2 『Happiness』
世界は五分前に作られたという思考実験があるが、まさにそんな実験のなかにいるような気持ちだった。これまでの人生はすべて作り物で、いま会社にいる自分がいきなり現れたのではないかと思った。もちろんそれを人に話したりはしない。そんな話を人にしたら距離を取られるだけだろう。自分やみんなの予定表を見つめながら、裏ではそんなことを考えている。今日も明日も図面のチェックや他部署との打ち合わせやらで予定がびっしり埋まっている。
キーボードを叩く音やマウスをクリックする音、デザインレビューをする声、オンラインで打ち合わせをする声──みんな忙しなく働いている。みんな、それぞれ与えられた役割を大なり小なりこなしている。やりたくてやっている人もいるだろうし、やりたくないけど生きるため仕方なくやっている人もいるだろう。どちらにせよ、他人からはわからない。
よく社会の歯車という言葉はネガティブな文脈で使われる。得てしてそんなものにはなりたくないという熱い想いとともに語られる。しかし社会に出てある程度経つと、それは言うほど悪い言葉じゃないと思えてくる。この世界と自動車は似ている。自動車は何千、いや何万という部品で構成されている。その一つ一つに担当者がいて、日夜設計、開発が進められている。誰にも見えないような細かい部品にも、必ず役割がある。多くの人が知らないだけで、ちゃんとその部品がいる意味がある。自動車業界に入って、それがよくわかった。
自分が大きな存在の一部でいられることに安心感を覚える。社会の歯車、上等だ。歯車にすらなれないよりはよっぽどいい。
自分のことだけ考えていてはいけない。自分が作りたい形や置きたい場所を決めるには周辺の部品との折衝が不可欠だ。自分が何をしたいのか表明し、相手が何をしたいのか確認する必要がある。
そして世界が一人で回っていないように、仕事も一人では回っていかない。大勢の人の力によって仕事は成り立っている。それを管理するのも、また誰かがやらなければいけない。自分のことだけ考えていればいい時代は終わった。俺はいつの間にか色々なものを背負ってしまった。それを重荷に感じているから眠るように死んで解放されたいと思うのだろう、と理由を見出してみる。いかにもありがちで、万人が納得する理由だ。誰に相談してもきっとそうだろうと言われるに違いない。
そこで、七瀬だけは俺をそんな風に解釈しないだろうと思った。七瀬なら俺のこの気持ちにみんなとは違った解釈を与えてくれるだろう。だが七瀬にこの気持ちを打ち明けることは決してないだろう。
一つ一つ仕事を処理していく。後輩や派遣さんからの相談、上がってきた図面の確認、上司への進捗報告、周辺部署への資料作成──それらが大きな滝のように、静かに、しかし激しく進行していった。気づくといつものように窓の外が暗くなっていた。オフィスを出た。星が瞬いた、と思ったらそれは飛行機だった。
●
「ただいま」
「おかえり」
「まだ起きてたんだ。寝てていいのに」
「ナツくんが遅くまで頑張ってるのに寝られるわけないよ」
「気にしないでいいのに。俺が無能なせいなんだから」
「そんなことない。ナツくんはよくやってるよ。人に上に立つって誰でも出来ることじゃないよ」
「そうかな」
「何も食べてないでしょ? すぐ温めるね。あ、お風呂のが先?」
「風呂にするよ」
「わかった。今日は餃子と回鍋肉。餃子は手作り」
「やった。亜里砂の餃子美味いんだよなあ」
「ありがと。調子に乗って作りすぎちゃったからいっぱいあるよ」
「楽しみだ。……陽菜は?」
「寝てる」
「だよね」
「今日も静かだった。相変わらず泣かない子だよ」
「少しくらい泣いてくれてもいいのにね」
「ね。子育ては大変ってみんな言うけど、これじゃ全然大変じゃないよ」
「まあ辛いよりはいいよね。バスタオルある?」
「そっちない? あ、こっちにあった。はい」
「ありがとう」
「背中、流してあげよっか」
「どうしたの急に」
「別に何でもないけど」
「いいよ、亜里砂も疲れてるだろ」
「ううん。むしろ元気すぎるくらい。それくらいさせてよ」
「じゃあお言葉に甘えて」
「同棲してたときを思い出すね」
「あの頃はまだ若かった」
「まだ若いでしょうが」
「会社の若い子たち見てるとそうは思えないよ。若い子たちが何を話してるのか全然わからないし」
「別の星の生き物だと思ったほうがいいかもね」
「しかも上は上でまた言ってることわけわかんないし。何でおじさんたちはあんなに残業が好きなんだ」
「家に居場所がないからでしょ」
「言うねえ」
「それ以外に考えられないよ。付き合わされる若い人たちが可哀想」
「そんな上司にだけはなりたくないな」
「ナツくんはならないよ」
「そうかなあ」
「うん、絶対ならない」
「ああ、そこ気持ちいい」
「でしょ。はい、終わり。シャンプーもしてあげよっか?」
「それはさすがに自分でやるよ」
「あはは。じゃあゆっくり浸かってね。餃子、温めておくから」
湯船に沈んでいく。へりを両手で支えていないとそのままどこまでも沈んでいきそうだった。少量の水があれば人は溺死出来る。そう考えるとただの風呂が殺意の塊のように思えた。海やプールでは毎年何人もの人が亡くなっている。
俺は今、死に浸かっているのだ。
温かいのに体が震えている。この寒気はどこから来ているのだろう。追い炊きをするも熱くなっていくお湯とは真逆に、体はどんどん凍えていく。湯船から出られない。出たらもっと寒くなってしまうかもしれない。風呂から出たら餃子と回鍋肉が待っている。それをビールで流し込むことに一片の迷いもない、はずなのに、俺は亜里砂が作ってくれた夕飯を、心から食べたいとは思っていない。
なんて罪深いのだろう。なんて罰当たりなのだろう。自分が人間とは思えない。だがいつまでもこうしているわけにはいかない。俺は長風呂はしない。俺は生まれて初めて立ち上がるようにして湯船から這い出た。
俺は美味いと言いながら餃子と回鍋肉をかきこんだ。しかしそれが本心から出た言葉とは思えなかった。
食事を終えるとパソコンを開いた。メールボックスには大量のスパムメールが並んでいる。毎日毎日飽きもせずよく送ってくるものだ。一つ一つは大したことなくても、積み重なるとタイトルを見る気すらしなくなってくる。するとスパムメールのなかに七瀬からのメールを発見した。
七瀬のメールはいつも明快だ。『頼んだ』の一言とともにワードファイルが貼りつけてあるだけだ。律儀に、執念深く、機械的に、あるいは情熱的に、七瀬は俺にメールを送ってくる。馬鹿だと思う。いい年こいてまだ夢を諦めていないなんて。いい加減諦めろよ。何度も壁にぶつかって、そのたびに打ちのめされているくせに、どうしてまた立ち上がるのか。痛みを感じないのか。何がお前をそこまで動かしているんだ。お前は俺に何を求めているんだ。頼まれても応えられない。俺にはもう何もないんだよ。いつまでも昔みたいにはいられない。それがわからないほど七瀬はまだ子どものままなのか。いい大人ならちゃんとした職に就いて、家族を養い、現実を受け入れていかなければいけない。どうしてそれらをすべて放棄して、自分のしたいことだけ出来るのだろう。俺はパソコンを閉じると寝室に向かった。
「どうしたの?」
「何が?」
「いや、何か嬉しそうだから」
「嬉しそう?」
悲しそうの間違いじゃないのか。取り外された亜里砂の右足がベッドの脇にあった。
「ああ、友達からメールが来ててさ。だからかもしれない」
「七瀬さん?」
「そう」
「中学からの付き合いなんだっけ?」
「うん、高校や大学は違ったんだけど、でもずっと友達なんだ」
「何かいいなそういうの。私は引っ越しが多かったから」
「俺も多かったよ。でもどこへ引っ越しても七瀬とだけは関係が切れなかったな」
「それ、親友っていうんだよ」
「やめてよ、恥ずかしい」
「恥ずかしくないよ、素敵なことだよ」
「そうかな」
「ねえ、いつか七瀬さんに会わせてよ」
「何で?」
「だってナツくんのことを一番知ってる人なんでしょ? 私が知らないナツくんの話、聞きたい」
「それは本当に恥ずかしいな」
「何をしてる人なの?」
「何もしてないよ。いい年こいて、まだぶらぶらしてる」
「へえ、変わった人だね」
「そう。めちゃくちゃ変わった奴なんだ」
七瀬以上に変わった奴に会ったことがない。ちょっと変わった奴とか変わった奴になろうとして滑っている奴は何人もいたが、ただ変わっている奴は七瀬しかいなかった。
「陽菜、起きないね」
「これだけ喋ってるのにね」
「眠り姫だ」
「ほっぺ柔らかい」
「もちもちしてる」
「お餅食べたくない?」
「食べたい」
「じゃあ明日はお雑煮にするね」
「夏なのに」
「夏に食べちゃいけない理由はないでしょ?」
「確かに」
「おやすみ」
「おやすみ」