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マンハッタン区にあるグレース教会の一室は、外観の荘厳さに合わせて十分にゴシック調を保った物だった。かつてマシューが結婚と埋葬を讃える言葉を残している程権威のある教会であり、ニューヨークでは最も人気のある教会だ。
人気があり多くの人が出入りするとは言っても、あくまでも教会であるから、やためったら酒を飲み大声を上げる様な罰当たりな若者や、難癖をつけるだけの偏屈な老人のたまり場になる事はない。
トラビスだって、普通の神父という立場であれば、心洗われるステンドグラスを見ながら自らの信心について禅の如き問いかけをし、自己の研鑽に努めたいと思える場所だった。だから、こんな汚れ仕事はさっさと終わらせてしまいとは思っていても、そう組織の上が考えている訳では無い。
こういった綺麗なところには綺麗な人が配置されるのが通例だ。心の綺麗さだけで全てが決まる訳でもない。「それで、キーガンというのは一体どういう存在なんでしょうか?」トラビスの前に座している男は優男だ。当然に様に教会の調度品に溶け込み、彼がいる場所に清浄なる空気を『生み出して』いる様に感じさせるそういった男だ。
金色の刺繍が入った白い手袋を付けた、清潔そうな表情の神父服に身を包んだ男性だった。濃紺の神父服には、埃の一つも見えず、ゴミすらついていない。金持ちを象徴する様な華美な宝飾の類はないものの、極限までに高められた統一感は、規則正しい古代の文様の様だった。
天を貫くほどに到達した一体感が、その男から只ならぬ雰囲気を四方八方に放っていた。オーラという物が存在するのであれば、部屋全体を包み込む様な仰々しさを強要する圧力を持っている事だろう。それだけ目立つという事は、隠し事がしにくい相手でもあるのだが。
しかし、トラビスはオーラなんて見えないので、いつも通り部屋の隅にちょこんと用意されている来客用のテーブルに置かれたコーヒーに、遠慮なく砂糖を2杯突っ込んだ。わざとらしく音を立ててかき混ぜながら、眼前の男に半眼になった視線を向けた。
「その、畏まった演技は不要ですよ。むしろ気持ちが悪いというもで、君がそんな態度をとるのは二つ。一つは何かを借りるとき。もう一つは、前日に良い夜を過ごしたとき。前者は、この間に債務が焦げ付いた時、ちょっとお手伝いしましたから、私にはもう頭を下げる事はできないので、『無い』と考えるのが筋。とすると、……金がないのにもまた女を呼んだ、というのが正しいのかな?」コーヒーを飲むと、責める様な視線をキッと向けた。
違うよ、とアーチー・J・ミラーは微笑んだ。その微笑みすら気持ち悪がり、トラビスは頬をひきつらせた。「クラーク司教直々の御命令でね。今回の件に、《呼ばれた者》が絡んでいるだろう、という事までは情報収集で分かっているですよ。だから、少しでも現地を見たトラビス神父からのお話を仕入れてほしいというご要望でね」それに、とアーチ―は金色の前髪をさらりと耳元へ流し直し、「同時に、被害にあった子についての処遇についても伝えたくてね」厭らしい笑みを浮かべて、くく、と喉を鳴らした。
「耳ざといというか、……情報が早すぎる。昨日の今日でどこから情報が流れたのか分からないですが……」トラビスは困惑しながら、丹精な顔立ちのアーチ―を訝し気に見た。疑いの目を向けるなら自分の所属している組織である事は分かっていた。
教会というところは例え孤児院であっても人の出入りは多い。手伝いで来てくれている従業員はそれなりにいるし、食材の搬入や、機材の修理業者、調度品の清掃事業者や、水道管の修理などの出入りもしばしばある。
特に疑うのであれば子供達だろう。街の悪ガキたちと日が暮れても遊んでいる。口の軽い彼らのことだから、悪ガキたちの親が配るお菓子ほしさに、ホイホイとゴシップ記事のネタになる様な情報は何でもしゃべる事はわかっていた。
それでもここまで筒抜けだと頭が痛くなった。トラビスは、しかたないと割り切って未来に自分に情報管理の徹底を期待した。それがいつも棚上げされて結局のところメアリー一人すら制御できていない事実を突きつけられると、渋面になるが。
「彼女の事を、」トラビスはコーヒーを口に一つ含み喉を潤した。強烈なコーヒーの香りは、砂糖だけの甘味を存分に伴い、刺激的に舌の上で踊った。熱さを逃がすために一息呼吸し、いつも通りの落ち着きを取り戻す。
「どこまで君がつかんでいるかは分からないですが、キーガンが捕食していた、という事から推測して同様に《呼ばれた者》だと、私は思っているところです。邪推というわけでもなくてね。……・そもそも、今回の件はカミラを追っていた副産物でしかないんですよ」
アーチーは、むむ、と眉を顰めた。「……カミラ、カミラ……。私の中でカミラという名前の女性で記憶があるのは……。アグワイアのカミラの事です? あのバッジオの娘の?」トラビスは当然、とゆっくりと頭を上下させる。
コーヒーを一口啜り、鼻に抜ける香を楽しんだ。フルーティーな香りがあればいいが、トラビスは言うてもグルメではない。濃い味のホットドッグか、チーズたっぷりのイタリア式のマルゲリータでも食べている方が本当はいい。
この『気取った』アーチーがそういった俗的な物を用意していくれるとは思えなかったが、彼の中身を知っているトラビスにしてみれば、二人の時くらい俗的なものを用意してくれてもいいのに、と拗ねたくなる気持ちもあった。
「そいつは、随分と残念な事だったようだね。……あのキーガンにサルヴァトーレの顧問医の娘を襲わせるとは、元締めは一体だれなのか……。まさか"ラッキー"が?」「違うだろうね。あの幸運男には、まだ波風立てる気はないさ。むしろ……リチャードの様な二流が絡んでいる、とマイケルは考えている様だけども……」肩を落とし、トラビスはため息を一つ。重く這いずるような吐息は、ズボンの裾を振るわせた。
「確たる証拠は無し……というところだね」アーチーも納得した様だった。「当然調べは進めるけどね。あまり期待しないでもらいたいものだよ。君が得るよりもこっちの情報が遅い事は多分にあるんだ」トラビスが口をへの字にすると、アーチーはくすりと口元に手を当てて笑った。
「トラビス神父がそんなに教会の事を優秀だと思っているのは意外だよ。むしろ……マフィアの方が今の時代多くの情報を持っている、と豪語するかと思っていたけれども」まさか、とトラビスは鼻で笑った。「マフィアが情報を持っているのは警察と、港の職員だけだよ。チンケなところまで情報を網羅しようとするほど、彼らは豪気じゃない。むしろケチなんだ」
「なんだ、」アーチーは納得した様に口を丸くする。「教会と同じケチなんだね」ふざけた物言いだったが、事実なのでトラビスは肩の力を抜いて目頭を押さえた。頭痛がやってきそうでそれをしっかりと予備の運動で留めようとしたのだ。
結局、頭痛らしいものは杞憂であり、微かな沈黙の後、気を取り直すためにコーヒーを飲んだ。「どこのどいつが、あの娘、《呼ばれた者》を連れてきたとしてもかまいやしないんですが……。しかし、このニューヨークで喜々として《キーガン》の様な異常者に仕事をされては困るというものです」
アーチーも分かっているらしく、トラビスの言葉に何度も頷き、続きを促した。「この街には数多くの病根が存在しているのは承知の事ですよね? 金、汚職、酒にゴシップ。どれをとっても綺麗なものは一つもないときているんですよ。”私”の元締めが懸念しているのは、ここで『元』が不明な大火が起こって、せっかく積み上げた協定が破棄される事ですよ」こめかみをトントンとトラビスは人差し指でたたいた。
アーチ―も教会の使いから聞いているらしく、否定はしなかった。「それは理解しているのですよ。教会としても多くの血を流さない、小競り合い程度の抗争なら放置すると考えてはいますけれどね。このところは、かなり荒れてきていますから。マッチの火ですらほしくないのは確か、というのが大方の考え方ですよ。近い内に本格的な取り締まりを考えるかも……という噂も入ってくる始末です」
トラビスは頷き、首に右手をあてて、かったるさを紛らわそうとした。「たかが思い上がったやんちゃな子供たちの所為、っていうならまだいいですが、《キーガン》は間違いなくジョブキラーだ。しかも、一級のシリアルキラーですよ。その上、《呼ばれた者》と来ている」
トラビスの言葉にアーチーはまさか、という様に目を見開いた。「嘘を言う訳がないでしょう。嘘をつく意味もない。――《呼ばれた者》が《呼ばれた者》を取り込もうとする、というのはあまり理解できないですけどね」
一息ついて、「昨日の夜にしても、腹から肩口まで、内臓を"破いて"彼女を助けたというのに、ものの数分で元に戻ったのですよ? 普通では考えられない賦活能力です。そもそも、」トラビスは興味深そうなアーチーの視線を切る様に迷惑だという表情を一切隠さず、右手で右目を押さえ肘をついた。
「あの男の能力は、食べる事で増殖している、というのが今までの『我々』の見解だったんですが、それを超える別の能力を秘めているという事は疑いようがありません。固有でない能力の定着は遅く、効果も限定的です」
アーチーは、うん、と小さく頷く。組織的にトラビスよりも重要なポジションにいるだけあり、多くの情報に触れているという事が窺える。「だから、何らかの『増加』ないしは、『強化』という側面を持っている……、という考えに至ったというところでしょうか?」
「……。結果論としてはそうでしょうね。その場に居た時には考えられなかった私が言うのは少し自尊心が強い印象が出てしまいますが」トラビスは目を軽くぐりぐりと掌で弄ると居住まいを正した。
「戦いの中で気づかない。そういう事は、よくある事です。俯瞰的に視線を、又は感覚を拡張し続ける事が出来るのは、私たちが極致として求めるところです。――あなたの年でそれが出来ているのであれば、司教の地位でも貰っていることでしょう」
皮肉にもならない、とトラビスは不機嫌そうに腕を組んで、ふん、と鼻息を荒くした。「結局知りたい事は知っているんでしょう? ただ確認したいだけだという事も良く分かります。――ですがね、キーガン、という存在を《知る》というのは単純な答えだけでいいと思いますよ。付属的な能力なんて、結局後付けでしかない。……、あれは《神》に近づいている存在で、私たちの教義から外れた《化け物》だと認識しておけば十分です」
アーチ―は、ククッと喉を鳴らして笑みを作った。端的な言い方を好んでいる事は、トラビスは知っていたが、余りにも短絡的すぎる《化け物》という言葉がどうやらツボだったらしい。ひとしきり笑い終えると、「それが、《呼ばれた者》たる所以なのは良く理解していますよ。……《見放された者》たるあなたなら、特に共感できるのでは?」手のひらを眼前でひらひらと左右に振ってトラビスは否定する。強い否定ではなく、自然体な姿はかえって嘘くさい。「そんなことは無い。昔も今も、無知のままさ」
トラビスは、えへん、とわざとらしく咳をした。内心では、アーチーの言うとおり《キーガン》に共感できるところはあった。だが、常識的な人を気取りたいとは思っていた。かつて常識はずれであった存在であっても、今は人でありたいと思っていたからだ。
《見放された者》とはよく言った物だとトラビスは思っている。そもそもこの異能の力を発現する方法はたった一つとされていた。遺伝。ある一定年齢までに発現せず、後天的に発現した様に見える者もいたが、そもそも『核』が生まれた時点で形成されているのであるから、先天的な遺伝の要因が強いという事はトラビスの仲間内でも『だれもが知っていた』。
表立っての否定は存在する。教義の中心たる神を否定する事に、忌避するのは当然だ。しかし、使える物は使う、という面も持っていない訳では無い。光に影があるとおり、『存在しない』内部の組織を巨大化する教会の中には抱えていた。
ある者は聖人として輝かしい表舞台に立つことが出来るだろう。例えばトラビスの目の前にいるアーチーが、『顔がいい』として広告塔となっている様に。当然そういったイメージ戦略が必要な事はトラビスも理解していた。かつての自分の処遇についても同様に十分に理解した上で選んでいたのは確かだ。
異端審問の最前線は常にガンパウダーと血の臭いが絶えない煉獄である。その現場に”生身の”人間を用意するだけでは、摩耗し潰れて行ってしまう。そこでトラビスの様な頑丈な存在が必要なのだ。使える物は使うというとおり、異能を一定以上持った者を”兵器”として利用したのだ。
そして、その兵器の象徴たる翼を自らへし折った者。《見放された者》という言葉がトラビスにはしっくりと来ていた。
未来を望むのか、あるいは、過去に執着するのか、人によっては違うとしても、トラビスは『人である未来』が欲しいとは思ったのだ。不完全であっても人に近づく事で彼の想い人の目に入る存在になれると思っていたからだ。
アリス・デル・ベル。彼女の存在はトラビスにとって人らしい想いを抱くきっかけになった相手だ。
元も、トラビスはひどく機械的な人間であった。毎日人を殺め、一切の慈悲を持たず、『神罰の代行者』として異端を狩る彼の心が荒み切っていたというのは事実だ。目に飛び込んでくる光景はパンプキンの畑に真っ赤な血をぶっかけた様な人の骸の山。
逃亡中の強盗の様に、ボロボロのあばら家に逃げ隠れ、小さい祭壇に彼らの信じる神を奉る姿は、酷く小さく、物悲しいものだ。生きる意味の大多数が『神』への奉仕であり、自己の欲求など二の次、という妄執を得た病人どもを理解する事は出来ないが、それでも、生きている事を否定していい相手であったのかと、今でも自分に問いかける事はある。
「あいつらは同じ生物だよ。ただ、君とは成分が違うけどね」マイケルが言う酷い言い草にトラビスは多少の救いを貰っていたのは事実だ。自分よりかなり年齢の若い少年が、殺す事をためらわず、持てる力を行使する様は”自分の鏡”の様に見えてとても恐怖感を持ったのは事実だ。
この先も人を殺し続けるマシーンであり続けられるのか、と自問自答しても酷さを増す頭痛に逃げ道すら塞がれて『殺人鬼であるしかない』という決めつけをしていた。
アリスに出会った時、他の客と同じように「何にします? 初めてならネ、ビネガーの効いたライトハウス特性のフライに、クッとコーラで流し込むノが最高ヨ」と笑ってくれた。
彼方此方に血の臭いを染み込ませ、何度手を洗っても――幻として染みついた嫌な汚れを蓄えた、汚物であると思っていたトラビスにとって、”人”である事を『良い』と思えた出来事ではあった。
あれから何年も経っていない。自らの翼を捥いで人に近づけたかは未だに分からない。しかし、『人の姿』である事はトラビス自身が、自分の中で彼女へ近づけるための覚悟であった。
「いやですね。別に、《キーガン》に共感していたとしても、私は何も咎めはしませんよ」アーチーはウィンクをしながら、右手の人差し指をチッチッチッと震わせた。その仕草だけでトラビスは苛立ち、顔面に水でも浴びせてやりたいとは思ったが、ぐっとこらえた。
「……《キーガン》という存在が話題になったのはここ一、二年の間の話ですよ……。私が共感できようと、そうでなかろうと、現に《キーガン》は仕事をし、私たちの縄張りで多くの人を殺めているのは事実です。ずいぶんと昔から仕事をしていた形跡はないのは事実で、類似する様な事件は、確かに教会の”図書館”に所蔵もされていなかったのは確認していますよ。ただ、……現在ではキーガン個人が目立っているのは事実なんですが、警察の話では、《キーガン》の周りにうろついている組織――あるいは、団体と呼称した方がいいのかもしれませんけど――の方が厄介だと言っていましたよ。政府側の……組織ともつながりがある、というのが本筋でしょう。その点を考慮すると、ヨーロッパへの派兵に伴い、何か……嫌な土産を手にして帰ってきた、と考えてほぼシナリオはいいでしょうね。ですが、……」
続きを言うことなく、残り少なくなったコーヒーを催促するように、トラビスはカップを軽く前へ押しやった。アーチーは苦笑して呼び鈴を鳴らした。
すぐに扉を開けて一人の紺色の見習い服を着た少年の従者が入ってきた。顔立ちは幼く、まだ十四、五といったところだろう。全体的にほっそりとした体形の彼は、恭しく二人に礼をして入ってきた。躾は十分されている事は分かったがどこか可笑しいとトラビスは思った。
栗色の髪はきれいにまとめられ、白い肌にかすかに紅潮した頬。大きな瞳が時折、アーチーをちらっちらっと見て、唇を悟られないように小さく噛んでいるのがわかった。視線が熱を帯びて、今にも彼に対して熱烈なアピールをしたい、とチロリと舌で唇を舐める様から見て取れる。
トラビスにはすぐに思い当ることがあった。ここで、目の前に座る同期の性癖を暴露してやったとしても、なんの得もなかったので口にはしないまでも、疑いの目を前に向けることは忘れなかった。知ってか知らずか、アーチーは弾んだ声だ。
「彼にお代わりを用意してくれるかい? 濃いめで頼むよ」「普通ですよ。……この男の言う濃いめというのは本当に濃くて飲めたものではないのは知っているでしょう? 彼と舌は同じではありませんから、普通に作ってください」口をへの字にしてトラビスが訂正をすると、アーチーはいたずらっぽくククッと喉をならした。
少年の従者が姿を消すと、「また、そっちの方に手を出しているのですか……。いい加減にしないと、いずれスッパ抜かれて追い出されるか、もっと偉い人に”同じ目に”合わされるとおもうけどね」トラビスは渋い顔をした。アーチーは全く気にせずトラビスの言葉などどこ吹く風だ。「いいのさ、彼はそれでも受け入れてくれているというものだし、仮に私が同じ目にあう……というのは、かつての様でそれはそれで楽しそうだしね」と笑って見せた。
どこまでも欲望に忠実な同僚に対して、トラビスは呆れを隠せなかった。
「しかし、」とアーチーは珍しく真剣な顔をして腕を組んだ。「《呼ばれた者》が表立って関わっているということになると、これはこれで面倒なものになりましね……。当然、教会の末席であるあなたも良く分かっているとは思うのですが、《呼ばれた者》を神聖視する連中が多いのは確かです。その辺りと、政府が絡んでいる理由が重なるという事なのですか?」アーチーの宗教的な考えに対して、トラビスは首を横に振るった。
「違う、と否定するのが正しいところでしょうね。これは……私の推論の域はでていないですが、ある程度の確証はある情報は持っていますよ。――政府が考えているのは、”兵器”としての転用というところでしょう」アーチーはトラビスの言葉に納得した様にあぁ、と頷いた。
「この間の世界を巻き込んだ大戦は、ある種、兵器というものの見本市になっていましたからね……。いろいろ考えるところがあった、というのが事実でしょうね。毒ガスの様な、前時代では『魔術』と呼ばれる者も『科学』的に手に入れて戦ったのですから」
「科学というもはある種の魔術ですよ。……今や電話線があれば遠くと話しができ、電気によって二十人も乗れるエレベーターは動き、飛行機が空を飛び、車によって移動は馬車から変わったという世界の様式が、この二十年で大幅に変わったんですよ」
アーチーはぐるりと回りを見渡した。未だに燭台に載せられた蜂蜜蝋でできた蝋燭はやんわりと火を揺らめかしている。未だに世界の中で、一世代前の世界を残している教会が、時代遅れと言われたとしても仕方ない。「この部屋を見れば、」アーチーは残念そうに目を細めた。
「今の社会から隔絶され、取り残された残骸――というのが私達に思えて仕方ない、と嘆きたくもなるよ」とトラビスは鼻で笑った。「アーチー、君の中にそんな感傷的な心がある訳もないだろう、欲望にまみれた、ネオンの光にすり寄る蛾のくせに」
酷いな、とアーチーは笑った。まったく気にしていない表情の彼に対して、トラビスは仕切り直すために、小さく息を入れた。「力というもののが科学によって進化しているのは事実ですけどね。それでも世界の一面を論理化しているに過ぎないとは思いますよ。現に、《呼ばれる者》の力の源流すら分かっていないのですから」
その上で、とトラビスは指を立てた。「なんていうか……、《キーガン》の”団体”というのはある種統制された《呼ばれた者》たちの集団なんです。それも政府が求めるよりも早く作られたね」え、とアーチーはあり得ないという驚嘆の声をこぼした。
トラビスも分かった時には、アーチーと同様の反応をしたので、それを笑い飛ばすことは出来なかった。予想していたよりも深刻な事態である、と認識していた。「個で一大の能力を持つ、《アレ》らが集団を形成するというのがそもそもおかしいんですよ。何のために?どうして? 私もそう思ったけれども、”そう”なんですよ」
トラビスの言葉に、その情報はどこから来たのかと、アーチーは目で訴えた。口に乗せないのは、答えない可能性も考慮してのことだろう。トラビスはマフィアの中にも席を置く。下手なことを言えば首が飛ぶ――文字通りの意味――こともあり得た。
しかし、トラビスは何も気にせず口を開いた。「調べたのは私とも仲のいい、《地獄耳》のジョンソンのおかげですよ。あれはいい商談相手ですからね。良くも悪くも情報の収集が早いというのがなにもよりも良い。彼に頼んでたった三日で、二枚の写真と、一枚の手紙の復元内容をくれたんですよ。しかもかなり近くに居た様なきれいな隠し撮りでね。技術の進歩を目の当たりにする事ができたというものです」
アーチーは、トラビスの言葉をさえぎって、「そんな簡単に隠し撮りが撮れるカメラがでているのかい?」と食い気味に身を乗り出した。きっと未だに頭の中が19世紀で止まっているらしいアーチーに「新聞を読みたまえ」と、トラビスは笑った。
教会におり、外に出る事も多い”顔”であるアーチーは、世事に疎いというわけでもない。その彼が技術に対して興味を示すのが面白かったという事もある。生きるために多くの情報をこの様に集めているのが良く分かる姿だ。「エルンスト・ライツの研究は戦前から行われていただろう。35㎜のフィルムを使った」
しかし、トラビスの提示した言葉に、あぁ、と落胆しながらアーチーは肩を落とした。「あんな庶民的ではないものの話ですか。簡単に8ミリ程度のカメラで誰でも彼でも写真が好きにとれるという世界になればいいのですけどね。……実際、その実験用の一般的に出回らない機体を手に入れられる、ジョンソンは一体何者でしょうね。貴方の”手足”に勘ぐることはしない様にしたいですが……、毒にもなりえるものだということは良く理解しているでしょう?」
当然と、トラビスは頷く。「そもそも、ジョンソンが《呼ばれた者》という呼称を知っていたし、彼は政府機関が使う《芽》という言葉を多用していることから、おそらくはその筋だろう、ということは予想がつきますよ。今の私には危ない相手であったとしても……鋏は使いようというところですよ。利害は一致しているんですから」「あなたからマフィアの情報を貰って?」そうだ、と躊躇なくトラビスは肯定した。
「《呼ばれた者》がどういう経緯で生まれてきたかは知らないですけど、かなり昔から居てある程度の理解がされているのは知っています。《呼ばれた者》の体内に《核》を宿らせ、翼をもち、それらは教会の秘儀である《星》(ステッラ)を見ることができた。教会のルーツと同じか、あるいは、同列の”神”のおぼしめしかは知らないですが、それでもこの世に存在するのは事実です。
一人で鷹の様に鋭く空を飛び、銃に匹敵する破壊力を持ち、グリズリーに匹敵する身体能力を持ち、猛禽類に似た第六感をもって、五感は人間の数十倍にも引き上げられているんですよ。《呼ばれた者》が天使と同列に考えられる『武力』を持っているのは事実です。審判のラッパでも鳴らしてもらいます?」
「そんな時がきたとしたら、私はアメリカ大統領にウェストバージニアでも用意してもらって、彼らの根城に45口径をぶち込んでもらう様に進言をしますよ」「そこは教皇庁に伺いを立てるんではないんですね……」呆れたトラビスは未だに届かぬコーヒーを思い描きながら空っぽになったカップにほんの僅かに残った一滴をカップを傾けたなめとった。
「とりあえず、《キーガン》たちは組織したんですよ。個々が絶大な力を持っている”兵器”である彼らが。何かを脅威に感じてね」
トラビスの言にアーチーは不服そうだった。口を尖らせる。「それがおかしいというものなのですよ。……大昔から、現代にかけて英雄と目される者、あるいは悪魔と罵られる者には孤独と絶望がセットで存在するのが一般的です。英雄譚に必ずしも光だけが記載されている訳では無いでしょう? そういう高みにあるはずの《呼ばれた者》たちがコミュニティを作るために多くの労力を使う、という事は、自滅とセットというのが当然でしょう? 内輪もめからの各々の力の誇示力をどの様に制御できるというのでしょうね……」「だから、政府は《アレ》を放置していたんですよ。だというのに、ここでそういうコミュニティができたことに”注目”しているんです」トラビスは、わかるだろう、とアーチーに目配せをした。
「作り――出した、か?」
アーチーはぽつりとつぶやいた。トラビスは、言葉には出さず、ゆっくりと首を上下させた。「解析できてすらいない《呼ばれた者》を、キーガンが"産み出せる"のだとしたら? そして、家族という単位で構成されているとしたら? あれらは自己増殖できる存在だとしたら?」
続けて、トラビスははっきりと言った。「あの保護した娘が、その”鍵”を持っているとしたら?」




