<7>
<7>
エヴァンジェリン・ストーンマン・オーデカークの生活は華やかな世界に彩られた、上流のものであった。教会求める清貧と言える世界とは雲泥の差で、無駄の極致である世界は、大量の資産によって形成された贅の姿そのものであった。
6歳までは豪華な家を持つ大富豪の娘として生活をしていた。大恐慌のあおりを受ける直前で、造船業としてもかなり名の売れた家であった事から、使用人の数も桝で量るほどいた。食事を作る人、掃除をする人、車を用意する人、ペットの管理をする人、庭の手入れをする人。
多くの従業員は19世紀のイギリスを彷彿とさせるほどの奴隷っぷりで、『使用人』とひとくくりに差別され、表舞台には姿を現す事は無い。
しかし、フットマンを初めとするボディーガードや、執事、侍従としてのハウスキーパー――特に若い女性はしばしば姿を見せる事があった。エヴァンジェリンの付き人として4歳年上の黒人の娘、スーザンがいた。
差別意識の強い上流階級の世界では、肌の色の所為で酷い仕打ちを受ける事はしばしばであったため、かなり小心者で、幼少期のエヴァンジェリンにもびくびくしているほどだった。エヴァンジェリンの家では家長による叱責や殴打のような酷い事はなかったももの、多くの噂を聞いていた。
先入観が強いタイプらしく、使用人の間では”家長の裏の顔”を恐れて静かに噂話に興じていた。エヴァンジェリンが家庭教師に教えを乞うている時間だけは、付き人としての仕事からお開放があったためか、よく手入れされた英国風の庭園にあるベンチに腰を下ろして蝶と話しをしたり、蜜蜂を池から助けたりと自然に触れ合う時間を多く過ごしていた。
自然の中では、スーザンを咎める者はいない。虐める者も、恐怖を与える存在もほぼ皆無だ。だからスーザンは世界にだけ心を許し、たった十歳――エヴァンジェリンの六つも上であったにもかかわらず、口数は最低限の挨拶だけだった。
エヴァンジェリンは、スーザンの事を気に入っていた。大人ばかりの屋敷の中で、年上とはいえ、まだ幼いスーザンはエヴァンジェリンにとっていい『お姉さん』に思えたし、幽閉されている様な窮屈な屋敷の生活の中では、自由に誰かに縛られる事の無い時間を過ごせるスーザンを羨ましく思えていた。嫉妬心ではなく、エヴァンジェリンがそう成りたいと思える女性であった。
しかし、スーザンは読み書きが不得手であった。スラム街の生活という訳では無く、ちゃんとした親の下の生活ではあっただろうが、子供が多い家庭によくある、放任主義の価値観によって、学校に行く事は出来なかったと言っていた。むしろ、金を稼ぐためにゴミを漁ったり、靴を磨いたり、悪ガキたちと窃盗をして生活をしていた。
天機になったのは、スーザンの両親が娘を売り払う事で、メロ家の借款の一部を返済したいという申し出をおこなった事だろう。スーザンにとっても良家での仕事は魅力的であったし、両親にとっても食い扶持を減らせるのは喜ばしい事だったのだろう。もう少し年齢が進み、スーザンが体を売ってマフィアの情婦として成功するよりも夢のある話ではあった。
エヴァンジェリンは、スーザンの学が自分以下である事は分かっていた。言葉の種類が少ない事や、酷いスラングも気になっていた。それ以上に、スーザンが自分の姉として色々教えて欲しいと思っていたエヴァンジェリンは、ギブアンドテイクとして、無理やり自分の勉強の時間に同席をさせ、一緒に授業を受けさせるようになった。
最初はスーザンも嫌がっていた。自由の時間を奪われ、スパルタ式の教育は窮屈かつ苛立ちやすい時間ではあった。しかし、一冊の本を読める程になると、状況は一変する。手にしたのはジャズ・エイジの代表作であるF・スコット・フィッツジェラルドの一冊だ。
『華麗な』点はなくても、スーザンもデイジーの様な情熱的な恋愛を求めたり、危険をはらんだ男たちの自由奔放さに惹かれていたのは事実で、作中における人物像を自分の姿を投影して、いつか『王子様がやってくる』と夢見ていた。
程なくしてスーザンとエヴァンジェリンの仲は良くなった。いくつも父の書斎から盗み出すエヴァンジェリンにスーザンは感謝をしていたし、同時に多くの”感情”を表現できる様になった事や、感覚的に捉えていた感触を言語化しコミュニケーションできる喜びをエヴァンジェリンと共有していた。
スーザンは、エヴァンジェリンの両親がハラハラする様な木登りや、水遊びを好む様になった。庭の中に留まらず、近くの小川で泳いでずぶ濡れになってだらしのない恰好で帰ってきた時には、母親は卒倒しかけたほどだ。
元々大人しかった性格のエヴァンジェリンが活発になった事に父親は喜びを表にし、対照的母親ははしたないと苦言を呈した。エヴァンジェリンとスーザンは姉妹の様に振舞っていたから、母親の懸念はさらに深刻なものになった。
スーザンはエヴァンジェリンを使用人の部屋に招き入れて、一緒のベッドで寝た事があった。使用人の長であった、老婆のヴィクトリアは最初目を丸くしたが、仲睦まじい二人の姿を見て、何か問題が起きる事は無いだろうと黙認していた。
スーザンだって、大事な”妹”に問題が起きるとは思わない。普段自分たちが生活している場所であったし、部屋には質素ながら鍵はかかった。スーザンの部屋は二人部屋であったが、使用人の一人が仕事の関係でエヴァンジェリンの父親と外遊していたから、実質一人部屋であった。
何度かそういった秘密の会合を持っていた二人に表だって問題はなかった。しかし、エヴァンジェリンの母親の耳に入ると状況は一変した。スーザンが、未婚のしかも幼いエヴァンジェリンを男性とも近い空間に晒した事に母親は激怒し、翌日にはスーザンは解雇した。
父親にすら相談なく、独断でヴィクトリアに命じてすべての荷物をフットマンの一人にたたきださせたのだ。その時のスーザンの表情がどうであったか、ヴィクトリアは最後に会った時にもエヴァンジェリンには教えてくれなかった。
エヴァンジェリンがその事を知ったのは、スーザンが止めて1か月がたったころだった。病気のために会えなくなったという嘘まで使用人間で徹底させる程。母親はスーザンの事を隠匿し、エヴァンジェリンが『素直な子』に戻る様に言い聞かせ続けた。
父親が帰り、事の次第が明らかになった時、エヴァンジェリンは初めて母親に対して怒りをあらわにした。激怒し、その怒りで空気が二度ほど低くなる程だった。大きな声を上げる、何かを壊すなどという幼稚な抵抗ではなく、あまりにも激怒しすぎて笑顔以外見せなかった。
その怒りはエヴァンジェリンを衝動的に突き動かすには十分すぎる物だった。
家から一番近い教会に行って、朝から晩まで祈りを捧げるという抵抗を1か月続けた。最初は気の済むままにさせようと両親共に使用人を付けて監視だけさせていたが、微動だにせず祈りを捧げる彼女の姿を見て、使用人が何かおかしいと感じたのがきっかけだった。何を祈っているのか、喪に服している様な"黒い"服装で毎日、毎日、家庭教師も断ってただ祈り続けるのだ。豪華の服を買って与えても笑顔で「可愛いですのね」と肯定はするものの、いつも着るのは質素なワンピースだけだった。母親がそれを禁止させるために、使用人に洗濯させない様に言い伝えると、自分でスーザンから教わった手順で、綺麗に洗濯してピンと張ったロープに干していた。
黒い革靴も自分で手入れし使用人の仕事をどんどんエヴァンジェリン自身が行い、仕事を奪っていった。当然、使用人の手が余る様になると、彼らは自分の首がきられるのではないかと、おろおろさせる程だった。
昔はスーザンに梳いてもらい、赤や黄色のリボンをつけていたのに、髪に飾りを一切つけなくなった。鼈甲の東洋の櫛もずっとクローゼットの小物入れに大事にしまわれた。髪がぼさぼさになるという事は無かったが、それでも飾り気は一切なくなった。
昔はキラキラと輝く宝石の類も目を輝かせていただから、母親が自分の所蔵する一番”小さい”指輪やネックレスを与えても、一切身に着けなかった。父親がスーザンを付き人にさせた時に、記念に買い与えた、鳥の羽を模した銀のネックレスも付けなくなった。
彼女の中で突発的に、価値観が変わったという事はなかった。本当は綺麗に着飾り、自慢の長い金色の髪をつやつやに梳かして、同年代の子供達の用にフリルのついたドレスを着たいという欲求はあった。太陽の光を浴びてキラキラと輝く宝石の類にだって負けない笑顔でもって身に着けた身を引き締めて、『お嬢様』として誰よりも高くから自慢してやりたい、と思う事もあった。
しかし、近しい姉という存在――スーザンが居なくなったという事が彼女の中で猛烈な悲しみを伴っていた。生き別れたというよりは、目の前で祖母が亡くなった時と同じ程の虚しさと寂寥感が支配していた。
ぽっかりと開いた胸の中に充填された感情は、全て怒りに繋げられ、最終的に家族に向けた不快感に集約され、それを鎮めるためだけにただ祈りを捧げる。
当然理解をしているのだ。自分の未熟さも、自分の力の無さも。肉親だと思ってても思い通りにならないと力でねじ伏せる『上流階級』の性格も。
ステンドグラスから降り注ぐ光は、幾つもの光跡をのこし、静寂に満たされた教会の中を満たしていた。夜空の星々の様に大小の光を放つガラスは、色とりどりに世界を満たしていた。静寂に似つかわしくない赤色であれ、心身に安息をもたらせる翠であれ、驚嘆と畏怖に起因する信仰心を高めるための仕掛けに過ぎない。
だといのに、エヴァンジェリンが視界の端でとらえる世界というのは、狭く、とても冷たく感じた。
触れる事のできない光は温かみを持っているわけでもない。言葉を介してコミュニケーションを取れるものでもなかった。現象として”そうであるから”存在するだけの《存在》に、エヴァンジェリンの心は次第に傾倒していった。
両親の、とりわけ母親の礼を失した様な対応に対する憤怒は、人に対する不信感を育成するには十分なものだった。一言、謝罪が『彼女』にあれば、エヴァンジェリンの心にある氷は融解したし、グランドキャニオンの様な家族の亀裂は産まれなかったはずだった。
幾度目かの祈りの中で、自然への回帰を求め、人の薄汚いしがらみから逃れようとする、わずか7歳の子供の耳には、確かにステンドグラスの光の様に、天から降り注ぐ”無数”の声を聴いたのだ。
目を覚ましたエヴァンジェリンの枕の隣に、小さい黒い物体がもぞもぞと動くのに気づいた。寝ぼけた眼をしぱしぱと瞬かせて、眼前の物体が何であるかと思案を巡らすが、之といって思い当たる物が無かった。
熊のぬいぐるみを卒業したのは教会に身を置いてすぐの事であったから、もう十分の時間が立っていた。誰かと一緒のベッドに入るという事も――マイケルの件は別として――あり得ない。そもそも、そういう間柄の男性がいる訳でもなかった。
手を伸ばそうとして、左腕を伸ばしたが、肘より先がない事に気づいて、すごすごと止めた。きっと、世の男性が見れば、『あぁ』と残念な嘆息を漏らすだろう。傷ついた少女を見初めるもの好きは、エヴァンジェリンの記憶の中ではいなかった。
きっとフランケンシュタイン、あるいは現代のプロメテウスに出てくるヴィクターの様な一時的な狂気に取りつかれた怪物の創造主くらいなものだろう、とは分かっていた。当時における美は当然『セクシャル』に結びつけるものであるのは確かだったから、完全体から欠落した体を見て、エヴァンジェリン自身も意気消沈するものであった。
しかたない、と小さくため息をつき、いまだ起き切らない頭に喝をいれながら、もぞもぞとブランケットを動かしながら体を半身動かした。天井を見る様な形になたったが、右手が使えることを確認すると、黒い物体に手を伸ばした。
毛並みに沿って手をそらすとすべすべとした感触ではあったが、逆側に向かえば高級な毛皮の様にふさふさとしてとても心地良かった。高い温度は触れている指先から、低めの体温であるエヴァンジェリンの体をゆっくりと温めていく。黒い物体は、嫌だというような素振りも見せず、されるがままに彼女の指の動きを受け入れていた。
黒い物体の耳に差し掛かった時、マイケルの横に控えていた犬だ、ということをエヴァンジェリンは思い出した。それ程体長が大きなものではなく、クッションと同程度の大きさで枕にするには少し小さい。二歳になるかどうか、というところではあるが、成犬の一歩手前という感じは真っ黒な濡れた鼻と、眠そうな瞳からは想像できない程に幼く見えた。
全身が真っ黒かというとそうではなく、茶色の色も微かに混じっている。特に尻尾の色はマーブル状で、体の黒さと比較すると輪郭も分かる。
黒と茶が混じったしなやかな尻尾が振るわれた。ぺたん、と彼女の手に当たり、すぐさま引き戻される。二度、三度、何度となく動く尻尾の攻撃にエヴァンジェリンはくすぐったそうに身悶えして、クスクスと笑った。
「起きてるかい?」声は扉の奥から響いた。中年の女性の声に聞き覚えはあった。トラビスの孤児院の中でもエヴァンジェリンが良く耳にする声だ。安心感はあるが、応じる言葉をどの様にしようかと思案し、結局月並みの「はい」とはっきりと返答した。
ボロボロの木製の扉は立て付けが悪く、ぎぃっという耳障りな軋みをたてて開いた。画鋲で留められたカレンダーらしき物体――正確にはカレンダーの向日葵の写真の部分だけ切り抜いたポスターの様な物――が開くと同時に左右に大きく揺れた。
人一人分の隙間だけ作られると、アニー・ニール・フォックスひょっこりと大きな顔だけ覗かせた。中年の女性でふくよかな体形をしていて、見える範囲でも首の太さ、腕の頑丈さなどから、エヴァンジェリンの4、5倍の大きさはあるのが分かった。
厨房で見かける時は、大きな肉と格闘していても遜色ない程がっちりとした体だ。未だにガスコンロに出来ない質素な孤児院の厨房は薪を使用するのが一般的だ。薪を木材屋から買い付けるなんていう事もない。敷地内にある木を順繰りに成長させ、要らない枝を落とし、太い木で間伐が必要なものを自ら利用するのだから、太い手足はより一層たくましくなっている。
そのことをスティーヴに指摘されると、アニーは青筋を立てながら笑顔を見せて、「代わりにどっかのひょろい神父が料理を作ってくれるというのなら別なんだがねぇ」と皮肉を言うやり取りをエヴァンジェリンは此処に来て何度も見ていた。
「起きる手伝いが必要かい? ……体は起こせそうだねぇ。準備の手伝いも……大丈夫そうとなれば、早く食堂においで。子供たちが食事を終わらせたから、うるさい事もないだろうさ」
にかっと笑うと、ちょっと茶色の歯が見えた。煙草が流行っているから、そのせいだという事は知っていた。エプロンのポケットからラッキーストライクの文字が入った箱が見えた。紙製の箱は彼女の行う炊事によってところどころシミをつくり、湿気ている様にすら思えた。アニーはおおらかな女性であるから、そういった些細な事は気にしないのだろう、とエヴァンジェリンは理解していた。
煙草なんて吸った事もなかったから、トラビスや、アニーが吸うのを見て、『空気を吸いこむだけなのに、なんで煙にする必要があるんだろう』と不思議に思っていた。煙にする事で、例えばスモークチーズの様に空気もおいしくなるのだろうか、とすら思えていたが、マイケルが「臭くて嫌なだけだ」と煙たそうにしているのを見ていると、万人受けする物ではないらしい。
微かに風に乗って鼻にやってくるツーンとした刺激臭を感じると、エヴァンジェリンもあまり好きには鳴れそうも無かった。とりあえず、エヴァンジェリンは定例的な挨拶をするアニーに礼を言って体を起こす。
「今日は良い天気ですね」とたんぽぽの様に微笑んだ。アニーは元気そうなエヴァンジェリンの表情を見ると、うん、と一つ頷いた。「ほんとにね。……少し体を動かすんなら、オデッドにでもついてもらいなよ? あの子はあまりしゃべらないけど、あんたの事を悪くはおもってやいないさ」
オデッットの舌ったらずな言葉を思い出すと、しっかりと教育を受けさせられたエヴァンジェリンには色々指摘したい、という気持ちが芽生えてしまう。そんな事を大っぴらにもできないため、気持ちを隠して、「そうなんですか? 直接聞いたことはありませんので、分かりませんでしたわ」顎に人差し指を乗せて小さく首を傾げた。
嘘は上手である。笑顔も得意である。エヴァンジェリンが実家を出て、教会に身に置いて培った知識と技術は何も教義に関わる事だけに留まらない。いかに人をその気にさせるかという話術などが、教会が教会の権威を確保しうる本質的な『詐称技術』だという風にエヴァンジェリンは考えていた。
エヴァンジェリンは神を否定しない。教義の中における神は否定している。しかし、神というものが別に存在するという事を彼女は、経験として知っていた。
背後から当たる太陽の光に、透き通る様な金色の髪が反射して、きらきらと輝いていた。その背後からはゆっくりと、窓の隙間風を受けて靡く『翼』があった。差し込む陽射しを浴びて、純白の翼は気持ちよさそうに一つはばたかせた。すぐさま、人の目には映らない様に『仕舞い込む』が、アニーの目にはしっかりと認識できた様だ。
「あんたは、ほんとお人形さんみたいだねぇ」と感慨深くアニーはうんうんと首を動かした。翼の事を見ても反応は薄い。教会に属する孤児院であれば、翼を持つ者は珍しくはないのだろう。
しかし、すぐにアニーは曇った表情になり、「それだっていうのに、……そんな傷になっちまって……。もう少しあいつらが早ければよかったのにねぇ」ふぅ、とため息をついて見せた。
エヴァンジェリンはわたわたと手を振って否定した。「そんなことありませんわ。生きているという事だけでも奇跡の様なものなのですから。手は――慣れるしかありませんもの」虚勢を張って掲げて見せる。逆効果なのか、アニーはますます暗い表情を浮かべた。
「それに足だってねぇ」自分の事の様にしょげた表情をしてアニーは肩を落とした。すぐに、「でも、」と顔を上げて笑いエヴァンジェリンに悲しそうな笑みを浮かべた。「うちの食事を食べて、ちゃんと養生するんだよ。すぐに走り回れるようになるってもんさ」気持ちは伝わる。エヴァンジェリンの使う嘘とは違い、アニーの言葉は彼女の本心が直球でやってくる。こういった相手をエヴァンジェリンは気持ちよく思っていた。「……ええ、そうですわね」前向きなアニーの言葉につられる様に心からの笑みを浮かべてエヴァンジェリンは頷いた。
ベッドの縁に座っていたエヴァンジェリンの横から黒い毛むくじゃらがもぞもぞと動き出した。大きなあくびをクァとすると入口から首だけ覗かせているアニーに挨拶をするように、大きな口を一度開けた。
「なんだい、ヴィッキー、そんなところに入り込んで。……マイケルとは違って、随分とストレートに別嬪さんに擦り寄っていくじゃないかい」呆れたように、アニーは扉を全開にして、ベッドの脇までやってきた。何度も洗って茶色くなったシミの浮いた花の刺繍の入ったエプロンの腰辺りにあるポケットから、大きな手を取り出す。
すぐさまむんず、と毛むくじゃらのヴィッキーを掴み取ると食材の様に胸元近くまで引き寄せた。一見すると、そのまま口に入れられそうな恐ろしい絵ずらではあったが、アニーにそういった猟奇的な趣味は無い事を知っていたから、目をぱちぱちと瞬かせてアニーを見つめるヴィッキーをククッと小さくエヴァンジェリンは笑った。ビーグルという種類だとマイケルから聞いていたエヴァンジェリンだったが、元々犬を飼っていた事はないので種類は良く分からなかった。ただ、人懐っこく、よく躾けがされているという印象だった。
「普段は大体小屋にいるか、マイケルの部屋にいるか、教室の机の下で寝ているだけだっていうのに……。呆れたもんだよ、やっぱりお前もオスってわけかい。エヴァがきた途端にべったりじゃないか。……ほら、あんたも飯くうんだろう?」黒いテカテカとしたヴィッキーの鼻にアニーの鼻を突き合わせ尋ねた。ヴィッキーは眠そうに再びあくびをした。
小型犬と思われる大きさではあるが、いまだ成長段階。活発さを表したように、アニーの手につかまれつつも足をばたばたと動かして、アニーの顔をべたべたと触った。「こら、爪をたてたら承知しないからね? ほら、お嬢ちゃんが着替えるんだ。さっさと出ていくよ」と強く言うと、分かったという様に再び「クァア」と三度あくびをした。
エヴァンジェリンはその様子を見ながら興味深そうに目を丸くした。「あぁいうケモノもいいものですわね」そよ風の様な彼女の言葉はアニーには届かないで霧散した。