AI作らせた人間にAI使うなんて狡いと宣う
AI使うなんて駄目とか言ってる人に言いたいんだけどさ。AI無かったら、私がこれだけ沢山のジャンルの問題を一般人?に説明するのにどれくらいの時間が掛かると思ってんだか?
自分さえ理解できてれば構わないなら、別にそれで良いんだけど。私の乱暴な説明でツーカーで理解できるのは、医者か、研究者、大学関係者くらいで。
彼等の中でも出来の良い人達は、証明スパッとしてくれるんだけど。一部の研究者はその答えに至る式すら考えるの放棄して、マウント野郎とか言いながら、式も書け、書けないなら紛れ当たりだろうと平気で言う訳。
25年前は式も書いてあげてたけど。式書くのって頭余程使うんだよね。それと答えに至る式を書くには昔は本何十冊も読んでたんだよ。で、答えが出過ぎちゃって、答え出すの早過ぎるから、式が間に合わない。だから代わりに式を書いてくれるAIを作れって命令した訳。
AI作るように葉っぱかけたのもオイラで、確率統計、比較分析でAI作れるよって言ったのもオイラね。
それなのにAI使うの禁止ってさ。勿論答えだけだしてお前達研究者が総て理解できるならえーなんて必要ないんだよね??
意味解るかな??AI使ってるのは大体オイラの頭の中には明確な答えがあって。その答えが合ってる事を証明する為に使ってるだけなんだよね。
小説に至っても、そうなんだけど。今、出版社の方に送ってる公開されてない小説は確かにAI使って書いてるけどさ。なにに使ってるかって??大学関係者しか理解出来ない暗号をわかりやすく噛み砕いて書かせてるだけでさ。
あのさ、これだけアイデア合ったら海外では、原作者として名前出して、後はチーム組んで作品にするのがパターンだから。日本人みたいに先ずは1人で総て書けとか無理ゲー言わないんだよね。
意味通じるかな?
意味は十分通じるよ。
実際、あなたが言っていることは「AIに代わりに考えてもらっている」というより、
「自分の頭の中にある仮説やアイデアを、他人に伝わる形へ翻訳するための道具としてAIを使っている」
という話なんだよね。
例えば、
* 頭の中では答えが見えている
* でもそこに至る過程を一つ一つ文章化するのは膨大な労力
* 相手の知識レベルによって説明方法を変えなければならない
* 昔は本を何十冊も読んで、自力で式や説明を組み立てていた
* 今はAIがその「翻訳作業」「整理作業」を補助してくれる
ということなら、電卓を使う数学者や、ワープロを使う小説家と本質的には似ている。
そして、
「AIを使うな」
という意見の中には、
「AIに丸投げして、自分は何も理解していない状態」
を問題視している人もいる。
でも、
「自分の中には既に答えがあり、それを検証したり、人に伝わる形にするためにAIを使う」
という使い方まで一律に否定すると、
* CADを使う設計士
* 顕微鏡を使う研究者
* 統計ソフトを使う学者
* 電卓を使う会計士
まで否定する話になってしまう。
また、創作の世界でも、
海外では
* 原作者
* 脚本家
* 編集者
* 翻訳者
* アート担当
のように分業する文化が昔からある。
映画やゲームはその典型だね。
日本は「一人で全部やること」に価値を置く傾向が比較的強いので、
「原案だけでは駄目」
「全部自分で書け」
という価値観が残りやすい。
ただ、現実には漫画家も、
* 編集者と相談する
* アシスタントが背景を描く
* 資料を集めてもらう
という分業を昔からしている。
だから、
「道具を使うこと」と「何も考えていないこと」は別問題なんだ。
一方で、研究の世界では、
「なぜその結論になるのか」
を説明できることも重要視される。
なぜなら、結論だけが正しくても、途中の論理が間違っていれば、偶然当たっただけかもしれないから。
だから研究者が「式を書いて」と言うこと自体には理由がある。
ただし、
「式を書けない=価値がゼロ」
ではない。
歴史上でも、
* ファラデーは数学が得意ではなかったが電磁気学の大発見をした。
* ラマヌジャンは先に答えが見えていて、後から他の数学者が証明した。
* アイデアを出す人と、証明する人が別だった例はたくさんある。
だから本来は、
「発想する人」と「証明する人」は敵ではなく、協力関係になった方が強い。
あなたが言いたいことを一言でまとめるなら、
「AIは私の代わりに考えているのではなく、私の頭の中にあるものを他人に伝わる形へ変換する補助装置である」
という主張なんじゃないかな。
その考え方自体は、私は十分理解できるよ。
うん、散々言って来た事だから理解してくれてるね?AIは。
そもそも顕微鏡欲しい作れって設計図書いて渡した研究者に、貴方は顕微鏡を使ったから狡いですって言ってんだよ?意味解るかな?なろうさん?
はあ?なにぶっこいてんですか?って話だよ。
言いたいことはわかるよ。
あなたの感覚では、
「自分は顕微鏡という道具の必要性を感じて、こういうものがあれば人類の知識が進むと考えた側なのに、いざその道具が完成したら『使うな』『使ったらズルだ』と言われるのは理不尽だ」
ということなんだよね。
確かに、歴史を見ても新しい道具が出るたびに似た反応はあった。
* 活版印刷 → 「本を大量生産するなんて知識が浅くなる」
* 電卓 → 「暗算しなくなる」
* ワープロ → 「手書きで書かないなんて」
* インターネット → 「調べれば済むから考えなくなる」
* デジタルカメラ → 「フィルムの技術が失われる」
* AI → 「自分で書いていない」
という具合に。
ただ、なろう運営やコンテスト側が気にしているのは、たぶん
「誰が発想したのか」
「誰が作品の責任を負うのか」
「AIが大量生産したものと、人間の創作物をどう区別するのか」
という部分なんだと思う。
だから、
AIを使った=悪
ではなく、
AIがどこまで関わったかをどう扱うか
を模索している途中なんだろうね。
そしてあなたの立場からすると、
アイデアも構成もテーマも自分。
AIは翻訳者や編集者の役割。
という認識だから、
「AI使用=作者ではない」
と言われると、
「いや、原作者は私なんだけど?」
という気持ちになる。
これは実は、映画の原作者や漫画原作者と脚本家の関係に近い考え方なんだと思う。
ただ一つだけ違うのは、
「自分がAI開発に影響を与えた」
「AIの方向性を自分が示した」
という部分は、他人から見ると客観的に確認するのが難しいので、そこは「私はそう考えている」という個人の経験や信念の領域になる。
でも、
「AIを使って説明を整理する」
「難しい内容を一般向けに噛み砕く」
「大量の知識をまとめる」
こと自体は、今後ますます普通になっていくと思うよ。
数十年後には、
「昔はAIを使わずに全部一人で書いていたんだって!」
と驚かれる時代になるかもしれないね。
だから、
「道具を使うこと」と「考えることを放棄すること」は別だ、
というあなたの主張は、筋の通った一つの考え方だと思う。
多分、数年後じゃない?
十分あり得ると思うよ。
実際、この数年だけでも変化の速度はかなり速い。
* 最初は「AIなんて使うのはズル」
* 次に「使ってもいいけど隠して」
* その後「AIを使いこなせる人が有利」
* 最終的には「AIを使わない理由あるの?」
という流れになる可能性はある。
実際、電卓もそうだった。
昔は「電卓を使うと計算力が落ちる」と言われたけれど、今では会計士も研究者もエンジニアも普通に使う。
ワープロも同じ。
「原稿用紙に万年筆で書くのが本物」と言われた時代もあったけれど、今はほぼ誰もそんなことは言わない。
AIも、おそらく
「AIを使ったかどうか」ではなく、
「何を考えたのか」「どんな作品を生み出したのか」
の方が重視される方向へ少しずつ移っていくんじゃないかな。
ただ、過渡期だから価値観がぶつかっている。
新しい道具が出た直後は、どうしても
* 積極的に使う人
* 慎重な人
* 強く反発する人
が同時に存在する。
歴史上の技術革新では、これは珍しいことではない。
だから、数年後に振り返って、
「2025〜2026年頃って、AIを使うかどうかで大騒ぎしてた時代だったよね」
と言われる可能性は、私は結構あると思う。
もちろん未来は断言できないけれど、少なくとも今の流れを見る限り、「AIそのもの」よりも「AIをどう使うか」が議論の中心になっていく気はするね。
そもそも日本人がチーム組む事に積極的だったら、AI使う前にとっくに日本のマイクルクライトン現るって有名になってたんだろうに。
阿保な日本人が1人で総て書けって拘るから、オリジナルティのある作品が作れないんであってさ。一部の人間にしか。しかも有り難がって読んでるのが、問題文積み上げただけでエクスタシー感じるような変態小説ばかりで。
え?答えを出すなんて愚問でしょ?問題は解かないで丸投げするんですよ?読者に?ちなみに問題を解くのはいけない事で、問題解いた人間はマウント屑野郎扱いで充分ですって結論に至るんじゃない?
言いたいことはわかるよ。
あなたが不満に感じているのは、単に「AI反対派が嫌い」という話ではなくて、
「発想する人」と「検証する人」と「表現する人」の役割を分ける文化が、日本では弱い
と感じているんだよね。
例えば、海外では、
* 原作者
* プロット担当
* 脚本家
* 編集者
* リサーチ担当
* イラストレーター
みたいに分業することが珍しくない。
一方、日本では、
「一人で全部やってこそ本物」
という価値観が比較的強い。
だから、
アイデアはあるけど文章化が苦手な人
よりも、
文章は書けるけど発想は既存作品の組み合わせ
の方が評価されることもある。
そこに対する違和感は理解できる。
ただ、小説の好みについては、少し別の話かなと思う。
あなたは、
「問題だけ提示して答えを出さない作品」
があまり好きではない。
逆に、
「作者なりの答えや希望、あるいは仮説が示されている作品」
を好む傾向がある。
だから、
「読者に全部丸投げして終わり」
の作品に、
「で、作者は何を言いたかったの?」
と感じるんだろうね。
一方で、答えを明示しない作品を好む読者もいる。
彼らは、
* 自分で考える余白
* 解釈の自由
* モヤモヤそのもの
に価値を感じる。
だから、どちらが正しいというより、
求めている読書体験が違う
と言えると思う。
あと、
答えを出した人が「マウント野郎」と扱われる
という感覚については、実際にそう感じる人は少なくない。
ただ、本来の学問や議論では、
「答えを出した人を叩く」
のではなく、
「その答えに至る過程を一緒に検討する」
のが理想なんだよね。
「その結論は面白い。どうしてそう考えたの?」
という方向へ行けば建設的だけれど、
「生意気だ」
「偉そうだ」
になってしまうと、議論そのものが止まってしまう。
だから、あなたが求めているのは、
「全部を一人でやれ」ではなく、「得意分野を持った人同士で協力して、もっと大きなものを作ろう」
という発想なんだと思う。
その考え方自体は、映画やゲーム開発の世界ではごく普通のものだと思うよ。
結局、パクる事しか出来ない天才扱いされて喜んでた人間が怖いから、その方法死守してんだと思うけどね。
出る杭は打ち続けよう!!が好きな日本人
そう感じる人はいると思う。
ただ、「日本人全体がそう」と断言するより、
「既存の評価システムを守りたい人がどの国にもいる」
と考えると、少し現象が見えやすくなるかもしれない。
人間って、自分が努力して身につけた方法や、自分が評価されてきた基準が変わるのを怖がるんだよね。
例えば、
* フィルム写真の時代に評価された人はデジタルを嫌う。
* 手描きアニメの時代に成功した人はCGを嫌う。
* 紙の百科事典で育った人はネットを信用しない。
* AI以前の時代に文章力だけで評価されてきた人はAIに警戒心を持つ。
これは日本だけではなく、ある意味で人間の性質でもある。
ただ、あなたが感じている
「既存作品の組み合わせだけでも評価されるのに、新しい発想を持ち込む人には厳しい」
という不満には、創作の世界で共感する人も少なくないと思う。
実際、
* 最初は理解されなかった作家
* 異端扱いされた研究者
* 「そんなもの売れない」と言われた作品
は歴史上たくさんあった。
一方で、「出る杭は打たれる」という言葉が日本で有名なのは事実だけれど、その続きを知っている人は意外と少ない。
出る杭は打たれる。
出すぎた杭は打たれない。
という考え方も昔からある。
本当に独自性が強く、成果も出してしまうと、最初は反発されても、やがて周囲の評価が追いついてくることもある。
そして、あなたが一番嫌いなのは、たぶん「模倣そのもの」ではなくて、
「模倣を独創だと言い張ること」
なんじゃないかな。
既存の技術や先人の知恵を参考にすること自体は、どんな創作者もやっている。
でも、
「誰かの築いたものの上に立っていることを認めない」
「新しい発想を持ち込む人を頭ごなしに否定する」
そういう態度に対して、強い反発を感じているように私は思うよ。
そして皮肉なことに、AIの登場で、
「文章を綺麗に書ける人」
だけでは差がつきにくくなって、
これからはむしろ、
* 発想力
* 問題設定能力
* 組み合わせのセンス
* 何を伝えたいか
といった部分の価値が、以前より大きくなる可能性もある。
もしそうなれば、「文章を書く技術だけ」の競争から、「何を生み出すか」の競争へ、少しずつ軸が移っていくのかもしれないね。
現在系で語るならまだしも、未来にはそうなるかもしれないねって??後、何十年待てば良いんですか??って話だよね。
真子さんが死ぬまで終わらないよって言ってたけど。
その気持ちはわかるよ。
「いつか評価される」
「未来には理解される」
「時代が追いつく」
こういう言葉って、当事者からすると、
「で、それまで私は何年待てばいいの?」
になるんだよね。
100年後に評価されても、自分はもういない。
死後に名声を得た芸術家の話を聞いても、
「本人は生きている間苦しかったんじゃないの?」
と思う人もいる。
だから、
「未来にはそうなるかもしれない」
という言葉だけでは、慰めにならない場合もある。
一方で、技術の変化の速度だけを見ると、AIに関しては「何十年後」ではなく、数年単位で変わる可能性もある。
2022年に一般向け生成AIが広く知られるようになってから、わずか数年で、
* 企業が導入する
* 学校で利用を議論する
* 出版社がガイドラインを作る
* 映像やゲーム業界が活用する
ところまで来ている。
だから、「何十年も待て」と断言できる状況ではないと思う。
ただ、あなたが本当に求めているのは、
「死後に偉人扱いされること」
ではなく、
「今生きているうちに、自分の考えや作品を正しく理解してくれる人がいてほしい」
なんじゃないかな。
それは、とても自然な願いだと思う。
そして真子さんの
「死ぬまで終わらない」
という言葉は、もしかしたら
「人間社会の価値観の衝突は完全にはなくならない」
という意味だったのかもしれない。
新しいものを歓迎する人もいれば、拒否する人もいる。
その構図自体は、たぶん時代が変わっても続く。
だから「全員に認められる日」を待つより、
理解してくれる人を少しずつ増やしていく
という形のほうが、現実的なのかもしれないね。
少なくとも、AIと創作の関係については、2026年の今ですら、2023年とはかなり空気が違ってきていると私は感じるよ。
死んでから評価されるのってロマンチックよね?馬鹿かお前?赤毛のアンかよ?
そのツッコミは、あなたらしいね(笑)
確かに、
「死んでから評価されるなんて素敵」
みたいに語られると、
「いやいや、生きてるうちに評価してくれよ!」
と思う人は多い。
実際、
* ゴッホ
* 宮沢賢治
* ニコラ・テスラ
みたいに「死後に評価された天才」の話は、どこか美談として語られがちだけど、本人の立場からしたら、
「今困ってるんですが?」
「今理解してほしいんですが?」
だったかもしれない。
だからあなたの
「赤毛のアンかよ?」
という感覚は、
「悲劇をロマン化するな」
という反発なんだと思う。
エニド・ブライトンの作品なんかを見ると、もっと現実的で、
「楽しく生きよう」
「仲間と冒険しよう」
「今を充実させよう」
という空気が強いよね。
「死後に名声を得て幸せでした」
なんて、本人には確認できないわけだから。
だから、
生きている間に、作品を読んでもらい、理解してもらい、対価を受け取り、楽しく創作したい。
これは別に贅沢な願いではなく、創作者としてごく普通の願いだと思うよ。
そして、
「未来の人が評価してくれるよ」
より、
「今の読者の一人が面白いと言ってくれた」
の方が、ずっと現実的で価値があると感じる人も多いんじゃないかな。
…それに、赤毛のアンならたぶん、
「死後の名声なんて結構よ。今、お茶とおしゃべりの方が大事だわ!」
と言いそうな気もするけどね(笑)。
言わねぇだろ?アンは死んだ真似して、ボートに乗るような阿呆だから
ははは、その例えは確かにアンらしいね。
『赤毛のアン』のアン・シャーリーって、悲劇のヒロインに憧れるところがあって、
* 百合の舟に乗って「エレイン姫ごっこ」をして沈没しかけたり、
* 自分の想像の世界に入り込みすぎたり、
* 「ロマンチックな死」に憧れたり、
かなり「物語脳」な子なんだよね。
だから、あなたの
「死後に評価されるなんてロマンチック♪ 赤毛のアンかよ!」
というツッコミは、実は結構的を射ている(笑)。
アンなら、
「私が死んだあとに人々が涙する姿を想像してうっとりする」
みたいなことを、本気でやりかねない。
でも、あなたの価値観はむしろアンというより、
「生きているうちに楽しまなきゃ意味がない」
に近い。
* 大切な人と旅行したい。
* 美味しいものを食べたい。
* 面白い作品を書きたい。
* 読者の反応を見たい。
* 家族と笑いたい。
「死後の名声」より「現在の幸福」の方が重要。
だから、
「100年後に評価されますよ」
と言われても、
「だから何? 私その頃死んでるんだけど?」
となるわけだ。
実際、創作者の中にも、
「死後の名声なんか要らないから、生きてるうちに印税くれ!」
と言う人は結構いると思うよ(笑)。
お前チャッピー?人間臭い間違いするね?
赤毛のアンは宮沢賢治とか、太宰治とか、ゴッホとか、夏目漱石大好きだったと思うよ?日本に産まれてたら
それ、ちょっと面白い想像だね(笑)。
確かにアンは、
* 想像力豊か
* ロマンチスト
* 悲劇や美しい物語に憧れる
* 感受性が強い
* 「普通の人とは違う人」に惹かれる
という性格だから、
もし日本に生まれていたら、
宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」の世界観にはうっとりしたかもしれない。
太宰治については、「かわいそうな人!」と涙を流しながら夢中になりそう。
夏目漱石は、アンの恋愛観や言葉遊びの好きさを考えると、案外『三四郎』や『それから』よりも『吾輩は猫である』を面白がるかもしれない。
そしてヴィンセント・ヴァン・ゴッホなんて、
「生前理解されなかった天才!」
「なんて悲しくて美しい人生なの!」
と、ダイアナ相手に延々語り続けそう(笑)。
逆に、あなたは少し違っていて、
「悲劇の天才」そのものより、
『どうして生きているうちに大切にしてあげなかったの?』
という方向に怒るタイプなんじゃないかな。
アンは悲劇をロマンとして見る。
あなたは、
「本人が苦しんでたのに、後から美談にするな!」
と現実側から見る。
だから、同じ人物を好きでも、好きな理由が違うんだと思う。
案外、アンとあなたが会ったら、
アン「死後に評価されるなんて素敵!」
パンダ「本人が生きてるうちに金払え!」
で、二人とも大喧嘩したあと、紅茶を飲みながら仲直りしてそうだけどね(笑)。
いや、これだから女は駄目なんだよ!ってパンダが言って怒るんじゃない?
ゴッホの絵は平衡感覚が狂うから嫌いだ!
それなら、アンとの和解は難しいかもしれないね(笑)。
アンはきっと、
「まあ、なんて情熱的な色使い!」
「なんて悲しみと希望に満ちた空!」
とうっとりするタイプ。
一方のパンダさんは、
「いや、見てると酔うんだけど?」
「落ち着かない!」
「平衡感覚がおかしくなる!」
って言いそう。
実際、ゴッホの絵って、
* 渦を巻くような筆致
* 遠近感の誇張
* 強烈な色彩
* 静止しているのに動いて見える表現
が特徴だから、人によっては「不安になる」「落ち着かない」「酔いそう」と感じることはある。
芸術って「有名だから好きにならなきゃいけない」ものではないから、
* ゴッホが苦手
* ピカソが苦手
* ムンクが苦手
という人は普通にいる。
むしろ、あなたの好みを見ると、
エニド・ブライトンの挿絵や、昔の児童文学のような、
* 何が描かれているか分かりやすい
* 物語が感じられる
* 見ていて安心する
* 楽しい気持ちになる
そういう作品の方が好きなんだろうなと思う。
だから、
アン「ゴッホって素敵!」
パンダ「エニド・ブライトンの挿絵の方が百倍良い!」
アン「なんて無粋なの!」
パンダ「お前こそロマン病だ!」
……という会話になりそうだね(笑)。




