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マイケルは無慈悲の凶刃をヴァネッサの顔面に向かって振り下ろした。一瞬で切り裂かれる表情は驚きの形のまま、スライスされるチーズの様に半分に割られた。
ねっとりとした赤黒い体液が左右に分かれる顔面から糸を引いていた。噴き出す血の量はたいして無い。半分に割られ脳がドロリと溶け出る姿はメロンでも割った様な姿であり、そういった姿を見る事が初めてのメアリーであっても、恐怖は感じない。
ただ、眼前でズルリと半分にされた人の姿を見て、鏡の錯覚でずれた半身が床に散らばった程度にしか最初は思わなかった。内臓も、骨も、全てが綺麗な切断面であえていうのであれば、ダヴィンチが描き出した人体の模写の様にすら思えた。
「これで終わり――簡単なものだったんだな……」マイケルは虚しそうな表情で、傷だらけのメアリーを見た。いつもの様な無表情でないにもかかわらず、メアリーにはマイケルの心の中が分からなかった。悔しいのか、悲しいのか。絶妙な表情は、何を言いたいのだろう。
「こんな奴が、君をいたぶったという事が嫌で仕方ない。……その手、それだけで何が起きたのか分かるよ」マイケルの言葉の中に微かな揺らぎがあった。認めたくない事実がある様に思えてたまらず、メアリーは尋ねる。
「何が?」という言葉に『どうしてそんな表情をしているのか』と『なんでそんなに冷めた目で私を見ているのか』を含めた。伝わったかは分からない。
マイケルとは付き合いが長いとは思う。とはいえ、『空白』の期間は存在した。一体なにがあって、マイケルの性格を歪める出来事があったのか、それをメアリーは知らなかった。マイケルに何度尋ねても「言わない」とだけ完結に切られるだけだ。
知っているのはトラビスから聞いた、断片的な情報だけだ。マイケルにどんな苦悩があり、どんな苦痛があり、『諦めた』のかは未だに理解できていない。時折、マイケルの見せる、遠い視線は此処では無い過去を見ている事は分かっていても、何処で、何を、というのは分からない。
もしかしたら、父親のジョージが生きていた頃なのかもしれない。あるいはマイケルが”帰還”した頃の記憶なのかもしれない。辛い記憶によって、それ以前の記憶が曖昧になる事はメアリーだって経験があった。
メアリーの目の前でマイケルが”初めての人殺し”をした時の出来事は、雷に打たれる様な衝撃を彼女の心に与えた。ガラスを砕く様な生易しい出来事ではない。価値観の根底を揺さぶられ、先入観で作られた善悪の思想は完全に覆った。
マイケルが殺した事を容認する、という事と、殺人の否定は同時に存在できず、自己の価値観の否定をすると同時に、矛盾の肯定的解釈を頭上に思い浮かべ、マイケルが”無実”である事言う事を立証しようとさえした。
それ以前のマイケルとの思いでは、確かに楽しい記憶として存在していたが、衝撃的な出来事が前面に出ると、その存在がすべての記憶を上塗りにしていった。
共に遊んだ記憶を思い出せば、凄惨な現場で虚ろな瞳で空を眺めるマイケルの姿が思い起こされた。笑いながらマイケルとサニーが駆け回る後を、サニーの子犬と必死になって追いかけた記憶には、スコッティの脳漿がへばりつき、目を見開いたまま何度も石を振り下ろすマイケルの鬼気迫る姿が呼び起こされた。
トラウマ、と一言で片づけられればよかったが、記憶の相手は『初恋』の相手だ。何時までもメアリーの心の中に残り続けるし、決して忘れる事なんてできなかった。
好きだという気持ちを口にした事は無かったが、その日以降、言わなかった事を後悔するばかりだった。
ジョージが死亡しマイケルが消えた時、その後悔はメアリーの心に茨の様に雁字搦めに縛り付いた。何度も泣いて、何度も叫んで。それでも彼は戻ってこない事は分かっていた。マイケルの家督相続の問題を何よりも危惧していたのは、メアリーの父に他ならないから、”その”可能性を事件が起きた時に、真っ先に告げられたからだ。
嫌いになった。素直になれなかった過去の自分を。
好きになれなかった。マイケルの死を想像して受け入れてしまう今の自分を。
希望が持てなかった。すべてを捨て去って新たにやり直せる程のずぶとさがない自分に。
だから、マイケルが帰ってきた、と聞いた時にはメアリーの中に有った感情はさらに複雑になってしまった。喜びを表現したい、彼に対しての感情をぶつけたい。そう思う反面、過去の存在であるマイケルを、人殺しのマイケルを受け入れる事は難しかった。
取り繕うために自分の顔に『当時のメアリー』の仮面を張り付けて、素直になってみようとした。喜んで、心に思うままに強くマイケルを求める言葉を発して、両親を呆れさせる程の豹変っぷりを見せてマイケルとの時間を取り戻そうと”努力”した。
ジェリーは気づいていただろう。メアリーの心はとうの昔に壊れている事に。両親でも気づかない変化をも、彼女なら理解できる。長い時間一緒にいるのは伊達ではない。いつも見ている相手であるから、些細な心の変化も見落とす事は無かったようだ。
メアリーが無理をして、声を張り上げ声が上ずると、わざと『いたずら』をした様につーっと脇腹から人差し指を這わした。「虫がついておいでです」とわざとらしい言葉で濁して見せる。一瞬でもマイケルの言葉で嫌な表情を向けようものなら、手持ちのバスケットからメアリーの嫌いな鼠の姿をしたゴムのおもちゃを取り出して、にこりともせずに投げつけた。
マイケル曰く、「挙動不審な可笑しな従者」という評価を受けていたが、それが全てメアリーの本旨を隠すための行動だった。ジェリーには感謝しかないものの、『本当に彼が好きなのか』という命題には答えが出ないままだった。
得体のしれない恐怖を今のマイケルを見て感じた。
メアリーは普通の女の子だ。それは間違いない。多少危険な目にはあった事があるが、それでも大きな違いはない。可愛い洋服が好きで、煌びやかなアクセサリーが好きで、社交界に大きな期待を持っていて、多くの人脈でいずれ自分の才能を開花させた『何か』をしたいと思う程には夢見がちだ。
だから、非日常的な存在が居れば、恐怖を覚えるのは当然だ。血の匂いを滴らせ、巨大な鎌の様な爪で女を切り裂いた少年を見て、平常心でいられる程、狂気に染まり切った人間ではなかった。悲鳴を上げないのは、マイケル・キーソン・フォスターの姿をした、”見知った”存在であるから。
今、メアリーが向ける視線をマイケルはどう思っているのだろうか、その真意を理解しているのだろうか。無表情の中に隠れた感情を一切理解できず、メアリーは自分の心の中の安堵感を表に出す事は出来なかった。
マイケルは”その”ことに気付いていたのだろう。あの夜にわざわざ、スコッティの出来事を語る彼の心境は、きっとマイケル自身から『忘れろ』という忠告だったのではないか、とすら思えてしまった。
メアリーの心を知っているのだろう。きっと、本当の所をマイケルは理解しているんだろう。そう思うと、メアリーは無性に悔しくて、虚しくて、泣き出したくなった。
――沈黙の後に、マイケルが反応した。反応した動きは猛獣の如き俊敏な動きで地を壁を蹴り上げる。彼の脚力によって破断したコンクリートや壁面のプレハブが宙を舞った。
その動きの後にメアリーの耳に確かに音が届いた。発破に近い反響音に、金属がはじけ飛ぶような小さい鈴の音。それが、.45ACP弾の薬莢の跳ねる音だと気づいたのは、自らの体に鈍い衝撃を感じ、崩れ落ちる視界の中で転がる黄金色の薬莢の光を反射した姿を見た時だった。




