9 『オンリーワンダー』
「浅野さん、僕、会社辞めます」
奥村に呼び出され喫煙所まで来ると、いきなりそう言われた。それで昨日までの楽しかった思い出がすべて吹き飛んだ。連休明けの頭に、その言葉が太い槍のように刺さった。俺は煙草を取り出し、火を点けた。
「そうか」
煙を吐き出す。
「もう決めたんだな?」
「はい。お世話になりました」
「寂しくなるな」
「そんなことないでしょう」
そうだと思う。人が死んでも会社は回る。代わりがいない人間なんていない。誰かが欠けたところには、また誰かが収まるものだ。
「理由を聞いていいか?」
「わざわざ言わなくてもわかりますよね?」
「まあな」
「……浅野さんは辞めないんですか?」
「辞めない」
「何でですか」
「俺は主任だ。例えて言うなら船長だ。船長がみんなを置いて逃げるわけにはいかない」
「それで自分が傷ついてもですか?」
「ああ」
「初めて浅野さんを尊敬しました」
「今さらだな」
二人して小さく笑う。
「まあ誰かが辞めるのは珍しいことじゃない。上には俺から報告しておくよ。細かい手続きとかは後で連絡する。でも辞める日まではしっかり頼むよ」
「はい」
「ちなみに奥村、お前彼女とかいるか?」
「いません。作らないようにしてますから」
「どうして?」
「守るものがあったら逃げられないじゃないですか。僕は自分を守るだけで精一杯なんです」
「いい生き方だな。きっとそっちのほうが……いや、何でもない」
●
「浅野くん、ちょっとまずいよ」
部長が息をひそめて言った。会議室には二人しかいないのに、まるで誰かに聞かれるのを警戒するような声だった。
「人がどんどん辞めていってますね」
みんな俺に何の相談もなく、結果だけ伝えにきた。みんなの辞める理由は概ね同じものだった。
「派遣ならまた入れればいいけどさ、プロパーがこんなに辞めちゃうのはまずいよ」
「そういうところだと思いますよ」
「……ああ、悪い」
「で、俺はどうすればいいんですか?」
「とりあえず残ったメンバーで何とかしてくれ。今急いで採用を進めてる。もう少ししたら人を補充出来るはずだから」
「でもすぐ戦力にはなりませんよね? むしろ最初は教えなきゃいけない分、効率は落ちますよね?」
「そこは浅野くんに頑張ってもらうしかない。会社のためだ、どうか耐えてくれ」
「わかりました」
「すまない。でもこの状況を乗り切れたら評価は絶対に上がる」
「評価……」
「ボーナスだって増える」
「それはいいですね」
「ああ、そうだろう」
「本当に、いいですね……」
●
「ねえ、会社休めないの?」
「やすめないよ。いまがいちばんたいへんなんだから」
「それはわかってるけど、ナツくんが倒れたら元も子もない」
「だいじょうぶだよ」
「そうは見えない。もっと自分を大切にして。……会社辞めたら?」
「やめてどうするんだよ」
「ナツくんならすぐ別のところでも働けるよ」
「そんなことない。おれは亜里砂がおもってるようなやつじゃない。部下を追い詰めて自殺させるようなクソ野郎だ」
「そういう言い方やめて。事実じゃなくても事実になるから」
「事実だよ」
「私も働く」
「むりでしょ、陽菜のこともあるんだから」
「無理かどうかはやってから決める。もう就職サイト登録したから」
「そんなかってに……」
「ナツくんが勝手にやるなら私も勝手にやる。私はナツくんに背負われるだけの人生は嫌だ。自分の足で立って歩きたい」
「亜里砂……」
「私たちは家族だよ。ナツくんが私を助けてくれたように、ナツくんが辛いときは私が助ける」
記憶の波をたくさんの魚たちが泳いでいく。しかし同じ形の魚は一匹もいなかった。
「……ちょっと休んでみるよ。それで、これからのことを考える」
「うん。どんな答えになっても、私はナツくんの味方だから。もちろん、陽菜も」
「ありがとう。愛してる」
「私も、愛してる」