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 マイケルはいつも通り濃い色のスーツに身を包み、憮然とした表情で車から降りた。よく整備されたフォードのエンジン音は軽快なもので、今も背後でニュートラル状態であるにも関わらず、なめらかな駆動音をさせている。耳障りな細かな雑音や高音、異常を感じる低音すらないのは、毎日メロ家の使用人が手入れをしているからだろう。

 しかし、マイケルはかすかな音すらも嫌だと言いたそうに顔をしかめていた。音に敏感で、繊細な耳を持っているのだから機械音というものを好きにはなれなかった。当然、目覚めと共に金切声を上げたメアリーに対しても同様のしかめっ面を向ける事になったのは今から二時間も前だろう。

 マイケルの横に立つのは当然の顔をしたメアリーだったが、左手側に立つのはもう一人の姿だ。いつもの様にトラビスがいるのであれば、メアリーが可愛らしい頬を膨らませている必要はなかったが、マイケルの隣にあまつさえ寄りかかるように立っているのは、エヴァンジェリン・ストーンマン・オーデカークだった。

 少女らしい小ぶりで清楚な雰囲気で、白い貫頭衣は修道女の様ではあるが、よくよく見ればただの病院で使われる粗雑な物だった。帯らしきものに金色の刺繍はないし、濃紺を良く利用する教会らしからぬ白一色は、『病人』というレッテルを周囲に与えるのに十分な情報だった。

 透き通る白い肌に長い金色の髪が良く映えて、マイケルよりも少し高い程度の背だ。右足の膝から下が真っ白な包帯でぐるぐる巻きにされ体重を乗せる事ができず、宙をぷらぷらと小さい脚がブランコの様に揺れていた。それを補う様に背の低いマイケルの肩に腕を回していた。マイケルの体に預けられた体重がそれほど重くないことを考えると、痩せていると表現するのが妥当だと、マイケルは判断した。口に敢えてする事はないが、胸骨あたりにあたる柔らかな触感も相まって少し気恥ずかしさはあった。

 レンガ造りの巨大な建物を見上げて彼らは車の前に居た。建国と同時に作られた程に巨大な建物は、度重なる拡張を行われながら、最新式に設備を備えたニューヨークにある病院だ。大学の付属病院であるから、ちらほらと生徒らしき、まだ若い白衣姿の人も見かける。

 美少女二人を侍らせた少年という姿は周囲の興味の的だった。チラチラとちらつく視線は痛く、興味本位で隙を見せれば新聞記者さながらのメモ帳を携えた学部生が飛んでくるだろう。

 メアリーの華やかな姿は遠くからでも目に入るものだ。ワンピースにレースの意匠が素晴らしい外套を肩にかけ腰に手をあてて、マイケルをむっと――正確にはその隣にいるエヴァンじぇりんだろうが――睨みつけていた。

 事故か、あるいは痴話げんかか、まだティーンの姿でこうも邪推されるというのには、マイケルの子供じみた背格好に対して、佇まいが紳士そのものであったからだろう。

 マイケルは嫌そうに病院の最上階に視線を向けて早く助けが来ないかと待っていた。

「ミス・メアリー。今日は定期健診ではなかったかとおもいますが?」建物の前に汗をぬぐいながら眼鏡をかけた白衣の男性がやって来て声をかけた。走ってきたのが分かる程に息は切れていた。疲れた表情ではあるが、いまだに目がしっかりと周囲をとらえている。胸に付けた銀色のネームプレートには、バッジオ・ジョン・アグワイアと書かれていた。マイケルにとっても、良く知っている人だ。マイケルが世話になっている組織にとっては、非常によく関わりを持つ相手で、少し無理を言って警察への引き渡しなどを渋ってくれる頼りがいのある医師だった。

 巨大な門構えの総合病院であるから、わざわざ医師が入り口にやってくるなど、何か緊急の事でもない限りないはずだった。しかも、1899年にシカゴで話題となり20年程度しかたっていないなかで流行となった救急車の登場でもないのだから、ますます入口に来る必要が分からない。「御機嫌よう、バッジオ先生! ……先生、緊急の事で申し訳ないのだけれど、彼女を診てくれないかしら?」メアリーは頬を膨らませたまま、エヴァンジェリンを紹介する。手をさらにして差し出す仕草が機敏である事から、多少の敵意がある様にマイケルは想像ついた。バッジオの視線がエヴァンジェリンの左腕に向くのが分かった。右足の存在感とは別に、そこには本来あるべきものがないというのが分かり、バッジオが驚嘆の表情に変わる。

「彼女は、左腕を、肘から先を失しておりますの。さすがに……粗悪な孤児院で合併症にでもなられても悪いというもの。お金がない、と『神父』も嘆いておりましたので、今回はワタシの方で面倒を見たいと思うのです」メアリーが《彼女》、とアクセント強くいうものだから、閉口していたマイケルでも気になった。「そうかい。えぇっと……名前はなんて?」「エヴァンジェリン・ストーンマン・オーデカーク、かつて、バージニア州に住んでおりました」おっとりと、しかししっかりとした口調でエヴァンジェリンは回答した。堂々とした姿は、痛々しい外見とは別に、彼女の芯からでる強さである事は分かった。

「ご両親には?」とマイケルとメアリーに目配せをしてバッジオは問うた。「知りませんわ!」メアリーはとげとげしく言い放つ。メアリーがエヴァンジェリンのことを知ったのは精々二時間前なのであるから当然の反応といえた。

 ぷりぷりと怒っているメアリーは腕を組んでぷいっとそっぽを向いた。子供っぽい仕草ではあるが、エヴァンジェリンのことを嫌っているのではない事はマイケルは分かっていた。本当にメアリーが嫌っているのであれば、口を聞く事など最初からしない。さらに、親に相談せずに親の資産に手を付ける様な『援助』は一切しない。

 したたかである、というのは淑女として教育を行われていた彼女にとっては当然だ。マイケルの前だけは、昔のまま少女の姿を演じているが、親の前では全くの別物だ。借りてきた猫の様に静かだったしマイケルに対して『ごきげんよう』などという形式ばった挨拶を静かにするのだ。一度本当に鳥肌がたったので、「僕との仲はそんな他人行儀なの?」と嫌味を言ってみたら翌日にはうざったいほどにくっついて来て逆にうんざりした。

 今日であっても、彼女は寝坊しているマイケルの布団に『忍び込む』などという淑女らしくない行動をとったおかけで悲鳴を上げる羽目になったのだから。

 軽い頭痛を押さえながら、マイケルは「とりあえず、警察にはトラビスから連絡をしている。夜中の事だったので、保護最優先だった、といえばわかるだろ? それに、」マイケルはすぐ後ろで控えていたジェリーに視線を向けた。「彼女たちの登場で、落ち着て先生を呼びにいく、っていうのもできなくなったんだ」

 非難の視線を明後日の方向に視線をむけて往なすメアリーとジェリーに、口をへの字にしてマイケルは呻いた。「そりゃ、こんな時間まで寝ていたのは悪いと思うけどさ、それにしたって、引っ張りだすほどのものだとは思わないけどね。……まぁ、タダになるっていうのは助かるけどさ」バッジオは、こらこら、と慌ててマイケルを諫めた。「マイケル。感謝と皮肉を同等に扱うんじゃないね。海の向こうのキングダムなら別だが、ここはれっきとした自由の国なのだから、メロ家のお嬢さんの助けは、素直に感謝しないとね」

 分かっている、という風にマイケル口を尖らせた。しかし、不平不満は無理やり飲み込んだらしく、口は閉ざした。沈黙のままで押し黙るマイケルをみて「まったく、これだから困るのよ」とメアリーが愚痴をこぼした。その言葉はバッジオには届かないが、マイケルの耳には届いた。

 マイケルは勘繰るように視線を向けると、メアリーを少しだけ細めた目で心を読み解こうと試みた。結局のところ彼女の愚痴の真意は分からなかった。「メアリー、不機嫌なのは僕の所為?」マイケルは、分かり切っていたが口にして彼女のわだかまりを解消しようと画策した。「エヴァの事は事故だって言ったじゃないか、それを気にするというのは、いつもの君らしくないね」

 マイケルの指摘に、メアリーは口を何度かパクパクとさせて、言葉にしようと試みた。すぐに何を言えばいいのか分からなかった様に口を閉じて、少し沈黙した。

 気まずい沈黙を取り繕う言葉を絞り出したのは興味本位の人だかりが形成されつつある最中ではあった。「……別に、男女として一緒の褥に居た事を気にしてる訳ではありませんの。べ、べつに、マイケルが女性の一人や二人囲っていても気に、気にしませんわ……。お父様もそうですし、それに、――彼女の傷を見れば《普通じゃない》事くらいわかりますもの。でも、そうやって、また、あの時見たいに、」メアリーは表情に暗い影を落として俯いた。

「あの時見たいに傷だらけになるのは嫌ですわ……」大人しく、メアリーがつま先で地面を軽く蹴った。本当はもっと強く言いたいというのが見えたが、選んだのだろう。周りにいる人だかりが、にやにやとした表情を浮かべているのが癪だった。

「あ、いや、そ、」マイケルは気の利いた事も言い出せず、言葉が詰まった。「……昨日も、トラビス神父と夜お出かけになられたのでしょう? 分かってますわ、それが院にとって必要な収入であるという事も」「……む、うむぅ」口ごもり非難されている事に条件反射で答える事もできなかった。

 マイケルの氷像の様な姿に、エヴァンジェリンはコロコロと笑った。「可笑しな方ですね、わたくしは、あなた様に助けられたというのに、昨日の様な雄々しさはガールフレンドの前ではないのですね」「ちょ、」慌てて、メアリーが顔を赤くした。

 わたわたと手を振って、否定をするが明らかに表情それだけをみれば意識しているのが見える。「何いってるんですの! ちがいますわ! た、ただの、……ただの……」でも言葉は最後まで言えなかった。萎んだ風船の様にしおしおと、メアリーの表情を又曇らせた。

 エヴァンジェリンはメアリーの意を汲んで言葉を続けた。「『ただの友達』と簡単に言えるものではありませんね。その様子ですと……。うーん、からかうつもりはないのですが、わたくしが見るに深い事情がおありなのでしょうからねぇ。ええ、わたくしは知らぬ、存ぜぬで構わないのですが、どうも、そのあたりを御二人できっちりと御話をした方がよろしいかと思います。御節介かもしれませんが、」というか、とエヴァンジェリンは一瞬頬を引きつらせた。先の無い腕を軽く掲げて、「存外に、この怪我というのは痛いというものです」

「ま、どうでもいいんだけどね。君らね。患者の方が大事なんで、そういった話はとりあえず、後にしてくれないか? ん?」バッジオは、笑い声を必死にこらえた含んだ笑みを顔面に張り付けて、催促した。マイケルがバッジオの後ろに控える三人の看護婦に乾いた笑みを浮かべた。


 病院というところは嫌いだった。臭いから嫌いだったし、時折聞こえる悲鳴も嫌いだった。包帯の感触も注射の痛みも、車いすの軋みの音も。ひんやりした空気は墓場に近いとすら思えて仕方がなかった。

 何人もマイケルはこの病院で死人を見ている。組織の男たちが敵対組織との抗争で傷つき運び込んだ時や、孤児院の子供が虫垂炎になって手遅れだった時や、職を失い配給によくやって来ていたチフスにかかった家族。皮膚病によって全身が水膨れになり、エレファントマンかと思えるほどに変形し自殺した娼婦すらいた。

 どの死もこの病院と墓場を行き来する。ここが死の門の様に思えて仕方ないというのは、彼の個人的な印象ではあったが、トラビスもマイケルの意見にはある程度同調はしていた。

 彼方此方を歩き回る程好き好んでこの病院にいる訳でもないから、マイケルは手持ち無沙汰で診察室の前にぼーっとしていた。

 エヴァンジェリンが検査を受けている中に一緒に入る訳にもいかず、だからと言ってメアリーの様にここの職員たちと顔なじみという事もない。コロンビア大学の病院であればなおさらマイケルには関係なかった。メアリーの父はこの大学の卒業生であるからよく遊びに来る教授との繋がりもあるのだろうが、マイケルは仕事の絡みもないのでわざわざ顔を売る必要性もない。愛想笑いに他人行儀なメアリーの姿をみているのも辛くなるので、結局ぼーっと白い壁を眺めるか、遠くに見える観葉植物をみるか、街路樹をみるかそれだけだ。

 白い壁面に囲われた蜘蛛の巣状の通路は、第一次世界大戦を報じた戦争映画の塹壕の如く縦横無尽な構造を作っていた。死を感じさせない様に、無垢で純白なイメージで取り繕っているのだろうが、実態は死と隣合わせであり、ある種、戦場と化していることをマイケルは良く理解していた。付き人であるジェリーにとっても居心地があまりよくないのか、普段であればメアリーの側を離れないにもかかわらず、主人に気を使って交流の場からは身を引いて、マイケルの側に静々と立っていた。

 何人も気のいい「同僚」がここに送られ命を落としたことを思い出した。抗争は激化している。一発の銃弾だけで片付くという理想は存在せず、その理想を追って誰も彼も銃を持ち、喜々として街中で戦争ごっこに明け暮れた。裏路地には近づくな。車が二台もきたら注意が必要だ。子供であっても分かっていた。靴を磨く物乞いの少年が、笑いながらチップの代わりにどこのファミリーが成長株か教えてくれる。数年前にはそんな話よりも皆、株価ばかり気にしていたというのに。

 明日は我が身、という言葉のとおり、同僚が死んでいく姿を見ればマイケルは嫌でも自分や自分の周りの人たちに同じ様に死がやってくるのだという事を想像せずにはいられない。例えば、後に控えるジェリーや、メロ家が守っているはずの一人娘、メアリーであっても。

「浮かない顔だなぁ」バッジオが、のっそりとマイケルの隣にやってきてマイケルが座っていた長椅子の隣に腰を下ろした。空気が抜ける切ない音が少しだけ響く。気の抜けた音は緊張感をもった白い建物に似つかわしくなく少し可笑しく思えて、マイケルの自然と張っていた肩から力を抜かせた。

「あぁ。ま、そんなとこ」ぶっきらぼうな言い分ではあったが、バッジオは気にしない。一度皮の長椅子の端っこ、破れている部分に人差し指を突き刺して、バッジオは中のスポンジを一度確認した。

「相変わらずすぐひび割れてしまうよ。せっかくお金をかけても長期間使える程手入れが行き届かない。不景気になれば特にさ。辛いものだね。うん。」「君の所は大して収益に関係しないんじゃないの?」まさか、とバッジオは笑う。喉を鳴らす程度だったが、人気のない通路にはよく響いた。

「不景気になれば誰でも出す金は渋るっていう物さ。前なら爪が取れただけですぐ病院に駆け込んでいた奴も、いまや足が折れても来やしない。悪化して死にそうになって電話がかかってくる始末さ。『助けて!』って大声をあげてさ。だから救急車何て言う物がはやったのかね? いや、緊急の時には確かにたすかるが」

「ふーん、」マイケルはあまり興味なさそうに相槌した。「でも、その分僕の同僚なんかよく来るようになったでしょ」マイケルは表情を一切崩さず、真っすぐな瞳でバッジオに言った。バッジオは、一瞬言葉に詰まった様に「ん、」と喉を鳴らした。

 バッジオはゆっくりと頷いた。「……あぁ。抗争の激化は深刻だよ、」重い溜息をついて、眼鏡を外して目頭を一度押さえた。ぎゅっっと力をいれると、すぐにバッジオは眼鏡をもどした。

「昨日だけで5人だ。……まったく、銃というやつは厄介でね。特に弾頭がつぶれて周囲の肉に入り込むわけさ。放射状につぶれた金属がエネルギーを消費するまで肉を磨り潰す。細かい破片を拾い集めてやっても、断面が汚いから綺麗にくっつかなくてね」「その分、刃物の方が楽ってわけだよね。先生も切ったりするのに使うし」

 マイケルの言葉に呆れたように、軽くため息を吐いて、バッジオは肩を落とした。「確かに、自分らの商売道具も突き詰めれば人は殺せるが、銃という殺傷のための鈍器と同列に語られるのも、存外嫌なものだが?」

「ふーん、」マイケルは鼻をならして、椅子から飛び降りた。軽い着地音は、締め切られた空間の中に微かに反響する。遠くで水滴が落ちた時の様な繰り返される残響音で、何度も波紋の様に軽いマイケルの足音が押し寄せた。「別に、他意があるわけじゃないよ。トラビスはいまだに刃物至上主義だ。人の身でどこまでも《アレ》に歯向かう狂気の沙汰だよね」

 バッジオは少し不快に思った様で、口を一瞬への字に曲げた。しかし、子供の戯言である事を認識すると、マイケルの言葉の真意を探ろうとはしなかった。そもそも、バッジオにとっては孫ほどの年齢であるマイケルが血生臭い事を言うのが嫌なのだろう。それはマイケルが来るたびにひしひしと感じていた。

 子供はきちんと育てるべきだという考え方を持っているバッジオは、時折トラビスとも意見の違いを起し激しく言い合う事はある。最終的には、マイケル自身も言う事を聞かないのをしっているから、バッジオが折れるのだが。

「いつからだろうなぁ、」バッジオは身を丸めながら、背中を伸ばした。「子供が刃物で喧嘩するのが当たり前になったのはなぁ。昔は良くて拳、悪くでその辺にある石だったがね。簡単に生死に直結する道具に変わったのは、正直怖いと思うねぇ……」

「先生に責任は無いだろう? そんなの考えても仕方ないよ。ナイフになり、銃になり、そのうち体だけじゃなくて心を切り裂く武器で武装するさ。魂すら殺そうとするのは――強欲な人間なら当然だろう」バッジオはマイケルの言葉に両手を上げた。

「魂なんて傷つけられたら医者はお手上げだな。どうしようもない」「特に、《アレ》はそういった面ももってるって。……僕だってよく分からないのに、喜々として『兵器』につかってるじゃないか……」

「それが抗争の激化の要因かい?」マイケルは、あぁ、と言いながら仏頂面になった。「対抗できない力が増えれば増える程、僕みたいな《そっち側》が呼ばれるのは当然。その所為で被害は拡大するんだ。――悪いけど、ごまんと死ぬよ」

 バッジオは沈黙を作った。いや、ジェリーも普段の様な軽い口調で茶々は入れない。マイケルの目が綺麗に磨かれた窓に映っている。背景の緑色の木々がざわめく度に、真っ赤なマイケルの瞳が炎の様に揺らめいていた。怒っているのは事実だ。わざわざ口にする必要もない程にマイケルは怒っている。

 激怒という心情ではないが、やすやすと命を奪われる世界をマイケルは嫌っている。自分の父親が目の前で殺された時の様に、簡単に命が奪われるのは間違っていると思っている。自分の眼前で愛犬が殺された時と同じように、恐怖を与えられる死が巷にあふれている事に恐怖していると言ってもいい。

 バッジオは深刻なマイケルの心境を邪推する事はせず、話題を変えた。「彼女、エヴァンジェリンといったか。また《アレ》の被害者という事かね?」「イエス。綺麗に抜き取られてる。本当に反吐がでるね」マイケルはくるりと右足を軸にして回るとジェリーを見る様に止まった。ふわりと彼のジャケットが舞った。子供である事は事実であるにかかわらず、マイケルの視線は冷め切っている。一分の感情の表出もない冷たい視線はいつも通り。

「彼女は、」バッジオは言葉を選ぶようにゆっくりとマイケルに言った。「足についての処置は問題はないだろうね。綺麗に縫合もできた、とはいえ傷跡は残るのは、まぁ、しかたないだろう。三十も縫ったんだ、処置が良かったからよかったものだがね。ただ、問題は腕だ。完全に癒着させるには時間が過ぎていた。というよりは、ひどい酸性によって壊死しているね。縫合しようにも組織が死んでしまっている以上、完全に無理だ」「ま、しかたないよ」マイケルは肩をすくめた。

「《アレ》は糞の山に聳えたつ傲慢の塊だよ。ブリテンの気取ったフィッシュアンドチップス程度の粗雑な見た目ならいいけど、用意されているのはスターゲイジーパイと同等のえげつなさと糞ささ。実際に僕が解体した時には、人を四人も胃袋の中に取り込む程の暴食で、エヴァンジェリンも腹の中から取り出したほどさ」

 バッジオは子供らしいマイケルの例えに苦笑しながら、「それでも、奴のことだ、死なないのだろう?」マイケルは頭痛をこらえる様に額をトントンと叩いた。「あれさ、僕たちでは殺しきれないとは――思う。内臓晒して、動きができないのに動きはできるってどんだけ慣れてるのかわからないよ。結局は逃げられて、このとおり」マイケルはシャツを少しずらし鎖骨辺りを見せた。黒ずんだ痣を見せながら、マイケルはため息をついた。「骨まで到達してるよこの痣。侵食する速度が異常で、僕でなければ激痛でのたうち回る程だろうね」「呪詛か?」マイケルは首を横に振るう。「違う、物理的な侵食さ。何がどうなってんのかは理解できないけど、肉体を”食べる”という表現が正しいかな」

 バッジオは顎に手をあてて、うーむ、と呻いた。思い当たる節がないらしい。すぐに違う推論を考えて、「それは、奴の血とかに因る物か?」しかし、マイケルは否定した。ゆっくりと頭を横に振り、「これ、ただの肉片が乗っただけさ。飛び散ったやつの肉片を浴びて、全身服が焦げる様だったよ」「肉体のすべてが《食べる事》に特化しているといっていいな、それは……」

 平常を保った口調であるマイケルではあったものの、言葉を珍しく飲み込んでバッジオに対して、返答しなかった。その理由は二つある。一つは、キーガンという存在が特異な存在であるという事だ。

 単純な殺人鬼であれば、マイケルも言葉を選ぶ必要もないし、見たままを伝える事だろう。しかし、マイケル自身がキーガンという存在を理解できていなかった。不確かな情報を公開し、固定観念に縛られた考え方をするのは、短い人生ながらこういった不測の相手の場合には危険だと重々分かっていた。

 そしてもう一つは、バッジオに関わる部分だ。マイケルもまた、バッジオから組織を通じて依頼を受けていた。依頼を聞いたのは既に捜索隊に一部が『消えた』ときいた後であったから、薄々まずい状況になった事は分かっていた。

 それでも当初はネッドという逃げ足は天下一品の配達屋の仕業である事は分かっていたから、最悪の事態は避けられる、と思う上層部の考えも理解できた。しかし、蓋を開けて遺された同僚の体の一部を見た時、トラビスと共に問題解決に動きだしたのは、バッジオに対する日ごろの感謝というものもあったからだろう。

 マイケルは言葉を詰まらせた。何時だって不幸を伝える事は難しいという、ルークの言葉も本当だと実感した。同僚の連れや女たちに死亡を告げる役目ははっきりいって気の滅入るものだ、と沈痛な面持ちでいうものだから「馬鹿じゃねぇの? 赤の他人だろ」と告げたら顔面に灰皿を投げられたことを思い出した。

 そんな気分にもなるな、と思いつつも、それでもバッジオに告げなければならいという使命感はあった。絞り出す言葉の中にかすかな揺らぎを持ってジェリーにお願いをした。「悪いけど、あれを先生に渡して?」

 それが何か多くは語らず、ジェリーは静々と前に出た。バッジオは「何かな?」と怪訝な様子で重い腰を上げた。軋む長椅子の音はギィ、だとかキィだとか金属の擦れる音。ボルト一つ一つに錆が浮いている事が分かる。おそらく衛生さを保つために定期的に水洗いなどをしているのだろう。しかも、大して乾かさず使っているから、すぐに錆びているのだ。

「一つ謝っておく。バッジオ。《依頼》はできなかった」マイケルは告げる。言葉に合わせてジェリーは、背後に隠していた小さい白い木材で出来た60センチ程の薄い箱をバッジオの眼前に差し出した。バッジオははじめそれを受け取る事をためらった。

 取っ手はなく、覆いに白い布がかけられていた。純白の布地は流行りのレース状のあしらいは一切なく、無地。見た目にも質素ではあるにもかかわらず、異様な綺麗さが際立っていた。ジェリーの腕は微かに震えていた。

 マイケルはジェリーに中身を伝えている。遺骸だと。

 バッジオはマイケルの言葉で、内容を察した様だった。落胆の表情がでて、目を伏せた。ため息をついて、「――そうかい。無理をさせたというものだ。……手ぶらで君が来た時に、何となく想像はついていたがね。あぁ。実際は手ぶらではなかったか……」と静かに言いながらゆっくりと箱を受け取った。

 愛しそうに箱を一度撫でると、包まれた布を蜜柑を向く様にゆっくりと剥がし取り外す。真っ白な布地には一切のシミはなく、一つの汚れもない。純真なる姿そのままに隙間風を受けて少しだけひらりと揺れた。

 長椅子に布を置き、一息。二人に聞こえる様にじっとりとした重いため息をついた。考えるところは多くある。年齢にしてみればもう孫がいてもおかしくない年齢で、二十代近い娘であったという事をマイケルは記憶している。その『死』を告げられて落胆しないわけがない。

 意を決して蓋に手をかける。つなぎ目を一切見せない精巧な箱は、キュッキュッとキツメな音を立てながら開いていった。「あぁ……カミラ」

 嗚咽は無かったが、沈んだ声は彼の愛娘の名前を墓標の様に白い病院の廊下に突き立てた。「分かっている。分かっているさ……。こういう稼業だものなぁ。家族に被害が出る事も、……何となく理解していた……と、強がっても仕方ないな……」

 中に入っているのは二つだ。一つはカミラの残骸。彼女の溶解されかかった顔面だ。しかも半分程度しか残っていない。苦悶に開かれた瞳は今尚、箱の外に向けられ、最期の痛みを表現している。艶やかだった唇は見当たらないし、鼻だって半分骨が見えていた。

 もう一つは真っ黒の宝石の様な塊だ。一見すると黒曜石の様に艶やかであったが、それとは違い硬度は高そうである。バッジオは右手で静かに黒い物体を撫でた。「そうか……《核》を見つけてくれたのか。……よかったなぁ……カミラ」

 《核》という言葉を聞いてジェリーがピクリと耳を動かした。彼女はカミラがなんであるか気づいたようで、ちらりとマイケルを見た。「《呼ばれた者》であるカミラは、組織でも保護対象の一人。――近年特に危ない状況だからさ。局員が良く護衛でてはいたんだけどね……。特に……この抗争状況下ではさ、ゲームチェンジャーとなりえる《アレ》の力はどこも垂涎の物ではあるんだけどね」

 バッジオにマイケルは改めて向き直る。「悪かった、と謝罪は言わない。力がたりなかった、と弁明もない。そのあたりは、上が君に言う事だ。僕は――僕の出来る事だけで精一杯だと伝えるだけだ。生きて――返してあげたかった、という僕の本心は伝える。君が僕を殴り、気が済むというのであれば、何度でも殴っていい」

 バッジオはマイケルに対して悲しそうな視線を向けた。「マイケル。……そういう事はな。うん。……自分と比べてさらに悲痛な表情をしている相手に言われると出来ん、という事はしっているだろう?」

 む、とマイケルは自分の顔をペタペタと触って、ジェリーに問う。「そんな、悲痛な顔してた?」「ええ、とても。それは――『愛犬が亡くなられた』時と同じくらいに……」マイケルは無言で地面を見た。一度大きな音で自分の頬を叩いた。

 今度はしっかりと、前を向き、バッジオの悲嘆の表情を真正面から見た。「彼女の事は何もかも、気づくのが遅すぎたんだ。その落ち度はある。かならず、相手には返礼をしてやる。それと、――神父からひと言預かってる」マイケルは胸のポケットから小さい封筒を取り出し素っ気無く差し出した。赤い蝋で固められ厳封されている小さい手紙は、教会の公式の物というわけでもなさそうだった。

 バッジオは箱を閉め、左腕で抱えるとマイケルからの手紙を受け取った。マイケルもシーリングスタンプの刻印がトラビス個人の物であるという事は分かっていたが、あえて口にはしない。おそらく、トラビス自身思うところがあるのだろう。

「内容は?」バッジオはマイケルに怪訝そうに聞いた。しかし、マイケルも詳しい中身までは分からない。すぐに考えてみたが思い至るところも無いため、内容を口にする事はできなかった。

「さぁ? 僕も知らない。細かい事かもしれないし、……・そうでないかも。後で確認して」「そう、……だな」バッジオは渋々と頷き、手紙を白衣のポケットに突っ込んだ。箱を一度長椅子に置くと、布でくるみ始めた。

「その、だな。カミラを襲ったというのは……相手というのは誰だったんだい?」バッジオの声に一切の抑揚はなかった。平坦な、感情が感じられない機械的な物言いに、ジェリーはピクリと頬をひきつらせた。マイケルは気にもせず、「最初は、……」

 マイケルは思案してから、言うべきかどうか迷った。すぐにバッジオの蝋燭の様に白い顔を見て決心して口を開いた。「リチャードだ。……リチャード・エドワーズ・デュリ。あいつが何を考えていたのかは、――大体想像つくけど、真実とは違う可能性があるから言わないでおく。もしそのあたりも知りたければ……」

 マイケルの言葉をバッジオは手で制した。「いや、実際に害した相手だ。――どうせ、リチャードの事だ、自分の力を増すために手にした《アレ》を自分の囲いの研究施設にでも送って繁殖したかったんだろう……」

「あー……まぁ、そうだろうね。――はぁ。実際にカミラを喰ったのは、《キーガン》だよ。あの忌々しい糞野郎だ」「そうか、」バッジオはゆっくりとした動作で箱を丁寧に包んでいく。「その糞野郎は、娘について何かいっていたかね?」

 マイケルは一瞬思い出すために天井を確認した。悲しみを持った沈黙をマイケルは作ったことを少しだけ後悔した。あのキーガンに聞いた言葉をそのまま言うべきか、とても悩んだ。俗的な考えを伝え、『カミラをタダの餌としか思っていない』と再認識させていい物か。聞いた相手が相当嫌な気分になるのは分かっていた。だから、「ノー、だ。特に何も気にかけちゃいなかったさ」バッジオはゆっくりとため息をついた。仕事柄分かり切っているらしく、諦めのため息である事は察しがついた。

「さっきもいったでしょ。生きながらに喰われるんだ。はっきり言って、キーガンというのはそんな些細な事なんて気にしちゃいないのさ」マイケルの言葉は、むなしさを孕んで人気のない廊下に反響した。

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