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エヴァンジェリンの意識が『夢』から戻るのは、少し前に戻る。
エヴァンジェリンという存在から、意識を手放して、どれほど時間が経っているのかは分からなかった。
夢の内容は煩雑として記憶に残っている物は少ない。断片的な映像がつづら折りに眼球に焼き付いた様に存在していた。
どれも意味を理解できるものでは無かった。見た事のない景色。誰かの叫び。笑い声が何十にも響き渡り、ドラムの音をかき鳴らす様にすすり泣く音が聞こえた。
白い貫頭衣に番号の札を持たされ立っている者がいると思えば、大金を目の前に舌なめずりをする者も居る。
年齢も、人種も、性別も、思想も、理念も、目的も違う。
同じ”者”は居ない。
万華鏡の様な幾何学的な要素はなく、オリーブウッドの模様の様に混沌を表現していた。
視界が徐々に自分に戻ると、視界も戻ってきた。夢から醒める様に周囲は未だにぼやけていた。
眼前にはスティーヴとトラビスがいる。覗き込む様に上空から落ちる強烈な光の中に二人の影がしっかりと見える。皮膚の様子や、瞳の色は分からずとも、エヴァンジェリンにはシルエットだけで充分だった。
寝台の上で両手、両足を拘束具で押さえられ、口には金属の猿ぐつわをかまされている。
「――んー!」声にならない叫びに対して、二人は互いに顔を見合わせた。とはいえ、何度となく叫びを上げていたのだろうか、一切エヴァンジェリンに手を貸そうとはしない。
エヴァンジェリンは、キーガンやアリソンに囚われていた時に感じた、「あの感覚」を思い出して翼を行使しようとする。
背にあったはずの力の源に、一切の動く気配は感じない。
代わりに電気の走る様な強烈な痛みが背筋から背骨を通じて、脳に直接響き渡った。
「――!っ」痛みには慣れているはずの彼女であっても、歯が浮き、背筋が凍る痛みだった。
「翼は採った。ついでに核の外科的手術をおこない、君に存在していた呪はこれで消える。かつて、――キーガンという化け物と同じ様に肥大化する肉体の恐怖を君が感じる事はない」
しゃがれた声を聞き、視線を動かす。
バッジオ・ジョン・アグワイアは眼鏡に光を反射させて、立っていた。
エヴァンジェリンは”理解”していた。彼の言った意味というものを。
それでも、声と力を行使しようとした。
遠く、どこかで夢見たマイケルとメアリーの姿が目に浮かぶからだ。
ゆっくりと、バッジオは猿ぐつわを外す。
がちがちと寒さに震える子供の様に、エヴァンジェリンは歯を打ち鳴らした。
背筋に存在する違和感は、酷い喪失感を持っていた。
「寄生した核が抜ける時、基本的には人体の一部でが切除された時と同等の幻痛が存在するという報告がある。……たしか、トラビス神父もそういう経験があるだろう」
ええ、と影のトラビスは頷く。「自分の一部を抜き取られた、と感じる時間は人によって違うでしょうが、私に場合は慣れるまで一週間程度はあったと思います」
へー、とかほー、という様な感嘆の声で、スティーヴは小さく何度も頷いていた。
「私にはそういう経験がないからね」「さっさと脳天から脊柱ごと抉り取られて、肉体と分離しろ、このクソ野郎」
トラビスの辛辣な悪態を聞くのは初めてだったから、エヴァンジェリンはぽかん、と口を開けた。
すぐさま、トラビスは「気にしないでくれ」と笑いかけた。「スティーヴとは古い付き合いですから、こういう言い方でもしないと聞く耳を持ってくれなくてね」
嘘つけ、とスティーヴはトラビスの脳天に手近にあった書類の様な物で叩いた。
軽快な音がする辺り、書類あたりを丸めた物だと推測できた。
「これこれ、ここでそういう事をするなら、さっさと出て行ってもらうぞ」
バッジオは二人を窘め、両手で押さえる様にジェスチャーをした。
状況が理解できず、ぽろりとエヴァンジェリンは漏らす。「どういう、事でしょう」
そうだな、とバッジオは光の中で顎に手をあてて考えた。
「説明をする事は出来ないよ。言葉にできる事であるのであれば、奇跡や神や絶望や悪魔は要らないというものだろう。そうでなければ、君の様な”呼ばれた者”など産まれやしなかったのだから」
「謎かけをしたところで、彼女の憂いは晴れないよ」
声を聞いただけで、エヴァンジェリンは主が分かった。「マイケルさん?」と疑問形で尋ねたのは、どうして居るのかが分からなかったからだ。
あぁ、と照れた様に小さく応える声を聞くのは何日ぶりになるのだろうか。
「病院の件では済まなかった」
「きっと周りを気になさっての事なのでしょう? わたくしは気にしておりませんわ」
ほらやっぱり、とスティーヴは笑いながら、マイケルと思われる影をバシバシと叩いた。ハエでも追いやる様にスティーヴを左手でぞんざいに扱った。
「何が起きたか、どこまで記憶があるかを確認させてほしい、」トラビスが前に出た。
「どこ……とは?」霞のかかった頭の中では、きちんと理解は出来ない。エヴァンジェリンの最後の記憶とは一体どこか。
何か『影』の様な物に覆われていた――そう思えて仕方なかった。
影の姿を思い出そうとすると、ぶるりと体が震えた。横たわっていた体を無理やり起こし、足を曲げ、すぐさま肩を抱いた。
恐怖に震えているのだと気づくには少しの時間がかかった。
やはり、と誰かが呟いた。
「神、という存在に出会った事があるのであれば、その記憶を探ろうとすると畏怖によって記憶を閉じ込める事がある。――私もそうだったからね」
トラビスは、静かに言った。「人の姿をしていても、動物の姿をしていても、神はそれだけで恐怖の対象なんだ。何故だか分かるかい?」
「あぁ、想像を超える力を持っているから本能が警告するのさ」マイケルは言う。
「違う、嬉しくて感激しているのさ」スティーヴは笑う。
「脳内に起こった化学変化だろう。大脳辺縁系、側頭葉の内側にある扁桃体がそれを司っているとも言われているが、細かくは脳内を細部まで切り刻んでみないと分からないだろうな。アーモンドという名称が使われる事もあるがね」
へぇ、とマイケルは感心した様にバッジオに顔を向けた。興味らしい行動は見せた事がないマイケルの行動は意外に思えた。
「”amendoa”はポルトガル語でアメンドゥでアーモンドの意味だ。
アーモンドの花言葉には二面性があるのは知っている? 一般的に旧約聖書のアメンドウの杖を指すとおり『真実の愛』や『希望』という言葉が使われるけど、『愚かさ』や『軽率』とも言う。
トロイア戦争時、トルキアの王女と戦士の恋物語に起因し、そういった負の花言葉が付いたといわれているね。
そうであれば、恐怖を感じる時には脳内のアーモンドが綺麗に咲いているんだろうね。軽率であると嘲笑する様にさ」
詩的だなぁ、とトラビスが笑った。「私はそういう無意味な知識の持ち方は好きだけれども、マイケルが言うのは違和感を感じる。何か変な物でも食べたのだろうか?」
本気で心配するように声を潜めてトラビスは場所を動く。少しだけバッジオの傍に来ると、トレイの上から一つの宝石を取り出した。人差し指と親指に挟まれた直径5センチ程度の大きさいの物体。
逆光の中であってもそれがガラスの様な透明さを持っている事は分かった。ブリリアンカットでもされたような幾条もの光線が視界に入るが、宝石は原石に近く研磨された様な形跡はない。だというのに、黒く透過性があるにもかかわらず、赤い筋状の光跡が稲妻の様に内部に存在していた。
石といっても形状は酷く歪だ。風、水、砂そういった自然界の中での研磨が一切ない空間での”成長”が見られる。角は鋭利で、薄く伸びた結晶体は氷の結晶と同じ様に、四方八方へ幾何学的に伸びきっている手を持っていた。
「これが、トラペゾヘドロン。輝く物であり、生命を触媒に作り出された神を呼ぶための石だ。とはいえ……これだけでは力を持たない。しかも簡単に力を与える事も出来ない。
鶏が先か、卵が先かという議論は永久に答えは出ないだろうが、こいつに関しては決定的な物だ」
バッジオは、トラビスの手の上にある宝石にピンセットを合わせて引き取る。
そのまま、右手で持っていたシャーレの中に沈めた。
水底を映し出すガラス製のシャーレの中で、ゆっくりと黒光りするトラペゾヘドロンは融解していった。氷が解ける様にゆっくりと容器の中にたまっていた液体に溶けていく。
「水晶体であるならば、この様にリンゲル液に溶ける事はない。金属であっても長時間つける事で腐食はあるだろうが、溶解する事はない。ましては融解など――あり得ない」
「これは、君の体から取られた核だよ」とトラビスが言う。今度はトラビスは紙片を取り出した。ペーパーナプキンの様で、掌サイズのたたまれた用紙だ。
トラペゾヘドロンが融解した中にナプキンをつける。「これには特殊な性質がある、」バッジオが説明をする。「現状、リンゲル液と一体化されたトラペゾヘドロンは、水分含有量が一定以下になると結晶化する。溶解したと最初は考えていたが、融点は低く、手に持っているだけでも融点に達する。が、一定量の水分と微量元素が存在しないと融けない。混ざり合っているのではない。『最初からリンゲル液の影響で融解し、存在形状を保持している』という特性がある」
これは、とマイケルが続ける。「人体の中では重要な事。この物体を過剰に体の中に取り込むと、結晶化するのではなく、少量であっても、水分が抜けると形状が形成される。多くの《羽付き》の肝臓付近を切り取ると結晶化が確認される事が多い」
あぁ、とバッジオが頷いた。「肝臓は体液を多量に溜め込んでいるからな。普段は結晶化せず、へばりついているんだろうが、死亡と同時に血液が抜けると同時に結晶化するのだろう」
ほら、と紙ナプキンをみせると、へばりついた黒い宝石が見えた。
奇怪なものだ、とエヴァンジェリンは思う。水に溶解した物体が凝析するにはそもそも水と親和性が低い事が条件だ。だというのに、電解した状況でもないのに凝固する状況があまりにも理解できない。
「理解できない事はそのままでいい。そういう特性の物体が『世界』にはあるという事だ」
バッジオが悩みを見透かした様に言う。「そもそも、このトラペゾヘドロンが人体の中でどの様に流動しているのかも分からない。これだけ大きければ血管は通らないだろうしなぁ」
「異星の遺物でどうこう考えるのは、人間という枠にとらわれた考えなんだよ」スティーヴがくすくすと笑う。馬鹿にしているわけではなく、心底楽しいだけの様だ。
呆れた様子のトラビスだったが、一拍おき、エヴァンジェリンに視線を戻す。
「この物体を産み出せる者がいる」
意味が分かった。すなわち、これを”母体”として持っている者がいるという事だ。産み出せるという事は、『兵器の製造ができるんだぞ』と言われている事だ。
エヴァンジェリンにそれを伝えるべきか、本来は躊躇らしい事をして欲しいとは思った。いくら外見的に大人びていても、まだ成人していない。
まぁまぁ、と不機嫌を察してトラビスは手を振った。「非難をするために言及しているんじゃないですよ。+と-はこの世の道理で、産み出すという事であれば、死するという事も存在しるわけです。
翼を剥ぐという行為だけで本当に《呼ばれた者》は神の束縛から逃れたのでしょうか。――私はそうは思えない」
マイケルが頷く。「《翼》はあくまでも力を行使するための機関でしかない。人として近づく事はあれ、本質が違う物は同じにはならない。
例えばトマトケチャップを材料の状態に戻せと言っても誰もできないのと同じさ。でも、それはさっきスティーヴが言った様に『人間とうい枠にとらわれている』という事さ」
すなわち、とバッジオが何かを持ってくる。
両手に抱えてはいるが大きなものではない。手の大きさ程度70センチ程度。重量感は感じられず、しかし有機的なフォルムではない。
機械的な物体は、何枚もの金属片で構成されているという事が分かる。
「”力の行使”の方法を変える事ができれば、”生み出す”行為と反対側がつかえるのではないか、と考えたのさ」
「それは、奴らに死を与える力だ。使うには、――本人の意思を確認したい」
マイケルは感情の起伏なく言う。「この世界に、こんな力は要らなかった。元の世界で《羽付き》の力が無ければきっと機械が世界を席巻するだろう。人の力を増幅し、人の感覚を増幅し、世界の距離を縮め、空に人があふれるんだ」
バッジオが手に持っている物を見せる。大きさにして70センチの一対の翼。
「イカロスは、その翼が自然に勝てず自滅した。しかし僕たちは、それでも挑むのさ。世界に存在する物に対して”人”の力で」
鈍色に輝く翼は、骨となる太い金属に名前がある。
「Hastur? Has star?」
「いいや、神の名前さ。――星を統べる、神『ハスター』」




