8 『どうにもこうにも』
人殺し、と声がした。
いや聞き違いだろう。何かの音をそう捉えてしまっただけだろう。俺は気にせず、上がってきた図面のチェックに戻る。しかしまたため息が漏れた。俺はたまらず奥村を呼んだ。
「何ですか?」
「奥村、この図面ちゃんとチェックしたのか」
「はい。しましたけど」
「じゃあ何でこんなにミスが多いんだよ」
「え? どこですか?」
奥村に赤ペンを入れた図面を見せる。奥村が作ったものではないが、チェックした印鑑を入れている以上、これは奥村の図面に等しい。
「ああ、直すよう月島さんに言っておきますね」
「いや言っておきますねじゃなくて、お前が気づかなきゃいけないだろ」
「すみません」
「……まあ、お前もよくやってくれてるよ。でも、もうちょっと気合い入れてくれよな」
うなずく奥村。しかし洲崎さんと同様に響いているようには見えない。奥村だけじゃない、他のメンバーも似たような反応をする。俺は本当にみんなの上司なんだろうか。
奥村を席に返すと喫煙所に駆け込んだ。誰もいない喫煙所で煙草に火を点ける。熱い煙が肺に満ちた。
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定時になったので派遣さんを帰らせる。そしてプロパーの勤怠時間を確定させる。こんなこと本当はしたくない。みんなを説得するのは大変だった。でも繁忙期を残業無しで乗り切るにはこれしかない。ほんの少しだけ耐えてほしい。会社のためにどうかお願いしますと頭を下げまくった。
毎日会社に泊まった。こんなこと新人の頃以来だった。あのときは修学旅行の夜を思い出してワクワクしたものだが、今そんな気持ちはもうない。ただ眠り、朝を迎え続けた。
そんな生活をしばらく続け、何とか納期を守ることが出来た。
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「ただいま」
「おかえり。お疲れ様」
「久しぶりに亜里砂の顔を見た気がする」
「大変だったね。お風呂入る?」
「うん、早く入りたい。そうだ、陽菜はもうお風呂入った?」
「まだだよ」
「じゃあ俺が入れるよ」
「いいの?」
「いいよ、たまには父親らしいことがしたい」
「わかった。じゃあお願い」
陽菜の顔を覗きこむ。目が合う。指を近づけると、ふわっと握ってくれた。「陽菜、パパと一緒にお風呂入ろうね」抱き上げ、連れて行く。陽菜は急な飛翔に気をよくしたのかキャッキャと笑った。
小さな風呂にぬるま湯を張り、陽菜を浸からせる。陽菜は気持ちよさそうだった。微笑んでくれたおかげで疲れが吹き飛んだ。
家族三人で囲む食卓も久しぶりだった。
「明日休みなの?」
「そう。ついでに次の日も、その次の日も休み」
「すごいね」
「有給溜まってるから、こういうときに使わないと」
「頑張ったご褒美だね」
「明日どこか行かない?」
「いいけど、家でゆっくりしてていいんだよ?」
「いいんだ、亜里砂たちとお出かけしたい」
「ありがとう。じゃあナツくんの実家に行かない?」
「俺の?」
「ナツくんと陽菜の顔を見せに行こうよ」
「陽菜のはともかく俺の顔なんて見せてもしょうがないでしょ」
「親はいつまで経っても子どもの顔を見たいものだよ」
「そうなのかな。……うん、たまには親孝行するのもいいかも」
夜は心地よく眠れた。目を覚ましたとき、それが勘違いじゃなかったと確信出来た。鳥のさえずりが聴こえた。カーテンをそっと開けると真っ白な光が飛びこんできた。