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真夜中の倉庫街は暗闇に支配され、視界が効かぬ黒い世界を創生していた。普段であれば月明かりの青白い光でも射し込むだろうに、空には黒い雲が全体を覆い、星々の煌めきすら隠し込んでいた。ヴェルヴェットの様な厚い雲は、今すぐにでも雨を降らせそうな湿気を夏にしては涼しい風と共に運んできていた。海からの風は十分に塩気を含み、肌にじっとりと張り付く様な嫌なものではあったが、それでもジェリーは一切顔色を変えずに影の中に潜んでいた。
「なんでこんなのがいるわけ?」ジェリーを指指してルークに問いかけるマイケル。怪訝そうな感情は一切隠さず、汚いものを見るように露骨に嫌そうな表情をしていた。「こんな、とは失礼ではありませんか。お嬢様のためにどこにでも参るのが付き人としては当然な事ですから」得意げにジェリーは胸をそらした。足元にいるヴィッキーが、ハッハッハッと嬉しそうにジェリーを見上げた。
「俺としては、この犬の方が意味わからないが? 役に立たないだろう……!」ルークは青筋を立てながら、こめかみを押さえた。マイケルはイラッとした表情を向け、「ヴィッキーはちゃんとやる。猟犬として育てているから君の手下より優秀さ」「ほざいてろ少年。そんな一匹よりこっちの十人の方が優秀にきまってんだろ」「はいはい、そこ争いをしないでください。こんなところで騒いでるなんて、死にたいんですか?」ジェリーは冷ややかな目で今にも噛みつきそうな子供――一名は大人であるが――を見比べた。いつも通りスーツ姿のルークは、けっ、と唾を吐くと懐からサベージM1907を取り出すと弾倉に弾が入ってることを確認すると、撃鉄を起こした。
ルークの側にやってきた黒いスーツ姿の男が、「配置終わってます。後は花火を合図に中心へと進みます。あと……おそらく5分程度でしょうな」とゆったりとした口調で告げた。ルークは、おう、とだけ頷くと左手で何やら合図を送ると、男がすっと車の方へと向かっていった。「少年。今回の事は借りにしておいてやるから、存分にやれ。まったく、あんな小物の掃除を飲んだ頭も頭だ。少年の働きに免じて、とのことだったが、組織に貢献するのは当然だっつーのにな」「うるさいなぁ。僕が勝手に動いたらそれだけで問題になるんだろう? 文句ばっかり言ってさ。だったら話を通すしかないじゃないか」憮然としていたが、マイケルもM10を取り出して銃弾を確認していた。
小さい姿のマイケルは見上げるようにジェリーを見ると、「で、君の獲物は?」ジェリーはエプロンの裏から巨大な出刃包丁を取り出した。「……また実用的なものだね。死なないことを祈るばかりだよ」優雅にジェリーはルークに一礼をした。「御心配に及びません。たかが銃弾程度では私を止める事はできませんので」「……初耳なんだが、メロ家は《羽付き》囲ってんのか?」
いいや、と懐疑的なルークの死線にマイケルが首を横に振った。「昔から囲ってない。純粋な人間しかいないって……聞いてるけど」ジェリーは頷いた。「私はマイケル様の様な能力を有しておりませんので、出来ることをするまででございます。邪魔にはなりませんので」「こいつがいる理由が分からないんだが?」マイケルはジェリーの言葉を心底信用していない様に額に皺を寄せてルークに尋ねた。
「今回の作戦は事前に話をした通りだが、メロ家の資金提供があって随分と派手にできる事になった。その代わり、きちんと履行されるのかを確認するために遣わされたのが、この監督者というわけだ。まー、こっちの邪魔にならなきゃどうでもいいから、承諾をしたってところさ。潤沢な資金のおかげで外周全体をカバーできるだけの弾薬が用意できたっていうのは心強いところさ。人員も3チームで全部で15人用意できているから、合図とともに一斉に外周から中心をに向かって進むさ。ここの倉庫の数はかなり多いからな、相手が中心にいるというのが分かっていても、アンブッシュの警戒を怠るのは愚の骨頂さ。手下がある程度侵攻したタイミングでこちらは北側の道を使って中央を目指す事になる。逃げ道を防ぐためにある程度の人員がいるだろうから、ティムの野郎に話をして警察に主要道路は押させてあるから好きに調理しろ」
マイケルは、相変わらず物調ずらのままだったが、息を吐くと同時にきりりと表情を引き締めた。「それで、その子犬の面倒はだれが?」マイケルはルークの言葉に笑った。「面倒を見る必要なんてないよ。おそらく、ここにいる誰よりも早く彼女を見つけるはずさ。そういう風に躾けているから」意味が分からないというルークに対して、ジェリーは納得したという様に頷いた。
花火の音が響く。海上から上がる花火は、真夜中だというのに綺麗に五月蠅い音を響かせて咲いていた。倉庫群に響き渡る音は振動を伴う程強い。腹の底から響いてくる音は手にアルコールの入った瓶を持つクリスにとっては嫌なものだった。倉庫の中に創られた小屋に居るのはクリスとメアリーだけだ。外には警備の男が2名とヴァネッサが手持ち無沙汰で男を誘惑している事だろう。車を勝手に汚されるのは癪だったが、この際、注意が逸れるのであれば十分な成果だとは思えた。
脱脂綿にしみこませたアルコールをメアリーの痛々しい傷口に当て込むと、タオルでふさがれた口から悲鳴に近い押し殺した声が漏れた。「申し訳ありません。痛みを抑えるような薬は簡単に手に入れられませんでしたので」クリスの言葉に目じりに涙を浮かべたメアリーは首を左右に小さく振った。気にするなという事であるのは分かったが、クリスの胸の内は申し訳ない気持ちで一杯になっていた。
もともとジョージ・フォン・フォスターの下で働いていたクリスは、リチャードが家を乗っ取ろうとした時、少しの――それでも一般的にみれは一財産ではあったが――遺産をくすねて、従業員の大半を解雇しない様に話していた。昔は軍にいため、予備役になってはいたものの、大戦へのアメリカの参入時には徴兵を回避していた。多くの家族同然の従業員を路頭に迷わせる事を避けなければならない、という強い使命感があった。フットマンという仕事をしていた事もあり、ジョージ自身の信頼も厚かったため、家より民を守るために動いた彼の働きは、彼が生きていれば笑ってすまされる事だろう。助けた従業員の多くは感謝したが、それでも後ろ指を指される事はあった。幾人かは仕事を辞め、彼を非難する文章を新聞に掲載していた。
メアリーの事は知っていた。しかし、関わりを持つ相手ではない事は理解していた。相手は良家の一人娘であるから、黒子のクリス程度に会うことなど稀な出来事であった。今でもなぜ、彼女はマフィアの一人が優しく傷の手当てをしているのか理解はできていないだろう。クリスはそのことを悲しいと感じてはいなかった。自分と住む世界が違う者に特別な感情を抱くという事はなかったのだ。例えば、あこがれや、夢を持つことも、彼は想像すらしなかった。
現実主義者であったのは事実だが、一般的に考えれば現実主義者たちといえども住む世界が違う住人に対して、嫉妬や、あこがれを持つのは可笑しなことではなかった。しかし、クリスはそういったことを考えられるだけの資金を個人で持っていたとしても、何も思わなかった。欲求がないのだ。金に、人に、物に、執着がない。ただ、生きる事だけを考え、生きる事以外は考えなかった。
生き残るという事だけを考えれば、今、リチャードが求める事に逆らう、というのはリスクの大きな事であるのは理解していた。しかし、旧知の相手であるメアリーを痛めつける事は気が引けたし、さらに言えば子供であるという事も引け目があった。奈落の底にいるのは、自ら転がり込んだ奴だけで十分だと思っていたのに、マイケルの出来事をはじめリチャードは子供であろうと躊躇が無かった。
苦言を言えばリチャードは厳しい手に出て、クリスをはじめとした元ジョージの使用人を切り捨てる事だってあるだろう。ある程度は苦渋を飲んだが、それも一度で十分だった。マイケルのことを笑って話すリチャードに対して、その時点で激しい悔しさは持っていた。今回で二度目となれば、良い顔をする必要性もないと思っていた。ここで首を切られるのであれば、それも仕方なしだとクリスは感じていたし、おそらく、元使用人たちも同じ気持ちだろう。
うめき声は痛みを緩和する事なく、メアリーのずたずたになった体を消毒する度に漏れ出ていた。足までの消毒が終わると、花火が始まってから10分程の時間が過ぎていた。今日が何かを記念する出来事だとは思えなかったが、この五月蠅さはありがたかった。手早くメアリーの傷口に綺麗な布を押し当てて包帯で巻いていく。従軍していた事もあり、応急処置は手慣れたものだった。軍医ではなかったし、実際の戦場には出ていないまでも、その手ほどきは嫌というほど習っていたし、裏の稼業を続けている中で自然と技術が昇華されたのだろう。
メアリーの口にはめられたタオルをほどくと、彼女の口から唾液が歌った。痛みに喘ぐ彼女の声を押さえる布を失ったとはいえ、倉庫の前にいる見張りが気づく事はないだろう。小さい声でメアリーは礼を述べようとしたが、漏れ出たのは「う」とか「あ」といったうめき声でしかなかった。「無理はしないでください。まだ、安全が確保されたわけではないのですから。正直、完全にノープランですから、この機をどの様に使うべきか、と悩んでいるところではあります」
クリスはメアリーの腹部に包帯を巻きながら、本来は綺麗な白い肌を指が軽く当たった。じっとりと汗で濡れているメアリーの肌は、一般的な男性が情欲を抱くには相当ではあったものの、クリスは何も表に出さなかった。内にかすかな感情の揺らぎはあったものの、痛々しさが先行して到底その気にはなれなかった。
彼女が、あのマイケルと結婚するであろう事は、昔に想像したことがあった。広い庭に二人が子犬たちを連れて歩いている様は、非常に微笑ましく仲睦まじい家族を想像する事は容易だった。内気な少年ではあったももの、ジョージの見立て通り聡明に育っており、ハイスクールに行く頃になればジョージの様にもっと自信をもった姿になるのだろう。その時には、綺麗になったメアリーが横で微笑むのだろうか。片手には日傘をさして、足元には大きくなった犬たちが輪をなすのであろうか。そんな事を想像する平和な光景が眼前には確かにあったはずなのに。
手錠を外し、メアリーに使い古されたシャツとズボンを渡した。「大きいとは思いますが、何も無いよりは幾分ましでしょう。……ハーシーからもらい受けましたが、お嬢様には質素なもので申し訳ありません」「……謝る所、ではないでしょ……う」苦しそうに体を動かしてメアリーは自らの傷口をなぞった。「襲われる、かとも思いました、……が、感謝いたします」
クリスは表情を変えず、多くは語らず「あぁ」と曖昧に頷いた。すぐさま上着の下から銃を取り出すと、銃弾の残りを確認し、手早く準備を始めた。カバンから取り出したダイナマイトの束を見れば、何が起きるかは容易に想像ができた。「一体、……どこからこれを……」唖然とするメアリーに対して、クリスは肩を竦めてみせた。「気にくわない、というのはありますがね。あの女は――私にとっても仇の一人なのは間違いないですからね。意趣返しというやつですよ。……尤も、もっと早く処分しておく必要があったのかもしれませんが」
ダイナマイトの導火線を伸ばしながら、クリスはこの先のことを考えると頭痛がひどくなった。自分一人で騒ぎを起こしたとしても、少女一人では逃げ切れるものではないのは明白だった。であれば、建物の壁を吹き飛ばし、どこかに逃げれる様に手はずをする程度しかないのではないか、とクリスは考えた。こういったとき、頭の悪い自分のことを呪わずにはいられなかった。多少読み書きはできても、計算は不得意だし、銃やナイフは扱えても、通信機などの機械は一切分からなかった。
「大丈夫、ですわ」根拠なく、メアリーはクリスを勇気づけるようにクリスに言葉をかけたが、気休めだという事は理解していた。外にいるリチャードの手下程度であれば、クリスの地位的には押し通せるだろうが、ヴァネッサともなれば別である。仮にヴァネッサを殺害したとしても、リチャードが彼女の用心棒として囲っている《羽付き》は喜々としてクリスを殺しに来るだろう。そうなれば、次にメアリーが害される事は理解できていた。
ドーンと花火の音が響いた。「随分と、優雅なのです、ね。このニューヨークという、処は」独立記念日にしてみれば遅いし、ベースボールのシーズン優勝でもかざっとなら別だがそれには早すぎる。ここでお祭りらしい事をやる、というのは聞いていない。いや、と振動が近づいている事に気づき、クリスは身を固くした。「来ている……のか?」一人思い当たる節がある。あの男ならやりかねない、と即座に思い至りメアリーの顔をハッとなってみた。
メアリーも気づいた様だ。だんだんと、爆発音は近づいているのだ。確実に物が散乱する甲高い音と共に。
好機。
クリスは背中に二本ダイナマイトを差し込むと、残りをカバンに詰めて導火線をジッパーの外へと向けた。結線される様に麻のロープで手早く締めると、十六本を結束した投擲弾に早変わりさせた。マッチがある事を確認すると、よろよろと立ち上がろうとするメアリーの肩をとった。「彼が来ている事でしょう。保護を求めなさい。私は……やる事がありますから」「それは、――生きる残るための事ですか?」メアリーの質問は本質をついている、とクリスは思った。自分が囮になる、とでも言わんばかりの用意であるのだから、不安にすらさせているのだろう。
気にする事はない、と口を開こうとして、即座にクリスは止めた。肩をすくめ玉虫色に答えを濁した。「いいですか、」メアリーを部屋の隅に連れて行くと、毛布を頭の上から被せクリスは語りかける。「これから、二度大きな音が近くでするでしょう。そうしたら、このプレハブの裏から出れるほどの穴が開きますから、一目散に逃げなさい」「あの、――」口を開きかけたメアリーの柔らかい唇を人差し指で押さえた。「質問は無しです。すぐにでも騒ぎを聞きつけて人が来る。いいですね?」
メアリーは、きゅっと唇と噤んだ。靴の一つでも用意できればよかったのに、とクリスは思ったが露骨な物は難しい。毛布にメアリーを押し込めると、外からではただの乱雑に物が積み上がっている様にしか見えなかった。
「旦那!」扉をたたく男が響いた。クリスは肩にダイナマイトを詰め込んだカバンをかけ、マッチを右手に持つ。懐から煙草を一本取り出すと、「分かってる。すぐ行く」と声をかけた。




