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 「はぁ」とため息をつくのはトラビスの問題であろうか、胃を傷めないための処世術であるのか。ため息とともに内腑から湿った重みの含有した負の感情を吐き出す。自分の足に向かって吐き出されたそれは、地面を這うように通り近くの部屋へと吸い込まれていった。トラビスは右手にある獲物を握りなおして、奥の扉へと進んでいく。解き放った猟犬は自分勝手に獲物を探し、食い散らかしていることだ、というのは分かっていた。

 「あれがたった14の子供だって?」自嘲するトラビスは、14という数字に現実感を持てないでいた。自分が14の時がどうだったか、と考えれば、ただの洟垂れ坊主でしかなった。親に無理やり神学校に連れて行かれ糞溜めの用な規律正しい生活の中に置かれていた。毎日が同じことの繰り返しで、酒や、たばこなどの娯楽に興じる事もない。同じ部屋のアーチ―・J・ミラーはしれっと「大人の」雑誌を腹の中に隠して持ち込み、大目玉を何度も食らっていた。神父が暴力をふるうことはないから、ねちねちとした言葉で執拗になじられ、反省を促されるために長い長い、反省文を記載させられることになった。その程度の年であるにもかかわらず、嬉々として死地へと赴く姿は、世代の違い、という言葉では言い合わらせないものだった。

 トラビスの行く先に古ぼけた扉が、キィキィと甲高い耳障りな音を立てて揺れ動いている。足早に近づき確認をする。扉の中に人の気配はないが、オレンジ色の明かりが漏れ出ているのが分かる。影の中身をひそめながら、左手で扉を押してトラビスは中へと入りこむ。

 むわっと湿気ともかび臭さともつかない嫌な臭いが鼻腔をついた。ゆっくりと息を吸い、それに慣らしてから、トラビスは一歩、扉の中へと無造作に入り込んだ。右足から、次いで左肩を入れ視線を確保しながら中を確認する。電気性の明かりとは違い、ろうそくで作られた明かりであったことはすぐに分かった。

 昨今の警察の摘発によって行き場をなくしているもぐりの酒場の姿に似ている。カウンターがあり、その置くに本来は酒を並べる棚がある。しかし警察が入り込んでも問題無い様に商品の陳列はなし、メニューすらない。バーテンダーらしき男に「酒」を注文すると、薄まったバーボンだか炭酸の抜けたビールだか分からない酒が提供され、それを飲むのだ。時々、工業用アルコールが混ぜられて量増しするものだから、死人がでて大騒ぎになる。

 椅子らしい椅子もなく、ろうそくの明かりというのもすぐに息で明かりを隠せるという利便性もあったのだろう。多くの酒場は後ろ盾に大きな組織がついていたものだから、わざわざそんなことを気にする理由もなかったが、こういった都会のど真ん中で、かつ、組織に属していないものにおいてはより闇に近い形態をとっているのが常だった。

 壁に白い何かでひっかいたような三本の並行な跡があった。巨大な動物の爪でひっかかれたような傷は、トラビスが近づくと、その破片をばらばらと木製の床に落とした。

 指でなぞればそれがさっき起こったことであるとわかるように、かすかに――じっとりとした湿り気を含んでいた。煉瓦造りである壁材は普段外気の湿気を吸収している。しかし空気に触れている部分については、外気に触れているため乾燥している。しかし内にいけばいくほどその湿気は残り、このような穴倉で、太陽の光が届かない場所であれば特にそれは顕著だった。

 ほこりっぽい臭いの中にかすかに鼻につく刺激臭が存在していた。くさい、と顔をしかめるほどではかったが、異質な臭いには敏感だった。トラビスは口をへの字に曲げてカウンターの下をおもむろに覗き込んだ。

 一体の死体が転がっていた。無造作に打ち捨てられたそれは、壁につけられた傷と同じような爪の痕を胸と腹に持っていた。大型のネコ科の動物でも闊歩している南米の大地であるならばいざ知らず、ここはニューヨーク。人工的に作られた島であるにもかかわらずそんなものが出歩いているというのであれば、見世物小屋から逃げ出し、警察に手配されているはずである。しかし、動物的な傷であるにもかかわらず、その遺体は大きな損傷はない。腕もついたままだし、やわらかい腸ですらあたりに残ったままだ。食い散らかされたような悲惨な状況ではなく、単純に路傍の石と同じくぽつんと鎮座していた。壁に首をもたれかけさせ、体重を逃がしているさまから、少しの間息があったことが分かる。口の端から垂れ下がる鮮血の一筋が、生にしがみつく執念を感じさせるほどだった。

 トラビスはそこに感慨はなかった。マイケルに向けられた笑みを正面から受け止め、動揺して見せたあのトラビスであるにもかかわらず、死体には何の感情も持ち合わせていない、といった冷徹な瞳だった。仮にも神父である。多くの住民からそう認知される存在だというのに、手にはナイフを持ち、常に警戒をしていた。

 狭い店内の奥には張り付けにされた遺体があった。壁に打ち付けられ、木製の椅子の足を画鋲の様に串刺して、ぷらんぷらんと垂れ下がっていた。自重によって徐々に地面へと垂れ下がる遺体は、手首と手の平の間に差し込まれた木の杭によって、肉がゆっくりと裂かれていた。裂傷らしい傷は、腿にも見受けられた。一見して、致命傷だとわかる傷からは大量の血が滴りおち、青ざめた顔がトラビスを方に向かって驚愕した視線を向けていた。

 こんな事をするのは誰か、心当たりがあった。トラビスとマイケルが追っているネッドではない。ネッドはあくまでも運搬業者だから、こんな猟奇的な事を好き好んでやるタイプではない。トラビスの脳裏に浮かぶのはゴシップ紙が面白おかしく掻き立てる精神異常者の姿だった。

「噂にきく、キーガンか……?」つぶやく声には抑揚はない。気を引き締めなおしたように真一文字に口を結んで、辺りを捜索する。壁にぶら下がった遺体の隣に、大きな穴があることが分かった。奥から風が流れていることと、生臭い臭いがぷーんと漂ってくる。

「下に向かったのか?だからこの刺激臭が残っているのか。下水とは――ネズミみたいな野郎だが……。それならあいつには十分な相手だろう」にんまりするでもなく、トラビスは穴の中へと降りていく。

 当然足場は悪い。黒い粘性の液体もあちこちに転がっている。コーヒーでもこぼれているというのなら、木材のシミになる事すら味となろうが、考えなくとも血だということは分かっていたから、トラビスは不潔感を強く感じていた。

 潔癖主義、というわけではないものの、「淀んでいます、が……」空気の重みが、普段彼の知る――住んでいる世界と、彼が知っている”世界”とどちらに近いかと言われれば、明らかに後者だった。人の尊厳を持たぬ世界――総じて「地獄……みたいなものですか」

 足を崩れた煉瓦の破片で滑らぬように注意しつつ、さらに、血で転ばぬようによけながら歩いた。歩数はかかるが仕方ないが、階段の用に整備されているわけでもない穴を降りるには、少々厄介だった。それでも、軽業師顔負けの動きでトラビスは底へ、底へと降りていく。

 明かりなどない。一階であれば時折ある窓からの白さや、ろうそくの橙色に彩られていたが、ここは全くの闇の中だった。視界が確保できないはずなのに、トラビスの足は遅くなることはない。慎重に音は殺していたし、場所を選びながら降りていたのだが、一般人が動くのよりは格段に速い。

 トラビスの視界にはこの闇は全くの無意味だった。

 神の加護というのは様々なものがあるが、往々にして困難に対抗する手段として物語で描かれる。だからといって、トラビスが神の御業を使える、ということではない。これは単純な技術だった。彼らにしてみれば、この程度の闇など、戦うべき<闇>に比べれば全くの勘定にも入らないものだった。この世の中には幾つもの”光”がある。光源として存在している光とは別に、存在としての光だ。これらを協会の類は妖精などと呼称するらしいが、教会においては一般的に《星》(ステッラ)――あるいはアメリカでは単にスターダスト――という言葉で表していた。天使の翼から舞い降りる片鱗であり、世界を満たし、世界を照らす望星の一片だという。トラビスは根拠が薄弱だとして――神父ではあるが認める事はなかった。

 近年、高度に発達した科学が世界を席巻している状況で、根拠の少ない迷信にあたる物は、自然科学の世界からは眉唾ものとされ、詐欺や偽物や迷信といった否定的な言葉と共にゴミ箱へと追いやられる事態になっていた。

 トラビスもその感覚は分からないでもなかったが、彼自身の思考の傾向とは一致しないところもあった。yesとnoだけの言葉で世界が確定できるわけでもないのだから、科学者が突き詰める数字と数式の羅列が世界の根本である、というのは極論すぎると思っていた。神だ、救世主だと、実態のないもを論じるよりは建設的だとは思えたが、しかしそれでも、トラビスは神にすがっている一人ではあった。

 長年の経験からというだけでなく、ふと賽を振るっただけでも、人間の意思とは別の《世界》の意思というのは存在している様に感じていた。しかし、神の存在を定義づける事や観測する事ができない以上、『何か存在する』と論理付けはしていたが、『神』とは断定はできていないかった。神が存在しているのであれば、それを定義づける事が必要であると考え、その時点で『神は人によって定義される』とトラビスは罰当たりながら結論付けていた。

 《星》(ステッラ)によって周囲の輪郭がはっきりとわかる、という世界はモノクロの世界に近似し、濃淡のみで描かれた東洋でいう水墨画じみている。地面に存在する《星》(ステッラ)は多く、瓦礫となったその場に雪の様に降り積もっているのがトラビスには分かった。

 知覚の拡張の基本であり、神との対話を行うための前段だ。今では神学校の生徒であれば誰でもこの世界に入る事ができるが、昔は司教や、司祭といった高位の存在に秘匿されているものだった。

 第一次世界大戦という劇毒は教会に激変をもたらすものになった。人口の減少と技術の盛衰に直面した社会は、過去の権威にしがみつくために、技術の存続を優先し、人々から忘れ去られないためにという悲しい理由の元、奇跡を乱発する様になった。今の時代背景を考えれば、そうした信仰心をどうやってでも煽ろう、という教会上層部の涙ぐましい努力に、哀愁さえ感じられた。

 トラビスが《星》(ステッラ)の降り積もる暗闇の中を進めば、地面に積もっていた――あるいは壁にへばりついていた《星》(ステッラ)が、彼の動く動きで作られた風によってふわっと舞った。これが、アメリカで《星屑》(スターダスト)と言われる所以だ。形式ばったローマの連中は個々に発光する物体であるからこそ『星』なのだと未だに固執していた。

 下水の底までおりると、水がほとんどない事に気づいた。普通であれば、汚らしい汚水が傾斜に沿ってゆっくりと流れ、鼻の曲がる強烈な刺激臭を喉にへばりつけさせるはずだった。口元にはハンカチーフやタオルか何かで覆いをしなければまともに呼吸もできない。それが下水というものだった。最新の物であったとしても、現在の人口を考えればそれは驚異的な物量の汚物を流し続けているものには変わりなかった。

 不衛生と疫病の元凶が闊歩し、汚水に含まれる雑菌が赤痢や腸チフスを引き起こすのは必須だ。そんなところにスーツ姿でくるトラビスを頭が可笑しいと笑ったところで、本人ですら「たしかに頭が可笑しいとしか言えない」と納得できた。現に、トラビスは革靴の底にあたる湿った水の感触が、自身の体にまとわりついている様な不快感を持っていた。

 下水とは地上からは隔絶された迷宮だ。たとえ土地勘がある場所であったも、地上と地下では様相は一変する。方向感覚を狂わす同じ作りの水路には、現在の場所を示す物は打刻された管理番号だけであり、いくら《星》(ステッラ)によって事物の輪郭が分かるとしても、詳細を全て見る事はできなかった。鼻をつく臭いは、降りてきた時よりもひどく、腐敗臭ともつかない独特な酸味をもって鼻孔をつらぬいた。たまらず口元に当て布して少しでも呼吸を楽にしようとしたが、一切の役にたたず舌打ちをした。

 甲高い音が構造物に跳ね返り耳障りな残響音をのこしたが、すぐさま違う音にかき消された。トラビスから近い位置で何かが動き、ぶつかり合う音だ。時々破裂音が聞こえるのは、拳銃の音だろうと想像できた。走り回る足音は水の上を、硬質なレンガ造りの下水の上を、苔むした縁を踏みしめるごとに音程の違う音を反響させていた。

 それらの音が近いというのは分かるが、トラビスの背後からなっている様にも聞こえたし、あるいは左右どちらかかもしれない。管の形状はあちこちに跳ね返る音を正確に聞き分ける事は難しい。それでもトラビスはかすかな《星》(ステッラ)の舞い上がる姿を頼りに音の発信源へ音もなく進んでいった。

 視界が開けた。

 視界の先には巨大な集水桝が存在している。一般的な家庭の傍に作られる集水桝よりも大きく、集合管という呼び方のが正しいのかもしれない。この界隈の下水の管の集積場所だ。広さだけで背丈の倍はあるだろう作りは、駅舎を想像させるほど立派なものだった。

 ここにガス灯でも設置されていれば、見栄えのよい赤い明かりに装飾される事ではあったが、下手に明かりをともせば、腐敗ガスなどの淀んだ臭いの原因によって、燃え広がる事も想像できる。

 銃などの炸薬ももってのほかだろう。だというのに、時折響く破裂音はまさしく発砲音であり、軽快な音であるにもかかわらず、危険性を孕んでいと思えた。実際、燃え広がる事があるのであれば、トラビスを含めて、この空間にいるすべてがとっくに焼失しているはずだ。

 トラビスは頭が痛かった。猪を飼いならす事は出来ない。あの”子供”が猪というものであればまだかわいげがある。「猛禽類か? いや、猛獣か? ……あるいは――あぁ、猟犬か」自分の考えを反芻。

 この騒動の元凶に向かって足早に近づいて、さっさと終わらせる事もできるだろうが、今この隠密である状況を最大限活用する事が上の騒動を起こした『相手』には重要だと思えていた。

 相手の事は詳しくは知らない。知る必要性もない、とは思っている。特にパーソナルな情報についてマイケルは事細かに調べるのだが、トラビスにとっては『処分する』相手である事には変わりなく、深く知る事など無意味に思えた。ただ刑を執行する死刑執行人の身分としては、相手に感情移入する事に必要性はなく、むしろ任務の阻害となることの方が問題に思えてしかたなかったが。

 トラビスは影に潜みながら、足音を殺して音のする方へと向かった。

 集水桝から管の合流地点へと。高さ四、五メートル程ある開放感は、先ほどの集水桝に似たものでありつつも圧迫感が軽減した。人が住む事もできるような広さの作りではあったが、ここに住んでいる者などは居ない。

 酷い腐敗臭と、年代式のレンガ造りの水路には、人々を安心させる材料は存在しない。今にも崩れそうな頼りない劣化したレンガには、黒いシミがいくつもできていて、時折崩落しているのか、と穿って見れらるほどの闇が、亀裂と共に存在していた。

 本来は白色に見えるだろうセメントは、汚水の汚れと時折通り抜ける風の所為で、黒ずみ迷宮めいた文様を形成している。

 一歩、一歩

 進む足音は静かになろうとも、確実に音のする方に向かっていた。トラビスは手に握ったナイフに力を込めた、普段以上の力を一度取り除き、軽く握り直した。

 巨体が見えた。

 《星》(ステッラ)が砂塵の様に舞い踊り、汚水が跳ねる。「さっさと大人しくなれよ!」とマイケルの嫌味が耳に残る。発砲音はこの時点で二十は超えている。リロードを挟んで彼の持っているスピードローダーも空になっている事だろう。

 仮に銃弾がなくなっても、彼は慌てふためくような奴ではない事は、トラビスは良く分かっていた。ふてぶてしい態度を取りイラついた表情を顔面に張り付けて、腰に付けたもう一つの『力のいる』獲物を使う事になったと嘆くのは目に見えた。

 マイケルの姿が映った。人の身でありながら、軽々と縦型桝の高さほど飛び上がっている。軽く見積もっても六、七メートルはあるだろう。影の様なモヤが全身を包み、彼の動く奇跡を光跡の様に残していた。一瞬で消える黒いモヤは、マイケルの体を包み、冷気が立ち上る氷の様にすら感じさせた。凍てついた目が彼の眼前に踊る巨体に興味なさそうに向けられていた。

 体長二.五メートル程ある大男は上半身が毛むくじゃらであったが、分厚い胸板を誇張する様に自らの着衣を乱れさせていた。野獣の様に犬歯をむき出して、縦横無尽に跳び回るマイケルを鬱陶しい様子で喉を「グルル」と鳴らしていた。

 背中には右手を守る様に黒い片翼が生えていた。汚れた水でシミになったベージュ色のズボンはぴっちりと筋肉質な男の足に張り付いて、隆起を誇張していた。男の存在は、『当然』と言わんばかりに粗暴さが表にでてひどく醜悪で、下水の汚泥臭に似合っている、とトラビスは思った。形の悪い鼻に、ヒキガエルの様な頭は、筋肉質な体と相まってゴリラの様に見えたが、ゴリラよりも品性に乏しい口はだらしなく見えた。

「ほんと、きったないなー」マイケルは嫌そうに渋面の表情を隠しもせず罵った。「その汚いよだれを処理もできないおこちゃまが、どうしてあの”キーガン”だっていうんだ? もう少しジョンソンの記事みたいにスマートな異常者だとおもってんだけどね」

 トラビスはやはり、と理解した。目の前にいる大男は追っていた相手ではない。が、それでも界隈では賞金首になるほどの異常者だ。無秩序の中でも特級に無秩序を生成する、シリアルキラーは教会、警察、政府のみならず、マフィアの間でも忌避される。

 ぐふふ、と汚らしい笑い声を漏らして、キーガンと呼ばれた男は目を弓なりにしならせた。「坊主、あんなおべんちゃらが効いた記事ゴシップを読んでなにになるね? ん? ただの妄想狂の戯言じゃないか」笑いながら、距離を取ったマイケルに対して、瓦解していた水路の破片を蹴り上げて器用につかみ取ると、呼吸を置かずに投げた。

 マイケルはするりと避けると汚水に足を取られない様に距離を置き、キーガンに問いかけた。「ここにいるはずのネッドは?」「ほう、」と大男はため息を一つついた。「あの小物があの《不死身》であったか……。であれば、頼み事の一つでも聞いてやればよかったものかのぅ」マイケルが堪えなく、トリガーを引いた。凶悪な弾丸はキーガンの頬をかすめ背後にあるレンガ造りの壁面に突き刺さった。「交渉事が苦手を思える。脅せばそれで終わり、というのはちと、学がないというものよ」キーガンはあきれたようにぽりぽりと鼻の頭をひっかいた。マイケルは苛立った声で、「こっちは《商品》を追ってんだ。君が仇だったとしても、今は見逃してやってもいいっていう慈悲を感じられないくそったれの方が学がないっていうもんだろ?」「そうさ、のう」キーガンはマイケルをまじまじと見つめた。

 うむ、と喉を鳴らしてから、「あいつなら逃げて行った。大事な、大事な商品を"二つも"差し出して、ほれ、ワシも腹が減っておったから、それをちょちょいと――」「喰ったのか?」マイケルの問いかけに対して、キーガンは縦に首を振った。

 それでほしい情報は全部だったが、であれば、とマイケルが口を開く。「さっさとここでそいつを吐き出してもらおうか?」挑発に似た言葉を舌に乗せる際、マイケルは口の端を三日月の様に禍々しく吊り上げた。

 キーガンが動くのが先だった。瓦礫を掴みとるとやためったらのフォームで力のかぎりマイケルにぶち込んだ。空中に舞い散る《星》(ステッラ)は、粉雪の様に世界を明るくするが、物体の高速移動で発生する風に引きずられて放射状にのびる光跡をいくつもつくった。マイケルは「はっ」と一つ笑った。黒いモヤが全身を覆い、動くたびに残滓を残す。動きはめちゃくちゃで、空中で投げられた瓦礫を足場にして動きまわる程だ。十も瓦礫を投げ飛ばすと、当たらない事に疑問を持ち、キーガンは、むぅと唸った。

「知性の方もドブの中に投げ捨てた様な幼稚さ。さっきから力任せに周囲を破壊するだけっていうのは、大戦時の独逸兵ですらやらない暴挙じゃない」マイケルは器用に身をよじって避け、すぐさま壁を走っては位置を変える。

 マイケルはトラビスに気づいているらしく、トラビスのいる南側の通路には寄りつこうとはしなかった。「ふん……、たかがあの様な雑兵の話をされても困るというものよ。ワシがその場にいれば、誰も彼もただの肉にしかすぎんというのにな」キーガンは距離を詰め、マイケルに左右の連打を与えた。空気の振動は遠く離れているトラビスですら感じられるほどで、びりびりとしたコンビネーションは《星》(ステッラ)の浮遊する空気を文字通り切り裂いた。

「うわ……。全部肉とかキモイ。死んだら肉っていうのは同意だけど」マイケルは煙の様にするりと右の脇腹から抜け出るとキーガンの背後に回り込んだ。その勢いのままキーガンの広い背中を蹴り距離を取る。体重が軽いところもあり大した衝撃にもならなかったらしく、すぐさまクルリとマイケルに体を向けた。

「実際のところ、君も相当な肉だよ。おっそい攻撃ふりまわしてるだけの、ザ、コ」ケタケタと笑いながら、マイケルは愛銃の引き金を引き絞った。ぐるる、とキーガンは喉を鳴らして呻くと、翼が彼の体を守るように動いた。轟音とともに放たれた銃弾は、当然の様に翼に弾かれた。「でも――それ、ほんと反則。大人しく狩られるほうが苦痛なくていいと思うんだけど?」「あほう、」キーガンは口の端を愉悦を含めて吊り上げた。「力は全てを陵駕する、というものよ。そもそも持たざる者が向かってくるというのがワシには理解できん。”素晴らしい”低能さの小僧には理解できんことかなぁ。力量差も見極められぬ者こそ、そういうのではないか? 

ん? 雑魚とな」はん、とマイケルを鼻で笑った。

 キーガンがすぐに動く。銃弾が切れたという事を理解しているのだろう、堅牢な翼を前面には出さす、後方への羽ばたきに変えて巨大な体躯を砲弾の様に滑らせた。すさまじい風切り音をとどろかせて、高層ビルディングの建設に使う巨大なレンチを思わせる拳が降りぬかれた。

 水蒸気でも纏っているのと思わしき一撃は地面と水平に打ち抜かれる。突き出された拳の先に、マイケルはするりと身を翻しながら、右足の先を軽く当てた。「あ、ぶね」こん、と壁際まで相手の拳の勢いそのまま後ずさる。口ではそうはいっても、マイケルの表情には余裕はあった。「どうするね? 小僧のパンチなど貰ったところで、ワシを倒せる事はなし、銃が無ければただの案山子と同じだろう?」

 キーガンは一息を入れる。全身の筋肉が呼吸に応じて上下し、その後ぐっと引き締まる。拳を戻し、力を溜めながらボクシングスタイルを維持する。背後でちらつく翼は今まさに飛び立とうとするレシプロ機の様に、推力を溜め必殺の一撃を繰り出そうとしているのが良く分かった。トラビスはすかさず影に隠れ、キーガンの視線をやりすごすと、壁伝いに背後へと回り込んでいった。ぱらぱらとトラビスの背後で崩れ落ちる壁材がキーガンの腕力を物語っていた。つかまったりすれば、直ぐにマイケルの細い首はへし折られる事は理解できた。息を殺し、ゆっくりと動く。その動きに合わせて、マイケルは自らの足をトントンと浅い汚水の先、コンクリートの床を右足のつま先で叩いた。

 「キーガン。君に一つききたいんだけどさ、」マイケルは脇を締めて両手を左右に広げ手のひらを上にして、尋ねた。右手に持っている拳銃が人差し指にかかりぷらんと逆さづりになった。「最初みたいに無為に分からない様にさ、独り身の浮浪者とか、はぐれ者を殺して、ばらして、食って。それだけなら、大したことじゃないのにさ。それだったら、わざわざ僕がつっかかる理由なんてないのにさ! なんで、よりにもよって、カミラ・グリーン・アグワイアを食ったわけ?」キーガンは体を微動だにせず、「そりゃな、」口には厭らしい笑みを浮かべた。「美味そうな足を見せびらかして歩いてる方が、悪いってもんだろう?」

 そもそも、とキーガンは笑う。「あの運搬坊やが逃げ延びるために両方、餌としてさしだしたというものよ。ワシが欲しいと最初から願った訳ではないのぅ。ワシの狙いはあのアグワイアの娘子より、もう一つの方だけだったしのぅ」

 マイケルはぺっと唾を吐いて口を尖らせた。「君さ、頭ほんと悪いだろ」「年上に頭が悪いっていうのは、ん? どういう理由かの? ん?」キーガンは腰を落とした。距離にすれば集水桝の大きさは直径六メートル程あるが、キーガンの巨体から考えれば、一歩程度で縮まる距離であった。そんな大男が目を吊り上げて小柄な少年を睨みつけていた。

「ほら、そんな簡単に睨むもんじゃないでしょ。頭悪いっていうのはさ、」マイケルは気だるげに腰に両手を当てて、「フィラデルフィアじゃかなり優良な町医者じゃないか。そりゃちょっと物騒な奴らとの付き合いもあるさ。わざわざ、マランツァーノの色がついてるっていうのに、なんでそんな分かりやすい地雷を踏み抜く、ってーことを言ってるわけ」

 ぐふふ、と含みがある音を大男は喉を鳴らして漏らした。「食材はな、どこのタグが付いていたとしても、美味であればそれを手に入れる、っていう食に対する欲求――即ち人の本能すら理解できない小僧には、ちと難しい所ではあるものよ」「直情すぎだっつってんだよ……」マイケルは肩をがくっと落とした。脱力したのが分かったが、すぐに気を取り直したように、強い視線でキーガンを見た。「そもそもマランツァーノはかつて、あんたの雇い主だっただろう? その力は嫌というほど思い知っているだろうに、なんで……」

 キーガンはマイケルの問いには答えなかった。口に浮かべた笑みは厭らしさを隠し、今では眼前にいるマイケルをとらえようと、どう猛な犬歯を覗かせるだけだった。

「力とは、」キーガンは腹の底から震える声で告げる。

「束になるものではなく、一人の強さのみで形成されるものではない。精神の強さ、信心深さも関係なかろう。あるのは唯一、世界の流れに逆らわぬ様にする、潮流を見極める"目"を持つことよ」

 マイケルが明後日の方を向いて、「だから?」と興味なさそうに尋ねた。

 しかし、キーガンはやはり問いには答えず、構えた腕に力を籠めた。

 マイケルが足を持ち上げ、床に向かって勢いよく降ろした。軽快な水のはぜる音と共に、マイケルの周りに汚水の粒をまき散らした。マイケルの体を覆っている黒い靄が、水にふれると一瞬で水が蒸発し霧散した。「いい加減、時間の無駄だから終わりにしよ」つまらなそうに右手の人差し指に吊るしていたリボルバーを吊り下げ式の腰のホルスターに戻すと、右手のカフスを外して袖口を緩めた。左手でベルトに吊るしたポーチから塗装の禿げたような鈍色の鍵を取り出した。シリンダー錠が主流であるにもかかわらず、一昔前の《漆黒のウォード錠》を取り出した事で、キーガンは疑問を浮かべる様に首を小さく傾げた。

 マイケルはキーガンに右手の甲をみせるよう掲げた。「終わらせる、のがせめても救いだね。可哀そうなカミラ……。彼女の作るクッキーは美味しかったよ。前に《頭》に連れて行ってもらった時には、喜々としてもてなしてくれてさ。子供だからっていっぱい皿に盛ってくれたんだ。《頭》も子供扱いするからさ、僕は苦笑いしてたのにこっちの頭をやさしく撫でるんだ。嫌だって手を突っぱねる事もできなくて、しかも顔をしかめる事もできなくて」

 鍵を右手の甲に近づけた。白い肌にぽっかりと黒い鍵穴が空いた。吸い込まれ、左手の指を器用に動かして捻った。

「でも、カミラの手は優しくってさ、僕の気持ちを察してるらしくておっかなびっくりだったのに、それでも撫でるのを辞めないんだ。こんな――」マイケルの体に黒い影が纏わりついた。轟々と音をたって空気が渦巻く。その中心には赤く輝く瞳が見えていた。「《人》ではないっていうのにさ」

 トラビスが誰よりも先に動いた。

 その速度は二人よりもより速い。速度だけを鑑みるのであれば、彼我の距離を一秒となく走破する。しかしその速度は前面に存在する空気の壁を突き破って生成されるものだ。圧縮された空気はドミノと同じ様に前面の空気全体を潰していく。彼の走る足が、水面に到達する時点で、前方に向かって波が発生。

 彼の動く振動は水伝いでキーガンに到達する。しかし、影から現れたトラビスの速度は一歩目から最高速でキーガンの背へと迫った。感知しえない不意打ちの一撃は、きれいにキーガンの翼の付け根をナイフで切り裂いた。

 グオーとかウォーといった雄たけびに似た叫びが下水道に反響した。「――‼」ぐわんぐわんと音は鳴り、レンガ造りの壁を激しく振動させた。キーガンの腕で作られた拳でくだかれていたレンガの壁が、ばらばらと音をたててモルタルから剥がれ落ち、うるさい音を立てて汚水に落ちて行った。

 「彼女は返してもらいますよ」トラビスは背を反りながら睨みつけるキーガンに笑いかける事もなく、機械的に告げた。

「雑魚がほざくな!」キーガンの一喝は水を震わせ、大気に漂う《星》(ステッラ)が破裂する様に吹き飛んで壁当たりに向かってはじけ飛ぶ光輪を作った。トラビスは返す手で矢継ぎ早にキーガンの背中を割いていく。一度、二度、返す手はとめどなく、人殺しであっても行わない程の蛮行だ。苦痛を与えるためだけに特化した行為は、複雑な裂傷を刻んでいく。癒着する力が強いのか、あふれ出る血は少なく、刃を滑らせる事も少ない。キーガンが痛みの耐えかねて右腕を大きく振るい裏拳をトラビスの顔面に向けて滑らせた。剛腕は重い音をたてて流れる。しかし、トラビスは難なくそれを屈んで避けると、続いてがら空きの横っ腹から腹全体を掻っ捌いた。飛び散る赤銅色の液体がトラビスの顔面に向けて飛んできた。

 マイケルが咆哮を上げた。高い声はキーガンの重い声質とは異なるもので、狼の警笛にも似た“叫び”であった。トラビスはキーガンからすぐさま距離を置き、次に来るであろう衝撃に備えた。「君は、――」マイケルは笑っていない。右手には巨大な黒い陽炎が立ち上っている。うねうねと生物的に動く靄はキーガンに向かって《力》を形成していった。

「ここで死ね」

 冷ややかな声。マイケルは構えた腕を光速で振るった。


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