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かつてニューヨークといえば前時代の黄金期を築いていた。ニューヨーカーは憧れの姿であったし、フラッパーは女性の理想形として街のアールデコ調の世界に溶け込んでいった。
刷れば新聞は売れ、子供たちも『株』について口にして、靴磨きで貯めた金を投資に回し世界の頂点に立つことを夢見ていた。
森林と都市の融合という素晴らしい理想形を形成しながら、創生された摩天楼はさながら有頂天という言葉を表すように乱立した。作れば金が動き、金が動けば株に変わった。
資本主義という言葉が排水溝の汚泥にまで染み渡り、街行く人は煙草の煙と共に貧困への別れを告げていた――はずだった。
理想に至る――はずであったのに、『今』では砂上の楼閣か、蟻地獄のごとく、人々の希望を失い――または吸い取り――絶望の都市として君臨していた。
パルテノン神殿の様に理路整然と空へ伸びる構造物群は、黄金色の栄華を虚しく誇示し、過去を幻として忘れ去る事を一切許さぬ、見る者の心に無慈悲な楔として打ち込まれる異様な存在感を放っていた。
目の淀んだニューヨーカーたちは、よれよれのスーツに身にまとい、淀んだ瞳を摩天楼に向けてラッキーストライクに火をつけて、決して美味くない紙巻たばこの煙をくゆらせていた。かつては情報を得るために呼んでいた新聞は、知らぬ他人を嘲笑するためのゴシップ紙に姿を変えて、無価値な嘲笑の笑みを悲しみの代わりに貼り付ける瀉血の代わりの精神安定剤として定着していた。
混迷の時代にブルジョアジーの象徴たる摩天楼などはやらぬ、というのは当然の事。クライスラービルなど今やただの置物に過ぎない、というのがこの街の人々の共通認識だった。富んだ者に羨望や自己投影を行う様な夢見の時代は終わり、強制的に現実の世界に叩き起こされたというのが正しいだろう。
うなぎ上りだったゴールドラッシュは希望も、紙くずとなった株と同じで、排水溝に流される汚水になった。公共工事は軒並み止まり、財政難になったテナントによってあちこちに「CLOSE」の文字を並べるだけで精一杯。新聞屋だけがせわしなく、うれしそうに人々の不幸な姿を撮りためて記事にしていた。
反面、不安を取り除くために、食欲も性欲も睡眠欲も溝に捨て、酒の魔力による現実逃避を最良の薬として扱った。ゴシップ紙に、紙煙草、薄いウィスキーが今の三種の神器である。
急騰する需要と『アメリカ合衆国憲法修正第18条』(ボルステッド法)による締め付けによって、非合法のレッテルを貼られた『酒』を売るために、多くの潜り酒場が作られた。不幸から逃れるために酒を求める人々は、酒とギャングスターを賞賛。国家に忠誠を誓う様な熱血漢は今や一握りといえた。
ネッド・バン・アールズもそういった希望を持たない一人である事は事実で、大量生産される粘度の高いウィンナーが入ったホットドッグを口に運びながら、灰色の重い雲が覆った空を見ていた。
春から夏に変わる時期にはどうしても厚い雲ができる。雨が降る前ぶれの如く、空気には湿気が含まれ、あと半日も経たずに嫌な水浴びをしなければいけなくなることは分かっていた。綺麗な顔をゆがめつつ、唇に四つつけたピアスが、ホットドッグを放り込むたびにちゃらちゃらと軽やかな音を立てた。
歩きながら咀嚼する行儀の悪さを咎める者など、この退廃の街の中に誰もいない。むしろその一口分を、よだれを流しておこぼれが欲しいと、恨めしそうに見る方が大多数だ。子供も大人も飢えが存在する。それは、心の飢えだ。
確かに肉体的にも飢えは存在しているだろう。革靴を煮詰めて食べ、腹を下す者がいるのは日常茶飯事。それ以上に心の貧しさは過去の時間を見ても類を見ない。壮絶な南北戦争であったとしても、『不況』という恐怖には太刀打ちできなかった。
彼がやってきたのはそういった『潜り酒場』(スピークイージー)の一つであった。金を積めば照明用の液化燃料化と思える様はきつい臭いの小便色した《粗雑》な酒を用意してくれる『お店』だ。
形態はどこの潜り酒場も同じだ。何時でも警察のガサ入れがされても、すぐに姿を眩ませられる様に、棚には商品はならべられておらず、グラスだけが薄暗い棚に陳列されていた。酒は大体カウンターの下に消毒液のマークをつけた瓶に入れられるか、女給の足に括りつけられたベルトの中に入っていた。絶妙にスカートと、太い脚で隠せるのだから重宝されたのもの事実だ。
このボロボロの酒場は、本来であれば、補修をかけてニスを塗りなおすであろう棚の天板や、木製のカウンターはまったく手入れがされていない。塗装の深い緑色ははがれ、明るい色調の木目が顔を出している。椅子の塗装は剥げて縁がまるで天使のリングの様であったし、オリーブグリーンに真鍮の金文字で刻まれていたであろう店の名前は、暴れん坊によって木製部分を残して全部抜き取られて、禿げた塗装の跡だけむなしく残っていた。
店内にいる男は、ネッドの来訪を確認すると、手元に用意されていた小さいグラスに皮の手袋をはめた手でトプトプと液体を注いだ。天井から下げられた裸電球によって寂しく照らし出されている手元は、琥珀色の液体に当たり、白っぽい光をグラスの周りに天使のリングの様に映し出していた。
ネッドでなくてもそれが酒だと分かるほどに濃い色をしている。ネッドは、『上物だなぁ』と羨ましく思ったが、プリーズの一言は言わない事にした。
「結局、お前は商品を捨てるしかなかったのだろう?」本来バーテンダーがいるべき場所に立つ男が、ネッドに不快な色を一切隠さず問う。カサついた声は酒焼けだろうか。ハスキーなボイスというのはこの男によく似あう。
ネッドはぶるりとした身震いを一つした。眼前に居る男の肩書が一体何であるかというのは関係なかった。例えアメリカ大統領だったとしてもネッドは平常を保ち続けるだけの男だ。
しかし、ネッドの仕事の腕について『役立たず』の称号を与える事ができる”存在”であるという事が問題だと、彼はよくわかっていた。
ネッドは運び屋だ。それもただの運び屋ではない。この時代の栄華を極めているファミリー達の間を一切の派閥関係なくどこでも渡り歩く、筋金入りのアウトロー。一般的な企業の運び屋と違い、彼らとの間に”雇用の契約”は書面に起こされない。今回の失態を方々に嘯いて回る事ができる存在、というだけで、ネッドには脅威だった理由はそこだった。
いうなれば、信用事業であり、信用が崩れれば『用無し』のレッテルと共に、大西洋の水底に沈む事だろう。それはまだ楽な死に方だと、ネッドは理解していた。かつて彼が運んだ荷物の中にはそういった使えない奴らも板のだから。行先など思い出したくもない、という様に再びぶるりと体を震わせた。
「へへ、」と媚びた笑みを浮かべてネッドは頭をポリポリと掻いた。黒色の髪は短いものの、右側だけが刈り上げられて左右非対称だった。顔立ちが細身であるため、アシンメトリーな髪型が見る者に与える印象は、口元のピアスと共に、『異常者』という存在に近似した。
だが、ネッドは眼前の男、リチャード・エドワーズ・デュリに低頭だった。リチャードはポマードで撫でつけた金色の頭をぴっしっと決めて、口もとには顎ひげを蓄え、若い容貌を少しでも権威あるものにしようと必死になっている様な男だった。
年季の入ったスーツを好むわけでもなく、真新しい落ち着いた茶色のスーツを着用していたい。イタリア式のスタイルは筋肉質な彼には少し窮屈そうに見えた。すらっと見せるには良いのだろうが、肩幅の広さ、腰回りの丈夫さを考えると少し強い体のラインが強調されていた。
「現実には、……そうっすけどね、あのー、相手っていうのは、――うちらの界隈でも一番ヤばい奴らなんすよ。特に《芽》がついてるなんて普通のやつじゃない証拠じゃないっすか」早口に告げるネッドは、本当にさっさと切り上げたい、と思っていた。尋問される事を好むほど彼はマゾヒストではない。
「だからと言って、”商品”を捨てていいという事ではない。お前の命よりも商品の方が大事だと説明したはずだが?」リチャードはぎりりと拳を握りながらネッドに静かに告げた。黒い皮の手袋は、裸電球の明かりを反射し、少しまぶしかった。
当然、ネッドはその程度の事を理解しいる。危ない稼業である以上、命の価値が低いというのは分かっていたし、命よりも商品が大事だというのが、信用を勝ち取るための大前提である事くらい、良く分かっている。そして、いつか『こういう時』がくるのも理解していた。
もごもごと口ごもりながら「そりゃ、……」とネッドはバツが悪そうに言い訳した。「その事はよーく分かっているから、この仕事を続けてるってもんですよ。……でも二十人のトレンチコートを着込んだ男たちがシカゴ・タイプライターを構えて居たら、商品のお届けも商品の安全な返品も、出来ないっつー事くらいはよくわかってるっしょ」口をへの字に曲げているリチャードは、軽くカウンターを右手でたたいた。どん、という振動がネッドの手元にあるグラスに伝わり、バーボンを数滴飛び散らせた。
「そんな状況でない事くらい調べは着いているんだよ!」いやはや、と怒鳴るリチャードに頭をポリポリと掻きながら、「そりゃ……そうなんすけどね。相手が一人であったというのは――亡くなられた旦那の手下の相棒から伝わってるっしょ。あぁ、オレよりだいぶ使えない構成員に聞いても――へへっ、なに怒んないでくださいよ。事実じゃないっすか」
へらへらと笑う姿が本来のネッドの姿だとリチャードは理解しているのか、ネッドの失言をあえて追及はしなかった。しかし、当然納得できる様な状況ではないらしく、一口酒を飲むとわざとらしく咳払いを一つした。
「お前はもう少し使える奴だと思っていたがな。高い料金をふんだくる事しかできない、下手を打つ運び屋――いや、卸業者か。……とはいえ最低限商品の回収くらいはしてもらわんと、金につりあわん」
ネッドはまさかと、口にしながら驚いた表情を浮かべた。「あの《キーガン》に当たれっていうんっすか⁈ オレは嫌っすよ⁉ ……金っつーんだったら返したっていいから、関わりたくねぇよ……」リチャードはネッドを睨みつけ、ぎゅっと閉じてい作っていた拳を一度開いた。
一拍置いて、再びゆっくりと力をこめて拳を作った。メキメキと耳障りな締め付け音は、換気扇すら回っていない静寂を保っている酒場の中で良く聞こえて、ネッドは唇を尖らして不平を口にした。「そんな脅したって、結局かわらないっすよ。オレがやらないんだから、他の奴探せばいいっしょ」
リチャードは低く落とした声で囁くように言った。「お前が商品をくすねる奴だっていうことをこの街にいる奴らに流してやってもいいんだぜ?」底冷えする程しっかりと、ネッドの耳に届く脅し。ナメクジでも這い寄る様な不快感をネッドに与えた。
ネッドは不機嫌を通り越して渋面になった。一度ついた信用の傷は、二度と戻る事はない。良くて引退、普通は過去の出来事の腹いせに誰かが命を狙いに来る、という事くらいは簡単に想像つく。何処かのファミリーに属しているわけでもない、フリーランスの運び屋にとっては、リチャードの申し出は命取りになる言葉だった。
「……だったら、オレの代わりにそいつを雇ったっていいってもんだろう? あのいわくつきの《キーガン》をさ。あいつらはただの殺し屋だ。どっかで囲われているなんて聞いてないし、ただの処理を専門にするやつらだぜ? 金さえあれば商品だって返してくれ――かもしんねぇなぁ。つっても、早くしねぇと《餌》にされちまうだろうけどさ」
ネッドは頬を膨らました。嫌な物は嫌なのだ、という事を懇切丁寧に説明する気もない。キーガンについてはネッドは警察や政治家と同じ程に嫌っている。その理由がネッドの仕事の達成に邪魔であると、かつての遺恨が原因で、という訳では無い。
街中で人が消えた。それは混迷の時代であれば尚更当然の事で、誰も気にしはしないだろう。自分の子供であっても病院から出てきた若い夫婦が、養えないという理由でゴミ箱に捨てる程度に倫理観は崩壊しているのだから。失踪する数は年々増える。老年も、青年も、幼年も、見境なく手当たり次第に消えていく。一日で1人の失踪があったとしても、年間で300人を超える。警察だって全部は追えないし、そもそも『親族が居ない』や、『家族から見放された』から捜索願いすら出ない。
運よく捜索願いを出す裕福な家庭もあるだろうが、全体の『一部』でしかない被害者に、本来共通項があったとしても警察は見つける事が出来ないだろう。『キーガン』という名前は、数多くの失踪者の姿に紐づく答えだ。
ネッドは良く知っていた。仕事の関係で多くの噂を耳にしたし、実際、口にすれば悍ましい仕事を請け負った事だって何度もある。「キーガンにそいつの処理をまかせている」なんて言われた日には、『お前も餌だ』と言われている程の侮辱である事は裏の世界では共通認識だった。
大量に攫った人を、《処理》する存在が、キーガンだ。マフィアの邪魔になる建物の所有権を持つ者達を消すのが《キーガン》の仕事であり、仕事っぷりは完璧そのもの。文字通り全てをキーガンは平らげていた。
そんなキーガンを仲間にしたらどうかというハチャメチャなネッドの提案に、リチャードは目を丸くした。「……そいつは……。――そう、そういう事もありだな」しかも、何気なく言ったネッドの言葉に対して乗り気の様子を見せた。ネッドは顔には出さなかったが焦りを感じていた。殺し屋を雇うという事は、自分の処分も兼ねてだろうという事は分かった。
マフィアは体面を気にする。ナメられた事は嫌いだし、プライドを傷つける様な事があれば徹底的に元凶を叩くのは当然。外面と自尊心だけでできている存在だから簡単に気に入らないものに火をつける。
そうやって周囲から『恐怖によって一目を置かれる』というがほとんどのマフィアであり、中には、頭を使ってのし上がった者や、貸しを作ってのし上がった者もいたが、ほとんどは武 力と直結していた。
ネッドは、頭の隅ですぐに逃げる算段をを考え始めた。足の手配に、いつでも逃げ出せる様に用意した鞄の場所と、貸金庫の鍵の場所を素早く思い浮かべた。すぐさま行動しようとする心の所為で軽く腰を浮かせようとしたが、一息つけて落ち着けた。ここでワタワタと逃げ出す行為が小物の姿に他ならないため、恰好悪く思えた。
結局ネッドもマフィアの様に体面を気にする、俗物である事は事実だ。求める先は金である事は変わりがない。はした金ではあるが、それでも普通に人が得られる金よりは十分大きなリターンがあった。
「ふーむ、」リチャードは顎に手をあてて、ネッドに視線を向けた。ネッドは視線から逃れようとリチャードの手もとのグラスを凝視した。琥珀色の液体は、リチャードの口の中に何度となく入り込み、ネッドが来た時からは半分くらいになっている。
「そう、視線を露骨に外すやつがあるか? まぁいい。とりあえず今回の商品の話はおいて置こう。最終的にどんな状況であっても商品が手元に届けばいいだけの話だ。であれば――、」よからぬ事を考えているのは明白だったから、ネッドは耳を塞ぎたくなった。リチャードとの関係性からあまりに露骨な表現はできなかいから、視線を外したままにするのが関の山だった。
「そのキーガンというやつに商品を返してくれる代わりに、『代わりの餌』を用意するとメッセンジャーをしてくれないだろうか?」悪い予感はあたるというものだ、ネッドは話を飲むか、どうかを頭の中にこびりつく死への恐怖心と混ぜ合わせて考えた。
リチャードが抱える琥珀色の液体と同じ様に、味わいのあるものであればよかったが、考えた結果でてくるのはどう足掻いてもいい事にはならない、という未来だ。「因みに――代わりは何を?」想像する答えはネッドの中でいくつか候補が存在していた。
特に、マイケルについてはリチャードが処理を掛けたい相手だろう。まず間違いなくここ最近の取引をサルヴァトーレの派閥と共闘し何度となく煮え湯を飲まされている。次いで考えられるのは、モレロ一家の跡取りとして名前を挙げているマッセリア一家の誰かだろう。さらに考えるならば、ジョニー・トーリオあたりだろうか。
しかし、リチャードの答えは予想の斜めをいった。「メロ家の一人娘がいいだろうなぁ。あの金持ちはジョージにだいぶ取り入っていたから、しこたま金を抱えた家だ。さっさと取り潰して金を取り出す――となれば、娘は邪魔だ」
ネッドは信じられないという顔で真顔のリチャードを見た。『何か問題でも?』というとごく自然なリチャードの視線に寒気を感じた。大人だろうが子供だろうが使う、という考えにネッドは否定をしない。しかし、相手は一般人だ。マフィアとのつながりは薄い。むしろ、「教会との繋がりが強いのに……?」「それがどうした?」
信心深い人が多いかと言われれば疑問は残るが、マフィアであっても教会には手を出せない。教会の関係者を簡単に殺すなどと口走る事は、反逆と取られて他の組織から袋叩きにされるか、教会本部から『粛清』の名の下に処理がされるのは分かっていた。
「……拒否っていうのは、ねぇよな……」とポツリとつぶやく。ネッドの言葉にリチャードはおどけた様に肩を上下して嬉しそうに言った。「できない、という事もないがね、君の好きな保身というのは補償できないだろうさ」「それ、どっちに転んでもできねぇっすよ」ため息一つ。
リチャードの手元からグラスを奪い取ると、さっと口に運び、大して味の分からない酒を流し込む。喉が焼ける様に痛く、何を好んでこんな酒を喜々として人々は体に取り入れるのか、とさえ思った。
「相手の提示する物が、あんたの思っている物でもなかったら?」リチャードは頷いた。「当然そういう事もあるだろう。でも俺は誰か? お前なら分かっているだろう? そう。リチャード・エドワーズ・デュリは当代きっての天才だ。それがお前なら『できる』と踏んだんだ。……やれ」自分の言葉に酔いしれるリチャードは天を仰ぎ命令をする。
ネッドはリチャードのことを嫌いだった。特に自信家過ぎるところは気色悪く、権力者然としたふるまいは鼻についた。面倒事ばかりを持って来る、というのもネッドが嫌っている理由だった。
今回の仕事についても、とネッドはイライラした感情を一切も漏らさず低頭に努めながら、「荷物についての落ち度があったってーのは確かっすよ。元々、予定外にあんな所にキーガンなんて言う化け物がうろついているとはぁ、思いもしなかった。これは事故。そんな風にでも割り切らないと、今の時代の混沌さから逃れる事なんてぇできないってもんでしょ。マランツァーノが幅を利かせているっていうのも、尤もな話な所っしょ」
リチャードは軽くため息をついて首を戻した。胸ポケットから葉巻のはいったケースを取り出した。手をくるくると弄びながら、左手をジャケットの腰ポケットに突っ込んでカッターを取り出した。シガレットケースから取り出した葉巻を丁寧になぞりながら、「あいつの話なんてどうでもいい。頭を集めて組織の再編だとかなんだか、とほざいているが、俺に言わせれば、意味のない集まりさ。どいつもこいつも自分が頭になりたくてしかたないっていうのに、どうして集まれるっていうもんだよ」
馬鹿にした口調でリチャードは鼻で笑った。葉巻の先端を切り取ると、唇でしっとりと舐めてから、テーブルの上に散らばったマッチを一本とると、耳障りな音を立ててカウンターの縁で火をつけてく煙を吸い込む。
すーっと一口含んだ空気を口の中で十分に楽しむと、ゆっくりとネッドに向かって煙を浴びせた。「組織の再編だか、秩序を作るだとか、って言っても結局のところ力を誇示したいやつらの団体は長くは持たないし、そうでないのならただの仲良しクラブだ。そんなものに加担してなにになるね?」「秩序は欲しいってー、もんっでしょ普通……」まさか、とリチャードは爆笑した。煙が玉になって盛大にネッドを襲った。
嫌な顔をして右手で煙を払い退ける。「秩序がなくていいなんて、誰が言うかよ。どこであっても苦しくない程度の物は必要さ。じゃなきゃ、金すらもえねっすよ」ネッドは珍しく不快感を表にしてリチャードに釘を刺す。
リチャードにとってはどこ吹く風だ。自分が秩序であり、自分の見ている世界を正にしようとする。確かにマフィアの一角のを担える――かもしれない気性ではある。頭があれば。「仮に、秩序がなかったとしたら今回の『紛失した』荷物の件だって、無効ってことだろう? それをあんたはよしとしないだろう。カルフォルニアの奥地に居ようが、アマゾンに逃げ込もうが、オレのケツに花火の一つでもぶち込まないと嫌なのは良く分かっているさ」捲し立てるが、一切リチャードは気にしない。
代わりに、それで、とリチャードは目で催促する。ネッドは再び手に持ったグラスの残りををあおり、甘味の含む酒を嚥下した。喉が焼けひりひりとして、少し咳き込んだ。「――だからさ、サルヴァトーレ・マランツァーノの事は、影の方にとってもある程度は有益ってことさ。金を稼ぎ易くし無秩序な闘争を抑制する事によって、死人は減る。学がねぇオレだが、その程度はわかるぜ?」
リチャードはそうだ、と頷く。「その理屈は分かるさ。だからといって誰も彼もが良い顔するかっていう問題はある。秩序を重んじる、というのであれば、何等かのギブアンドテイクが俺とお前の間にも必要だろう? なぁネッド」うざったらしい視線をかいくぐるように首をすくめて、ネッドはイラつきを押さえた。小さく息を吐くと頭に上っていた血が下りるのがわかる。冷静さを取り戻しつつ、ネッドはいつもの軽口に戻った。「へいへい。そうっすね。……そいつに手紙でもなんでも届けましょうよ。ただ、オレが喰われなければ届くでしょうがね?」
「それは、」リチャードは意外そうにネッドの顔を見た。目を丸くして、目の前に金の鶏でもいたように目を瞬かせていた。「そんなにキーガンというのは可笑しなやつなのか?」「可笑しい? 馬鹿言っちゃいけないっすよ」ネッドは肩をすくめた。「あれは可笑しいんじゃなくて、《怪物?っすよ。この合衆国きっての怪物。人を人とも思っていない、ただの家畜か、あるいは、雑草程度にしか思っちゃいない。知ってるんでしょ? あいつこそが世間を騒がせている、連続誘拐魔だっていう事くらいさ」ネッドは自嘲気味に笑った。