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陽射しが徐々に傾き始めていた。太陽が頂点をすぎ、ゆっくりと地平線へと落ちる中、まだ世界は暖かな空気に包まれていた。新緑の草木のカサカサというリズムに合わせて、虫たちの活発な低音や、鳥たちの高音によって、オーケストラさながら。
だというのに、孤児院の中は埃臭く、積み上げられたレンガによって作られた影を濃くしていた。トラビスはこの臭いが好きだった。
トラビスは今、子供たちを前に教科書を読み、彼らに正しい発音と、正しい綴りを教えていた。この平穏な日々は何事にも代えられない彼の”日常”だった。
それを実感できるのは、清潔感を想像させる石鹸の香りというよりは、埃臭く木々の香りが入り混じる、自然の香りだった。火薬の臭いも、ドブの臭いも現実感は存在する。生きているんだという事に帰結する五感の一部ではあったが、安らぎとは乖離したものだった。
心の癒しが欲しい、とは思うのは人の性だ。トラビスが安息に近い、教会に身を置くとはいえ、そういう人間らしい温もりを求めるのは仕方のない事だった。
仮に、夜の町に出たとしても、鮮やかに飾り付けた女性たちに現を抜かすのではなく、彼が熱っぽい視線を向けるのは町医者のトム・ヴァン・ベルの一人娘、アリスくらいだった。いまだ大学生である彼女に言い寄るのも勇気がいるものだったが、それでも何とも言えない間柄で――ベストフレンドといわれる程度には親交を持っていた。結果として、彼女に温もりを求める事は叶っていないから、いつも荒んだ気持ちになるのを子供たちの笑顔によって癒してもらっているのだ。
今も、稚拙ながらに読み上げるオデットの声が、妙にドイツ訛りになるものだから苦笑した。トラビスがよくかけているラジオの影響か、はたまた、町の悪ガキたちが先の大戦のことを茶化していた。それが次第におちゃらけて、ごっこ遊びの様相に変わり、正義のアメリカ兵と悪のドイツ兵を演じる事になっていたのだろう。
オデットはいつもおっとりしているためきっと、ドイツ兵の真似ばかりさせられているのだと想像できた。「そんなに誇張しなくていいんだよ」とトラビスが苦笑しながら告げると、オデットは恥ずかしそうに「はい……」と顔を赤らめて声をすぼませた。
二、三人子供が喧嘩をするサルの様に盛大な奇声を上げて笑いながら囃し立て、「親ドイツだ、親ドイツだ!」とオデットに茶々をいれるので、「こらこら、」トラビスは手を叩いて注目させた。
「悪口はいけませんよ。人にやさしくする事こそが必要であり、相手をなじることは君たちの魂が汚れるというものです。汚れは身をやつし、君たちの身を引き裂いてしまいます」ほら、とトラビスはおどけた口調で、頬を膨らませ、「お話の中の悪魔にでもなってしまいますよ」と驚かす。子供たちはキャーとか、ワーとかいって喜んでいた。
彼らだって本気でそんなことを信じている訳では無い。悪魔だとか神だとか、なんだかんだと言っても、生きる事の方が優先なのだ。ここにいる子供たちはステレオタイプな生活など送った事が無かったのだ。彼らにとって悪魔は心の醜い大人であり、天使や神は彼らを救い出したトラビスたちに他ならない。偶像化された感情にいまさら概念の話しをしても信じようとはしない事くらい、トラビスでも十分に分かっていた。
トラビスはオデットの前に行き暗い表情の彼女の顔を覗き込んだ。垂れ目のオデットは小さい唇をきゅっと噛んで、顔を真っ赤にして恥ずかしそうに目をトラビスから外し、手元に向けた。
トラビスはそんな悲しそうな表情をするオデットを責める事はせず、温和な笑みを浮かべた。「次は私の発音どおりにやってみようか。皆に認めてもらいたくておどけてみたんだろう? なーに気にする事ないさ。ほら、皆だってただ可笑しくて笑っているだけさ、本当に悪口を言っているわけではないんだよ」
「どうして、ドイツの事を悪いっていうの?」オデットではなく、お行儀よく座っていたチャールズが疑問を投げた。机の大きさが大きいため、座る位置を高くするためにわざわざ毛布を丸めて長椅子に乗っけていた。
チャールズの質問にトラビスはどう答えるか言葉がつまった。しかし、直ぐに考えをまとめると、オデットの沈む頭を軽く撫でてから、「悪口っていうのはドイツの事ではなくてね。ドイツの事を茶化してオデットに”そうだ”、っていうレッテルを貼っている言葉に対して、私は悪口と言ったんだよ」
チャールズは首を傾げた。何故という事がすぐに沸いてくるのだ。「分からない、みんなにレッテルを貼るのは悪いの? ジェフに体が大きい、っていうのもレッテルになるの? アーチー神父がいつも帽子をかぶっているから、《帽子の人》っていうのもだめなの?」チャールズの下っ足らずな言葉が作る疑問にトラビスにはとてもうれしく思えた。
疑問に思う事をトラビスは禁止しない。正しい事を認識するためには、多くの疑問をもって相手との共通の認識を増やすというのは重要な事だった。多くの子供たちは、それを言葉にせず、感覚として対処する事ができるが、チャールズはすぐに言葉に出した。それは整理するためだということを知ったのは、彼を保護して4日間ずっと尋問じみた聞き取りをトラビスに対してチャールズがしたからだった。
「そう、そういう考えはとてもいいよ」と喜んで見せた。当のチャールズはトラビスがいきなり両手をあげて喜びだすものだから驚いた様に目を白黒させていた。確かにオーバーだったかな、とトラビスは上げた両手を恥ずかしそうに戻した。
「いいかい?」トラビスは子供たちに落ちつきを取り戻して尋ねた。「悪い事っていうのは何だろう?」誰も手を上げなかった。いきなりの事で頭が付いていかないのだろう。そもそも、そんな事すら考えたことがない、というのが大半だったが、中には、ふふん、と得意そうな顔をしている子供もいた。
オデットがおずおずと手を上げた。トラビスはオデットに発言を催促する様に、左手の指をパチンと鳴らして手を差し出した。「……傷つける、事だとおもいます」トラビスはオデットに拍手した。
「そのとおり、傷つける事だ。では、傷つけるというのは何だろう?」再びの問いかけに年長のジェフがふんす、と鼻息荒く手を上げた。「オレ、知ってる」トラビスは再び指を鳴らすと、ジェフを指名した。
「相手に暴力をふるう事、相手を罵る事、相手を馬鹿にする事、あと、相手の物を盗む事だ」「確かにそうだね。ジェフ。……時に、最近悪い事があったのかい?」ジェフは大きな体で胸を張って頷いた。ゴムボールみたいな体であるからパンパンに膨らんだお腹がテーブルの上に乗っかり変形した。その姿を誰かが笑ったが、ジェフは気にする様子はない。
「こらこら、」とトラビスが笑いの主は探さないものの窘めた。「今の笑いだって相手が傷つくと思うと、悪い事になるんです。よく、自分の行動を見て、考え、感じて、結果として行動する事が大事です。感情的に流される事は、引いては悪に染まりやすくなる、というものです」
トラビスの言葉の終わりを予期した様に、午後の柔らかい風が窓から吹き込む孤児院の扉が軽快に開かれた。逆光の入口に子供たちが振り返り頭を向けた。ボロボロの扉はギィとうるさい音を立てていた。あまりの唐突な開き方は、蝶番によって勢いよく扉を戻らせて、開けた主の顔面に直撃した。
しかし、顔面に当たったというのに、その主は平然とした姿で、鼻頭を赤くさせながら大きな声で告げた。
「今日も来てあげたんだから!」
可愛らしい声を高らかに、外光の中を自信満々に進んでくるのは栗毛の少女だ。長い髪を左に一つの束として風に靡かせて、細い薄い青色のリボンで結んでいた。髪は香油でもつけているのか、非常に艶やかで一本一本のきめの細やかさが際立っていた。大人しめの薄い水色のワンピースに純白のソックス。真っ白な革靴は丁寧に磨かれつやつやとした光沢を放っていた。
誰が見ても、その姿がこのみすぼらしい孤児院に似合わない事は分かった。燦々と降り注ぐ太陽の下、わざわざ太陽の陽を避ける様に作られた白いガゼボが鎮座する英国式の庭園に、19世紀を代表する様な手の込んだ茶器を用いてゆっくりとアフタヌーンティーでも楽しむ、そういった姿に見えて然るべきだった。
都会という魔物の膝ものとであるニューヨーク州の郊外のスラムに近い荒れた公園の傍に作られた、孤児院に来るなど正気の沙汰ではない、と親が止めて居るべきだ。少なくともトラビスは毎度のことながら、この少女をみると、『場違い』感を拭えずにいた。
「ミス・メアリー、少しはお淑やかに、開けていただけませんか? 毎度のことながら、授業の妨げになりますので……」トラビスはいつも通り申し訳なさそうな口調で諭した。本音を言えば、さっさと帰ってもらいたい、というものだったがそんな事は口が裂けても言えなかった。
狭い孤児院の奥、小さい黒板を壁に立てかけた食卓の前に立って、四人の子供たちに落ち着くようジェスチャーをしながらトラビスは、子供たちの背面を通って入口の方へと向かっていった。
「気にしなくてもいいのよ! さぁ、今日もお菓子を持ってきてあげたわ! だからマイケルをよこしなさい?」トラビスは苦笑した。自分の心を一切包み隠さず、ギブアンドテイクを要求する様は、正直すぎて好感は持てる。とはいえ、このままいつも通り彼女のペースに飲まれてしまうと、全く授業にならない事は経験済み。
「もう少し、待っていただければ……」「いやよ! ワタシの時間が無くなってしまうもの。いいえ、ワタシとマイケルの過ごす時間はもうあと二時間もないの! お父様の帰宅前には帰らなくちゃいけないんだから!」トラビスの言葉を遮り、聞く耳を持たない姿勢に対して、トラビスはがくりと肩を落とした。
メアリー・マイ・メロは、この孤児院の土地を持っている地主の娘だ。背はマイケルの二歳年上というのに、小柄マイケルと比べるとずいぶんと高く百六十五ほど。入口に立てばボロボロの金切声を上げる木造の扉の大きさとさして変わりはしないとさえ思える程だ。確かにヒールを履いているのだから彼女の述べた身長よりは多少高くなっているとはいえ、隣にマイケルがいれば、年の離れた姉と弟に見えて仕方ない。
当のマイケルは彼女の事をどう思っているのか、とトラビスは聞いた事がある。「好きか嫌いかとか子供じゃないんだからわざわざ他人に報告する必要ある? 君さ、もしかしてメアリーの事が気になる――あぁ、若い”少女”が好きな権力者の性癖か。こういう事に対して分類がないっていうのは面倒だなぁ」と汚い目で見られ、有耶無耶にされた記憶があった。
メアリーの後ろには静々とした影の様に佇む侍女が一人いた。トラビスはフルネームでは知らないまでも、『ジェリー』という名前は知っていた。清潔そうな白いエプロンをして、飾り気のない茶色のワンピースを隠していた。
ヘッドドレスの代わりにコマドリの小さい刺繍の入った清潔感のある頭巾をかぶり、長い髪を後ろで縛っている。メアリーと比べると華のない装いではあったものの、彼女のすっとした目鼻立ちの所為で落ち着いた”大人の女性”を体現していた。
ジェリーは面倒見の良い人であったから、メアリーが孤児院でマイケルをもてなす――正確にはマイケルが振り回される――間に、トラビスと共に子供たちの面倒を見たり、職員手伝いをしたりと、意外と気の利く女性ではあった。
「お嬢様、」ジェリーは落ち着いた声で告げながら、メアリーの小さい肩をトントンとたたいた。「こちらのバスケットに御用意しておりますので」差し出された蔦か何かで編まれたバスケットに。丁寧に真っ白な布巾がかけられていた。
大きさからしてメアリーが持つには抱えるしかないだろう、という大きさであったが、気にする事なく、でんとメアリーの細い両腕の上にジェリーは遠慮なく置いた。
「ええ、」とメアリーも一介の使用人の不躾な態度に対して気にした様子がない。おそらく、メアリーが一般的な形式ばった関係を好まなかったのだろう、と予想は出来た。というのも、彼女は非常に闊達な少女であったから、メロ家が行う数々の事業によりメアリーの肩書に『お嬢様』というかたっ苦しい冠が付いているのを快く思っていなかった。呼び方を変えさせる事は叶わぬから、できるだけフランクに接して欲しい、という彼女の意思が介在したのだろう。
「さぁ、並びなさいな!」向日葵の様な明るい笑みを浮かべ、メアリーが沈黙を守る教室にずいっと当然の様に入ってきた。「あの、ですから、授業が……」困惑するトラビスは愛想笑いを浮かべながら、待つように手を前にして言葉をかけようとした。
「お嬢様、」ジェリーの言葉がトラビスを遮り、一歩、一歩とメアリーの後ろに近づきつつ、「トラビス様は、これから休憩にしようと子供たちに宣言をされるのです。少しお待ちになってはいかがでしょうか?」
違う、とトラビスは口をつぐんだまま心の中で叫んだ。口外する事ができないのは、メロ家との問題だろう。地主の娘であるから無下にもできず、結局のところ彼女の横暴な――あるいは可愛らしい、ふるまいに振り回される事が通例ではあった。
『また、今日もそうなのだ』と恨みを含んだ瞳でジェリーをギッと睨みつけたが、ジェリーはトラビスの視線に意に介する様子はなく、鼻歌交じりで目の前にいるメアリーの跳ねっ毛を撫でつけていた。
ため息を一つ。軽く吐くと肩を地に着くくらいがっくりと落とした。「……せっかくの御厚意ですのから、みなさん、行儀よくいただきなさい」とぼとぼと教卓まで戻ると、右手で教卓の上に開いていたボロボロの教科書をパタンと閉じた。
子供たちがはじけたコーンの様に立ち上がった。ワーとかキャーとか喜びを口にし、原住民の祭りの様に口々に感謝を述べながら、両手を天に向けて『餌』を手に入れようと、我が先にとメアリーめがけて突進していった。
清貧な孤児院の食事がかなり厳しい、というのは事実であった。いくら『非合法』の仕事をトラビスが行い、彼らの生活全般に充てようとも、かなりの人数がこの孤児院には居る。芋を手に入れてもすぐ消えるし、トウモロコシを荷車一杯に持ってきても、一か月も経たずに消費されてしまう。
育ちざかりの子供たちだという事も理由ではあったが、ここには一時的に保護した子供も多く入れ替わり立ちに来るのだ。ニューヨークで生まれた大量の失業者の子供は、『飼えなくなった』大人たちによって野に放たれるだけ。
食い物にしようとする、汚い人間の毒牙にかからぬように、教会内でも支援の話しが多く出ていた。そんなところ、「トラビスのところは孤児院をやってるんだから、一時的に置いとけるよなぁ」などとふざけた事を言い出した同期の顔を思い出すと、思いっきり壁を殴り付けたくなった。
トラビスは「仕方ない……」と諦めながら一人つぶやくと群がる子供たちを見守った。子供達がわいわいと群がる姿は、砂糖に群がる蟻か、はたまた木の実を食べに来たムクドリの大群か。可愛らしいを超えて津波の様相を見せていた。「言わんこっちゃない……。だが……」毎度の姿にもみくちゃにされるメアリーの姿は見えなかった。
ジェリーが殺到する子供に対して軽快な音をたてて手を叩いてけん制しながら、行儀よく一人ずつ整列させていった。元々はこういった貧しい生活をしていたか、あるいは大家族で皆をまとめていたか。子供の扱いに慣れている彼女の行動に、舌を巻きながらトラビスは椅子を引いて座った。
メアリーは笑みを浮かべながら、手に抱えたバスケットをしっかりと持って、部屋の中央に置かれた大きな楕円形のテーブルの上にごとりと置いた。食事の時にも使う一般的な長机だ。、十人前後の大人たちあるいは、子供たちだけなら十五人は座れる長さを持っている。
教室といえどもお金のない孤児院では、食卓と教室を同一にするのは一般的だ。かび臭い調理台は一人の大人が入るだけで精一杯の大きさであったし、オーブンなどは設置されていない。竈には古ぼけた寸胴の鍋が一つ、デンと置かれ、油汚れで黒く変色した樫木の棚には曇ったガラスの調味料が並んでいた。
だというのに、併設する礼拝堂だけきちんと整備し、絢爛豪華な燭台や、主を讃える品々に抜かりはない。大きなタペストリーが十枚は壁にかけられ、教会のシンボルたる十字をきっちりと来訪者へ提示していた。
教会の”顔”に対する予算は用意されても、それ以外雑多な物は後に回される。これは仕方のない事だとトラビスは思っていたが、子供たちの姿を見ているとどうしてももっとお金が欲しいと思うのは仕方のない事だった。いっそのこと、スティーヴと一緒に怪盗団でも結成した方が稼げるのではないか、と考えた事もあった。しかし、そんな夢物語を実行するにはトラビスは現実主義者過ぎた。
「今日も皆は元気でなによりね!」メアリーの闊達な言葉に対して、普段は憎まれ口をたたくチャールズや、ザカリーは手に持ったチョコの入ったクッキーを手に、嬉しそうに笑っていた。一つの大きさが子供の小さい顔くらいあるのだから随分と大盤振る舞いである。この不景気な時勢でも潤沢な資金を持つ、いわゆる勝ち組の姿を彼らはどう思っているのか、とトラビスは思う事がある。
子供たちの境遇は悲惨だ。親もいない。兄弟と死に別れた者も居る。大人に折檻された者も居る。未熟な体だというのに男を受け入れた少女もいる。
普段は大人しい小太りのジェフは、そんな中でもまだまともな方だ。教会の前に小さいバスケットに入れられて置かれていただけだ。貧しく、養う余裕がないからせめてきちんと『生きれる』場所へ望みを託した彼の両親の考えを、トラビスは否定しない。それが彼にとって良かった事かどうかは別としても。
ジェフは年齢相応にもごもごとしながら、「メアリーもいつも元気じゃない。……まだ寮で寝ているマイケルを見てみてよ。――昨日の顔は本当に酷かった。……幽霊みたいに青くって、今に煙突から抜けていく煙みたいになっていたんだ」
メアリーは目を丸くして一人一つのはずのクッキーを二枚、三枚と追加した。「そうなの? だから今日はいつもみたいに皆の先生役はやっていないのね。ずいぶんと……遅かったのかしら?」
メアリーの言葉にジェフはうんうん、と頷いた。「また仕事だったみたいで、……遅くまで神父様と外にでていたよ。帰ってきたのが真夜中で――まるで幽霊みたいでさ」おや、とチャールズがジェフをからかう様に、「見たの? 見たの? そんな遅くになっているのに、――良くないよ。寝ている時間じゃない」と茶々を入れてきた。
ジェフはふんす、と鼻息荒く、「違うし、遅い時間にあんな大きな音を立てて帰ってくる二人が悪いんだい」腕を組んでそっぽを向いた。「えぇ? そんなすごい音なんて無かったとおもうけど……」自信なさげにチャールズは眉を顰めた。「してた、してた。絶対してた! だってなんか大きな毛布にくるまれた物をもって、お湯まで沸かして部屋をいったり来たりしてた!」
どういう事か、とメアリーがトラビスに目で訴えかけてきた。「前もワタシは言いましたよ、トラビス神父。――彼と危ない事はしないって!」子供たちの事をジェリーに押し付けると、ずいずいと子供たちの間を縫ってトラビスに詰め寄った。指を立て、怒っている姿であるにもかかわらず、未だに怖さがないのは彼女の可憐な姿の所為だろう。きつい目ではなく、口調も威嚇する様な鋭さではない。
「いや、危ない事ではないよ。……たぶん」まぁ、と口に手をあててメアリーは目くじらを立てた。ふわりと彼女の髪が躍り、華やいだ香りがトラビスの前に柔らかい風でやってきた。「たぶんですって? たぶんってなんでしょう? ずいぶんと子供じみた言い草じゃありませんか?」ねぇ、と頬を膨らませて彼女は口をへの字に曲げた。
腰に手をあてて下から睨みつけてきたメアリーの姿は、トラビスの有耶無耶の姿勢を許さないほど毅然とした態度だった。
バツの悪い表情をしてトラビスは頭をぽりぽりとかいた。いつも通りにマイケルが起きてくるまで言い逃れをしてもいいが、おそらく『荷物』の所為でそう簡単には部屋から出てこれない事は想像できた。
言い訳をする事で言い逃れようとしたわけではないが、真実をメアリー、特に子供たちの前で話をする訳にもいかない、という心情ではあった。まさか、夜中に『いやぁ、拳銃を持って大男を内倒し、御姫様でも救ったんです、アッハハ』と笑って見せたら、顔面に綺麗な紅葉の模様を形成する事ができただろう。
口をもごもごとして言葉を絞り出す言葉は、わざわざ――誤解を招く様な言い方になった。「それは、ほら、ね。その、マイケルももう、大人なんだし、少しくらい『夜』の仕事の手伝いをしたってバチもあたらないものだし……」
ジェリーがふっと顔をあげて、右手をちょいちょいと動かしながら、メアリーを呼んだ。子供の輪の中で機械の様にクッキーを配りながらの動きはある意味恐ろしさを感じたが、トラビスは突っ込みをする気にはなれない。「お嬢様、お嬢様、」普段どおり澄ました表情であるにもかかわらず、少し言葉が躍っていたので何か焚きつけようという魂胆が見えた。
トラビスが口を開きそれを制止しようとしたが、それよりも早くジェリーは口火を切った。「トラビス様はこうおっしゃりたいのです。マイケル様には女性の一人や二人の経験が伴わなければ『男性』ではないと、感じているのでしょう。《夜のお仕事》と強調をされる事から、何とも綺麗に暗喩を用いた素晴らしい表現であります。こういった奥歯に物が詰まったような言い方をするというのは『そういった』ことをさせるというものでございます。マイケル様の様な落ち着いた少年が好きなマダムたちは多くおりますので、『そう』いったところにマイケル様をぶちこんで、大枚いただきましょう、っていう魂胆なのでございます」ぐっと卑猥な手の動きを右手でとり突き出しているが、ジェリーはすん、とした澄まし顔。
頭痛をこらえトラビスはトントン、と額と人差し指でたたいた。用意していた言い訳をジェリーの言葉で固まってしまったメアリーに向けて連射した。「スピークイージーの仕事は、彼の様な子供の、外見には都合がいいっていうことですよ。――女性の場合には足の間に隠す、なんてこともするんですが、昨今では結構な摘発の嵐で……。物を運ぶというのも大変な物なんですよ。ここの――経営状況は良くご存じでしょう? メロ家に支援をいただき、地代をタダにしていただいていても……中々皆を養っていくには足りない。
そういった仕事であれば、子供ならまず疑われないですから、肩掛けカバンにたんまりと瓶をつめていても『牛乳です』の一言で警察は終わりというものです。適材適所っていう事も考えてボスも雇ってくれているのです」
しかし、メアリーは言い訳じみたトラビスの言葉に対して目くじらをたてた。トラビスに幼い嫉妬心に似た強い視線を向けていた。歯をむき出しにして怒りを露わにするわけでもないので、一応はトラビスの話を聞いてくれているらしい事は分かった。だが、口には出さない重圧は確かにトラビスに向けられ、針の筵に居る様なチクチクとささる視線をあえて合わせない様にしながらやり過ごしていた。
ふぅ、とメアリーは小さくため息をつき、左手を腰にあてて、少し思案した。「そういう事にしておきますっ。……、」沈黙を含んだので、トラビスがちらりと横目で確認すると、納得した表情ではなかったが、我慢して残りの言葉を処理した事が分かった。トラビスは、そういう事なら、とこの話を深くしないために「マイケルだが、」と口を開く。
「まだ、夜勤だったこともあって。寝ていると思いますよ。いつもどおり、に……、」とここまで口にしてはた、と止めた。不自然な言葉の区切り方だったため、メアリーが疑いの目を向けていた。
今、メアリーに彼の部屋を確認させるわけにはいかない、という思考がトラビスの頭に過ったのだ。当然、昨日の出来事の『荷物』の所為ではあったが、それを言いよどむ。もごもごと大の大人が言葉を飲み込んだ事に疑いの目を向けるのは当然だった。「なんです? なにか?」と、メアリーが催促する。体はすでに半身動き、すぐにでもトラビスの前からすっ飛んでいくことが確認できた。
「あー、いや、いや、マイケルなら私が起こしてきましょう、そうしましょう。目ヤニに寝ぐせだらけのあいつの姿を見せるわけにもいきません。ちょっと待っていてくれれば身だしなみを整えて、――」「それくらいなら別にいつものことじゃない! 子供たちの事もあるでしょ? トラビスの手を煩わせる事もないですわ」すぐさま踵を返してスタスタと歩いて行ってしまった。
肩を掴みとめようとしたが、チャールズが、「お菓子もらった!」とニコニコしてトラビスの前にやってくるものだから、空をきった手を紛らわす様に笑みを返し、「はぁ……。チャールズ、ちゃんとお礼は言えたのかい?」と頭を撫でた。
トラビスは次の展開が読めて再び頭痛がぶり返してきたが、もうどうでもいいか、と諦める事にした。危ない仕事をしていれば、諦める事も重要であるのは身に染みていた。
昨日一緒に酒を飲んでいた奴が、悪い酒にあたり死んだとか、抗争に巻き込まれて死んだとか、そんなことをいちいち気にしていても仕方ない事だった。
トラビスの兄は世界大戦で死んだが、その時だって涙を浮かべるよりも「家のことどうすんのかな」と教会に身を置いていたから他人事に思ったものだったが、すぐさまどうでもいいや、と思えたのは彼の前向きな、あるいはドライな性格によるのかもしれなかった。
憂慮したとおり、裏手の方から悲鳴が上がった。
綺麗なソプラノの悲鳴を背景音楽にトラビスは肩をがっくりと落とした。




