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マイケルは疾走していた。形容するならば黒い風。暗闇の中を蠢く影を人は捉える事など叶わない。風を切り、爆発音に紛れ込み、ジャガーの様に狡猾に物陰に隠れながら走破する。目指す先はいまだ壊れていない建物の一つだろう。全部で四つあることを確認すると、25%の確率では外れる可能性が高いため、様子見をしたくなった。しかし、一棟から光が漏れている事に気づいた。
他の場所では綺麗に闇に閉ざされて、人の影は見えないのにそこでは車も停められているではないか。灯りの代わりに燃え上がる周囲の倉庫から逃れるように、倉庫の中へ車を動かしている。「あぁ、そこにいるのか」と独り言をつぶやいた時に巨大な火柱が上がった。「……は?」唖然とした。燃えやすい物でもあったのか、あるいはルークの手下の不手際か分からないが、時間が無い事は事実だった。
すぐさまマイケルは身を躍らせた。大した数ではない事は分かっている。「無い、っていうのを維持するために、わざわざ無いのを装わなければならない。ということは、手薄というやつだよなぁ」肩透かしもいいところだ、とマイケルは右手を見る。わざわざ力を使う必要性もない事は明白で、手に持つ金属の塊だけで十分の成果だと思えた。
倉庫の上から着地にかかる衝撃は、前方へとはじけ飛ぶ力に変えて二度、三度と衝撃を往なす。足に係る重量があるはずなのに、物理法則すらほぼ無視できる力を持つというのに、律儀にそのルールに則るのは、未だ"人"である事への執着だ。速度は自由落下の速度に彼の脚力を足し、這いずる影はオレンジ色の電球が照らす世界へ突き進んだ。
「敵だ!」分かり切った事に声を上げるその律義さに感服したかったが、倉庫の入口にいる見張りの首筋に銃を突きつけた。ひっ、と短い悲鳴を上げた。この世界に来た時点で末路など決まっている。刑務所で一生を過ごすか、どこかで殺されるか。二択しかないのだ。慈悲などという優しい言葉なく、マイケルは引き金を引いた。破裂する頭蓋から飛び出した血液が噴水の様に高い軌跡を描いて灰色のコンクリートに落ちていった。
二人目がこちらに銃をかまえるだろうと、男を盾ににして内部を確認すると、逆に人の気配がない。「……はずれ、っていうわけ?」「違うわよぉ」嬉しそうに返される言葉にぎりりと歯をかみしめた。声の主は想像する必要もなく、回答に行きついた。「ヴァネッサ……!」車の"上"に陣取る彼女はうれしそうに笑っていた。あの時と同じく、弓の様に瞳を弧にし、長い白い爪を獣の様に妖しく蠢かしていた。
余裕の笑みを浮かべるヴァネッサの前には男が立っていた。長髪の男がだれであるか、マイケルには理解していた。「キーガンの手下か……」ヴァネッサが拍手を送ってきた。「レオンは私の護衛なのよ」にんまりと口を吊り上げている。余裕、というのがこの男の存在を際立たせていた。
思慮する事など不要だった。マイケルは盾にしていた男を投げ捨てると、ヴァネッサに向かって突進する。「あら、せっかち」彼女の言葉が挑発に思えて腹立たしかった。距離を詰めると同時に右手に持っていた拳銃の引き金を引く。狙いは正確に、ヴァネッサの胴体へ。ヴァネッサが身を翻すよりも早く、レオンは銃弾をつかみ取った。マイケルは立ち止まり、距離にして十メートルを置いて観察した。
「あまり、無視をするんじゃない。おれっちも寂しくなっちまうぜ?」ムカついたので、銃をレオンに向かって投擲した。直ぐ彼の背後から現れた翼によって当たる事なく撃ち落された。固い音が反響した。「気色悪い。本気で言ってるなら、鳥肌たつからやめろ」「命令する立場かなぁ? ほら、」とレオンは奥の小屋を指した。「お姫様がお待ちでござーい」
ケタケタと笑うレオンはパラパラと銃弾を落とすと、右手でベルトに括りつけられていた工具用のホルスターから長いピックを取り出した。「旦那を切り刻んだお礼がまだだったんだよねぇ」「あぁ、キーガンの腰巾着だもんな。あんな雑魚が頭じゃ大した事なんてできないよな」うんうんとマイケルは頷いた。本気で馬鹿にしていることが分かるほどわざとらしい。「……手も足も出ずにお手上げしたお前が言うもんじゃないぜ?」
はっ、とマイケルは笑った。「手も、足も、出ないという傲慢な発想のがおかしいんだよ。手も、足もでているのに、あそこじゃ無益な被害が出るからわざわざ"見逃してやった"っていうのすらわからない、お頭の弱さはキーガン譲りだよなぁ?」「やっぱ殺すわ。お前殺すわ」真顔になるレオンは冷めた声で威嚇した。
マイケルは右手を前に突き出した。黒い力の奔流は、強大な力場を形成し、奉納された財に応じて黒犬の力を引き出した。赤い瞳は炎の様に揺れ、彼の存在が一瞬にして煙と化す様は古の独逸に伝わるウェアウルフその物。高らかに吠え上げる音が、大地と、空気をびりびりと振動させ、脆弱なプレハブに共振し、耳障りな甲高い音を増幅していた。壊れたラジオから流れる音の様な金属性の不協和音は、彼の切り裂くコンクリートや鉄骨の音だ。
対し、レオンも真顔になったまま殺意を溜めている。彼は翼をゆっくりと前後に動かしていた。しかし、マイケルが力を誇示すると、ぴたりと動きを止め、次の対応に素早く反応できるように身構えた。全身がぴくりと微かに揺れた。右手で遊んでいたピックは逆手に持ったままきっちりと地面に垂直に構えられ微動だにせず。溜められた力は一切動作による漏れがない。
疾駆する。
逃げ出したヴァネッサは、プレハブの建物に駆け込んだ。彼女が余裕ぶってあんな人外同士の戦いに好き好んで入り込む様な戦闘狂ではないから、自分の命を最優先にするのは当然だった。あの場に残り、マイケルに狙われるのも癪だったし、レオンに悪態をつかれるというのもまた癇に障る。さらに言うならば、彼らの争いによって飛散する資材が自分の体を傷つけるなんて言う事は我慢のならない。結果あの場所から距離を取り、さっさと現況になった娘を殺害しようとヴァネッサは考えた。
「……」どういうことなのか、と散乱する小屋の中を見て逡巡。プレハブの脆い金属片を吹き飛ばす程度の力が加わったのは自明の理だった。《羽付き》がいたのかもしれないし、あるいは爆弾でもあったのかもしれない。「どこによ? ……あぁ、あの男?」叫びだす事なく、ヴァネッサの思考の内にリチャードの腰巾着の顔が浮かんだ。苛立ちを感じながらも、ヴァネッサはヒステリーを起こすでもなく、理性的に行動を始めた。
手下などあてにするような"存在"ではないため、自ら夜闇の中へと躍り出た。足元にまきびしの様に散らばる金属片は、黒く焦げ付き、拉げ、かすかな熱を持っていた。破砕される音を聞き逃した自己嫌悪は存在したが、マイケルの到着から5分と経っていないのだから、そんな遠くへ行っているはずもない。マイケルの様子を見る限りはこの爆発と彼女の逃避について因果関係はなさそうで、連携のないクリスの思い付きに思えた。
「だからって、同じ時にする必要ないじゃない……。強運、というのかしらね。少し嫉妬するわ」「そいつは、勘弁願いたい」何かが高速で通り過ぎ、頬を撫でる。すぐさま、痛みが頬を伝ってやってきた。焼けるような痛みが何を意味するのか、ヴァネッサは瞬時に判断し、出てきた倉庫を右手に身を翻した。走るわけでもない。高いヒールの靴であるから、走ることを目的に創られているわけではないから、むしろ遅い――ゆっくりとした歩み、というのが正しいだろう。しかし表情は苦々しい。
余裕をもって歩くヴァネッサに、声の主、クリスは疑問を投げた。「何処へ行くんだ? 動けば――」「撃てば? わざわざ外す、余裕が貴方にあったというのが驚きだけれど」クスクスと笑いがならヴァネッサは歩み出した。クリスの場所を確認する必要もないという、強気の姿勢。さぞかしクリスは頭に来たようで、すぐに二度、三度と発泡した。彼の位置はヴァネッサよりも高所に位置している事は弾の軌道から推測できた。
おそらく、向かいの倉庫の外壁周りに設置された整備用の通路の上にいる事は簡単に想像できた。しかし、ヴァネッサは一切気にする事はない。一度目の不意打ちならいざ知らず、すぐに"来る"事が分かっているのであれば、彼女にとって対処する事は容易だった。
ヴァネッサは翼を開放した。いくら戦闘を嫌っているとは言え、戦えない訳ではない。しかも、その辺の有象無象のマフィアの兵程度では相手にならないほど強い。彼女もまた自ら研究所に身を置き、"研究の対象として"自分を使っている身だ。翼を持ち、人以上の知覚能力を持ち、脚力も、腕力も、人の域を超えていた。
当たらない。銃弾は彼女の背を的確にとらえているのに、一切届く事はない。白く、純白の翼は周辺に《羽》をまき散らして弾丸を阻止した。ヴァネッサにとって力とは、自分に対する脅威を排除する物だ。殺意を持つ力を押さえるための対抗手段として考えていた。自分が相手を傷つける事は”自分”で行いたいのだ。五感で感じる陶酔感はこの人外たる力を行使したことによって薄れてしまうと考えていた。
ヴァネッサは自由をこよなく愛する。アメリカが自由の国といわれる様に、多種多様の人間を認める事がヴァネッサの求める"嗜虐する"相手を確保する上では重要だとよくわかっていた。一口にリバティーという言葉を口にしても、存在する概念は人によって違う。ある者は下克上を夢見て、ある者はゴールドラッシュの栄光を求めて、ある者は戦争と隔絶された穏やかな日常を求めて、この国にやってきたのだ。
人を殺す権利、というのもヴァネッサはあると思っている。殺される義務を有する代わりに、殺す事ができるのだ、という偏向した思想に基づいた。彼女の幼少期、屈折した考えを生み出す出来事はそこにある。おそらく落ち着いた家庭で、何不自由なく過ごせる子供であったのなら、ここまで歪んだ性格にはならなかっただろう。貧しい事を悪だと決めつける程、彼女は頭が凝り固まっていなかったから、『心の貧しさと、お金がないのは別』と理解する程度、想像力も理解力もあった。だが、貧しい事で親から強要される事が多いというのは理解していた。
女である事で稼ぐという事を考えると、どうしても働き口が多いわけではない。力仕事をやる男たちに入り込む程の腕力や度胸はなかったし、かといって娼婦の様に体と命と心を売りさばく仕事につけるほど割り切っては考えられなかった。夢見る少女である事は確かであったのは事実だ。給仕の仕事といっても限られた飲み屋程度。彼女の仕事といえば、スリか、美人局程度。稼ぎの割にリスクが見合わないと感じていた。
親ははした金を奪い取って酒に変え、いつも飲んだくれている人間ではあったから、納得できないという気持ちは常にあった。リスクを負っているのは彼女であるのだから、そのリターンは自分が使うべきだろうと。リスクとリターンを同じ天秤に載せて考えるようになると、『殺したところで、死ねばいいのだろう』という感情がヴァネッサを支配した。この貧しい生活の構造は、家の中で金を吸い取る悪が存在しているからだ、という強い思いは、親を殺すという出来事で帰結した。
警察には捕まらなかった。美人局で関係をもったマフィアの一人に頼んでうまく処理をしてもらった。死体の処理くらいお手の物であった。手を下したのはヴァネッサだったし、長年の恨みを晴らす様に"惨殺"したのも彼女である。
クリスの事などなんとも思えなかったのは事実だ。あのやり残したメアリーの処分だけはやり遂げ、さっさとリチャードの下へと戻ろうと思っていた。リチャードとの関係を一言でいうのであれば、美人局時代からの共犯者、である。まだ一構成員でしかなったリチャードも自分の組を切り盛りする程度にはなっていた。成りあがっている彼を評価していたというのもあるが、それ以上に彼がヴァネッサを女として丁重に扱ってくれた事がヴァネッサの永久凍土の様な心を溶かしたのだ。
銃撃の音が止まる。当然弾がなくなればそれ以上の事はできない欠陥兵器には目もくれず、軽快にメアリーの足跡をたどった。悪態をつくクリスの喚き声が聞こえるが、まったく気にする必要はない。羽虫の音は次第に近づいてい来る。近接し、無謀にもヴァネッサに害そうと考えているのは分かった。「無駄よ」という言葉一つで、翼を打ち背後に迫る男を吹き飛ばした。
「あら……?」ゴムボールの様に飛んでいったクリスは、壁に刺さっていた。明らかに力なく項垂れる姿を見ると、死んでしまった事が容易に確認できた。「脆いのね……。あの子の方がもっと骨があったというのに」残念そうにヴァネッサは悪態をついた。大男、と認識はしていたが最期がこうもあっけないと、リチャードの見立てというのは良くなかったのかもしれないと思いいたり、少し残念に思えた。
倉庫の切れ目までにくると、影が見えた。足を引きずるように遅い動きで、両手を壁に沿わせて、ずりずり。足が曲がらない理由は分かる。何度もヴァネッサが膝を殴打したため痛みがあるためだろう。本来、足の腱でも切るのが彼女のやり方ではあったが、慈悲深いリチャードの言葉もあり今回は止めていた。ここまでやっておいてなんだが、リチャードはメロ家に対して多少なりとも苦手な認識だったのは理解している。ジョージと懇意にしていた間柄だったというのもあったし、今ではサルヴァトーレとの付き合いもあると聞いていた。
「……ッ!」メアリーが息を飲むのが分かった。ひきつけを起こす様にびくりと背が跳ねる。「もう逃亡ごっこは終わりにしましょう?」翼でやたらめったら辺りを殴打すると、激しい金属音が響き渡った。メアリーが杖替わりにしている壁伝いに強い振動が伝わり、メアリーが小さい悲鳴を上げた。「あなたみたいな娘は好きなの。綺麗な声を上げて呻いてくれるから。でも――もう残念な事にお開きにしなければいけないみたい。そこでくたばってる男に助けられたんでしょうけど、ここで終わり。もう少しあそこにればあなたの好きな男の子にあえたのにねぇ!」
ヴァネッサの言葉にメアリーは絶望の表情を浮かべその場にへたり込んだ。逃げ場がない事、マイケルが後ろにいた事、どこに対しての落胆なのかは分からないが、脱力し、足を動かす気力がないのは分かった。ヴァネッサは舌なめずりをする事なく、メアリーに近づいた。
「重畳でございます」一閃の光跡がヴァネッサの背を切り裂いた。痛みが肺に満ち溢れ、「あぁ!」という悲鳴じみた声を上げた。何が起きたのかヴァネッサは理解が出来なかった。十分に知覚は鋭敏化されており、背後であろうとも翼が大気の動きを十分に把握できていた。近づく脅威があれば即座に対応ができる、という慢心があったのかもしれないが、それにしても不意打ちだった。
背後に向き直ると、ヴァネッサは見た事のない女性が立っていた。「お嬢様に害をなされたという事実は、万死に値いたします」巨大な包丁はてらてらとヴァネッサの赤い血を滴らせていた。そんな粗雑なもので切り裂かれたのか、という怒りがあった。直ぐにヴァネッサは翼で彼女を見下す相手に殴打を加えた。豪の音と共に風を切り、一触で枯れ木の様に骨を断つ一撃が相手の首へと飛んだ。「ジェリー!」悲鳴に近いメアリーの叫びに対して相手は冷静な対応。
距離にして1歩程度だった距離は、スッと背後へと飛びのき、必殺の間合いから簡単に逃れた。「クソ! どうして――」「気配などいくらでも殺せます。侍従であるという事は、周囲の環境に溶け込み、主に対して邪魔にならない様に努めるのが一般的でありますれば」同時に、ジェリーは手首を返す。最小の動作で投擲がされた。煌煌と燃え上がる倉庫群の火柱によってオレンジ色の軌跡が空中に描き出される。
二本のナイフの投擲は、あえて不定のリズムでヴァネッサへ迫った。翼で打ち下ろすと、倉庫の壁面に当たった乾いた金属音が響く。「あなた……なにもの?」驚きを隠せず、口走ったことを後悔しながらヴァネッサは立ち上がりながら距離を詰めた。戦闘用でない靴が恨めしいが、余裕を失くす事の方が相手の思うつぼだと思い、痛みと共に呼吸を落ち着かせた。「ジェリーと申します」一切の手を抜かず、ジェリーは一言告げると水の如く美麗な動きで、するっとヴァネッサに迫った。
先制のタイミングを取られたヴァネッサは怒りに任せて二度、三度と翼を振るった。脅威を排除する力の行使は一つだけで大口径の銃に相当する力でジェリーの影を切り裂いた。「"のろま"であります」無機質に告げられる挑発は、はったりではなかった。ヴァネッサの眼前に現れたエプロンの裾は、翼の羽でひらりと舞った。
肩口から腹に向かって包丁が通る。体重を後ろにかけていたためか、ヒールが折れた。がくりと背中側に倒れ込んだ拍子で運よくジェリーの一撃を躱す。紙一重の斬撃は空気を撫でた後、折り返して襲ってきた。
マイケルに対してレオンは落ち着いて対応ができていた。小さい身なりに速い速度は驚異であったが、それも直線的である事が欠点だった。翼は物理法則の外にある力だ。新たにベクトルを加える、力を顕在化させた存在だ。翼本体にたとえ100tの力が加わろうとも、そのベクトルの方向性を下に向ければただちに地面にめり込むし、斜めに向かわせれば明後日の方向に向かっていく。
銃弾など指向性のあるものの対処は、翼をもつ者には比較的簡単なものだった。対して、体術の様にベクトルが確定的に一定方向とは言いづらい物においては、完全に力を制御する事ができなかった。その点マイケルの行動は直線的に爪で突くか、切り裂くというシンプルな行動だった。この点において一般的な銃器と同様の指向性である事から、レオンは翼でただ往なすだけでよかった。
時折打ち込まれる銃弾は、翼の隙をつくような厭らしい攻撃はない。どうして、とレオンの頭には疑問が浮かぶ。「こんな単調な相手に旦那が遅れをとるなんて、手をぬいていたっつーことなのか?」口にした途端、マイケルは口をへの字に曲げて苛立ちを露わにした。「君の親玉が雑魚なだけだ」と売り言葉に買い言葉で素早く切りつける。レオンの前面に出した翼が鋭利な爪をはじき返した。
「何度やっても同じってことも分からねーのな」「そんな物に頼らないといけないほど、脆弱な肉体で残念だなぁ」レオンの脇をすり抜けながら背面から切りつけようとするマイケルの言葉に対して、レオンはまるで適当に突き出したような足の動きだけで、滑るように進んでいたマイケルを地面に打ち付けた。前面に進む力がそがれ地面とキスする羽目になったマイケルは無様に顔面をコンクリートで擦った。
ケタケタとレオンは嗤う。「避ける事すらできねぇのは、なんでだー? おちびちゃん」ヒュンとマイケルは弧を描く斬撃を右手で行う。風を切り唸りが収まる前に、すぐさまに左の斬撃を行う。「正しく力を使う、これは力を持つ奴が学ばねーといけねぇ。お前はそれがないっつーことさ。おれっちの様に――」「うるせぇな!」至近距離からの銃撃は狼の牙の様に鋭くレオンの顔を狙う。
「狙いも単調。動きも直線的。はじけるポップコーンの方がまだましだよなぁ!」おら、と威勢のいい掛け声とともに、レオンは斬撃をくりだすマイケルのみぞおちを蹴り上げた。「――ッ」ぐ、の音を吐き出してマイケルの体が半分に折れる。すぐさま翼で「確かにさ、お前は強いんじゃないの? その辺の大人たち相手には片手で捻り上げられるんだろ。裏の世界で生きる分には十分の力だっつーことはわかるわ」でも、と崩れ落ちているマイケルを翼で押し付け、顔面に一度蹴りあげた。
鳴ってはならない音がマイケルの首からなった。鈍い音はマイケルの頸椎をへし折って天井へと向かって顔面を向けさせた。「なんだよお前、そんなに柔軟性あったのか!」嬉しそうにレオンは笑った。次いで手の甲が上を向いていたため、踵を振り下ろし粉砕。
「力が強い、っつーのはこういう事だよなぁ。お前のただの速さをひけらかすつーのは、ほんと無駄だわな。あっちも終わったころだろ。御対面させてやるよ」下卑た笑いそのままにレオンは右手を伸ばしマイケルの襟首をつかもうとした。
スッと腕が切り取られる。ぞくりとするほどの冷たい感触が肌を割いた。骨を断ち、一瞬にして右手を分離させた。「ふーん。……存外に脆いね」マイケルはにやりと笑った。首がおられた時点で絶命しているはずの相手が何ともないという姿で笑っているのは奇怪だった。「――! なんだ! お前なんだ!」取り乱さずにいようと努めていたレオンであったが、"人"ならざる姿を直視して冷静を保てるほど、思考の回転は速いわけではなかった。
悲鳴にならない声をあげて、レオンは首の折れたままにやりと笑うマイケルの顔面を翼で吹き飛ばした。顔面の半分が抉り取られ、ずるりと脳髄が漏れ出た。眼球が散らばり、固い顎の一部が地面に転がった。歯がネジの様にコロコロと転がり、黄色液体やら、赤黒い液体やらが飛び散った。「痛いなぁ。――でもこの程度で終わりじゃないだろう?」マイケルは半分になった顔を嬉しそうに歪めた。
何だ、という気持ちは膨れあがるる。レオンも人外を見ている事はある。キーガンしかり、アラスカの研究所では多くの同胞が餌になったり材料になったりしていた。だというのに、それとは隔絶された存在だ。「死ぬ……だろ……」その問いかけはマイケルには無意味だった。「そもそも、僕は死んでるんだよ」ヒヒと笑うと、散らばったマイケルの肉体が元に戻った。
顔面が戻り、手が戻った。ずんぐりと体を起こし、ぷらーんと垂れ下がった首を両手で支え、電球でも取り換えるように左右に回しながら少しずつ首をはめた。「……ハハハ」乾いた笑みを浮かべてレオンは直ぐにマイケルの体を痛めつけた。動きの鈍い今でなければならない、と本能は告げていた。
首と胴体を分ける。千切り取るように翼が首に吹き飛ぶほどの力を加えた。頭部がなくなったマイケルは笑った。「痛い、痛い! 本当に痛いなぁ! でも――それで終わりじゃないんだろう?」
クオーンと犬が遠吠えした。マイケルの体が吹き飛んだ頭を抱える。口だけが愉快さを言葉にした。「たかが力が強いっていうだけで、その立場にいるんじゃないだろ? ほら、見せろよ、全部さ。もっと、もっとだよ」「……化物め」レオンの吐露は、マイケルをより一層笑顔にさせるだけだった。「化物? さっきまで講釈垂れようとしていたのに、少しくらい"死なない"だけで化物? ――君の親玉だって僕と同じじゃないか。それを……化物!」
頭をちぎれた首筋に置くと、自然と癒着した。マイケルはケタケタと笑いながら爪を伸ばした。黒い霞に覆われた爪はサーベルの様に鋭く、ゾクリとするほどに青ざめていた。レオンは自らの切り取られた腕を拾い上げた。マイケルの様にくっつくなんて言う事はなく、だらだらと流れ落ちる命の通貨を少しでも押しとどめたいと思っていた。「ほら、さっさとしろよ。五分とおかずに失血死になるね。傷口を縛って、血が出ない様にして、心臓よりも高く掲げて病院にいくんだろう? あぁ、君はそんな事もできないのか、だって人じゃないもんなぁ! 僕"程度"の"化物"に怖気ずく、人でも化物でもない半端ものじゃないか」
レオンは笑った。「あぁん? 気でもふれたの? よっわいなぁ」しかし、レオンの笑いは失笑で、マイケルの指摘する様な気の触れた笑い方ではなかった。「おれっちにかまけて、大事な事を見失う、血に飢えたバケモンだ」
ヴァネッサがいたはずの場所に視線を向ける。そこには一切の人影はなかった。「……」伸ばした爪で、矢継ぎ早にレオンを切り刻む。足を、肩を、腹を。どれも翼で伏せごうとしたが、爪はするりと羽を通り過ぎた。「実体が伴わなければ、方向を変える事なんて出来ない。君らの力は"人"限定だよ」シニカルに笑いかけ、細切れになるレオンを見る事なく、マイケルは疾風と化して外へと向かった。
防戦一方に見えたヴァネッサであったが、今やジェリーの額には汗が浮き、余裕らしきものは無かった。「面倒なものです」機械的に告げられる言葉も苛立ちが隠せない。感情の微かな歪み、揺れはみてとれた。眼前のヴァネッサは自らの力を行使する事に注力。ジェリーの動きに次第に対応してきたというのもその要因だろう。最初は不意打ちが上手くいったが、ジェリーの行うフェイントに対応し始めていた。
ジェリーは丁寧に翼の殴打を捌いていった。上からの攻撃は斜めに打ち下ろし、下から掬い上げる力は自ら後方へと下がるための力へと変え、突かれる力は体を回転させながら往なした。前へ詰めて最小の動きで肉を断とうとするが、強力な翼の防護は破れない。ヒュンと風切り音をあげて包丁を振るい、ヴァネッサの翼を腕を狙うが、桐でできた持ち手をもつ右手にしびれが出初め、幾分鈍い軌跡を描いていた。
「最初ほどの動きではなくなってきたわねぇ」嬉しそうにヴァネッサは表情を歪めた。片膝をつき、相手に対する面積を狭めていた彼女は、ヒールを脱ぎ捨てて立ち上がった。「ここで終わり、というもの。貴方の好きな"お嬢様"と一緒に真っ赤にそめてあげるわ」「その様な気遣いは無用でございます」ジェリーは大きく距離を取った。これではメアリーを守るという事はできな。距離として10メートル程離れた距離は、側で見ている事しかできないメアリーにとって、絶望的な物だろう。せっかくの救いの手すら届かない、という事実に手に震えを持ってジェリーを見ていた。
ジェリーは心苦しかった。妹の様なメアリーを見捨てる事などできなかった。だというのに力が足りないことは実感し、歯がゆいものだった。「先に"お嬢様"を片付けてあげるから、そこでゆっくりみていなさいな」「……それには及びませんので」強がって足に力を籠める。「やめなさい? 貴方もう膝に力が入らないのよ。普通に立っているだけで震えている。恐怖とは違う、単純な肉体の損傷なのよ。一発で――」ヴァネッサは翼を振るい、近くにあったコンクリート片を圧壊させた。「おそらく100tくらいの力がある力を、ずっと受けていたのだから当然よ」
わざわざ心配そうに言うのは、心底意地悪な女だとジェリーは思った。指摘されている事は事実だった。一歩踏み出す力も弱い。逃げるだけならまだ大丈夫だろうと分かったが、メアリーを守るために、全速力でもってヴァネッサとの間に割り込めるほど力が出ない。「――」諦めるというのが簡単ではあったが、表情には一切出さない。心はくじけそうだった。恐れもあった。ジェリーを突き動かすメアリーへの想いはその程度かと問われれば、命を"簡単に"投げ出せるほど彼女は人を止めていない。
怖い、そう思い足に力が抜けそうになってたたらを踏んだ。苦笑したヴァネッサはくるりと戦意を喪失したジェリーに背を向けてメアリーに向かった。「これで――」高く右手があげられ、それに連動する様に翼が天へと向けられた。「終わりよ」振り下ろされた手に合わせて、大気を切り裂く轟音を響かせて翼はメアリーを。
止まった。
ウンともスンとも動かなくなった翼に対して、ヴァネッサの理解は及ばなかったのだろう、「……え?」間抜けな疑問符を頭の上に並べた。「ヴィッキー……?」メアリーに前にとぼとぼと犬が歩いてきた。ビーグル犬は眠そうに、クアァとあくびをしてメアリーの足元でペタリと座り込んだ。普通に散歩しているだけの様な周囲を一切気にしないマイペースな姿は炎が周りに煌めき、金属の破片が散乱する戦場には似つかわしくなかった。
場違いな乱入者に対してヴァネッサは翼を使いつぶそうとする。一度止まった翼を引き上げ、再度振り下ろそうとした。ジェリーは今度こそはと前に出た。しかし、心配ないという様にヴィッキーは首を斜めに傾げた。上方から垂直に押しつぶそうとする力は、ヴィッキーの頭上に到達すると、再びぴたりと止まった。「……っ!」恐怖を抱いたのはヴァネッサだけではない。ヴァネッサ越しに見ているジェリーでさえも、その不可思議な力を恐怖せずにはいられなかった。
いつもメアリーの隣にいるだけの子犬かと思っていたが、「仕掛けが無い、と考えるのは当然だろう。僕の手下だ。僕が選んだ手下だ。――姿で騙すのは当然のことだろう?」真っ赤な煙の中から、当然の様にマイケル・キーソン・フォスターは現れた。




