が施され、錆びついてしまっているが、蛇の模様が刻印されているのが分かった。
どう見てもただの鍵ではない。
その瞬間、背筋を戦慄が走る。
――これが、恐らく廊下の奥にあった扉を開く鍵。
澪は直感した。
「見つけた......」
安堵の息が漏れたその瞬間、部屋の空気が急激に冷えていくのを感じた。
背中を氷柱でなぞられたような悪寒が走り、澪は懐中電灯とともに反射的に振り返った。
襖の奥で黒い影が揺れていた。
最初は光でできた影かと思った。
しかし、その影は光に同調することなくゆらりと揺れ、襖の間からこちらを確かに睨んでいる。
人の目であることは間違いなかった。
「.......かえ......せ」
しわがれた声が、室内に染み込むように響いた。
言葉が畳の目から吹き上がる煙のように澪に流れ込む。
「や......だれ......」
問いかけた声は震え、うまく言葉にならない。
その影が音もなく、襖をすり抜けて入ってくる。
衣をまとった男。しかし、この世のものではないことは明らかであった。
そして、その影が――蛇ノ宮家の当主であったことは、説明を持つまでもなかった。
異様に背が高く、やせ細った顔の輪郭は骨ばかりで、頬は影に沈んでいる。
口が蛇のように開き、ところどころに真っ赤な血の跡が残っている。
「かえ......せ.......」
その単語だけが、どこからともなく降ってくる。
当主が伸ばした手は異様に長く、濡れた指が枯れ枝のように伸びている。
その手が澪の方に触れた瞬間、全身が氷のように冷たくなった。
息が止まる。
恐怖で肺が縮み、心臓が胸を突き破りそうになる。
「........っ」
声にならない声を振り絞り、振り切るように廊下に飛び出た。
走れ。走らないと捕まる。本能がそう叫んでいた。
だが、背後から響いてくる足音は、やはり異様であった。
確かに地を踏む音なのに、重さはなく、床が軋む音もない。
ただ響くのは、鼓膜を直接揺さぶるような衝撃音――ドン、ドン、ドン。
振り返れば、当主の霊が目を見開きながら蛇のように揺れて迫ってくる。
澪は必死に走り続けた。
視界の先、廊下の闇を抜けたところに、再びあの家紋の扉が浮かび上がる。
懐に押し込んでいた鍵をつかむ。
しかし、手が震えてうまく取り出せない。
背後で足音が迫る。
空間が狭まっていくかのように圧迫感が増していく。
喉が渇き、息が詰まる。
震える手で鍵穴を探すが、うまく差し込めない。
「.......早く!早く!.......」
背中にはすぐそこまで気配が迫っている。
振り返ると、廊下の角を曲がる影がすぐそこにはあった。
冷気がひしひしと首筋に突き刺さる。
次の瞬間、ガチリと鈍い金属音が音を立てた。
澪は必死に転がり込むように中へ逃げ込んだ。
「っ――!」
背後で「バン!」と扉が閉まった。
反動で床に倒れこむ。胸が激しく上下し、耳の奥で心臓が激しく音を立てる。
荒くなった呼吸を落ち着けるように、扉に身体を預けた。
――静寂。と思った直後、扉の向こうから「ドン!」と重い衝撃音が伝わってきた。
澪は慌てて扉から離れる。
再び、ドン。
扉を拳で殴りつけるような音が響き渡る。
間違いなく、扉の向こうにいる。
「は.....い.....るな」
呪詛のような声が扉をすり抜けて、暗い空間に響き渡る。
だが、不思議と扉は開かない。
見えない力が抑え込んでいるかのように、当主の侵入を拒んでいた。
数度の衝撃音の後に、ぴたりと音が止んだ。
狭い空間に静寂が戻る。
息を殺して、澪は耳を澄ます。
何も聞こえない。
そっと、扉を少しだけ開ける。
眼だけ出して、向こうの廊下を覗き見る。
いつでも閉められるように、しっかりと取っ手を握ったまま。
向こうには薄暗い廊下だけが広がり、そこにはもう何も存在していなかった。
「......っは......はぁ」
扉を閉め、その場に手をつき崩れ落ちる。
涙がにじみ、恐怖のあまり震えが止まらない。
しかし、もう後ろに戻ることもできない。
力の入らなくなった腰を床につけ、澪は扉に背中を預けながら、後ろを振り向くとそこには不可解なものが存在した。
平屋であるはずの家に存在する、二階へと続く階段。
おそらく屋根裏に繋がっているであろう道。
澪は恐怖で震える手で懐中電灯を握りなおして、階段の先を照らす。
先は真っ暗で見えないが、それはたしかに続いているようだった。
恐怖で竦む足を奮い立たせ、階段を一段ずつ上っていく。
木の段は奇妙に軋みもせず、タン、タンという足音のみを響かせる。
階段を登りきると、正面には一枚の襖が現れた。
その中央には、大きく蛇ノ宮家の家紋が記されている。
一瞬、懐中電灯の光でその目が光ったように見えた。
澪はまだ震えの治まらない指先で襖に触れた。
冷たい。
まるで石のように冷え切っている。
そして、襖はゆっくりと横に開いていく。
――ぎぃ。
長く長く引き伸ばされた音が静寂を割いた。
そこにあったのは、1階の部屋とはまるで違う空間。
無駄な調度は一切なく、整然とした木棚が壁一面に並び、そこには分厚い巻物や古文書がぎっしりと収められている。
窓の障子も家具もまるで何十年と前に時を止めたように整っている。
部屋の中央には、一つの台座があり、その上には一枚の紙が置かれていた。
遠目に何か掟が書かれていることは読み取れた。
澪はその雰囲気にごくりと唾を飲み込んだ。
――おそらく、ここはただの屋根裏部屋ではない。
蛇ノ宮家が代々引き継いできた、何かを隠している場所。
部屋に入る鍵が当主の部屋にあったのも、入り口が客間とは反対の通路の奥に設置されているのも偶然ではない。
懐中電灯の光が一枚の紙を照らし出す。
>我ら蛇ノ宮の一族は、監視の役を担う。
>村に伝わる禁忌の書、伝わりし者、全てを見張る。
>村の秘密、外へ漏らさぬよう封じる。
>裏切りは許されぬ。
>秘密を外に漏らすことは、死よりも重き罪となる。
――監視
ひとつはっきりしたことがあった。
彼らはただ「村の秘密が外に出ぬように監視、管理する」役割を課せられていた。
それは、村人でさえも例外ではなく、必要とあらば処罰の対象とされたことが、文書の端々から伺える。
やはり「村のため」とは建前であり、結局は秘密を守るために人を縛り、閉じ込めていた。
その冷酷さが、この部屋全体に染み込んでいるようだった。
ふと、辺りを見回す。
そこには、羊皮紙めいた巻物や和綴じの冊子が寸分違わず背をそろえて収まっている。
背表紙には紙片が貼られその上から文字が書かれている。
「一ノ段/甲」「二ノ段/乙」.....と。
棚の話に目をやると、そこにだけ違和感があった。
背をそろえた冊子群の上――一か所だけ、埃の付き方が違う。
他は薄い灰色の膜を均一に被っているのに、その列だけが妙に輪郭がはっきりしている。
まるで、最近にも誰かがここへきて触れたようだった。
澪は指先でそっとなでる。
指に乗った灰はほとんどい。
代わりに湿った薄い油膜のような感覚が指原に残った。
間違いない。
誰かがこれに触れている。
おそらくこの棚に何かある。
そう思いながら、下に目を落とす。
棚の一番下、膝をつく高さの段だけ、木目が逆向きになっているのに気づく。
耳を近づけて軽く棚を叩く――空だ。鈍い木の響きの中に、一つだけ軽い空洞の音がする。
「......ここだけ、裏が開いている」
棚の板目を目で追っていくと、蛇の鱗を思わせるような細かい刻みが、他よりも一列多く入っている。
模様の列の中に、一つだけ極小の金属釘が混じっている。
他の箇所を確認しても、やはりここだけに金属釘が使われていた。
澪はそっと触れてみる。
釘は驚くほど冷たくなっていたが、押し込める作りになっているようだった。
「カチッ」と音がする。
......何も起きない。だが、どことなく、空気のはりがわずかに緩んだ。
今度は棚板の手前辺の下、唐紙と板の隙間を探ってみる。
やはり、何かあった。
人差し指がかすかな段差に触れる。
そこにだけ、紙縒り(かみより)ほどの出っ張りがある。
指の腹で押しながら、横に滑らせていく。
「.......っ」
棚全体が音もなく、わずか一寸ほどであったが手前にずれた。
床の溝に沿って細かい溝が隠されている。
続けて押すと、棚は静かに手間にスライドし始めた。
先ほどまで整然と並べれていた部屋の均質が崩れる。
背板の後ろから現れたのは、黒い空洞だった。
明らかに何かを隠すために作られた空間であることは瞬時に理解できた。
幅はわずか冊子一冊分ほど。
懐中電灯を片手に中を覗き込むと、奥行きは拳の幅ほど。
内部からは樟脳と紙湿のにおいが立ち上る。
そこには、油紙に包まれた平たいものが見える。
油紙の表面には、細い筆で「不出」の文字が見える。
澪はそっと手を伸ばす。
油紙は冷たく、じっとりとした湿り気を含んでいる。
端にそっと指をかけてゆっくり引き出すと、内側に黒漆の平箱が現れた。
漆黒のまるで光さえも飲み込むような艶。
二の中央には、蛇が互いの尾を加えて輪をなしている。
紋の目だけが真珠のようなもので出来ており、光が当たるたびに生きた眼のように反射する。
箱の手前には、小さな真鍮の掛け金がついている。
しかし、普通の鍵穴ではない。
細い溝が三本並び、そこへ何かを差し込んで噛合わせるような仕掛けに見える。
(鍵.....?でも、形が......)
澪は無意識に、1階の扉を開けた鍵に目を向ける。
しかし、どう見ても形が合わない。
困り果てていた時、ふと持ち手側に鱗の溝を見つけた。
試しに、鍵の側面に箱の溝を合わせ、左右にわずかにずらす。
「......カチ」
金具が湿った音を立てて沈み、掛け金が外れた。
金属音のようで、蛇が牙をかみ合わせるような音。
その瞬間、室内の壁に貼られていたお札が一枚だけ、ふと反り返った。
室内に風はない。
紙の繊維が自重でしなる音が、「......チ」「.......チ」と鈴の音にも似た音を生む。
澪はじっとそれを見つめて、唇をかむ。
今、自分の目の前に置かれている箱は、間違いなく開けることを前提に作られてはいない。
だが、水主邸の前で少女が指さしていたの”何か”ではあった。
箱の蓋へそっと手をかける。
黒漆は驚くほど冷たく、触れた指の体温を奪っていく。
蓋を持ち上げる前に、澪は念のため箱の下を覗く。
特に何もなく、そっと蓋を開ける。
――何も入っていない。
「え......?」
思わず声が漏れる。
あれほど厳重に隠されたいて物の中が空であった。
(......そんなはず)
思わず、心が声を出す。
まだ何かあるのではないかと、箱を取り出し蛻の殻となった空洞を再度照らす。
すると、さっきは箱に気を取られ気が付かなかった、微かな抜け目がそこにはある。
縁に沿って板をずらす。
(――動いた)
コト、と芯のある音ともに、床が外れる。
その下には、さらに浅い箱穴が掘られている。
――二重だ。
上の箱は囮。
(......本物は下)
そこまでして、隠さないといけないものがそこにはある。
その空洞は手首が一つ入るほどの深さしかない。
しかし、その奥には黒布に包まれた薄冊がひとつ、まるで息をひそめるかのように寝かされていた。
布はすでに灰色に煤けており、縁を縫う糸は藍色で、ところどころ解けている。
そっと取り出して、静かに布を外す。
中から現れたのは、和綴じの異様に分厚い一冊。
表紙には黒漆に細い銀糸が漉き込まれ、題箋はない。
ただ、角の所に小さく、朱の印で「不伝」の二文字。
澪は本能的に息をひそめ、目を取られる。
――まちがいない。本当の禁書。
棚に並ぶどの巻よりも重く、冷たく、沈む。
手のひらに載せただけで、体温が本の中に閉じ込められていくような感覚。
持ち上げると、床に薄い墨痕が残っている。
指でなぞってみると、乾いた煤がわずかについた。
そこに書かれていたものは、粗くも、読める文字。
「不出。次主へ。余人に見せることなかれ」
続けて、極小さい文字で
「開くなれば、水の声に導かれるな」
と走り書きがあった。
(.......これは、代々当主へ引き継がれているもの)
そう思った時、ふと、頬を冷たい息が撫でる。
振り向くがそこには誰もいない。
だが、棚の一角、さっきついていた埃のつき方が違っていた列の冊子が、一本だけわずかに傾いた。
等間隔の秩序の中で、その傾きは、不快なほど目に刺さる。
澪はそっと正し、背を押し込む。
その背の裏で、空気が落ちる音がした。
「.......今の、なに――」
耳を澄ます。
その時――
”ぽたり、ぽたり”
あたりを必死に見渡す。
部屋のどこにも水は見当たらない。
しかし、たしかにその音は耳に届いてる。
光を巡らせる。
どこにも濡れはない。
ただ、背中の方で一枚、貼られたお札の色が濡れるように黒く染まっていく。
黒の字は滲み、輪郭が呼吸をするように膨らんでいる。
禁書を抱えて、澪は立ち上がる。
腕にその重さがかかる。
紙の重みではない。言の重み。
この本を開けば、おそらく夢で見た――”あの儀式”のことがわかる気がした。
だが、今は見つけたという事実だけでよかった。
それよりも、村にたどり着いてから聞いていなかったあの”ぽたり”という音が耳から離れなかった。
間違いなく、何かいる。
澪の行動が自然と早くなる。
板を戻し、囮の箱をわざと少し斜めに戻す。
開けられた痕跡を消すために、わざとらしく、初めから歪んでいたかのように。
そそくさと立ち上がり、棚を押し戻す。
溝が吸い込むように、棚を受け入れ、背板が再び壁にぴたりと張り付く。
最期に、あの極小の釘に触れる。指先で軽く押し込むと、さっきとは逆の「カチッ」という音が鳴り、仕掛けが沈黙を取り戻す。
少し急いだせいか、肩が上下に動く。
禁書を胸に抱えたまま、澪はその場から一歩、二歩と後ずさる。
その時。
チリン........
高い鈴の音が、ひとつ。
遮断されたはずの扉の向こう。
廊下の方から、誰かが息を吸う気配がする。
気が付くと、二階であるはずの床から少しずつ水が染み出してきている。
夢で見た、あの黒い水だった。
――見つかった。
澪は禁書を抱えなおし、光を握り、襖へ体を向けた。
この部屋は、事を守る。だが、外から来るものは別だ。
ここで、もう中を見ている余裕はない。
先ほどの走り書きが頭の中で熱を持つ。
「開くなれば、水の声に導かれるな」
読むのは後だ。
今は、ここから、生きて出る。
澪はひとつ深く息を吸い、足元の水から避けるように踏み出す。
襖の隙間に白い息のようなものが一筋、横切ったように見えた。
この部屋の気温は......そんなはずはない。
けれど、たしかに見えた。
誰かの息が、こちらを待つように。
抱えた禁書が、腕の中で冷たく重く沈んでいく。
襖の向こうで、微かに床が軋む音がする。
澪は息をひそめる。
灯りを消そうと指を動かした瞬間、その音がすっと止まった。
代わりに、耳の奥を搔きむしるような音が広がる。
”ぽたり、ぽたり”と雫が床に落ちる音。
(......いない、はず......!)
だが、確かに襖の隙間から水が滲み出ていた。
ぽたぽたと床に染み、丸い濃紺の斑点が広がっていく。
床の香りと混じり、あの鼻を突くような生臭い臭いが広がった。
次の瞬間、襖が内側に向かってたわんだ。
まるで、外から押されたのではなく、襖の中から何かが突き出してきたように。
(.......っ!)
澪は咄嗟に禁書を胸を抱き、廊下側の扉へ駆け出した。
足音がやけに重く響く。
床が足裏に吸い付くようで、まるで水の上を走っているかのようだった。
振り返った瞬間に、襖が音もなく裂けた。
その隙間から覗いたのは、人の形をした水の影。
輪郭は揺らぎ、顔は判然としない。
ただ、顔と思わしき部分からは絶えず黒い水滴が零れ落ちている。
まるで、儀式の中で水に取り込まれ、水に還ったかのようだった。
「やだ.......来ないで......!」
澪は震える声で叫び、階段を降りる。
その突き当りには、木の扉が暗闇に浮かび上がる。
その扉を開けようとしたとき、なぜか鍵がかけられている。
扉が開かない。
必死に鍵を探す。
背後では水を擦るような音が鳴り響いている。
襖から抜けたそれが、確かに廊下に出てきている。
足音ではない。
水が追いかけてくる音。
もう、振り返る勇気はなかった。
階段は上から髪を含んだような黒い水がゆっくりと流れ落ちてくる。
「お願い......!」
震える手で、探し出した鍵を差し込む。
錠前は一度重く抵抗したが、鍵をひねると蛇の鱗を擦るような音を立てて解錠した。
澪は扉を押し開けて、身体ごと廊下へ転がり込む。
直後、めいっぱいの水が階段の上から押し寄せた。
だが、扉を閉めた瞬間、その音はぴたりと消えた。
背後の扉は何も起きなかったかのようにただ沈黙している。
再び、扉に寄り掛かる。
扉の向こうでは凍り付いていた空気がここでは少し緩い。
だが、決して緩いというだけで、暖かいわけではなった。
古い家そのものが吐き出す冷えが、廊下の床をそって伝わってくる。
澪は周囲を一巡り見渡すと、近くの和室にあった壁際の低い卓へと禁書を置いた。
黒漆の角に沈む朱の印――「不伝」の二文字が、懐中電灯の輪の中で蛇の目のように鈍く光る。
二階で見つけた走り書きが手の中で蘇る。
開くなれば、水の声に導かれるな。
「......大丈夫。」
自分に言い聞かせるように呟くと、深く息を吸い込み、指を表紙へと滑らせる。
やはり、何度触っても、指先から体温が吸い込まれるような感覚がある。
蓋を外し、そっと貢を手繰る。
初めの見開きは余白が広く、中央には墨痕の濃い表題のみが据えられている。
「四家四具 以テ水ヲ閉ジ 道ヲ定ム」
送り仮名は古めかしく、筆圧が紙を貫きかけている。
余白の端には、蛇の輪を崩したような細かい文が連なり、貢そのものが小さな結界として機能しているような気がした。
澪は喉の奥で唾を押し上げると、次の貢へ指を進めていく。
墨のにおいが濃くなる。
遠くでー”ぽたり”。
耳の奥で、水滴の音がする。
聞かない。
澪は振り向かずに、視線を文字に縫い付けていく。
『水迎ノ儀 弐』
一、水主家 簪
簪ハ標ナリ
花嫁ノ黒髪ニ挿シ、魂ヲ水ノ道ニ留ム
髪根ニ針打ツガ如ク、心ハ常世ニ定マル
抜ケレバ魂迷イ、現ニ戻ラズ、狭間ニ彷徨フ。
墨の薄い図が添えられている、白布の下、結い上げた髪の根元に、細身の簪が差し入れられ、その先端が水面に伸びる筋へと繋がっている。水面には無数の白い手が蠢き、簪の先だけが静かにまっすぐに沈んでいる。
喉がひゅ、と鳴った。胸のどこかが痛む。
やはり簪はただの飾りではなかった。
花嫁が黄泉へ行くために道を固定するため杭のような役割があった。
おそらくこの禁書は鵜飼さんの家で見たものの続き。
妙な新しさがあったのは、それだけ厳格に管理されていたと思われる。
あちらは、儀式の流れを示したものであったが、こちらはおそらく道具そのものが持つ本当の意味。
二つで一つになっていたものを、水迎寺を作ったときに過去の戒めとして一冊を持ち出したのであろう。
ふいに、卓の隅に落ちていた埃が一つ、わずかに揺れた。
風はない。
澪の視界の端の動きを追いかけそうになる己を叱り、視線を貢に戻す。
一、蛇ノ宮家 勾玉
勾玉ハ眼ナリ
儀式ノ正邪ヲ見抜キ、黒キ水ノ中デ、先ヲ照ラス月トナル
清キ光、虚妄ヲ焼キ、嘘ヲ見定メル
之、失ワバ、盲目トナリ、道ハ狂ウ
図には三日月を捻って輪にしたような翡翠の勾玉が描かれ、その中心には小さな瞳孔のような点が打たれている。
その勾玉は、水の中で光を放ち、花嫁の周りを照らしている。
見る角度を変えるたびに、点がわずかに動いた気がして、澪は息をひそめた。
読み進めるほどに、この儀式が諸刃の剣であることがわかる。
ひとたび失敗すれば、村全体が黄泉に飲まれてしまうほどの儀式であることが記されている。
背後で、チ......と鈴のような高い音がした。
澪は肩をすくめるが振り返らない。
耳を貸してはいけない。
その言葉を信じて、次の貢へ。
一、祝部家 綿帽子
綿帽子ハ帳ナリ
白布ニテ顔ヲ覆イ、現ノ光ヲ封ズ
視ヲ断ツ時、人ハ人ニ非ズ
花嫁ハ供物トナリ、境越ユ
白い布で閉ざされた視界。
布の周りには穢れともとれる人の姿が描かれ、花嫁に手を伸ばしている。
澪は自分の瞼が突然重くなった気がして、首を振る。
"ぽたり、ぽたり"
今度は文字の上に音が落ちてくる。
墨の線が波打つような気がして、澪は本を両手で押さえ、紙をめくる。
一、白雨家 短刀
短刀ハ、現世トノ繋ガリヲ絶ツ刀ナリ
花嫁ノ帯ノ裏ニ添エ、現世トノ道ヲトズ
刀、繋ヲ断ツトキ、役目ヲ完ス
欠ケレバ、現世トノ繋ガリ出来、黒キ水、人ヲ呑ム
そこには水の中に沈んでいく花嫁が自ら、現世との繋がりを表す細い糸に手をかけ断ち切る絵が描かれている。
脳裏にふと、水の底で揺れる白布の影が浮かび上がる。
吐息が漏れる。
今は顔を上げるな。
やはり、四つで一つのものであり、あの日の最後の儀式はその一つが欠けた。
――三つだけで強引に儀式を、結果、村に災厄起きた。
のどが渇く。
舌先に鉄の味が滲む気がした。
息を吐き、指を貢の端へと運ぶ。
次の葉は、筆致が一段と荒かった。
墨溜まりがいくつも生まれ、紙の裏へ突き抜けそうな線が縦横に走る。
欄外には、細い字で注意書きのように書付が置かれている。
>此ノ書、外ヘ出スコトナカレ
>読ムモノ、導キニ載ルベカラズ
>水トナリ命削グ
澪の耳の奥で、さわ......と衣擦れがした。
水を含んだ布が床を引きずるような音。
聞き覚えのある音だった。
導きに乗るな。
その言葉を頭に刻み込むと、眼を字面に縫い付けたまま、指をさらに奥へと貢を送る。
半ば以降、文は断片が増えてきた。
ところどころ、墨が滲み、判読ができない。
>門守ルモノ、**ニ喰ワレルコトアリ
>見張ルモノ、**ヲ閉ジルナ
>贄ヲ哀レム事ナカレ
>哀レメバ、*****
哀れむな。澪の指が止まる。
息が咄嗟に浅くなる。
――哀れむな。
そう書きつける筆の手は、どんな顔をしていたのだろう。
家と村を守るためだと信じ、誰かの人生を断ち、そのことに目を塞いだその顔は。
卓の下で、畳がきゅ、っと鳴る。
澪は一瞬、膝の節が固まるのを感じたが、視線は落とさずに次へと移る。
その貢をめくった時、澪の手が止まる。
求めていたものがそこにはあった。
<註:四具ノ配置>
一、簪
水主ハ女ノ間ニ簪ヲ納ム。
髪結ヒノ座奥、母屋ノ内ニ置キ、女ノ身以外入ルベカラズ
触ルル者、当主ノ妻トシ、花嫁ノ髪ヲ結ウノミ。
儀式ノ夜ニ、当主ヘ渡シ、花嫁ノ黒髪ニ挿スベシ
一、勾玉
蛇ノ宮ハ勾玉ヲ守ル
当主ノ座奥、石壇ノ下ニ納ム
触ルル者、蛇ノ宮ノ長ト成ル者ノミ
儀式ノ夜、当主自ラ胸ニ携へ、花嫁ノ前ニ立ツ
一、綿帽子
祝部家ハ白布ヲ納ム
神棚ノ下、桐箱ニ収メ、常ニ白布ニ包メ
触ルル者ハ祝部ノ巫女筋ノ女ノミ
儀式ノ夜、祭壇マデ持チ、当主自ラ、花嫁ノ座ニテ布ヲ覆フ
一、短刀
白雨家ハ短刀ヲ担フ
蔵ノ床下ニ石室ヲ築キ、清キ水ヲ絶エズ注ゲ
触ルル者ハ白雨ノ当主ト携エル男子ノミ
儀式ノ夜、白木ノ台ニテ、刃先ヲ白紙デ包ミ持ツベシ
それぞれの保管場所が記載されていた。
禁書を閉じたとき、澪の胸に重い鈍痛が走った。
四家四具の掟――それぞれの屋敷に封じられ、誰も他者が触れてはならない。
そして、やはり、短刀だけが失われている。
澪の瞼の裏に、あの夢の断片が浮かび上がる。
白無垢の花嫁の脇に、簪はあった。綿帽子もあった。勾玉もあった。
だが――あの夢にはたしかに、白木台に載せられた短刀は出てきていない。
澪の中で確信に変わった。
やはり、短刀は現世との繋がりを切る役目を担っており、それが欠けていたために、花嫁は今も水の中で現世との繋がりを断ち切れずにいる。
なぜ、自分のもとに白無垢の花嫁が現れたのかはわからないが、自分の役目は、短刀を持っていくことだと。
「......短刀」
澪は思わず呟き、はっと口を押える。
水主邸の前で会ったあの少女はおそらく水主沙世自身。
そして、この村を指さしたのは、この村のどこかに短刀が眠っているのを探してきてほしいという訴え。
澪は禁書を閉じると、ひとつ深く息を吸った。
禁書を胸に抱えなおすと、澪は再び暗い廊下を振り返らずに歩く。
背後ではまだ、水の落ちる音が”ぽたり、ぽたり”と響いている。
――短刀を探さないと。
その思いが、澪の足を前へ推し進めていた。
外に出ると、村は死んだように静まり返り、風の音さえ重苦しい。
鵜飼さんの家を出てから一晩経ったようだ。
夜の気配は過ぎ去り、山の上には白く霞んだ光がほんのりと射し始めている。
時間にして、朝の5時くらいといったところか。
時間を見ようにも、スマホの充電はとうに切れていた。
一晩中気を張り詰めて、動き回っていた澪の顔には疲れが出始めていた。
一度だけ背後を振り向く。
蛇ノ宮家の瓦屋根は、影のように沈み、誰もいないのに、誰かに見張られている気配がする。
澪は蛇ノ宮家の門をそっと後にする。
廃村の路地は早朝だというのに、どこか底冷えするような闇を抱えていた。
崩れかけていた瓦が乾いた音を立てて、風が抜けるたびに、柱の影がかすかに揺れる。
澪は禁書をバッグに詰めなおすと、息をつめて歩いた。
蛇ノ宮家で読んだ掟は、まだ脳裏に冷たくこびりついている。
――短刀は、白雨家の蔵の床下。清水を絶やさず。触れられるのは当主と携える男児のみ。
言葉は明瞭なのに、地図はない。廃村に残る家々は風化し、表札も門も剥がれ落ち、ただ組まれた木々だけが「家」の形を成して、並んでいる。
ひとつ、またひとつ。
疲れ切った眼をあけながら家の中を覗く。
座敷は抜け、畳は腐り、梁は黒く煤けて落ちかけている。
土間に降りれば、湿り気を帯びた土が靴の底に張り付き、歩みを鈍らせる。
土蔵と思しき建物を二つ見つけはしたが、白雨家のもではないような気がした。
片方は半分崩れ落ち、もう片方は扉がゆがみ中から土で押し固められたかのようにびくともしない。
しかし、どちらにも焼けたような跡は見られなかった。
「......どれが、白雨家」
だんだんと探す足取りが弱っていく。
声にするたびに、土煙が喉にまとわりつき、呼吸を鈍らせる。
もう一度、禁書を取り出し反芻してみるが、内容は変わらない。
土蔵。床下。清水。
昨日の水迎寺を訪問してから、蛇ノ宮家までの一夜――。
あの異常な寺と、異様な屋敷を何度も歩き回り、暗がりで息を押し殺した数はもう覚えていない。
背筋を這い回った視線、床を濡らす水音から逃げ、少しずつ夏の気温が澪の体力を奪う。
一晩中眠ることの叶わなかった体は、鉛のように重く、瞼は鉄のように重い。
階段を上り下りし、村を歩き回った足は限界を迎え、それを示すかのように、靴の裏には昨日からの土と埃が幾重にもこびりついている。
肩にかけたバッグの紐が骨を削り取るように食い込み、ただそこに立っているだけで息が切れる。
(もう、限界だ.......)
白雨家があったと思われる場所も見つかる気配がない。
朽ちた廃村の道を、ひとりふらつきながら歩く。
草が膝を打ち、枝が頬をかすめるたびに、全身が疲労で軋む。
呼吸は次第に浅くなり、視界も徐々に霞んでくる。
風に揺れる影さえも、自分を襲う幻に見える。
そんな中、路地の突き当りに苔むした井戸を発見する。
桶も縄も朽ち果て、縁の石だけが、かろうじて井戸の形を保っている。
澪は吸い寄せられるように近づき、縁に手をかける。
バッグを土の上に下ろし、静かに縁に腰を掛ける。
少しだけ、足に纏わりついていた疲労が土に流れ出していくようだった。
一息つき、ふと覗き込むと、そこには水が溜まっている。
陽の筋が届かない黒い鏡のように水面が静まり返っている。
すこし、そこに映った自分の顔を眺めていると、水面がざわりと波立つ。
澪は反射的に身を引きかけ、足を止めた。
もう一度確かめるように覗き込む。
黒い鏡の中にあるのは、自分の顔。
(......疲れている)
そう、思い気持ちを落ち着けようとしたとき。
――輪郭が解けていく。
――見覚えのある白い布。
――綿帽子。
胸が一気に冷たくなる。
瞬きをする。
綿帽子が水にふわりとほどけ、白い布が小魚の群れのように散っていく。
布の下から、黒髪が濡れ、銀の簪がぎらりと光る。
黒に栄えるかのような真っ赤な口紅。
見間違えようがない。
――白無垢の花嫁。
......いっしょに.......
水面の下から、泡のように言葉が上がってくる。
声。
大人びてはいるが、夢の中で聞いた声と似ている。
あなたが、やっぱり。最後の花嫁。
水主沙世――。
腕の力がふっと軽くなった。
縁を掴んでいはずの手に力が入らない。
次の瞬間、水面が揺らぎ、白い指が透けるように浮かび上がった。
骨ばった細い手。濡れた爪。布の端をまとわりつかせ、井戸の内側からゆっくりと浮くように、澪に迫ってくる。
気が付けば、澪の肩には沙世の手がかかっている。
その手ひどく冷たく、どこか寂しさを含んでいる気がした。
そのまま手は、肩から首へと巻かれていく。
導かれるように、井戸の内側へと体が傾いていく。
冷気が喉を突き抜け、口、肺、心臓と順に満たされていくような感覚に襲われる。
縁をつかんでいた手にはほとんど力は入らなくなっていた。
抵抗する力もなく、吸い込まれていく。
(きっと、黒い水の中を一人で寂しかったんだね......)
(それなら、一緒に着いて行ってあげる......)
そんなことが、頭の中を過ぎる。
足の力も軽くなり、優しく落ちていくような感覚。
そこの闇からは無数の青白い手が現れ、澪の腕、肩、背中をつかもうと蠢いている。
.......来て。
耳元で、沙世が囁くと同時に、瞼が重くなっていく。
その腕は滑るように柔らかいのに、鉄よりも固く強く離れない。
少しずつ土から足が離れていく。
下から見つめる顔――綿帽子の隙間から除く虚ろな瞳が、まっすぐにこちらを射抜いている。
落ちる。
もう、きっと、戻れない――。
意識がゆっくりと水に溶け、思考が消えていくのがわかる。
疲労のせいなのか、何も考えられなくなっていく。
その時。
「――澪!」
肩を強く引かれた。世界が急激に明転する。
乱暴に明るい光が目の中に流れ込んでくる。
背中から地面に倒れこみ、すべての水が押し出されたかのように、肺に空気が押し入ってくる。
息ができない。
もがくように喉を上下させると、額に触れた掌が熱を残した。
「息をしろ。――ゆっくり。吸って。吐いて」
声。でも、さっきまでの優しい声とは違う。
怒鳴りつけるような声。
「......れ、んじ......」
蓮司だった。その姿は埃と泥にまみれて、額に汗を滲ませながらも、眼だけは冴え冴えとしてこちらを見ている。
握られた肩には、しっかりとした力があった。
その圧に、現実に引き戻される。
「何してんだ!」
蓮司が短く言い放ち、澪を井戸から引き離した。
井戸の口はまるで、何事もなかったかのように元の姿のまま沈黙している。
「......ごめん。今........」
思考が追い付かず、それ以上は言葉にならない。
「いい。間に合ってよかった」
言葉は簡素だったが、その声には確かに生きたものの熱がこもっている。
澪の胸の奥で、押し殺していたものが一気に緩んだ。
――涙が、出た。
「もう、疲れた。見つからないの。蔵も、白雨家も、短刀も。何もかも......」
「どれが、どこか、もう......わからなくて......」
嗚咽交じりの言葉を、蓮司は黙って聞いていた。
しばらくして、ふう、と息を吐き、井戸から視線を逸らすように、澪の頬に軽く触れた。
「もう、大丈夫だ」
その言葉には、確かな安心感があった。
「俺も、昨日あの地下道で襲われてからのことを話そう」
そういうと、蓮司は昨日、澪とはぐれてからのことを話し始めた。
「襲われた直後、暗闇の中にいた。懐中電灯だけが頼りで、壁を伝いながら進んでいた。けど.....あの通路は妙だった。歩いても、歩いても同じような壁と石床が続いていた。だんだん時間の感覚がなくなっていって、正直、方向すらわからなくなっていた」
蓮司は慎重な面持ちで話す。
「どのくらい歩いたのかは......覚えていない。急に視界がぐにゃりと歪んで、意識が途絶えた」
連子が視線を、廃村の奥へと移す。
「どのくらいの時間倒れていたのかは、わからないが、気が付いた時には大きな屋敷の前で倒れていた。門構えが他よりも立派で、奇妙な家だった」
「村には不釣り合いっていうか、和式的な門構えのわりに、中は神社に近い造りで、家の中は広間の奥に古びた神棚と幣束がまだ残っていた。壁には紙垂が下がり、床の隅には香炉の灰が積もっていた」
そういうと、澪がふと口を開く。
先ほどより、少し落ち着きを取り戻したのか、呼吸が深くなっている。
澪の中で見たことのないその造りが、頭の中をよぎる。
「それ、たぶん、祝部家.......」
そういうと、澪はバッグの中から、禁書を取り出して蓮司に見せる。
蓮司は驚いたように、目を丸くしてそれを見つめる。
その中身を蓮司に見せる。
蓮司は食い入るように読み進めていく。
「たしかに、この記述からいって、俺がいたところは祝部家で間違いなさそうだな。それにしても、こんなものが残っていたとは.....」
驚きを隠せない様子で、中を見つめる。
そういうと、蓮司も一冊の古びた帳面を取り出す。
それには、澪が持つ蛇ノ宮家の禁書と似たような気配を感じた。
「......俺が、一人で祝部家を探索しているときに見つけたものだ」
澪は戸惑いながら彼の掌の中にあるものに目を落とす。
紙は黄ばみ、ところどころ墨が滲んでいる。
しかし、それが、外部の者へ決して見せないものであることは、すぐに判別がついた。
「おそらく、祝部家だけ、神社のような造りをしているのには理由がある」
そういうと、蓮司は昨日の祝部家での出来事を話し始める。
「屋敷の奥に、妙に埃の少ない神棚があったんだ。ほかのものは何十年、何百年と放置されていたかのような汚れだったのに、そこだけは、まるで、埃すらも寄せ付けないかのように整っていた」
「桐箱も、綿帽子もなかったけど、おそらく、この禁書に書かれている綿帽子を保管してた場所だ」
「神棚の前に立った時、妙な違和感を覚えて、調べてみたんだ。造りも普通の神棚にして大きすぎる気がしてな」
蓮司は帳面を見つめながら続ける。
「気になって、触ってたら、背板がわずかに浮いてる箇所があって、押してみたんだ」
澪は黙って、蓮司の顔を見ながらうなずく。
「そしたら、思った通り、その板はズレるようにできていて、奥に帳面が白い布で覆われて残っていたんだ」
そういうと、蓮司はゆっくりと帳面を開き始めた。
澪は、恐る恐る帳面に視線を落とす。
帳面には、蛇ノ宮家の物と似たような、祝詞や掟に混じって、家の役割が書かれた貢があった。
そこに書かれていたのは――
<第二ノ片>
『蛇ノ宮、常ニ村人ヲ視ルベシ。水主ノ館ニ出入リスル者、其ノ言葉、其ノ振舞、悉ク記スベシ。怪シキ者、直チニ祝部ヘ伝エル』
<第三ノ片>
『祝部、外ニ放ツ者、赦スベカラズ。其ノ口、其ノ影、悉ク絶ツベシ。影ハ綿ニ包ミ、顔ヲ覆ヒ、名ヲ絶ツベシ。此ノ役、神ニ代リ、人ヲ葬ル務メナリ。ソノ名ヲ葬部トスル』
<第五ノ片>
『四家ノ役、互ヒニ補ヒ、互ヒニ恐レアリ』
『水主、儀ヲ見届ケ、ソノ役ヲ完ス』
『蛇ノ宮、眼ヲ持チ、常ニ影ヲ視ル』
『祝部、刀ナクシテ影ヲ絶ツ』
『白雨、刀ヲ持チテ、儀式ノ終ヲ司ル』
蓮司がそっと口を開く
「おそらく、これが祝部家の役割だ。儀式に携わる一家としての役割も持ちながら、この村の儀式に関わる情報を外部に漏らそうとしたものを暗殺していた。祝部家ってのも、この村での口封じを意味する葬部から来ているんじゃないかと思う」
そういうと、そっと帳面を閉じる。
「それと......」
続けるように蓮司が口を割った。
「澪が探していた、白雨家の蔵。恐らく、途中にあった。多分あっちだ――」
そういうと、路地の別の筋のほうを指した。
「ひとつだけ、壁の側面が異常に焦げている蔵があった。隣に焼けて炭になった家の骨組みがと基壇があったから、おそらくそこが白雨家の蔵だと思う」
そういうと蓮司は立ち上がった。
よく見ると、彼の靴には細かい泥と、白い砂利が混じっている。
「来る途中に、ひとつ気になるものを見つけた。”水の通り道”だ。道端の石の目地、他よりも削られて新しい場所がある。そこだけ薄い”線”となって残っていた。あれは、雨の跡じゃない。間違いなく水が流れていた証拠だ」
「この、清き水ってそういうことか......でも、よく蔵だけ燃えずに残ってたね」
澪が単純な疑問を口にする
「ああ。他の三家も、蔵の下に短刀があることは知っていたから、燃やさずに残したのもあるかもしれないが、もともと蔵ってのは、火事から財産を守るための建物なんだ。だから、土壁で燃えにくいように造られているだろ。それと、もし燃え移った時のために、火消し用の水として、蔵の中に井戸を作ることは珍しくなかったんだ」
蓮司が続ける。
「この村では、別の意味のほうが強いかもしれないけどな......」
「別の意味?」
澪が聞き返すと
「ああ。民俗学の研究をしていると、たまに民俗信仰として、米蔵や宝蔵の内部に井戸を設けて”水の神”として祀っているようなところがあるんだ。井戸の水面には境界としての側面があって、”水の神”や”霊”とつながる場としている所があるんだ」
「この村でも、おそらく信仰としての意味合いが強いと思う」
蓮司がそう言うと、澪もそっと立ち上がる。
二人は見ていたものをしまうと、並んで歩きだした。
路地は沈黙している。
家々の影が、二人の背を交互に遮り、追い越していく。
蓮司が歩幅を半歩だけ縮め、澪が追いつけるように速度を合わせてくれる。
その些細な配慮に、澪の心は少しずつ整っていった。
途中、道端で焼け焦げた木片を見つける。
澪が、そっと手に取り裏返してみると、「......”白”」の文字の一部分が記載されていた。
おそらく焼き討ちにあったときに焼け残った表札であろう。
澪はあたりを見渡す。
その先には、一部分だけ焼かれて、大量の炭が残っている場所がある。
蔵の跡は、思いのほか近くにあった。
家々の裏手、草木がまばらに生えた空き地の奥に、四角に積まれた石の基壇が沈んでいる。
梁も扉もなく、焼けた跡が残る。
屋敷全体は聞いていた通り、姿はなく、黒く焼け崩れていた。
炭化した柱の残骸が、斜めに突き立ち、まるで、誰かのうめき声のように風が舞っている。
澪はその光景に息をのんだ。
「.......ひどい。これが、白雨家......」
そこには、まるで人の所業とは思えないものを感じる。
村に伝わる話を、鵜飼さんから聞いていた。
おそらく、本当の真実とは異なる、白雨家が儀式に反対し、花嫁を逃がした話。
それに激怒した三家によって打ち滅ぼされ、屋敷事焼かれた――。
その光景の成れの果てが、今目の前に広がっていた。
基壇の上には、まだ焼け残された骨が残っているのではないかと思わされるほどだった。
蓮司は黙って瓦礫を踏み越えて、奥へと進む。
焦げた匂いが、まだ土に染み込んでいるようで、澪はその煤の匂いに鼻を刺すような息苦しさを覚えた。
その真ん中には、干からびて枯れた花冠が置かれている。
焼けた後に誰かが来たのかと思わせるその花冠は、ひとつ、何かを告げるようにそこに置かれていた。
基壇を上った裏手には、確かにひとつだけ形を保ったままの建物があった。
「.......」
澪は言葉を発さずにその建物も見つめる。
白壁の蔵だった。
だが、白さは失われ、側面は火事の時に飛んだ煤が付着し、火で焼かれた跡が残っている。
焦げた跡がまだ生々しく、振れれば指先に黒い粉が付きそうだ。
けれど、正面の扉は当時の姿のまま残っており、そこにはくっきりと家紋が刻まれていた。
「白雨家の......家紋」
澪が何か言いたげに呟く。
焼け落ちた廃墟の中で、唯一残された紋は、炎にも土にも飲まれずに、なお誇りを主張しているかのようだった。
澪はその紋も見つめながら、胸の奥に冷たい重みを覚える。
――この家が確かに、ここに、存在していた証。
この蔵が残ったのは偶然か、それとも何かの意思によるものか。
二人は重たい木戸の前に立った。焦げで黒ずみ、蝶番は錆びついている。
扉の中心には六角形の装飾がついている。
蓮司が両手で扉を押す。
ぎぎ.......と耳障りな軋む音が鳴り響く。
澪は思わず肩をすくめる。
だが......扉はびくともしない。
錆びついた蝶番は動こうとせず、錠前は固く閉じられている。
「.......鍵が、かかってる?」
澪が尋ねると、蓮司はこくりと頷く。
よく見ると扉の中央につけられた装飾の中心にはさらに、六角形の何かをはめ込む穴が開いている。
「ここに......何かを入れるってこと?」
澪がじっと見つめる。
蓮司がこくりと頷くと
「それに、これ。かなり特殊な鍵だな。鍵穴が見当たらないけど、ここに何かはめ込むと、磁力か何かで中の錠が外れる仕組みになってるんじゃないか?」
たしかに、鍵を差し込む穴は見つからない。
二人が立ち尽くしていると、バッグに下げていた小さな巾着袋の糸が切れて「キン......」と音を立てて下に落ちた。
「......え?」
澪は思わず、足元を見た。
小さな布製の巾着袋。色褪せて、糸もところどころ解れている。
けれど、澪にとっては馴染み深いものだった。大学に進学するときに、祖母が「魔除けのお守りだから持っていきなさい」と渡してくれたもの。
普段はただの飾りのように、ぬいぐるみと一緒にバッグにぶら下げていた。
中を開けることもなく、存在すら意識していなかった。
だが、今蔵の前で、それははっきりとした音を立てた。
明らかな金属音。中に入っているものが、紙などの材質でないことは確かだった。
巾着袋を拾い上げ、音を立てたものの正体を確認する。
「......なに、これ......」
巾着袋に手を入れると、冷たい感触が指先に触れた。
中から現れたのは、小さな古びた金属だった。
錆に覆われ、表面の文様はよくわからない。
留め具か、装飾品のかけらのようにも見える。
しかし、それは間違いなく六角形の形をしていた。
「......それは?」
蓮司が眉をひそめながらのぞき込む。
「私が、大学に進学して、実家を離れるときに、おばあちゃんが......お守りだって」
言葉を濁しながらも、澪の胸の奥には何か得体のしれない予感が渦巻いている。
ふと視線を上げれば、そこには固く閉ざされた蝶番と白雨の家紋。
「......まさか」
何かを直感した澪は、無意識に手を伸ばした。
古びた金属を窪みにはめ込んでみる。次の瞬間――
カチリ。
乾いた音が響く。重たい錠が外れ、扉がゆっくりと軋みを上げて開いていく。
「.....え?」
澪は目を丸くし、声にならない声を出す。
蓮司も目を見開いたまま、鍵をじっと見つめている。
そのまま澪に視線を移すと。
「どうして.....それを?」
「わからない.......。おばあちゃんは、ただのお守りだからって......」
澪は巾着袋を握りしめた。祖母の笑顔と、その皺だらけの手のぬくもりが思い出される。
――でも。
偶然だと片付けるには、あまりに出来すぎている。
「澪......もしかして」
蓮司はそう言いかけると、口をつぐんだ。
扉の奥からは、ひやりとして空気が流れだした。
そこには、煤と湿気と、どこか懐かしいような匂いが混ざっている。
二人は、言葉を失ったまま、その中をじっと見つめる。
再び、懐中電灯を手にすると、二人はそのまま中へ足を踏み入れる。
懐中電灯の光は、中の暗闇を切り取り、土壁の黒い痕や、斜めに走るひび割れを浮かび上がらせる。
二人は、一歩。また一歩と暗闇の中に進んでいく。
足裏がわずかに沈む。
長い時間、閉ざされていた空間の重さが土にたまり、踏むたびに、ほこりがふわりと舞い上がる。
中は思いのほか広い。だが、そこは明らかに財産を守るために建てられたものではないことが分かった。
不自然なほど何もない。
申し訳程度にある棚は、ほこりをかぶり、器物の影もなく、壁の半分には外から入ったのか煤がこびりついている。
懐中電灯を横に振ると、煤の下には爪で引っ掻いたような無数の細い痕が浮かんでいる。
「.....見て」
澪が指をさすと、蓮司が近づき、斜め上から光を当てる。
壁の漆喰に、内側からざくざくと刻まれた線。
そして、ところどころに赤茶色が滲んでいる。
その色が、見て何なのかはすぐに理解できた。
血が乾いて変色して後だ。
「討ち入りに入られた夜に、ここでやれれたのか......」
蓮司は声を低く自分に語るように呟く。
澪は何かを思うように、そこから静かに目線を落とす。
蔵の中央には石で縁取られた丸い穴がぽっかりと開いている。
井戸だ。
覗き込むと、懐中電灯の光は反射を返さず、ただ黒い膜に吸い込まれていく。
澪は無意識に息を浅くした。
ついさっきの引きずられた光景が脳裏に浮かび、反射的に井戸の縁から半歩退いた。
「手分けしよう。俺は壁から時計回りに見ていく。澪は逆側から、そこを見終わったら二階に上がってみよう」
蓮司は近くにあった、焦げた梁の切れ端を拾い上げ、足元の土に小さく印をつける。
澪もうなずくと、右手の壁からゆっくりと光を滑らせていく。
埃と煤にまみれた壁の一角に、紙の切れ端が貼られている。
大部分は無くなってしまっているが、おそらくそれが、護符であることは見て取れた。
紙そのものは剥がれ落ち、無くなってしまっているが、糊の縁だけが黒い輪郭として残り、中央には墨の粒が数点、蟻のように細かく固まって残っている。
指の腹でそっとなぞる。
乾いた粉が落ち、その下からかすかに筆の運びの跡がのぞいた。
(......"白"の払いに似てる)
(......”白雨”の”白”だろうか)
そう思いながら、横に懐中電灯を向ける。
右手奥、隅に小さな変色した棚が残っている。
片側がねじれて沈み、板は変形し波打っていた。
澪がしゃがみ込んで光を当てると、棚板の下、土と煤の層に一筋だけ不自然に浅い溝が走っている。
まるで、誰かがものを引きずり出したような跡だ。
そのとき、蓮司のほうから声がする。
「そっちは何かあったか?」
その声にこたえるように澪が叫ぶ
「こっちに来て!」
蓮司が来たのを確認し、再び棚板の下に光を当てる。
「ここ.....掘れてる」
澪が光で誘導し、話すと、蓮司はそこへ屈み、指でそっと土を払う。
薄茶の土の下から、黒く炭化した布が顔を出した。
二人は目を合わせ、小さく呼吸を合わせる。
土を払っていくと、布は思ったよりも大きかった。
焦らず、ほぐさず、崩しすぎないように。
「持ち上げるよ」
そういうと蓮司がそれを土の中から取り上げる。
それは大きさに似合わず、思いのほか軽かった。
乾いた音もなく、掌に載るほどであった。
布をほどくと、中から黒ずんだ木片が現れた。
長方形で、片側に金属の光が薄く残っている。
「木の残骸?」
そういいながら取り出したそれを回しながら確認してみる
「......いや、鞘か?」
蓮司が自分に確認するかのように話す
澪は息をのんだ。
木片の片端に、細い金具が半ば溶けて固着している。
曲面に沿うように作られたその金は、かつて細工を施されていたのか、煤と錆の下に波のような堀跡がかすかに見えた。
「短刀の......一部化かもな」
そういって、終おうとしたとき
「待って.....」
澪はそう言うと、バッグから先ほどの巾着を取り出し、中から扉を開けた金具を取り出す。
祖母から授かった”お守り”。
蔵の扉を開けたそれを、掌の上で二つ寄せ合う。
カチ、と音がしたわけではない。
ただ、欠けた凸ともう一方の凹が、長い別離の後で触れ合うように、ぴたりと沿った。
金属の縁に走る細長い筋と筋が繋がり、水しぶきの彫は一続きの紋になった。
「......合った」
澪ののどから思わず声が漏れだす。
「やはり、偶然にしては出来すぎてるな.......」
「これ、元はここ鞘の一部だったんだ。かたほ....」
蓮司がそう言いかけると。
――井戸のほうから、かすかな水の音がした。
”ぽたり、ぽたり”
2人はとっさに振り向いたが、何も動いていない。
ただ天井から、落ちるはずのない滴りが、耳の内側を撫でたかのように思えた。
蓮司は視線を井戸から外すと、布の堤に残ったものがないかを確かめる。
小さな紙片の束が、布の隅に固く張り付いている。
焦げて縁が縮み、墨は滲んでしまい、ほとんどが読めない。
「......乾かないうちに少しだけ」
蓮司が指先で、そっと紙片を捲る。
澪は吐く息を浅くして、紙片へ光を寄せる。
一枚の中央に、白雨の二文字が辛うじて立ち上がる。
さらに左端に、縦に三つの名前のような文字が並んでいる。
最上行は焼け焦げて消え、二行目は墨が流れ出し、黒い帯になってしまっている。
三行目――文字の腹だけが残り、上の部分は二行目同様、墨が広がってしまっている。
読み上げられるほど鮮明ではない。
ただ、誰かの名前を書き記したものであるような気がした。
「続き、見てもいいか?」
蓮司の声で我に返り、澪はうなずいた。
紙片の裏には、帳面を割いたような罫線が斜めに走り、端に細い注記があった。
――”祓戸ヲ経テ運ブ”
「短刀のことを書いているのか......」
蓮司がそう言いながら、おもむろに棚の下に手を入れる。
土の中に、指先が固いものを捉えた。
掘り出してみると、親指ほどの小さな木片が出てきた。
片面は完全に黒くなり、もう片面には焼き印の跡が残っている。
どこか白雨家の家紋にも似ているが、違う。
「これも家紋か?でも、白雨家のとは違うな」
蓮司がそれを不思議そうに見つめる。
その家紋は、四家のどの家紋にも当てはまらない。
「誰かが、外からこれを持ち込んだのか、それとも、何かを持ち出した印として置いてていたのか?」
そういいながら、蓮司は澪にその木札を見せる。
円形の中に三本の線が、波のように重なり合う円紋。
「......」
澪はじっとそれを見つめた後に、そっと口を開く。
「これ......おばあちゃんの家にあった箪笥に入っていた家紋と似てる気がする」
呟いたはずの自分の声がやけに大きく聞こえた気がした。
ただの錯覚かもしれない。
しかし、どこかで見たことあるような気がした。
その時だった。
ぎし......。
蔵の二階から、木の軋む音が降ってきた。
二人は反射的に顔を上げる。
梁の隙間から、ほこりが一筋、はらはらと落ちてくる。
「.......」
二人とも顔を見合わせるが、声は出さない。
「誰か.....上にいる?」
澪が囁くと、蓮司はそんなはずはないというように首を振る。
いつの間にか、懐中電灯の先は、二階に続く階段を照らし出している。
それは、板が黒く染まり、踏板の端々が崩れている。
「......登るしかないよな」
蓮司の声に、澪は小さく頷き、二人は立ち上がる。
煤に塗りつぶされたように黒く染まった階段を、一段一段、音を殺すようにして登る。
懐中電灯の灯りが揺れ、自分たちの影を不自然な大きさに照らし出す。
壁には、間違いなくここで何かがあったであろう、爪痕が走っており、澪は思わず目をそらす。
まるで、逃げ場を失った誰かが必死に壁を書き破ろうとした後のようにも見えた。
ぎし......。
踏板が軋むたびに、蔵全体が小さく唸っているように聞こえる。
二階に近づくほど、一階の闇夜が背後から追いかけてくる気配に、澪は無意識に蓮司の背中を追い詰めるように近づいていた。
やがて、二人は、狭い二階に辿り着いた。
天井は低く、頭を少し下げなければ立って歩けないほどであった。
梁の上に渡された板敷きが床となり、その奥に、所狭しと書籍が散乱している。
二人は、上に何かの気配がないかを確認するように見渡す。
やはり、あの不可解な物音の正体はわからない。
「......何かあるかもな」
蓮司が、書棚の方に光を当てて澪に問いかける。
書棚の表面は黒ずみ、いくつも木片が欠けている。
それでも、中に収められた書物のいくつかは、形を保っていた。
煤と湿気の匂いが濃厚に漂い、澪は喉がひりつくような感覚を覚える。
蓮司が一冊の書物を慎重に抜き取り、光を当てた。
背表紙は崩れかけており、指先で触れると、粉のようにぼろぼろと散る。
だが、数枚はまだ文字を保っている。
「.......”白雨家ノ役割 短刀ヲ以テ義ヲ終ワラシム”」
蓮司が低く読み上げる。
墨痕は薄れ、途切れ途切れになっていたが、確かにそこにはそう記されていた。
ここに来るまでに何度も目にした、儀式に関わるものであろう。
しかし、今の澪には強く刺さるものがあった。
水主邸の前で見た少女と短刀の在りか。
夢で何度も見せられてきた場面と重なる。
白無垢の花嫁。
そして水の中に沈んでいく影。
別の貢にはこうあった。
「......”刀ハ白鞘ニ納メ、余ノ飾リヲ要セズ”」
二人とも短刀の形がはっきりと脳裏に浮かんだ。
切腹用に使用する簡素な白鞘であり、それは花嫁と現世の最後の繋がりを断ち切るもの。
本を棚に戻すと、さらに探索を続ける。
ふと澪が棚の奥に隙間を見つける。
そこを照らすと、何やら黒焦げになった箱のようなものが隠されている。
蓮司と二人で、棚をずらす。
乾いた音を立てて、埃が舞い上がる。
ぎぎ.......ぎぎぎ.......。
棚が床を軋ませる音とともに、木箱が顔を出した。
金具は錆びて外れ、蓋は容易に開いた。
中には、紫の絹紐で結われた巻物が丁寧に収められていた。
二人は視線を交わすと、それをそっと持ち上げる。
外の木箱と、中の巻物の不釣り合いな印象は、まるで誰かが火事の後に、燃えた屋敷からこの木箱だけをここに移動してきたかのように思えた。
蓮司がそっと紐を解き、広げる。
「家系図か......」
広げられた紙面には、無数の名前が連なっている。
間違いなく白雨家の家系図であろう。
澪が明かりで照らしながら、蓮司が巻物の中を指で追いかける。
「......白雨、白雨――、代々の当主......」
そこには、代々の当主の名前と、その配偶者、子孫の名前が黙々と書き連ねられている。
澪も蓮司に合わせて家系図を追っていく。
その時、澪の心が跳ねるのを感じた。
「待って――」
澪がそういうと、蓮司の手が止まった。
澪は身を乗り出して、蓮司が止まっている指の先を見る。
そこは白雨家の最後の家系図。
おそらく、そこから先、白雨家の名前が記載されることはなかったであろう箇所。
討ち入りに合い、一家が全滅した、最後の当主の名前の下に......
――白雨水音。
曾祖母と同じ名前。
「そういえば......」
澪がふと思い出すかのように話し始める。
「曾祖母は私が生まれてすぐに亡くなったから、ちゃんと記憶はないんだけど、昔おばあちゃんに、あなたの名前は、おばあちゃんのお母さんから頂いた立派なものなの。おばあちゃんのお母さんのように、暗い中でも、人に道を示せるような優しさと強さを秘めた人になるようにと願ってって聞かされたことがある」
そういうと、澪は少し黙ってからもう一度口を開いた。
「おそらく、読み方は――白雨水音。私と同じ発音.....」
そういうと澪は口を結びながら、じっとその名前を見つめる。
蓮司がその横顔を見つめていると、澪はそっと立ち上がる。
「探そう.....短刀」
そういうと、二人はその巻物を終い、再び蔵の中を調べなおす。
しかし、二人の頭に浮かぶのはやはり、1階のど真ん中に設置されている、不自然な井戸。
1階に引き返すと、部屋の中央で口を開けてたたずむ井戸は、まるで何かを呑み込まんとする闇そのものに見える。
蓮司が再び、のぞき込むと、ただ深い黒があるばかりで、懐中電灯の光もそこへは届かない。
試しに蓮司が足元に転がっている小さな石を投げ入れてみる。
ぽちゃん......。
「......まだ、水がある」
蓮司の声は低く掠れている。
しかし、何度照らしても底は見えない。
まるで、そこは入ったら二度と出てこれない、”黄泉”との境界のようだった。
その時、澪はふらりと井戸の縁に歩み寄る。
まるで、何かに誘われたかのように。
蓮司は後ろの壁を照らしていて、澪には気づいていない。
引き寄せられる。
耳の奥で、ざわざわと水の音がする。
「来て......」
そんな声が澪の耳の奥から湧き上がる。
思考はなく、ふらふらと、井戸に近づいていく。
そっと、井戸の縁に手をかける。
――ぬるり。
水面が盛り上がり、中から白いものが現れる。
手は細長く、骨に川がついただけのような指。
(......はっ)
と我に帰る澪。
喉奥から悲鳴が込み上げたが、水が喉に流れ押し込まれたように声にならない。
体はその腕を見つめたまま凍り付いたように縁に張り付く。
「澪っ!」
蓮司が背後から強く澪の肩を強く引き戻した。
水面から伸びた手は、井戸から少し顔を出し”空”を掴み、すぐに溶けて消えた。
井戸の水面には、波紋だけが残り、また元の静けさに戻る。
二人は、肩を引いた勢いでその場に倒れこむ。
息は荒く、頭は必至で状況を飲み込もうとしている。
その時。
――チリン。
どこからともなく、鈴の音が聞こえた。
ふと見ると、視線の先に小さな下駄をはいた足が立っている。
白い衣を纏い、黒髪を肩に垂らした少女。
水主沙世の幼いころの姿だった。
彼女はじっとこちらを見つめ、一言も発さない。
代わりに、その小さな手をゆっくり伸ばし、井戸ではなく蔵の奥の壁のほうを刺した。
白一面に覆われた土壁。
懐中電灯で照らしても、ほかの壁と何も変わらない。
澪が立ち上がり、その示された壁へと歩み寄っていく。
やはり、近くに行っても特に大きな違いは見られない。
「ここに、なにが......」
そういって、振り返ると、もうそこに少女の影はなかった。
試しに澪が触れてみる。
「――っ!」
その異様な冷たさに驚き手を引っ込めてしまった。
ほかの壁と比べて、そこの壁だけ、異常なほどに冷たい。
「どうした?」
蓮司も後ろから近づいてくる。
「ここの壁だけ、すごい冷たい」
澪がそういうと、蓮司も手を伸ばす。
「......」
少し黙った後に、蓮司がいくつかの壁を叩いて回る。
――ドン、ドン。
――ドン、ドン。
――ドン、ドン。
――トン、トン。
そこの壁だけ、他と比べて音が軽い。
蓮司は笑みを浮かべて頷く。
「そういうことか......」
そういうと、澪のほうを振り向く。
「ここの壁だけ、中が空洞だ。おそらく中で二重の構造になっている」
そういって、蓮司が壁に耳を近づける。
「やっぱりそうだ......」
蓮司は指で、澪にも耳を近づけるように合図する。
澪もそっと耳を近づけてみると。
――さら、さら
壁の中からわずかではあるが、水が流れる音が聞こえる。
しかし、それは、あたりが静かで、耳を壁につけなければ聞こえないほどの小さな音。
二人の汗で、少しだけ壁が変色する。
二人は見つめ合い、軽くうなずく。
おそらくこの壁に何かある。
その動作に、お互いの確信が深まる。
「壊してみるか......」
蓮司がそういうと蔵の中を素早く見渡す。
棚の裏、木箱の陰、天井の梁の根本を次々に探っていく。
古い俵、色あせた書籍、巻物、乾ききった箒。
もともと、不自然なほど何もなかった蔵にやはり、壁を壊すような工具など都合よく落ちていない。
「......さすがにないか」
蓮司が呟くと、澪がふと口を開く。
「最初から、壊して取り出すのが前提なら、何かおいてそうだけど......」
澪はそう言いながら、壁を目で追ってぽつりとつぶやいた。
「でも、この壁壊してたなら絶対跡が残るよね?塗りなおしたりとか、壁の色がどこかで変わりそうだけど.....」
「それに、短刀は蔵の地下の石室って書いてた」
それを聞いて、蓮司はその場で少し考える。
「それは、そうだな。もし壊していたなら絶対にあとが残るはずだ。でも、確かにこの壁にはそれがない。」
蓮司は壁に触れながら、継ぎ目がないかを確認していく。
たしかに、どこにも継ぎ目のような感触はない。
二人は再び、蔵の内部を洗いなおす。
柱の根本、棚板の背、土の継ぎ目。
しかし、どこにも露骨な仕掛けは見えない。
夏の蔵の中、自然と汗が零れ落ちる。
見つかったのは、蔵の井戸で使っていたであろう、桶と縄。
二人は汗を拭きながら、階段に腰を掛け話始める。
「でも、ここって昔、他の三家も探したんだよね?」
澪が訪ねる。
「ああ。鵜飼さんの話ではそうだったな」
そう話す視線の先には、やはり位置が不自然な井戸が中央に佇んでいる。
「それでも、見つからなかったって、いったいどこ探したんだろうね?」
「それは、禁書に書いてあった通り地下じゃないか.....。」
そう言うと、蓮司が何かに気づいたように目を開いた。
澪がのぞき込むと、蓮司が口を開く。
「井戸に目が行ってて気づかなかったけど、地下を探したにしては、ここの蔵の土奇麗だよな」
その言葉に反応して、澪も蔵の土を見渡す。
たしかに、井戸に目を奪われ、床に敷き詰められた土には目が行っていなかった。
禁書にあった文言をもう一度思い出す。
<蔵ノ床下ニ石室ヲ築キ、清キ水ヲ絶エズ注ゲ>
澪が首をかしげると、蓮司が続けた。
「本当に、この蔵の下を探し回ったのなら、もっと床の土が荒れているはずじゃないか?それなのに、ここの土には掘り返したような跡もない」
澪もその言葉に呼応するように、あたりを見渡す。
たしかに、探したにしては、荒れた形跡がない。
むしろ、誰かが整えていたと思えるほどに整然としている。
「三家は、最初から地下の石室の場所を知っていたんじゃないか?」
蓮司がそういうと澪が反応するかのように答える。
「でも、そしたら、なんでそこになかったの?」
「おそらく、そこの場所は囮だった。侵入者を欺くためなのか、他に理由があるのかはわからないが......」
そういうと蓮司が続ける。
「澪なら、禁書の通りに場所を探すなら最初にどこを探す?」
蓮司が問いかけると、澪は少し考えたのちに口を開く。
「私なら、最初に井戸を調べるかな。明らかに不自然だし、井戸にはまだ水があった。蔵の床下に石室を築き、絶えず水を与えるなら、井戸の下に作るのが普通だと思う」
そういうと、澪も何かに気づいたようだった。
「そう。普通なら、文言通りに想像するなら、あの井戸の下に石室への入り口があると思い込む。位置も不自然だしな。でも、その地下室は侵入者を欺くために作られた偽の地下室。本当の地下室は、あの水が流れている壁の下にある」
「だから、井戸の水をくむための縄と桶があるのか」
澪が納得したように答える。
「たぶんそうだ。ただ、それをしてしまうと、禁書の通りにならない」
蓮司が低い声で話すと、澪が首をかしげる。
「どういうこと?」
「禁書の文言をもう一度思い出してみろ。禁書に書いてあったのは『清き水を注げ』じゃない。『清き水を”絶えず”注げだ』」
そういうと、蓮司は口元に手を当てて話を続けた。
「もし、井戸の下の地下室に入るために、あの桶で井戸の水をすべて組んでしまうと、一時的に井戸は枯れる。水が途切れる時間ができる。そうすると、禁書の”絶えず注ぐ”には当てはまらなくなる」
澪も納得したように頷く。
しかし、それが分かったところで、その地下室に入る方法がわからない。
二人が再び天井を見つめると、何枚かの剥がれ落ちたお札の端が目に入る。
その時、澪がぼそっと口にする。
深い意味はなかった。
「おみくじ......」
ただ、天井に張り付けられたお札がなんとなく、そう見えただけだった。
その時。
蓮司が何かを思いついたかのように口を開く。
「水みくじ――」
澪が不思議そうに蓮司のほうを振り向くと
「あの壁、水みくじみたいな仕掛けになってるんじゃないか?」
「ほら、神社とかにある水につけると文字が浮き出るおみくじ」
最初に壁に耳をつけた時の映像が脳裏に浮かんだ。
二人とも汗をかいていたとはいえ、たしかに、あそこの壁の変色の仕方は違和感を感じた。
「じゃあ、あの井戸は.....」
澪がそういうと
「ああ。あの井戸には二つの役割があるんだ。ひとつは侵入者を欺くための罠としての役割。もう一つは、あの桶と縄で水を汲んで壁にかけて仕掛けを出す役割」
そういうと、二人は立ち上がり井戸へ向かう。
転がっていた桶と縄を拾い上げ、井戸に垂らしていく。
――ぴちゃん。
底で軽く何かに触れる手ごたえがした。
桶が井戸の水を掬い上げる。
掬い上げた水は、いつの間にか黒から透明な水に変わっており、さっき覗き込んだ時の禍々しさが嘘のようだった。
試しに、指を浸してみる。
その水は冷たいのに、淀みがない。
どこか神聖な清らかささえ感じる。
――ばしゃ。
水を壁に思いっきりかける。
「......」
壁に浮かび上がった模様は、土が濡れることで水脈のように走り、やがて四角い枠組みを描いた。
幾本もの線が交差して、石を積んだような矩形の図が姿を現す。
「......これ」
澪が声を震わせる。
「家の、基壇......」
蓮司が鼻で息を整えながら、光をかざし直す。
浮かんだ図形の中央に、一つだけ印が強く浮き出ていた。
周囲の石組と同じはずなのに、その部分だけ、濃く、深く、押し痕のように染みている。
「一か所だけ、違う......」
蓮司が壁をそっとなぞり呟く。
「ここを、外せってことか」
当時の光景が脳裏に浮かんでくる。
かつての白雨家の母屋は焼き尽くされ、残されたのは炭化した瓦礫が無残に散らばる基壇だけ。
聞いた話では、三家が探したのは、焼け跡と蔵の二か所。
しかし、そこに描き出されたのは――基壇の下。
写し出された図が「下に仕掛けがある」と告げていた。
「三家は気づけなかったのか.....」
蓮司が口を開く。
「いや。違うな......皮肉だな」
蓮司がそういうと、澪が不思議そうに首をかしげる。
「母屋に火を放ったのが仇となったんだ。あの大きさの母屋をすべて焼き切るほどの炎だ。基壇に組まれていた石も相当な温度になっていたはずだ」
「自分たちが報復のためとしてやったことが、結果自分たちの首を絞めることになった。討ち入りをしたのが儀式の始まる前夜と言っていたから、次の日にもまだ残り火はあったと思う。それで基壇が熱を持ちすぎていて近づけなかった.....。」
蓮司が説明をすると澪は納得したような表情を浮かべる。
「それと......」
蓮司が続ける。
「おそらく、この蔵の中も長くは滞在できなかった。だから、ほとんど荒らされずに、あると思っていた井戸の下だけ探して終わったんだ」
再び、澪が首をかしげる。
「この蔵も、母屋に隣接する壁は焦げていた。間違いなく母屋の火はここまで届いていた。それなら、この蔵の中も相当な温度になっていたはずだ。しかも、焦げている壁の反対が、あの水仕掛けの壁だ」
澪がハッとしたような表情で返す。
「そっか、だから蔵の中もくまなく探すほどの時間もなく、あると思っていた井戸の中を探して終わった」
炎の熱のせいで基壇の下も探せなかったが、焦げた蔵の壁の反対側が水仕掛けの壁。
おそらく、その壁にも熱で近づけなかったからこそ、仕掛けにも気づけず、短刀も探し出せなかった。
その絵を見直して頭に入れると、二人は黙って蔵を出た。
蔵から見る基壇は、煤に覆われ、上のほうはどれも黒ずんでいる。
だが、絵にあった仕掛け石は、火にさらされず、今もそこにたたずんでいた。
「......行こう」
蓮司が声をかけると、二人はゆっくりと歩き始めた。
頭上の太陽は容赦なく二人を照らし出し、無造作に生えた夏草が焼けるように匂い立つ。
白雨家の母屋に近づくほど、基壇の石が熱を帯び、近づくものを拒んでいるように感じる。
近づいてみると、基壇は石の列が規則正しく積まれ、昼の光を吸い込んで輝きを増している。
絵の記憶を頼りに基壇の周りをまわっていく。
一か所だけ、石の作りが違う箇所が存在した。
「......ここだな」
蓮司が確かめるようにそっと石に触れる。
「見た目は似ているけど、このあたりだけ軽石でできている」
「でも、たしかにこれは遠くから見ても、違いがわからない」
蓮司が石を確かめるように言う。
澪が近づくと、ふと冷気を感じた。
夏の暑さと、石の照り返しの中には、あまりにも不釣り合いな温度。
間違いなく、基壇の石の隙間から漏れ出ている。
「......外そう」
そういうと、蓮司が力を込める。
ぎ......ぎぎ......
石と土の間から砂が崩れ落ち、隙間が開いた。
澪も両手で押し、体ごと石を引き寄せる。
石は中の土煙を吐き捨てながら、外れた。
露になった穴の底からは、一層の冷気がふわりと吹き上がる。
昼の太陽を浴びているはずの地表に、不自然なほど冷たい風。
苔のにおいに混ざり、長い間閉ざされていた石の湿り気が混じって鼻腔を刺す。
暗い。
穴の中には、苔むした石段が口を開けて待っていた。
「......降りるか」
蓮司の声は低い。
澪も隣で唾を飲み込む。
胸の奥で脈打つ恐怖と、その先にある真実がせめぎ合う。
二人は慎重に足を踏み入れていく。
石段は急で、苔のせいで滑りやすく、長年放置されていたのが足の裏から伝わってくる。
壁に手を当てると、冷たい水の滴りが伝わった。
ぴちゃん.....ぴちゃん......
一定のリズムで水滴が落ちる音が、暗闇の奥から響いてくる。
石段が永遠と続くように思われたが、降りきるとそこには一本の通路が現れた。
両側の壁は切り出した石で固められ、天井は低く、かがまなければ進めないほどの高さであった。
「......これ、本当に蔵の下に続いてるの?」
澪が囁く声が、反響して妙に大きく聞こえる。
「石室を隠すために造られた通路だ。最初からそういう設計だったんだろう」
蓮司が声を小さくして返す。
懐中電灯の輪が通路の奥を照らし出す。
水に濡れた石が鈍く反射し、青白い光を返す。
空気はひどく冷たいのに、湿気が肌にまとわりつく。
少し進むと、通路が開け、視界が広がった。
目の前には、息を呑むほど整然とした空間が存在した。
四方の壁は滑らかな石で囲まれ、天井さえも正確に切りそろえられている。
その中央には浅い水盤のようなくぼみがあり、天井から降る水と、こんこんと絶えず湧き出る澄んだ水が湛えていた。
その水の水面は鏡のように澄み、揺れる光が天井や壁に反射して、石室全体を淡い青白さで照らしていた。
「......なんて、神聖な場所」
思わず声が漏れる。
ここには、人の手で造られたはずなのに、どこか人の領域を超えた気配が漂っていた。
蓮司は水盤に近づくと、腰を落とした。
懐中電灯の光を落とすと、水の底に白布のような影が沈んでいる。
しかし、それは今まで見てきた敵意を持つ白布ではなく、触れることさえためらわれる、神々しさを残した布。
「......見えるか?」
澪も膝を折り、身を乗り出す。
澄んだ水の中にそれはあった。
――白鞘に収められた短刀。
まるで、眠るように水の底に安置され、澄んだ水に包まれている。
蓮司が手を伸ばし、水の中に指を差し入れる。
その冷たさに思わず息を呑む。
ゆっくりと鞘を掴み、引き上げた。
短刀は、儀式が崩壊した日からここで、何百年と水にさらされてきたはずなのに、錆ひとつない。
むしろ、水に育まれたかのように輝いていた。
鞘をわずかに引き抜くと、刃は濡れた光を放ち、昼の太陽すら霞むような澄んだ輝きを放つ。
「......錆びてない」
澪の声はその奇跡に震えていた。
「何百年も水に浸っていたはずなのに......」
すでに、澪の想像の域を超えてしまっていた。
「清めの水だ。......”清き水を絶やすな”ってのは、そういう意味だったんだ」
蓮司の言葉に、澪は胸を掴まれる思いがした。
その佇まいが、この短刀がただの道具ではない。
水に守られ、祀られ、今もなお当時の姿のまま儀式を待ち続けていた。
二人は言葉を失い、静かに、魅入られるようにその短刀を見つめた。
しかし、それは、村を襲った儀式の失敗の証でもあり、今も終わらぬ怨念を断つ鍵でもあった。
蓮司が静かに取り出し、刀を収めると、石室は再び深い沈黙に包まれた。
まるで「役目を果たすものを待っていた」とでも言うかのように、清水は変わらず湧き、透明な波紋を広げ続けている。
「.....行こう」
澪の声は小さかった。
この神聖な空間に長くとどまることが、どことなく憚られた。
二人は短刀を大切に抱え、石室を後にする。
再び、湿った石段を登っていく。
背後からは、尾を引くように水の音が絶えず追いかけてくる。
何度も後ろを振り向きたくなる衝動を抑えながら、一歩、また一歩と地上へと向かった。
基壇の石を抜けて外に出た瞬間、再び太陽の白い日差しが二人を射抜く。
昼は二時を回ったくらいであろうか。
強烈な日差しに村の廃墟は照り返し、焦げ跡の石段は真昼にもかかわらず濃い影を落としている。
地下の空間は自分たちが思っているほどに冷たかったようだ。
その日差しが、二人の体温を刻々と上げていくのを肌で感じる。
二人は、疲労の後を残しながら見つめる。
「......あとは、水主邸だな」
蓮司が短刀の重みを確かめながら言った。
澪は小さくうなずく。
うなされ続けた夢の終わりが少し見えた気がした。
水迎寺から続いた地下道。
その先にあった、旧水主邸。
そこには、沙世の未練も、自分にかかわる何かも、今も眠っている。
二人は白雨家の敷地を後にして、荒れ果てた村道を進んだ。
昼の光があっても、廃村の静けさは変わらない。
鳥の声も、虫の羽音も、まるで、ここで息をするのを避けているかのように何も聞こえない。
ただ、遠くで風が倒れた柱を鳴らす音だけが、二人の背中を押すように響いていた。
廃村を抜け、森の小径を進むうちに、空気が急変した。
昼の光は確かに頭上から照らしているはずなのに、枝葉は濃すぎる影を落とし、道を覆い隠す。
澪の胸の奥が詰まるような感覚を覚える。
一歩近づくごとに、息が苦しくなり、酸素が薄くなる気がした。
やがて、視界が開けた。
やはり、そこに――それはあった。
旧水主邸。
瓦は半ば崩れ落ち、柱は苔に覆われ、門には蔦が絡みついている。
だが、不思議なことに、屋敷全体は廃墟でありながらも、完全には朽ち果てていないことがより不気味さを放つ。
壁はまだ形を保ち、障子の枠は線を残している。
何度見ても、やはり、この空間だけ、儀式の日から時間が止まっているかのようだった。
その前で立ち止まり、澪は言葉を失う。
昨日たどり着いた時には、この前で怨霊に襲われたため、こんなにまじまじと見る時間はなかった。
改めて実感する。
ここが地図にも記されていない屋敷。
水迎寺が存在を隠すために作られたという意味を、今、骨の髄で理解した。
「......残っている」
不意にはなった自分の声が震えているのがわかった。
蓮司もその言葉にうなずきながらも、表情はこわばっていた。
「ここが......すべての始まりだな」
苔むした薬医門が、傾きながらも、まるで二人を誘うかのようにたたずんでいる。
息を整え、懐中電灯を手に構えて、門をくぐる。
庭石は半ば土に沈み、かつて池があったと思われる場所は干上がってひび割れていた。
風もないのに、草木がざわめき、耳鳴りのような音が鼓膜をたたく。
澪は庭を一歩進むごとに、背筋を誰かに撫でられるような気配を覚えた。
――儀式の後に、ここに、足を踏み入れたものはいたのだろうか?
――鹿渡も、その前に消えていった人も、みなここに囚われているのだろうか?
思わずのどが渇き、髪を耳にかきあげる。
玄関先は、二間幅の広さを持ち、瓦屋根が深く張り出している。
扉は半ば開き、待っていたと言わんばかりに、暗い中を覗かせている。
周りに生い茂る木々が、昼の光を遮り届かない。
内部はまるで、墨を流したように沈んでいる。
蓮司が灯を掲げた。
「......入るぞ」
澪は、こくり、と頷いたが足は石のように固まり、まるで、何かに足首を掴まれているかのように動かない。
扉を押すと、――ぎぎ。と軋みその先に続く廊下へと響き渡る。
中は驚くほど広かった。
外観からは想像ができないほど、廊下が、奥へ奥へと伸びている。
やはり、ここが、普通の屋敷ではないことを告げている。
畳は色を失い、湿気を吸って、踏むたびに不快な音を上げる。
その一歩、一歩がまるで、何かに足を掴まれるような錯覚に陥る。
壁には血が乾いたような染みが広がり、どこからともなく、腐ったような水のにおいが漂ってきた。
「広すぎる......」
蓮司が思わず呟く。
どこをどう見ても、外から見た屋敷の大きさと一致しない。
「屋敷の構造が変だ。どう考えても広すぎる」
それは蓮司の心から漏れ出るように言葉になった。
澪はその言葉に耳を貸しつつ、奥を見つめ続ける。
「行こう」
蓮司の声に背中を押され、澪は暗闇の中へ歩を進める。
昼間の屋敷だというのに、内部は夜のように暗い。
懐中電灯の光が壁や畳を照らし出し、影が異様に濃く伸びる。
一歩、歩を進めるごとに戻れないという思いが強くなっていく。
その時。
――ぎぃ。
後ろから奇妙な物音がした。
ふたりは慌てて振り返る。
風もないのに、玄関の扉が閉まっている。
ふたりは、顔を見合わせ、扉に手をかける。
それはまるで、外から誰かに押さえつけられているかのように開かない。
(――閉じ込められた)
扉は押そうが、揺すろうがびくともしない。
「閉じ込められたな。進めっていうことか」
蓮司が何かを悟ったように呟き、再び廊下に懐中電灯を振り向けた時。
顔の目の前に首が真横に折れ曲がった女が目を見開いて立っていた。
気がした。
蓮司は咄嗟に後ろに飛びのくが、そこには何もない。
澪もその光景に言葉が出なかった。
澪が必死に言葉を振り絞る。
「今の......」
蓮司も壁に手をつき立ち上がりながら動揺した声で返す。
「......わからない」
「ただ、ここは儀式が失敗した日に、地下からあふれた水で屋敷全体が飲まれたと鵜飼さんが言っていた。神隠しにあった人といい、当時屋敷で水に飲まれた人たちの魂もここに囚われているのかもしれない」
そういうと震える手を抑えながら、再び一歩を踏み出す。
玄関を抜けた先には、六畳ほどの客間があった。
畳はところどころが黒く沈み、懐中電灯の光を吸い込んでいる。
壁際には、壊れた長火鉢が残され、灰はすでに失われているはずなのに、湿った泥のような黒い塊がこびりついている。
澪は屈んで畳に触れた。
冷たい。
水が染みているわけでもないのに、まるでまだ濡れているかのような感覚だった。
ぽちゃん......
遠くから水滴の音が聞こえた。
ふと目の前の縁側から見える鹿威しに目をやるが水はなく、動いた気配はない。
「......聞こえた?」
蓮司は黙ってうなずき、奥へと視線を続ける。
客間の襖を抜けると、八畳ほどの奥座敷に出た。
そこは奇妙なほど整然としており、なぜか柱も壁もほとんど壊れていない。
だが、その整然さが逆に不自然な違和感を作り出している。
「......まるで、ここだけ誰かが掃除しているみたいだな」
蓮司の声が低く響く。
澪は、ふと障子に目を留めた。
外に続くはずの障子紙の内側に、白い布切れが張り付いている。
まるで、濡れた衣の袖が風に煽られて、外から張り付いていたようだった。
不思議に思い、手を伸ばそうとしたとき、視界の端で影が揺れた。
障子の向こうの先。
庭に立つ人影のようなもの。
澪は息を詰めたが、瞬きをしている間に影は消えていた。
さらに進むと、広い土間が現れた。
大きな竈が添えられており、食器棚には気持ちばかりの器が残っている。
そのほかの食器は床に散乱し、煤けて割れている。
竈の中をのぞくと、そこには灰ではなく、黒い泥が満たされており、まるで今しがた水で濡らされたような跡が残る。
鼻を近づけてみる。
やはり、かすかに水のにおいがする。
「......泥?」
澪が呟くと
「......」
蓮司も言葉を発さずに、その不可解さに顔をしかめる。
まな板の上に残る包丁は、すでに錆びつき、赤黒く染まっている。
その異様な錆び方はまるで、人を切ったかのような不気味さが残る。
どこかに、人がいる気配が濃く漂い、澪はふと背後に目をやる。
なにもない。
しかし、その時。
目の前にある包丁が”かたり”と動いた。
建物が揺れたわけではない。
誰かが触ったわけでもない。
しかし、たしかに包丁は動いた。
澪は包丁に光を当てながら後ろに後ずさる。
蓮司はそれに気づくことなく、すでにその先へ続く廊下へと目を向けている。
廊下を抜けると、そこには大広間が広がっている。
障子は外れ、開け放たれた空間の先には、中庭が広がっている。
奇妙なことに、この広間も廃屋でありながら整然としている。
柱は直立し、床の間には古びた掛け軸が垂れている。
そこには、何かを供養するようにひとりの花嫁が描かれている。
綺麗な中に、どこかこちらを見透かしたような雰囲気が漂う。
ふと、目が合ったような気がして、澪は目をそらした。
中庭の中央には石組があり、遠目には井戸のように見える。
だが、近づいてみると井戸枠はなく、ただ石が環状に積まれているだけだった。
光を当ててみるが、中には水も何もない。
何のために作られたものかもわからない。
しかし、澪の中に井戸の光景が過る。
また、その中心から呼ばれ、手が伸び、引き込まれるような気がして距離をとった。
それ以上は特に何もなさそうだったので、大広間の襖を開け、奥に進もうとする。
その襖を開けた瞬間に、息をのんだ。
六畳ほどの和室。
だが、畳の上には座布団も机もない。
代わりに、赤い布が被せられたひな壇に、白無垢の小さな人形が、びっしりと並べられこちらを見つめていた。
その数にどこか、人間の狂気を感じる。
ひとつ、ふたつではない。
十体、二十体......数え切れぬほどの人形がこちらを見つめている。
その光景に思わず二人の足が止まる。
整然と並ぶその姿はまるで、生贄に選ばれた花嫁たちが、沈黙をなしているかのようだった。
「......これ、何の間?」
澪が蓮司に問いかける。
しかし、蓮司も首を横に傾げる。
自然と懐中電灯を握る手に力が入る。
人形はどれも無表情に大きな目でこちらを見つめる。
光を動かした時、ひとつの人形の裾から水滴が零れ落ちた。
ぽたり。畳に吸い込まれ、黒い染みが広がっていく。
「......濡れてる」
澪の囁きに、蓮司も眉を寄せた。
「......供養とかそういうことなのか?」
蓮司も近寄りがたいような様子でそれを見つめていると。
「......あ、そぼ」
「こっち......だよ」
「.....は.....やく」
どこからともなく子供たちの声が聞こえる。
一人ではない。
遊びに誘っているような声が聞こえる。
自分たちが亡くなっていることに気づていないかのようだった。
あたりを見回しても人はいない。
当時、屋敷にいて水に飲まれた子供たちなのか。
この周りで、神隠しにあった子供たちなのかはわからない。
空気は重く淀み、人形たちの沈黙が廊下にまで染みだしている。
近い寄りがたいが、人形が並んでいるひな壇の奥に、扉があるのを発見する。
まるで、そこを抜けないと、たどり着けないかのように設置された扉。
ふたりは、足元を照らしながらゆっくりとひな壇へ近づいていく。
ひな壇の下から手が伸びてくるのではないか?
そんな想像が脳裏をよぎる。
ひな壇を横目に蓮司がそっと扉に手をかけ、引き開ける。
――その先に鎮座していたのは、異様に大きな仏間だった。
黒漆で塗られた木材は、今もなお鈍く光を放っている。
だが、その形はどこか歪で、通常の仏壇よりも横幅が広く、背も高い。
「......これ、仏間ってことでいいのかな?」
その光景に澪の声は震えていた。
その仏壇を取り巻くように、無数の蝋燭が立ち並んでいる。
床、壁際、四隅――至る所に蝋燭台や、蝋が固まって台座代わりになっていた形跡もある。
数えようとしても目が追い付かない。
百は優に超えるその数に、気味の悪さが背中を駆け上がる。
火は消えているはずなのに、芯は黒ずみは新しく、まるで昨夜まで誰かが灯していたかのように見える。
床には幾重にも重なった蝋の層が硬く張り付き、靴底が沈むたびにぺきりと割れて音を立てる。
「.....多すぎる」
蓮司が低く吐き捨てる。
「普通、こんな数は......葬式でもありえない」
澪は慎重に声を発する。
「花嫁を......”神様”みたいに祀ってたのかな?」
仏壇の奥には、白布に包まれた束がいくつも収められていた。
光を当てると、布の隙間から黒く艶めく髪が覗く。
一瞬、脳裏を白無垢の女の影がよぎり、澪がぎょっとして構える。
しかし、それは遺物であった。
おそらく、生贄として沈められた花嫁を祀るためのもの。
――その髪や衣の切れ端だった。
仏壇には供物の器が並び、その縁には乾ききった黒ずみがこびり付いている。
かつて供えられたであろう果物や米が、血のように変色して染みついた跡のようにも見えた。
香炉の灰はしっとりと湿り、香木の香りではなく、焦げ臭さを放っている。
澪は膝が震えるのを抑えながら仏壇の前に立った。
――ここでは花嫁が「生贄」ではなく、「祀り上げられた存在」として扱われているようだった。
けれど、その崇拝は、敬意というよりも、恐怖と畏怖に満ちていた。
「この部屋に入ってから.....空気が重いな」
蓮司が額の汗を拭う。
「まるで、この蝋燭一本一本に花嫁の影を縫い留めているみたいだ」
澪は不意に懐中電灯を握る力を強めた。
仏壇の白布の奥で、確かに誰かがこちらを見つめている。
――そんな錯覚が肌から離れない。
二人は仏間を後にして、廊下の奥へと進む。
空気が一層冷たく澱んでいる。
床が途切れ、その先には土で固められた部屋が存在した。
外から差し込む光ではなく、懐中電灯の円だけが頼りだ。
埃が光を浴びて漂い、その中で二人の足音だけが響く。
廊下の突き当り。
そこには奇妙な格子戸が現れた。
ほかの部屋と明らかに造りも雰囲気も違う。
外側から施錠できるように金具が取り付けられ、格子は太く、内部を閉じ込めるために設計されていることは一目瞭然であった。
「......座敷牢」
明かりを照らしながら、蓮司が呟く。
澪はその光景にのどを詰まらせた。
ここが、――水音が花嫁として監禁されていた場所。
そして、沙世が彼女を逃がし、やがて自らがその運命を背負った場所。
錆びた蝶番を押し開けると、重い音を立てて格子戸が軋んだ。
中は六畳ほどの狭い空間。畳は朽ち果て、黒い斑点がまるで血のように滲む。
壁には爪で擦った跡が無数に残っている。
深く刻まれたものもあれば、力尽きたかのように浅く擦れた線もある。
澪は懐中電灯で照らしながら、胸が締め付けられるような思いでその跡を見つめていた。
(.....花嫁たちは、ここでどんな気持ちで運命を待ったのだろう)
(.....水音がここで見ていた景色はどんなものだったんだろう)
(.....沙世がここで見ていた景色はどんなものだったんだろう)
それは、すでに澪の想像の範疇を超えるものだった。
牢の隅には古びた布切れが散らばっている。
衣の残骸か、あるいは花嫁の装飾だったものか。
その上には黒ずんだ跡があり、誰かが泣き伏して過ごした日々を思わせた。
蓮司は光とともに、眉をひそめて、声を落とす。
「自分が花嫁として、沈められる最後の時をここで過ごす。想像に耐え難いな」
そう言いながら、懐中電灯であたりを見渡す。
ふと、澪の視線が壁の隅に引っかかった。
その隙間に、何か白いものが差し込まれていた。
「......紙?」
澪はそっと、それを抜き取った。
古びて黄ばんだ和紙が、折り畳まれて、隠されるように残っている。
ここで、幾年月を過ごしたのであろう、かろうじて形を保っていた。
彼女は慎重にそれを開いていく。
そこには、掠れながらもはっきりとした筆跡が残っている。
誰かに宛てた手紙だった。
『水音へ。
覚えてる?私たちがまだ子供だった頃、庭の花で花冠を作ったり、白雨家の座敷で人形遊びをしたりしたね。
いつも私の手を引いてくれたのは、あなたの方だった。
あなたの笑顔はまるで、光をさすような笑顔だった。
あなたに好きな人ができたと打ち明けられた、あの日のことは忘れない。
頬を赤くして、名前を口にしたあなたの姿に、私は胸が痛むほど嬉しく、そしていつか、私の前からどこか遠くへ行ってしまうかのようで少しだけ寂しかった。
その人との婚約が決まった時も、何か胸からすっぽりと抜け落ちたようなさみしさがあった。けれど、それと同じくらいにうれしくて「おめでとう」って伝えたね。
そして、きっと私しか知らない。あなたのお腹に命が宿っていること。
水主家の座敷で、そっと伝えてくれたこと。
水音には、村の儀式にとらわれず、お腹の子と、清一さんと幸せになってほしかった。
だからこそ、あなたが花嫁に選ばれたと知った日、私は迷わなかった。
あなたも、お腹の子も、生きて未来に進んでほしいと願った。
あなたは、村のためと泣きながら迷っていたけど、私はあなたを逃がしてよかったと思っている。
たとえそれで、私が沈むことになっても、それでいいと思った。
けれど、私のせいで、あなたの帰る場所を消してしまった。
ごめんなさい。
きっと、この手紙が誰かの手に届くころ、私はもうこの世にはいない。
それでもいい。
どうか、あなたは授かった命とともに、元気な子を産んでほしい。
どうか、その子と深見清一さんと共に生きてほしい。
新しい命とともに、どうか幸せに――。』
澪は読み終えると、声にならない声を漏らし、紙を胸に抱きしめた。
夢で見た数々の光景が、一気に脳裏にあふれ出す。
庭を駆け回る二人の少女。
縁側で花冠を被せあう光景。
座敷で顔を寄せ合い、笑いあう時間。
牢の中で、互いの手を強く握りあう指。
「好きな人ができた」と恥ずかしそうに打ち明ける水音。
そして闇夜に消えていく二人。
あれは幻でも、作り物でもなく、確かに二人が過ごした記憶そのものだった。
沙世が最後に、自分が生きた証として残した手紙によって、そのことがすべて事実であったと突き付けられた。
そして、最後に書かれた名前。
――深見清一
紛れもなく、澪の曽祖父の名前。
胸の奥で、すべてが繋がろうとしていた。
これまで誰も語ろうとしなかった事実。
曾祖母の代で白雨の名は絶え、深見の姓へと変わった。
過去の資料が消されたこともあり、だれもたどり着けなかった真実。
けれど、たしかに、血は繋がっていた。
儀式が行われる前日の夜。
沙世が自分の命と引き換えに、逃がした命は、確かに生き延び、繋がり、今ここにあった。
そして、偶然か、必然か。
沙世が最後の命の時間で書き残した手紙は、今確かに、親友だった水音の血を引き継いだ者へ渡った。
蓮司もしばらく言葉を失い、ただ彼女を見つめる。
澪の瞳には涙が光り、しかし、その奥には、確かな決意が宿っている。
「沙世は......曾祖母を逃がしたことで自分の命が消えるのを知っていた。それでも、曾祖母を逃がそうとした。その結果、私がここにいる」
澪は、口を紡ぎ、息を整えると
「行こう.....全部終わらせに」
その声には確かな決意が宿り、何かへの怯えは消えていた。
蓮司が静かにうなずき、牢の格子を再び押し開ける。
錆びついた蝶番が、ぎぃ、と不気味な音を立てる。
二人は、懐中電灯を携え、座敷牢を後にする。
廊下に戻ると、空気はさらに冷たく染み込んでいく。
湿った土と古木の匂いが鼻を刺し、足音は水に吸い込まれるように消えていく。
建物全体が息を潜めているようで、声を出すことすら憚られる。
「......まだ、奥があるな」
そういうと蓮司は光を先に向ける。
「澪」
蓮司が呼びかける。
「......やっと繋がったな」
蓮司がそういうと、澪はこくりと頷く。
「沙世がどうして、君の夢に現れるようになったか」
澪はふと立ち止まり、蓮司の顔を見上げる。
「うん。きっとそれは私が白雨家の血筋だから」
そういうと澪は自分足元に視線を落とす。
「それもあるが、それだけじゃないと思う。変じゃないか?」
蓮司が問いかける。
「なにが?」
澪が首をかしげる
「君のおばあさんや、君のお母さんはその夢を見ていない。血筋だからという理由なら、ふたりも間違いなく見ているはずだ。なのに、君のおばあさんも、お母さんもいつも通りの日常を過ごしている」
蓮司がそういうと、澪も「たしかに」という顔をする。
「君が、変な夢を見ると僕のところに相談に来たのが十八の時だった。その時はまだ夢の内容もはっきりせず、なんとなく誰かに呼ばれている、気持ち悪いという感じだった」
澪は頷く。
「もしかしたら、沙世は君のことを水音と思っているんじゃないか?」
澪は息を呑んだ。
「沙世はずっと水の中で現世との繋がりをきれず、何百年と死ぬことも生きることもできず、黄泉との境を彷徨っている。だから、同じ響きを持ち、十八歳で同じ血のつながりを持った君を水音だと思い込んだ」
その言葉を放った時、廊下の冷気がさらに強まったような気がした。
「......そっか。だから、私だけが夢に呼ばれた」
澪は唇をそっと噛み締めた。
「沙世は、私を.....曾おばあちゃんだと思って.....」
「そうだ。そして、君を水音として引き込もうとした」
蓮司の目が暗がりの中で、鋭く光った。
――”水の道を追ってはいけない”それはこの村で代々語り継がれてきたこと。
きっと、夢の中で澪に差し伸べられていた手は、沙世の願いと、黄泉の怨念が入り混じったものであった。
「......けど」
澪は顔を上げた。
「沙世が、私の曾おばあちゃんを逃がしてくれたから、私が今ここにいる。今度は私が沙世を助ける番」
涙で濡れた目とは異なり、その言葉は震えていなかった。
「行こう。この先にきっと儀式の間がある」
二人は座敷牢を後にして、奥へと進んでいく。
水主邸の奥へ奥へと進むと、急に空気が変わった。
湿り気を帯びた冷気が肌を撫でて、鼓動が一気に早くなる。
廊下を進んだ、水主邸の最深部。
その突き当りにそれは現れた。
他の扉とは明らかに異なる質量間を放つ――巨大な石の扉。
それは、二人の背の高さを優に超え、幅も圧倒的で、まるで山の一部をそのまま切り出して据え付けたかのようだった。
表面には何かを封じるかのように、荒らしく注連縄が巻かれており、その背後には水流を思わせる曲線と、禍々しい紋様が、目の前に立つ者の侵入を阻むように深く刻み込まれている。
その紋様に光を当てると、黒い影のように浮き上がり、まるで生きているかのように蠢いている。
二人はしばらく扉の前で立ち尽くすと、互いに視線を交わし、無言で頷きあった。
蓮司が扉に両手を当てて、力を込める。
ごごご、と石と石が擦れあう低い音が、屋敷全体に広がり、屋敷そのものを揺らしているようだった。
扉の隙間からは、ぞっとするような冷気があふれ出し、澪の頬を横切る。
それは、まるで現世から黄泉へと続く門のようだった。
重々しい扉を開けた瞬間、蓮司と澪の前に広がったのは、想像を遥かに超える大空洞だった。
懐中電灯の細い光が、果ての見えない高さへと吸い込まれていく。
天井は闇に溶け、無数の水滴が”ぽたり、ぽたり”と落ち続けている。
その音は、洞全体に反響し、まるで空間そのものが生きて呼吸をしているかのように錯覚させた。
眼下には、螺旋状に削られた石段が地下深くへと伸びている。
すでに苔むし、濡れた段は滑りやすく、足を踏み外せば間違いなく奈落に吸い込まれる。
ふたりは、懐中電灯の光を手に、壁に沿いながら降っていく。
どれほど下っただろうか。
闇に抱かれた道中、二人の前に再び石の扉が現れる。
先ほどのものよりも小さいが、重厚な板石でできており、中央には水紋のような紋様が刻まれている。
「.......また扉か」
蓮司がゆっくりと手をかけて押してみる。
だが、びくともしない。
押しても、引いても動く気配がない。
隙間に指をかけてみるが、石は冷たく沈黙を保っている。
「どこかに仕掛けとかないの......」
澪はそういうと、周囲の壁や足元、降りてきた階段を照らし出す。
しかし、そこには、湿った土壁、苔むした段差、”ぽたり、ぽたり”と耳障りな音を立てて滴り落ちる水。
どこにも、仕掛けらしきものは見当たらない。
二人は扉の左右を探り、地面をたたき、文様を指でなぞっていく。
澪は息を荒げながら、懐中電灯の光を扉の模様にあてた。
すると、模様の中によく見ないと見逃してしまいそうな窪みを発見する。
触ってみるが、何をしていいのか掴めない。
「......どうやって開けるの」
澪の声に焦りが混じる。
ここに来る道中。
水主邸の屋敷の部屋を見ながら来たが鍵らしきものは見当たらなかった。
そのときだった。
......ぴた、り......
ぴた.......り.......
目の前の扉に集中していて気が付かなかったが、どこからともなく、濡れた足で歩くような音が聞こえる。
澪の首筋が総毛立つ。
咄嗟に後ろを振り返ると、階段の上で白いものが揺れている。
片手には松明を持ち、隊列をなして、澪と蓮司が降りてきた階段を同じようにゆっくりと下ってくる。
儀式装束に身を包んだ当主たち。
――ちゃりん、ちゃりん
と鈴の音を立て、一歩、また一歩と近づいてくる。
顔を覆う能面の穴は真っ黒で、そこから何も見返してこないのに、確かに視線を浴びている感覚だけが突き刺さる。
日本語とも判別のつかないような唸り声を上げ近づいてくる。
しかし、二人を捕えようとしているのは明らかだった。
「逃げ場がない.....」
澪が不安そうな声を上げる。
来た道を戻ることはもうできない。
後ろには、固く閉ざされた扉が鎮座している。
扉を開けようと蓮司が体で押す。
続いて、澪も一緒に体重をかける。
しかし、扉はそれを嘲笑うかのように、びくともしない。
その時、足元で小さな金属の音が鳴り響いた。
――ちゃりん。
咄嗟に足元を見る。
それは、澪のバッグの奥深くに終い込んでいた簪だった。
「......なんで」
澪がそう言いながら震える手で簪を拾い上げる。
もしかして.....。
ふと手が動き、簪を扉の窪みにあてがってみる。
金属が石に触れた瞬間に、扉全体に淡い振動が走り、動き始める。
ごごご......
今までびくともしなかった扉がゆっくりと動き始める。
背後からは当主たちの亡霊が迫る。
白装束の裾が石段を滑り落ちるように近づき、能面の穴が澪を見据える。
階段を下り終え、捕まえようと手を伸ばしながら、ゆっくりとこちらに迫ってくる。
その手が澪の方に触れるかと思われた瞬間。
「早く!」
蓮司に腕をつかまれ、引き込まれる。
澪は開いた扉の先へと放り込まれる。
その直後、扉が重い音を立てて閉じる。
その隙間から、必死に捕まえようと伸ばす手と、白装束の袖が見えた。
扉が完全に閉じると、外から鈍い衝撃音が幾度も鳴り響いた。
叩いているのか、押し破ろうとしているのか。
しかし、その音は数秒の後”ぴたり”とやんだ。
扉は再び沈黙に閉ざされ、二人は暗い空間に閉じ込められた。
手には扉を開けた簪が握りしめられている。
「そういえば、それ、水主家のだったな」
蓮司が口を開く。
澪の手には、ここに来るきっかけとなった簪がしっかりと握られていた。
澪が簪に目を落とすと蓮司が続けた。
「すっかり忘れてたけど、簪には花嫁を導く道標の役割があるって書いてたな。それは儀式的な意味合いもあったかもしれないが、この扉の向こうに花嫁を導くっていう役割もあったのかもな」
そういって振り返った瞬間、澪の足が止まった。
それは見覚えのある後継。
――夢に出てきた畳の間だった。
周囲を囲むのは土壁ではなく、不自然に取り付けられた障子。
外に通じる窓がなかったのは、外部に見せないためではなく、ここが地下だったから。
間違いなく大空洞の中に浮かぶ異様な空間であることを否応なく悟らされる。
畳はところどころが黒く染み、湿気を孕んでいる。
天井から落ちる雫がじわり、じわりと畳を濡らし続け、しんとした冷たい匂いが肺を突き刺す。
その中央には、儀式で使ったであろう三つの台座が転がり、水主沙世がここで最後の身支度をした事を思い知らされた。
部屋の隅には、部屋の明かりとして蝋燭が置かれ、それは使い古され、蝋が溶け、短くなり固まっている。
「.....ここ......」
やっと声が出た。
しかし、澪の声は震えている。
視界が一瞬、揺らいだ。
夢で見た光景がその空間を目の前に脳裏で重なっていく。
中央に座り込む白無垢の花嫁。
それを取り囲む三人の能面の男たち。
何かを唱えるように、簪、勾玉、綿帽子が与えられる光景。
そして、その裾を黒い水が絡めとり、床の下へと沈んでいく花嫁。
澪の背筋に冷気が走る。
部屋の奥には、他の障子とは異なる、黒ずんだ襖があった。
それは異質な存在感を放ち、まるで人を拒むように重々しい。
「......」
二人は見詰めたまま息をのむと、ゆっくりと手をかける。
ずず......と音を立てて襖が開かれると、そこには――さらに地下へと続く石の階段が口を開けていた。
その奥からは、まるで白無垢の花嫁が呼んでいるかのように、ぞっとするほど冷たい冷気が吹き上がる。
まるで、正者を現から黄泉へと誘うかのような風だった。
澪は手にした懐中電灯で階段の先を見下ろした。
先が見えず、まるで、奈落の底まで続くかと思われる道。
それは、歴代の花嫁たちが進んだ道でもあった。
背筋を氷の刃で撫でられるような感覚のかな、澪は小さな声でつぶやく。
「......行こう」
二人は、ゆっくりと襖の先へと足を踏み入れた。
階段は、長く、果てが見えない。
一段降りるたびに、湿った空気が肺を満たし、白無垢の裾を思わせる冷たい気配が澪の足首に纏わりつく。
”ぽたり、ぽたり”
天井から落ちる水滴の音が、いつしか澪の耳のすぐ後ろで響いているように聞こえる。
咄嗟に振り返ったが、そこには誰もいない。
それでも、髪には冷たい雫が垂れ、足を撫でられる感覚がした。
「......今、聞こえた?」
澪が蓮司に震える声で尋ねる。
かすかに。
でも、たしかに、女の嗚咽のような、笑い声のような音が、大空洞の下から吹き上げる風の音と共に聞こえた。
――白無垢の花嫁。
間違いなく、この階段を下りきった先にいる。
「み......お.......」
その声は確かに自分の名前を呼んでいる。
心臓が跳ね上がる。
血が逆流するような感覚。
こつん.....こつん.....。
ふと、途中まで降りたところで、ふたりは急に足を止める。
耳を欹てるが、何も聞こえない。
再び歩き始める。
こつん......こつん......。
再び足が止まる。
階段を降りる自分たちの足音に混じり、違う足音が鳴り響いている。
澪と蓮司は同時に立ち止まる。
振り返ってみるが、そこには誰もいない。
懐中電灯の明かりを散らしてみるが、何かが動く気配はない。
再び、歩を進めようとしたとき、澪が何かに気づく。
「待って.....」
そういって、光をすぐ背後の段にあてる。
――白無垢の裾が一片、置き忘れられたかのように揺れている。
「......」
花嫁が道中に落としたものか。
それとも、ここに今しがた現れたものかはわからない。
しかし、その布は黒ずんで濡れている。
けれど、たしかに、そこにはさっきまで人が立っていたような気配が残っている。
ふたりは、それをそっと後にする。
さらに降りると、足元の石段がじわじわと濡れ始めた。
黒く滲む水が、澪の靴底に纏わりつく。
冷たさはなく、ぬるりとした温度。
それは、まるで、二人の足を絡めとり奈落の底に引き込もうとするかのような、血に似たぬめり。
澪は一瞬、夢で見た畳の浸み込みを思い出した。
「......沈んでる?」
澪が足元を見てふと呟く。
そのとき、蓮司が強く腕を引く。
「早く!」
後ろを振り返ると、来た道には無数の青白い手が生え、二人に迫っていた。
ここで止まったら、間違いなく引き込まれる。
直感がそう叫んでいた。
ふたりは、後ろに目もくれず階段を下る。
石段を下り切った先に、それは広がっていた。
儀式殿。
天井は高く、黒い岩肌が不規則に隆起し、巨大な獣の喉奥のように口を開けている。
その岩肌を一周するように、朽ちかけた注連縄が巻かれており、今もなおこの場に”何か”を縛り付けているかのようだった。
岩壁には、やはり、間隔をあけて松明が打ち付けられており、その姿は今もなお、火が灯されるのを待っているかのようだった。
そして、その中央には底の見えない水が広がっている。
波一つなく、ただ沈黙を保ち、しかし確かに”何か”を待っているかのように存在している。
その中央には、台座が置かれ、そこには注連縄で囲われていたらしい痕跡が残り、祭祀の中心として扱われていたことを示している。
水に近づくにつれ、微かな匂いが立ち上がる。
墨のように濃く、そしてどこか鉄錆のような匂い。
乾いた血の匂いを思わせるそれは、澪の喉をひどく乾かせた。
そして、空間の最奥。
黒い岩肌にめり込むように、一つだけ古びた社殿が建っている。
扉は苔と蔦に覆われ、長らく誰も開けていないことを物語っている。
だが、その下からは絶え間なく水のようなものが流れ出ている。
かつては、透明な水で村を潤していたそれも、今は黄泉の水が溢れ出してきたかのように黒々としている。
社殿の周囲には、その水を封じるかのように無数の木札や布が打ち付けられている。
しかし、水はそれを嘲笑うかのように、止まることなく流れ続けている。
澪の中で、夢で見た光景と重なっていく。
白無垢の花嫁が、中央の台座に座り、能面の男たちがそれを取り囲む。
鈴を鳴らし、呪詛のような文言を唱え、花嫁の口に沈めるための石を入れていく。
やがて、裾は黒い水に引き込まれ、その中へ沈んでいく。
すべてが、ここから始まっていた。
澪の心臓は耳元で爆ぜるように鳴り、胸を締め付ける。
ここに、足を踏み入れることが、夢と現実を分かつ最後の境界だと本能が告げていた。
澪が小さく口を開く。
「ここが、沙世と歴代の花嫁たちが、村のためにと沈められていった場所......そして、全てが終わらなかった場所」
そういうと、目の前の水に目を向ける。
足元からじわりと広がる黒い気配は、彼女の名を呼ぶ花嫁の声と同じものだった。
そういうと澪は蓮司の顔に目を向ける。
そして、バッグから短刀と簪を取り出す。
ふたりは、水を避けるように、中央の台座を通り、奥の社殿へと歩みを進めた。
水面は鏡のように静かで、懐中電灯の光が揺れるたびに、赤黒い光が歪んで映し出される。
足を踏み出すごとに、その静寂が音を立てて崩れるように思えた。
近づくほどに、その異常さが伝わる。
社殿の周囲に打ち付けられた木札は、封印のようにも、必死に「塞ごう」とした痕跡のようにも見える。
けれど、苔に覆われた扉の隙間からは、黒く濁った水がじわじわと染み出し、足元の石畳に黒い筋を作っていた。
中央の台座を過ぎたあたりから、――ごう、ごう。と流れる水の音に混じって微かな音が聞こえ始める。
――すすり泣き。
いや、笑い声にも聞こえる。
澪の背筋が凍り付く。
幾度となく夢の中で聞いた、あの声。
間違いなく、白無垢の花嫁の声。
「......澪」
耳の奥で誰かが読んだ。
振り返ると、蓮司が硬い表情で立っている。
しかし、口元は動いていない。
社殿の前に立つと、それは一層異様な気配を生み出し、全身を潰すように迫ってきた。
苔に覆われた板戸からは、冷気が滲みだし、肌に触れるとまるで、水の底に沈んだかのような感覚を覚える。
「......これが」
蓮司が手を伸ばしかけた時、背後にぞっとするような気配を感じる。
途端に社殿から流れ出す水の勢いが増し、黒い筋がふたりの足元へ迫る。
そのとき。今まで静まり返っていた水面が揺らいだ。
中央の台座の向こう――黒い水がふわりと盛り上がり、白い裾が浮かび上がった。
まるで、二人の退路を断つかのように、ゆっくりと白無垢の花嫁が現れた。
その姿は、真黒な水を吸い、まるでこの世のすべての邪気を孕んでいるかのように思えた。
花嫁が水面に立ち上がると、水面からは無数の白い手が伸び、ふたりを水の中に引き込まんと手招きをしている。
顔は見えない。
けれど、視線はたしかにこちらを見ていた。
「......水音」
澪の名前を呼ぶかのような声が、水と空気の隙間から響く。
恐ろしいほどに冷たいその声に、澪の心臓がひときわ大きく跳ねる。
夢の中で聞こえた声が、今、目の前で現実となって空間を震わせている。
台座の縁には、黄泉が広がるかのように黒く染まった白無垢が広がり、濡れた黒髪kらは、落ちる雫が石に触れて”ぽたり、ぽたり”とあの音を立てている。
「.....水.....音」
その呼び声は、洞の中を反響し、遠くも近くもない場所から届く。
澪は喉の奥がひりついたまま、一歩、台座へ続く細い石橋に足をかける。
靴底にはあふれ出た水が――ぬらりと張り付き、水の底へ引き込もうとしている。
左右の暗がりから吹き上げる冷気が、膝小僧の皮を捲るかのように浸透する。
花嫁は台座のところで、水に揺れるように佇んでいる。
そして、その後ろには、これまで引きずられ、消息不明になったであろう者たちが、蠢いている。
三歩、四歩。
足を運ぶごとに、水の匂いに混じる鉄の匂いが強くなる。
台座の縁に近づくほど、白無垢の女の気配は音になり、匂いになり、温度になり澪の体に纏わりついてくる。
「水音......一緒に......」
今度ははっきりと、澪のすぐ耳の横で聞こえた。
小さく息をのみ、首を横に振る。
「私は、あなたの親友だった水音じゃない。でも――」
言葉がそこでほどける。
白無垢の綿帽子が、台座の微かな気流に揺らいで、視界の端で波打つ。
顔は見えない。けれど、こちらを見ている。間違いなく自分けを。
背後には蓮司が立ったままこちらを見つめている。
石橋の最後の一歩を踏み出し、台座に片足を移す。
石は冷たく、しかし、血の中にいるような生ぬるい温度を内に含んでいた。
夢の中で、触れた水と同じ感覚。
花嫁は台座にじっとたたずみ、こちらを見ている。
その目は黒く沈み、瞳孔は開いている。
「沙世さん......」
澪が呼ぶと、その影がわずかに震えた。
「私は、白雨水音の......」
その声に反応するかのように、花嫁の手が澪の顔に伸びる。
沈黙が、巨大な渦のように降りてくる。
白無垢の裾の下。
水面がほどけ、花弁が反転するかのように光が揺らぐ。
「......うれしい」
そういった花嫁の顔はいつの間にか、水でぬれた黒から、きれいな白い花嫁の姿に変わっていた。
夢の中で見た、あの骨と皮のような冷たい手は、純白のきれいな白にもどり、確かに温もりを帯びていた。
「生きて.....いた」
沙世の声は、笑いにも泣きにも似ていた。
足元の波紋がしん、と波紋をほどき、台座の周りだけが、違う空間のように澄んでいる。
「......続いていた」
沙世の目から涙があふれる。
自分の命をとして繋いだ命が今目の前にある。
「でも、これ以上は来てはいけない。ここで終わりにしなくてはいけない」
白い袖が、手招きをするでもなく、拒むでもなく、宙でほどける。
澪はそっと、短刀と簪を差し出す。
いつの間にか簪も錆が落ち、元の奇麗な姿を取り戻していた。
それは、美しいほどに銀色に輝き、自分の役目を果たさんと手の中で輝いている。
「ありがとう......これがないと、私たちは現との繋がりを切れない。だから、現世と黄泉の境を落ち続ける。何十年、何百年と気の遠くなるような時間を」
そういうと、沙世は短刀に手をかける。
刀は下ろしているのに、光は刃のほうから湧き上がるかのように神々しく光を放つ。
その時、花嫁の後ろから漆黒に似た気配を感じる。
もう一人の真っ黒に染まった花嫁がこちらを見つめている。
それは、触れたものを沈めるかのようにこちらを睨んでいる。
「目を合わせてはいけない」
沙世が、澪に告げるように話す。
「あれは、黄泉の瘴気に充てられた者たち。触れるものを黄泉に引き込もうとする。あれに触れたものは皆、見境なく引きこまれる」
沙世はそういうと、澪の手を握る。
「それが.....水に呼ばれた人たち?」
澪が問いかけると。
「そう。消えた人たちは皆、探らなくてもいいことを探ってしまい、あれに触れてしまった」
「そろそろ、終わりにしましょう」
沙世がにっこりと笑いかける。
白い裾が静かに持ち上がり、両手と両足、首に糸とも縄ともつかない、うっすらと光る細いものが浮かび上がる。
それは、水の筋にも似た見えない緒。
その端は洞の隅と社殿へと伸びている。
目を凝らすほどに、それが沙世をこの世に縛り付けている繋がりに見える。
「あなたが、これを切って」
そういうと、花嫁はすっと短刀を澪に差し出す。
澪は刃先をそっと持ち上げる。
短刀は水面の光を集め、細い月光のような線を作り、白無垢の胸元を淡く照らしだす。
「急げ」
背後から蓮司の声がする。
「来てる」
花嫁の向こう側にうずく影が、二人を水の底へ引き込もうと、じわじわと近づいている。
澪は頷き、短刀を胸の高さにとり、呼吸を整える。
刀は軽い。
しかし、それには、何百年に及ぶ重さがぶら下がっている。
「......いくよ」
短刀を握りこむと、澪がそっと細い光へと近づく。
一本目――右袖を上げると、その内側には確かにあった。
白無垢の袖からのぞく手は、どこか人形めいて色を失っている。
爪は磨りガラスのように曖昧で、指の節も、静物画の輪郭のように遠い。
ふっと指先が冷える。
刀が入る。
その感触は、麻と水と髪の毛を一度に立つような、不思議な抵抗を伴っていた。
ぱん。と乾いた音が跳ね返る。
抵抗は紙を裂くよりも軽く、しかし切った瞬間、洞全体が低くうなる。
水が台座の縁ではね、黒い光が一度だけ遠くまで走る。
二本目――左の袖。
白い肌の境目をなぞる。
刃が触れた刹那、沙世の肩が震え、息が一つ抜ける。
澪がそっと花嫁に視線を向ける。
沙世はすこし怯えているようにも見える。
澪は息をのみ、一息で断つ。見えない輪がほどけた途端、壁にまかれていた、注連縄の一節が音もなく落ちた。
切断の余韻が、澪の指にまで痺れとして伝わる。
それを断ち切ると、左手がゆっくりと重みを取り戻したかのように下がる。
白布の内側で、指先が小さく握られ、話される。
血の色ではない、わずかに体温の色が皮膚に上がってくるのを感じる。
水で拭われた古い写真に色が落ちるような、そんな戻り方だった。
三本目――右足。
台座の角に膝をつき、澪は白無垢の裾を、そっと持ち上げる。
布の重みは、想像よりもずっと軽い。
それは、水に浸した紙のように脆く、けれども指先から逃げようとする張りがある。
三本目が切れた瞬間に、洞窟全体は最初よりもはっきりと反応を示す。
岩の亀裂から、たまっていた冷気が吐き出されるように流れ、ごごご、と不可解な音を立てる。
水が片側により、台座の周囲へ浅い波が走る。
岩壁の影の中に、小さな魚の鱗のような光がきらりと光った気がした。
それは、まるで、記憶のようで、今までここに囚われ続けていた何かのようにも見えた。
沙世の右足が、石の上に自分の体重を置く。
その微かな沈みを、石が受け止める。
反動が澪の体にも伝わる。
こめかみの奥で、古い井戸の蓋が軋むような痛みが走り、視界の端に、これまで通ってきた道中が浮かぶ。
夜の雨、玄関の濡れた足跡、ふろ場に落ちていた簪、ホームでみた白無垢の女、水迎寺。
違う時間が、今の時間に縫い合わされたかのように押し寄せる。
四本目――左足。
一瞬、光の糸が焦ったかのように見えた。
刀を寄せる前から、繋ぎを切られまいと、小さく蠢く。
だが、動きはたちまちに弱まり、また静かに沈む。
澪は迷わず刀を入れる。
ぱん。と乾いた音。
洞全体が一呼吸して、吐いた息が火を殺ぎ、吸う息が火をよみがえらせたかのようだった。
天井の隙間から、冷たい雫がふたつ、みっつ、連続して落ち、台座の縁に小さな楕円の泉を作る。
注連縄が大きく揺れ、柱のような岩の影が、二人の上を斜めに横切っていく。
ふと、前に目を向けると、沙世の立ち姿がわずかに変わった。
白布の下の膝は柔らかさを取り戻し、重心が生きているときのそれに近づいている。
裾からは水ではなく、布としてしっかりと垂れ、濡れた端が澪の指の甲を撫でる。
布越しに感じる肌の温度は、以前のような息も凍らせるような冷たさではなく、囲炉裏に手をかざした時のような、ぬくもりを持っていた。
沙世はまるで、命を吹き返したかのように、息を吸い、喉の奥で小さな音を立てる。
確かに、沙世の体に空気が通る音。
それだけで澪は、体の奥底からこみ上げる涙を耐えるのに、苦労した。
「あと、ひとつ」澪が言うと、白布の下で小さく頷く気配があった。
最後の糸は、喉前に細い輪を作るように巻かれている。
これを断つとき、洞全体が一番強く反応する――そんな予感が、澪の背骨を冷やす。
長い年月を花嫁たちと過ごした、儀式殿も、今その年月に終止符を打とうとしている。
これは、ただの糸ではない。
言葉で編まれ、願いで固められた輪だ。
過去と未来をつなぐために、花嫁たちが自分の命を差し出して受け入れた輪。
澪は短刀をいったん下すと、花嫁の手に握られている簪を見つめなおす。
それは、すっかり元の姿を取り戻し、神々しく輝いている。
道標でもあり、最後の姿を飾るための銀色。
澪はそっと、沙世の手から受け取る。
「しゃがんで」
澪が沙世に声をかける。
沙世はこくりと頷くと、澪の前に腰を落とす。
花嫁が旅立つ先で迷わぬよう。
ここへ来るまでに見たものの重みを、簪に託す。
その思いを胸に、外れていた簪を沙世の髪へと挿れなおす。
簪はそこが自分の場所であるかのように、一層の輝きを取り戻し、その光は沙世の表情にも影響を与えた。
目を見張るほどの美しさ。
すべての準備が整い、やっと旅立つ準備ができた。
沙世の表情からは、優しさと決意が表情となって、澪の中に流れ込む。
五本目――喉元。
澪はそっと最後の糸に手をかける。
自分を苦しめ続けた悪夢。
何かに呼ばれるような夢。
現実に侵食する恐怖。
それを縛り続けた糸。
今、やっと終わることへの安堵感。
しかし、沙世に対する別れの切なさも残る。
糸に刃を近づけた途端、洞の空気が一段と重くなる。
遠い雨の音が小さく鳴りはじめ、岩壁のひびの中で何かが目を覚まし、こちらを凝視する気配がする。
水面の輪が、一瞬だけ逆さに落ちた――。
波紋は内側へ吸い込まれ、中心で静かに消える。
注連縄の繊維が一本、音を立てずにほどけ、空気の中へさらさらと溶けていく。
――いま。
澪は短刀に力を込めた。
優しく。しかし、迷いのない強さで。
抵抗はこれまでで一番強かった。
糸は刃を受け止め、彼女の腕の震えを体中へ広げ返す。
喉の奥が自分のものでないかのように苦しくなり、視界がにわかに狭まり、耳の奥でひとつ――鼓動の音だけが大きくなる。
まるで、とても大きな水流を切るかのように感じられる。
その瞬間、あまりに繊細で、しかし、戻れない手ごたえが柄に伝わった。
――ぷつん。
最後の糸が切れたとき、洞は沈黙した。拷問でもない。
一切の音が、水の中に溶け込むように一斉に引いていった。
水の流れ出る音も、滴る雫の音も、自分の心臓の音さえも――全てが消え、世界が音の形を失ったようだった。
音の消えた静寂の中に、二人は立っている。
すべてが終わった。
次の瞬間、音が押し寄せる。
高いところから、水が戻るように、岩肌にまかれた注連縄がばちと乾いた音を立てて切れ目を増やし、ぽちゃん、ぽちゃんと岩肌が崩れ落ちる音がする。
水面は大きく揺れ始め、台座の周囲で小さい渦ができ始めている。
澪は無意識に膝を固め、沙世の肩をそっと抱きしめた。
水に長く触れて白くなった紙が、急に息を吸い込んで、色が戻っていくかのように、頬に温度の翳りが差し、唇に花びらのような赤が戻る。
瞼がわずかに震え、まつ毛の一本一本が、影として岩肌に映る。
黒髪が布の中からこぼれ、濡れた糸のにおいが澪の鼻先をかすめていく。
沙世の口元が動き、細い音が生まれ、次いで、言葉の形へと変わっていく。
「――澪」
彼女は初めて澪の名前を呼ぶ。
まるで、昔から知っていたかのように、温かく、どこか儚い声で。
澪は頷き、肩に置いた手にもう少しだけ力を入れる。
体温が確かに生きていた。
指先が澪の背中を押し返す。生きている。
大空洞の中は、まだ波打っている。
だが、それは恐れを煽る脈動ではない。
永い眠りから覚めた巨大な生き物が四肢を伸ばし、体内の水をゆっくりと巡らせているような、重く穏やかな動きだ。
頭上の洞穴の隙間から、夜気が一筋入ってくる。
冷たいはずのその空気が、なぜか澪の頬を温めた。
注連縄の切れ端が、ほどけ、やがて水に沈み。見えなくなる。
澪は笑った。
自分でも驚くほどに自然な笑顔だった。
頬にためていた熱が、瞼の縁を潤し、視界がぼやける。
足元で水が引き、台座の段差が一段現れる。
そこへ、沙世の足が触れ、音を立てずに立つ。
濡れた足跡が石に残り、すぐに消える。
「外に、行こう」澪は言った。
言いながら、これは夢であり、同時に現実であるのを知っていた。
夢の中の澪と、現実の澪が言葉を重ねている。
ふたり分の声が、洞窟の壁をすり抜け、暗い水の底に広がる。
水はそれに応えるように、道を作った。
台座から岸へ向かって、浅瀬の筋が一本白く光り走る。
そこだけ水が薄く、そこの砂利が見える。
一瞬だけ、砂利の間に、錆びた細い針――黒くなった木の札――揺れる白い布――どれも儀式の古い名残が眠っているのが見えたが、あっという間に砂に吸い込まれるように姿を消し、美しい道に変わった。
歩き出す。
最初の一歩は沙世のものだった。
白無垢の裾が水を払い、布が生き物のように軽く翻る。
澪も続くように歩を進める。
足首を過ぎた冷たさは、もう皮膚の中には残らない。
振り返ると、台座の上空に、細い霧の柱が立ち上がっていた。
そこにはもう何も縛られているものはない。
出口に向かう狭い道を、二人で並んで進む。
それは、かつての水主沙世と白雨水音のように。
遠く、風の音が変わるのを感じる。
外の夜――木々のこすれる音、土の匂い、星の冷たさが洞窟の呼吸に混ざってくる。
歩を合わせてもいるわけでもないのに、沙世の歩幅が、いつのまにか澪のそれに一致している。
沙世を縛り付けていた、白い糸はもう見当たらない。
「澪。」儀式殿の出口の前で、沙世が足を止めた。
振り向いた瞳に、小さな光が宿っている。
「ありがとう。」
その言葉が、洞窟の中に吸い込まれていく。
澪は言葉にならず、ただ、ただ頷いた。
「ここから先は、あなたが一人で帰りなさい。」
そういうと、沙世は少し寂しそうな表情を浮かべ、澪の背中を押した。
澪が振り返ると、沙世は続ける。
「私は、これ以上先には進めない。私にはここで、水とともにみんなを見守る役目がある。」
そういうと沙世の体が透け、ふわっと、体が浮いたのが伝わった。
いつの間にか、渡ってきた浅瀬は閉じ、そこには静かな水面が揺れている。
それとともに儀式殿の天井から、ぱらぱらと、石が落ち始める。
「ここから先は、振り返ってはいけない。振り返れば、未練でまた水に心をとらわれてしまう。」
そういうと、沙世の体がすうっと離れていくのがわかった。
「待って。」
澪が振り返ると、蓮司が腕を強く引いた。
「澪――出るぞ」
澪は激流のように現実に引き戻される。
蓮司の言葉と同時に、洞窟が低く唸り声をあげる。
天井からぱらぱらと落ちていた細かな砂が、土砂降りの前のように、激しさを増していく。
いつの間にか、岩肌にまかれていた注連縄はすべて切れ落ち、地震のように足元に振動が這ってくる。
「さあ、行って。ここは私が閉じます」
「一緒に――」
言いかけた澪の肩を、蓮司の掌が捕まえる。
強さではなく、確かさで止める手だ。
蓮司は短く首を振る。それに呼応するように沙世もうなずく。
「――ありがとう。」
澪は声を遠くに飛ばすように、身を乗り出して叫ぶ。
それだけ叫ぶと、振り返った。
蓮司が先に立ち、儀式殿を走るように後にする。
背後で岩が崩れる鈍い音がする。
骨まで揺れるような鈍い音。
息が合わないかのように、浅瀬の波が逆に抵抗する。
天井の一角がひらりと剥がれるように落ちる。
水が大きく跳ね、耳の奥に空気の圧が刺さる。
ふたりは階段を駆け上がる。
後ろからは、まるでふたりを逃がさないかのように、水と崩落の音が駆け上がってくる。
やっと、畳の間にたどり着く。
しかし、すでに頭上の天井はひび割れ、乾いた枝を折るような音が連続している。
畳は、床が変形して浮き上がり、障子もすでに振動で倒れている。
ふたりは肩で息をするが、ここで止まれば呑み込まれると本能が告げる。
部屋全体が、古い力を解くかのように軋む。
「走れ。」
蓮司の声と一緒に、澪が再び足を動かす。
扉を開け、地上につながる最後の階段を駆ける。
通路の先からは、微かに夜の匂いが飛び込んでくる。
湿った苔と土、遠い木の擦れる音。
もう少しだ。
ふたりは最後の傾斜を駆け上がり、岩の縁をまたぐ。
外だ。
次の瞬間、足元の地面が、ごそり、と鈍く沈んだ。
大空洞の縁が内側へ倒れこむ。
澪の視界がぐらりと傾き、反射的に蓮司の腕を掴む。
体が外気の空気にさらされ、冷たい風が胚を満たした。
外へ出たのを見届けるかのように、洞窟はふたたびひっそりと息を止めた。
轟音は山腹に吸い込まれ、空へは低いうねりだけが広がった。
岩が崩れ、砂が流れ、空洞の喉が自分自身を飲み込んでいく。
さっきまで開いていた口は、瞬く間に土と石の舌で塞がれていく。
なだれ込んでいく土砂が最後の空気を押し出し、白い霧の柱が夜空に上がった。
風に裂かれた煙の中から、何かがふわりと浮かび上がる。
最初は土煙かと思ったが、それは落ちることなく上がっていく。
ふと後ろを見ると、屋敷全体からも浮かび上がる。
水の底から離れる泡のように、空のほうへと向きを変え、ひとつ、またひとつ、夜空へと向かっていく。
青とも白ともつかぬ淡い光。
ふたりは、息を整えながら、視線で追う。
「......見えるか?」
蓮司が問いかける
「うん。」
澪はそういうと頷いた。
視界の端から端まで、静かに増えていく光の群れ。
耳を澄ますと、小さな鈴の残響に似た音が、音とも気配ともつかぬ形で、夜気に溶けていく。
風が変わり、梢が鳴るたびに、光は反射の角度を変え、時にはこちらを振り返るようにふっと揺らぐ。
ふいに、その群れの中でひとつ。
他よりも少し大きく、他よりも淡く昇っていく。
白無垢の裾がほどけるような姿を一瞬だけ見せ、夜の上でかすかに止まる。
胸元で大切そうに握りしめる銀の簪がきらりと光ったように見えた。
気のせいかもしれない。
けれど、その光がこちらに向けて、小さく頷いたようにも思えた。
「沙世さん。」
名前は声になったかどうか、澪にはわからない。
喉の奥で形になっただけかもしれない。
それでも、光は納得するかのように少し震え、ゆっくりと昇っていく。
その時。
澪のお守りからもひとつ。
白い光が顔を出す。
それは、群れの一つを追いかけるかのように、駆け足で空に浮かんでいく。
やがて、その光は、目指していた一つに追いつくと、速度を合わせ、ゆっくりと昇っていく。
それは、まるで、百年もあっていなかったかのように、ぴったりと寄り添って。
一瞬、二つの光が笑いかけたかのように見えた。
群れが高みに達するにつれて、夜空と星との見分けがつかなくなる。
だが、下から見上げるふたりには、どれが今生まれた星で、どれが昔からそこにあった星なのか、なぜだか見分けられる気がした。
やがて崩落は完全に止み、穴は地表のひだの一つになる。
そこにあったはずの口を指でなぞっても、ただ、冷えた土の硬さが返ってくるだけ。
山は自分の欠片を戻し、何事もなかった顔つきで夜を続けている。
静けさに包まれた中で、蓮司がゆっくりと息を吐いた。
「終わった、のか」
澪は答えずに、ただ空を見上げている。
最後の光が空に溶け、闇と星の境目が元通りになる。
足元では崩れた砂利の上に、水の薄い筋がひとつ、まだ残っている。
そこには足跡が二つ。
澪と蓮司のものだ。
それは、踏んだそばから輪郭が崩れ、やがて元の粒に戻っていく。
水はその上を撫でて、名残りだけをさらっていく。
「もう、ここが開くことはない」
澪が言った。
自分の声が綺麗に夜に馴染む。
喉の奥が震え、生きているもののそれとして静かに収まる。
蓮司が静かにうなずく。
ふたりの影が月にひかれて長く伸び、重なって、またほどける。
風が変わり、木々の隙間で新しい音階が鳴った。
さっきまで洞窟の呼吸に合わせていた体が、山の呼吸へ戻っていく。
澪は胸に手を当てて、少しだけ笑った。
そこに、重さと軽さがある。
「夜が冷える」
蓮司が言う。
「うん」
澪は最後にもう一度だけ、塞がれた地面に小さな会釈をした。
「ありがとう」と「ごめんなさい」と、どちらも同じ重さで。
返事はない。
ただ、ひとつ、風が通り抜けた。
ふたりは、山道を下り始める。
背後の闇は静かで、空の星はよく見えた。
もう、水はだれも呼ぶこともなく、さらさらと、心地よい音を立てて、山を下っていく。
まるで、ふたりの足取りを追うように。
山を下りるほどに、光は夜空に溶け込み、普通の光になっていく。
澪は足を止め、ふと顔を上げた。
空いっぱいに、水が流れていた。
星の砂利が敷き詰められ、暗い山の稜線をまたいで、音もなく流れている。
――天の川。
けれど、耳を澄ますと、ほんの微かな「みずのおと」が、空の方から降りてくる気がした。
大空洞の水面で生まれては消えていったあの光が、今度は逆に空へと昇り、細いさざめきとなって戻ってくる。――そんな風に。
星の川の一角が、わずかに濃く寄り添った。
二つの光のむら。距離にすればあり得ない近さで、しかし、触れはしないくらいの間合いで、並んでいる。
澪には、それが沙世と――水音に見えた。
人の形ではない。
ただ、ふたりで、こちらをやさしく見守っている、としか言いようのない、柔らかい光の密度。
沙世の名前を呼ぶ前から、呼ばれる前の名がそこにいて、川の流れと一緒にうなずいて見える。
「見える?」
澪が囁くと、蓮司は空を仰いだまま、少しだけ目を細めた。
「星が近い......」
そういうと、蓮司はどこか安心したように笑った。
「でも、君がそう見えるなら、きっとそうなんだろうな」
天の川が、ひと呼吸するみたいに、わずかに明滅した。
崩落から解き放たれた光の粒たちが、そこへ合流してくる。
まるで、遅れてきた雫が、川面に溶けるように、ひとつ。またひとつ。
川はすべてを受け入れ、けして押し返すことはない。
沙世と水音の傍らを通るとき、粒は少しだけ速度を緩めて、礼をしていく。
目で見えたわけじゃない。
だが、澪はたしかにそれを感じた。
「そろそろ、行こう」
蓮司が言う。
「うん」
背後の斜面は静まり返っている。
もう開くことはない。
澪は最後にもう一度だけ空を仰ぐ。
星の川は、果てしなく流れていて、寄り添う二つの濃さは、緩やかに距離を保ったまま、こちらへも、これから先生まれてくる命へも等しく目配せを送っているようだった。
歩き出すと、いつのまにか。山の闇は薄れ、葉の間を通る風に、かすかな水音が混じった。
それは悲しみの色ではない。
井戸の底から聞こえた誘う声でもない。
ただ、並んで歩く者の歩幅にそっと合わせる、柔らかな合図の音。
澪はその音を背に、蓮司と並んで山道を降りて行った。
天の川はずっと、上に流れている。
それは優しく、ふたりを撫でるかのように。
沙世と水音が、ふたり仲良く寄り添って、見守っている気配といっしょに。
あとがき――
この物語を最後まで見届けてくださり、ありがとうございます。
ここからは、物語の中とは違い、少し落ち着いた雰囲気で、物語の外側から少しだけ言葉を並べていきたいと思います。
「水」と「夏」をめぐる風景に何を託したのか。作中では描かなかった由来や仕掛け、意図を川の瀬をたどるように振り返ってみたいと思います。
●水という主題
この物語は『小説家になろう 2025年 夏のホラー テーマ:水』用に書いたものです。
「水」とは、私たちの周りに常にあり、生き物として生きていくうえで絶対に切れないものであるとともに、今日の日本では日常生活の中に合って当たり前のような存在になっています。
普段は蛇口をひねれば水が流れ、当たり前のようにそれを口にする。
しかし、その音や姿にまじまじと気を配ることはないかと思います。
でも、一度耳を澄ませてみると様々な水の音に巡り合います。
●お礼
この物語を最後まで読んでくださり、本当にありがとうございました。
音が持つ印象、普段何気なく口にする水、それらが持つ歴史。
もし、どこかの場面で、みなさんの生活音と作中の音が重なったら、それは最高の贈り物です。
この物語を閉じた後も、コップ一杯の水を飲むとき、お風呂にいるとき、雨が降った時、その水面に澪たちの顔が浮かんでくれれば幸いです。
あなたの周りの水が静かで、そして最高の夏に巡り合えますように。
物語の一つのテーマとして『音』に感情を持たせたい。
”ぽたり、ぽたり””ぴちゃ、ぴちゃ”のようなどこか気味の悪さを含んだ音。
”さらさら”のような清らかな安心感を含んだ音。
作中で澪や蓮司が感じ続ける水の音は、私たちの周りにあふれた環境音であると同時に、彼女たちの感情を司るサインでした。
読み進めながら、澪たちとともに、ひやっとしたり、安堵したり、音で自分の中に湧き上がる感情を楽しんでもらえたら幸いです。
また、もう一つのテーマとして『形』に着目しました。
水とは形を持たないのに、それを容れるもの次第ではいくらでも形を成します。
作中に出てくる井戸の中の水も、澪の目から溢れる涙も、儀式殿に鎮座する水もすべて同じ水。
しかし、その姿と存在の在り方は多種多様です。
美しいと思う水もあれば、汚いと思う水もある。
時には津波のように恐怖の対象になることもあれば、聖水のように神聖なるものとして扱われることもある。
作中では、この水の在り方を今一度、澪たちを通して感じてもらいたいと思い、『恐怖』を書き、『神聖』を書き、最後は天の川として『美しい』を書きました。
●夢と現実の螺旋
本作では、夢と現実を互いに浸食させています。
これも、水に着目した際の「染みる」「侵食する」という特性の一つを描き、普段私たちが何気なく行っており、そして生命維持のために必要な「水」とともに「眠る」という行為が「安心」から「恐怖」に形を変えていく様を描いています。
民俗学者・鹿渡文太の手帳でも日に日に寝ることへの恐怖が増していき、最後は夢と現実の渦に巻き込まれるように、核心に迫る寸前で消える。その先、鹿渡がどこへ消えたのか、どこへ行ったのかは、皆さんの想像と、澪の行動で埋まっていきます。
●「夏」という時期
夏のホラーということもあり、夏の要素を取り入れたいと思ったときに最初に浮かんだのが、夏の夜空の天の川でした。
出身が田舎ということもあり、子供のころは家の外に出て、星空を見たり、昆虫採集をしたり、花火をしたりしたものです。
周りに大きな建物がなく、明かりも少なかったため、夜空がとても近くに見えたのを覚えています。
そのイメージが浮かんだ時に、ラストのシーンはそれにしようと決まりました。
また、夏をイメージしたときにあの焼けるような暑さも醍醐味の一つと思い、ホラーの王道である迫ってくる「精神的な恐怖」とは対極の逃げられない「直接的に体力を削られる」という怖さも取り入れました。
一つの作品の中に描写として入れることで「精神」と「肉体」は繋がっているという感覚を恐怖や焦りとして感じてもらえたら幸いです。
●名前について
今回のテーマが『水』だったので主要人物は水の名前で行こうと考えました。
以下は、作中には登場しなかった、名前の由来です。
・『澪』は「澪標」から取っています。
澪標とは、日本の水路や河川に設置される標識の一種で、船舶や漁船が安全に航海するための目印です。
今回のテーマが「水」であったので、形のない、得体のしれない水というものに、人が通れるための線を可視化するという設定のもと、この名前にしました。
序盤から終盤に至るまで、大事な局面で大切なことを見つけ出し、蓮司とともに導いてくれました。
また、物語序盤では導かれる側にありましたが、物語終盤ではきちんと囚われていた魂たちの澪標を立てる側へと変わってくれました。
その結果がクライマックスの「沙世」や「水音」、「そのほかの魂たち」が天の川に帰還するための役割を十分に担ってくれました。
・『蓮司』は「蓮の花」+「司る」に由来して名付けています。
「蓮の花」とは、泥の中でも清らかさを保ち続ける象徴であり、皆さんもご存じの通り、泥の中でも美しい花を咲かせます。周囲に染まらず、純粋さを保つ人を比喩する言葉として使われたりもします。
作中での蓮司も、どこにも所属せず、個人で民族研究を行って生計を立てているなど、周囲に染まらず、自分の生きたい道を歩む強さを見せてくれました。
また、「司る」という感じを入れたのも、物語の中で重要な情報を集めてくるなど、しっかりと物語の舵取りをしてくれました。
澪が水に呼ばれ、精神状態が濁っていた中でもしっかりと秩序を果たす役割をしてくれました。
・『沙世』は「沙」はさんずい編をもつ砂。これは、儀式で花嫁が口に石や砂を詰められて沈んでいく内容から最初の一文字がこれになっています、
作中で澪や鹿渡が感じていた砂利は、儀式で沙世が飲み込んだ砂であり、口縄が説かれていたので、沙世が苦しくて吐き出したものが残っていたという設定になっています。序盤で、澪が砂に気づき生臭いにおいがするというのも、きれいな水の底の砂ではなく、吐き出した砂であったためその名残です。
また「世」というのは現世と黄泉という世界の狭間にいる。というところから取ったものです。
この二つ「沙」と「世」を合わせることで、さんずいの「水」と「砂」としての土の両側の「世界」に立つもの。という意味が込められています。
・『水音』の字義はそのまま水が立てる音。ただし、作中では固有名としての「水音」と環境音としての「水音」の二重性を持たせています。
また、小説ならでは特性を楽しんでもらいたいと思い、あえて主人公の『澪』と発音を同じにすることで、「澪」と「水音」のどちらを指しているのかわからない場面と、それがはっきりする場面の二面性を持たせました。
これは、映像にしてしまうと「みお」という音にしかならないため、どちらを指しているのかわからなくなりますが、作中でひらがなからと漢字を使い分けることで、どちらへの描写であるのか明確になります。沙世が「水音」ではなく「澪」に気づいたシーンなど文字媒体だからこそできる楽しさを味わっていただければと思います。
●登場人物の設定
・深見澪 20歳 大学3年生
専攻:文学部民俗学系ゼミ
性格:慎重ではあるが、決めると強い。若干人見知り。慣れると話す。知り合いには会釈程度で通り過ぎる。
外見:カジュアル系。ブランドよりも機能性重視。身長は158㎝。年齢より下に見られがち。
所作:不安な時に髪を耳にかき上げる癖がある。何かを考えるときによく口を紡ぐ。
生立:大学進学を期に地方から都市へ。一人暮らし。
部屋:物が少なく、清潔感のある空間を好む。
・白河蓮司 25歳 民俗学研究者(所属機関なし)
仕事:大学などには所属せず、個人で研究を続ける。
性格:理性的だが柔らかい性格。言葉は選ぶ。自分に見えないものも”ある”と考えるタイプ。
外見:ファッションには無頓着で、あるものを着るタイプ。身長は176㎝。オジ顔。
所作:考えるときに口元に手を置く。
生立:卒業後に個人事務所を設立。実家には年1回程度帰る。
部屋:興味があるものであふれかえっている。片づけは苦手。
・水主沙世 18歳(儀式当時) 水主家の娘
背景:水音とは小さいころからの親友。水主家の一人娘。
性格:前に積極的に出るほうではないが、決意すると固い。たまに驚くような行動をする。
外見:年齢の割には大人びて見える。身長は167㎝。見た目は25歳くらいの雰囲気
生立:小さい頃はよく水音と水主家で遊ぶ。花冠を作るときに水主家が植えている花を使ってしまい怒られたことがある。
・白無垢の花嫁 18歳(儀式当時) 水主沙世
背景:水音を逃がしたことで、沙世が最後の花嫁となった姿。短刀がなかったことにより、黄泉と現世の境をさまようことになる。
性格:寂しがり。一人で沈み続ける長い年月に耐えられず、近づいたものを水の中へ引き込んでいた。
外見:白無垢の花嫁の姿をしているが、黄泉の水で黒く染まっている。腕は細く、目は瞳孔が開き真っ黒に染まっている。
・水主沙世 6歳(幼少期の姿)
背景:澪の夢に出てきた水主沙世の幼少期の姿。儀式のことなどは何も知らず、水音と遊ぶ。
性格:水音と遊ぶとき以外は、琴を弾いたりしている。外で遊ぶのも好きだが、中で一人で遊ぶのも好き。
外見:おかっぱで白い着物が多い。帯は苦しいから実は嫌い。
・白雨水音 18歳(儀式当時)
背景:深見清一との子を身ごもり、沙世に導かれるまま村を脱出する。その後は深見姓に名字を変え、家庭を築く。家には、母屋の祭壇とは別に、沙世に向けた小さな祭壇がある。
性格:無垢で感受性が強い。沙世を外に連れ出すような性格だが、その中に慎重さを兼ね備える。
外見:目が大きく、青い着物が好き。家の中で遊ぶよりも外に出るほうが好き。