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 エヴァンジェリンがのんびりと昼下がりの柔らかい太陽を孤児院の側にある大きな椋木の下で浴びていると、スティーヴ・ヴァン・ハードが大きなバスケットをもってやってきた。栗色の酷い癖毛は、毛量の所為でかなり大きく見える。肩甲骨あたりまで乱雑な髪の毛は、風で揺れる程弱くはなく、彼の歩く上下する動きによってのみ動いていた。のんびりと歩く素振りは年齢とはかけ離れた落ち着いた雰囲気を感じさせた。副院長である彼は教会の神父である。であるから胸元にはロザリオが下げられていたが、いつの物なのか分からないほどに年季の入った黒檀で作られたような真っ黒なものだった。スティーヴいわく、「100年近い間で汚れてしまってこうなったんだろうね」と真夏の太陽の様にまぶしい笑顔を向けるのがいつもの事だった。

 「もうお昼ですの?」「そうだー。一日は早いものさ。ゆっくり時間を楽しむというのがどれだけ贅沢か……。やはり神に感謝をして一日生きるという事がどれだけ大変な事かというのを理解できるね」エヴァンジェリンは目をぱちくりと瞬きして、スティーヴの茶色の瞳を見つめた。揺らぎはなく、しっかりと"先"を見つめる瞳は、とても強い意志でコーティングされている。「それでも、わたくしは本当に生きていていいのか、と悩んでしまいますわ」

 スティーヴは笑みを浮かべてエヴァンジェリンの頭に手を置いた。ずん、という重さはあったものの、柔らかく包むスティーヴの手は父親の様に温かく感じた。「生き急ぐ、というのはね、早急に結論を出そうとすることだ。正しく生きる、というのは誰もが思い、悩む事だろう? それを1時間、1日、1か月、1年という短い中で決めてはいけないさ。悩む事が大切だ。答えは良い、生きる事が大切だ。感謝し、生きるんだ。そのうち、答えがおのずと見えてくるさ」「神父様はどういった事で思い悩むのですか?」

 エヴァンジェリンの問に、スティーヴはうーん、と唸って右手を腰に当てた。明後日の方を見て、すぐにエヴァンジェリンに視線を戻す。「多いのは、日々の後悔だろうね。"あれは、その決定でよかったのか"とかね。次に多いのは、――人を殺した事への問いかけだろうね」スティーヴはオブラートに包む事なく、ストレートにエヴァンジェリンに投げかけた。どういうことか、と聞いては礼儀に欠けるのではないか、と思ったが、そもそもこの問いかけをした時点で不躾である事に思い至る。すぐにであれば物は次いでという考えが浮かんで、「どういうことがあったのでしょう?」と首をかしげて見せた。

 「かつて、トラビスと私は良く、――教会の仕事をしていてね。多くの"問題"を処理していたんだよ。こう、考えられていてね、大罪に起因する出来事は、"表にできない"として多くの汚職をした者たちを誅殺したのさ。中には君の様な若い子もいたけどね。手に染みついた臭いはいまだに消えない、とは思う。時折、その感触を思い出すし、悲鳴を思い出すのさ。本当にクズたちもいたけどね」スティーヴはぽりぽりと顎をひっかいた。なんとなく居心地が悪いのか、視線もエヴァンジェリンからかすかにずらしていた。「チャールズや、オデットはそこで保護した子なんだ。教会の恥部をさらすのもいいとは思えないけど、エヴァンジェリンさんは同じ穴の貉だし知っていてもいいかもしれないね。子供をね、好き好んで辱める奴がたまにはいるんだ。教会というのはある種の"権威"で作られているからね。盲目的に従う者たちを見て"教義だ"などと屁理屈をこねる奴らがね。そういった者たちを表に出してしまえば、評判は落ちる、というのが上の考えさ。カトリックは閉鎖的ではあるし、特に教皇陛下の考えが強いからさ」

 スティーヴは難しい顔をしてエヴァンジェリンを見た。「悩むのは、そういった奴らを文字通り……殺戮したことさ。誅殺とはいえ、大義名分だけであって、やっている事は"殺し"さ。街の中で強盗がしでかす罪と変わらない、んだろうと常に悩むのさ。――答えなんてないけどね。こびりついた血を拭う度に、むなしさが胸のなかに広がるのさ。"奴らの命を奪って、ミンチにして、一体なにが変わるんだろう"ってね。子供たちは救えた、とは思うけど、それはほんの一握りさ。何度となく重ねた罪の中では、比較的まともさ」

 神妙な表情のスティーヴを直視できず、エヴァンジェリンは視線を外した。教会が一枚岩である、という強い信頼が彼女の中にはあった。しかしそれが彼らの様な粛清のおかげとくれば、その罪は一体だれが被るべきなのか。権威や、建前を気にする組織全体の罪なのではないか、とも思えた。分散される罪は一人に渡される度に薄められ、本質を減衰させていくような気がした。末端のたかが修道女であるエヴァンジェリンには"考えなくていい"事なのかもしれないが。

 遠くでヒロロロと鳥の呑気な声が響き渡る。悩みのなさそうな軽やかな音の中に、本当は多くの苦悩を抱えているのだろう、とエヴァンジェリンは思うと、面白くなってぷっ、と噴出した。「鳥たちもきっと悩んでいるのでしょうね」「あぁ、そうだ。蟻たちも、牛たちも、みーんな生きるためには悩むのさ。人の言葉以外であっても彼らは歌で、体でそれらを表現しているんだよ。良く彼らを見てみるといい、」スティーヴはエヴァンジェリンの側ですやすやと寝息をたてている、マイケルの愛犬ヴィッキーを指さした。「彼であっても悩みはあるのさ。"ごはんの時間まで食べれない"っていう苦悩はね。時折自分の尻尾をめがけてクルクル回るだろう? あれはお腹が空いているんだ」

 本当かしら、とエヴァンジェリンは目を瞬かせた。「ついでに、」とスティーヴはバスケットを下ろして笑いかけた。「私もお腹が減っていてね。どうだろう、少しくらいは食べないかい?」エヴァンジェリンはスティーヴの満面の笑みに応えるように、菫の様な可憐なはにかみを見せた。「ええ、そうしましょう」

 彼女の応答が済んだ途端、ヴィッキーは唸り声を上げて立ち上がり、背後にくるりと回ると威嚇した。どうした、と声をかける間もなく、スティーヴは静かにバスケットをエヴァンジェリンに預けると、長い神父服の背中側に右手をすっと差し込んだ。大きな背中から、ぎらついた腕の長さ程ある刃物を取り出した。ナイフというには長すぎて、剣というには短い。中途半端な形状であるが、両刃の剣の様に直刀であるが、強いて言うなら槍の穂先、とも見えた。「しーっ」スティーヴはエヴァンジェリンに唇に人差し指をあてて静かにする様に指示した。

 ヴィッキーの唸り声のなか、微かに木々が、薮が音を立てるのを聞いた。「ヘイ、どこから入ってきたかはしらないが、ここは教会の敷地だ。こそこそする真似はやめてもらいたいね」スティーヴは落ち着いた声で宣言した。聞こえたのはうめき声に近い低い音だった。ずるずると、いう何かを引きずる音も聞こえる。

 そろりそろりとスティーヴは薮の方へと歩みをすすめ、少し覗き込んだ。すぐにヴィキーに待てと左手を向けて指示した。「あんた、血まみれじゃないか……」

 「まて、」とうめき声に近い声で男の声がした、がさがさと薮から男は這い出てきた。右腕をきつく布で縛り、出血を押さえているのが分かる。スティーヴは右手に持っていた剣をすぐさましまうと、男へと近づいた。「どうした? 何があった? 追いはぎか?」「慌てなさんな、神父さんよ」弱弱しいが、呆れた口調はまだ元気があるのだろう。エヴァンジェリンがそろりそろりと近づくと、男は、「汚れるから、とりあえず、毛布か、何かくれねぇか。あとちょっと椅子でもあると、助かる」

 エヴァンジェリンは自分の足を一瞬みた。未だギブスを付けた動かない脚が恨めしい。「エヴァンジェリンさん、私がとってくるから、ヴィッキーをみていてくれるかい? 気が立っていて、すぐに噛みつきそうだ。――彼女に手を出すと、すぐさまその子にくわれるよ」男は、慌てた様子で、「おいおいおい、こんな傷で襲えねぇよ。頼む、あと酒があると――」「贅沢言うなよ……意外に元気そうで拍子抜けだな。ま、とりあえ待ってろ」

 すぐさまスティーヴ走り出した。エヴァンジェリンは痛みで苦悶の表情を滲ませる男に、おろおろとした表情を向けるだけだった。「気にすんな、こんなの10キロも北の街中じゃぁしょっちゅな事だよ。あぁ……ちくしょう。そうだ、嬢ちゃん、ここにマイケル、マイケル――フォスターはいるか? ここはフォスターの孤児院なんだろう?」聞き覚えのある言葉にはっとなってエヴァンジェリンは彼の顔をしっかりと見た。「貴方は一体……」「オレは……あぁ、覚えちゃいねぇな。――いやなに、町中でちょろっとみかけただけだ。あー、――そうだな。ジョンソン、新聞記者のジョンソンだ。オレたちは本名は明かせない。……酷い出来事を記事にしているからな。命をねらわれてんのさ。ほら、この間、リチャード・デュリの悪口を紙面一面にもっていったら、……このありさまだ。ひでぇもんだ」へへ、と弱い笑みを浮かべて右手を掲げて見せた。布切れでおおわれているが、手をぐるぐる巻きにしているためどうなっているのかは一見分からなかった。しかし赤黒いシミが出来ている事から、血が出ているというのは良く分かった。「オレの商売道具の腕を、噛みちぎりやがってさ。いてぇ、なてもんじゃねぇよ」脂汗を滲ませて、ジョンソンは弱弱しく息を整えていた。

 「マイケルに、渡したいものがあるんだ。な。場所知ってるなら、教えてくれねぇか?」「ご存じありませんの?」エヴァンジェリンは彼の知り合いであれば皆が知っている様な事を知らないジョンソンの存在に疑問を禁じえなかった。しかし、直感的に悪い人ではない、という気がした。「この間、街で大きな争いがあったようでして、全身に銃弾を浴びて病院に――」「――、」ジョンソンは息を飲んだ。ゴクリとのどを鳴らし、「そう、だったか。遅かったな。あぁ、畜生……5年も寝かせなきゃよかった……糞……」がんがんと左手を地面に打ち付けて嘆いていた。

 咄嗟にエヴァンジェリンは彼の手を包んだ。血に濡れた彼の体はぬるりとして生温かいものだった。ヴィッキーはいまだ警戒した様子でエヴァンジェリンとジョンソンの周りをぐるぐるとのどを鳴らしながらタッタッタを歩き回っていた。「汚れちまうよ、あんた、手はなしな」「いけません。自分を痛めつける事などはもってのほかです」まっすぐにエヴァンジェリンはジョンソンの顔を見た。唇に四つのピアスがついていて、チリチリと小さい金属を立てていた。「気になるかい? こいつは幸運の印で、命の助かったあぶねー事件ごとにつけてんだ。今回だって、まだましなもんよ」痛みをにじませながらも強い口調で、エヴァンジェリンの手を弱い力で握り返した。

 エヴァンジェリンは両手でジョンソンの手を包み込んだままゆっくりと何度も、撫でていた。「マイケルに、どの様な御用件ですの? わたくしであれば少しくらいお話しはうかがえますの」「いや……。マイケルに渡さないといけないものがあるだけさ。ずっと、大事に預かってたんだが、居場所もわからなくてな。自分の死が近々の時に思い出しやがる。今までの怠惰なオレを許してくれ、ってところだ」であれば、とエヴァンジェリンは咄嗟に提案をした。「あなたも病院に行く必要がありますもの、マイケルのいるところへすぐに向かいましょう? マイケルに直接渡せればいい、とおもうのですが」

 どたどたと、スティーヴが椅子と大きなタオルを二つもって走ってきた。「あーぁ。タオル足りなかったかなぁ。でも、あんまり無いんだよなぁ。今干してる最中だし……」「全然問題、ねぇってもんさ」違う、とスティーヴは口をへの字にしてジョンソンに呆れた視線を向けた。「彼女の服が汚れてしまうだろう? だったらそっちが最優先だよ」あぁ、と気圧されてジョンソンは顔をひきつらせた。

 椅子をどかっと置くと、スティーヴは自分が汚れるのは全く気にしない様子でジョンソンの脇に腕をとし引き上げながら座らせた。するりとエヴァンジェリンの手から大きな手が抜けた。残った血の感触はとても気持ち悪いものだったが、エヴァンジェリンは直ぐに裾で拭う様な事はしなかった。「名前は?」「ジョンソン・マーチンだ。――新聞記者さ」スティーヴは眉をひそめて何か小言でつぶやいた。二、三度口が動くが声は聴きとれない。「つーと、フィラデルフィアの記事を書いたのも?」なんだ、とジョンソンは破顔した。「あの、記事を読んだっつーことは、オレの、読者だな。……助かったよ」

 スティーヴはバスケットの中から水差しを取り出すと、少しだけマグカップに注ぎジョンソンに手渡した。エヴァンジェリンにスティーヴがタオルを渡し、手を拭わせている最中、ジョンソンはゆっくりと水を喉に流し込んだ。重い一息を吐き出すと、「つつ……っ」痛みで顔をしかめていた。「何があった、と聞いて答えてくれるものかい?」スティーヴの問に、ジョンソンは目をぐるりと回した後、「あんたなら、まぁいいか。"キーガン"を追ってた」スティーヴは、ほう、と感嘆を漏らした。エヴァンジェリンにとっても、その名前は聞き覚えのあるものだった。「わたくしを、飲み込んだ……化物の事ですのね?」「あ、あぁ? そんな事があったのか。そうか。あいつは"人"すら飲み込むんだな。……文字通りの食べるという事なのか」ブツブツとジョンソンは言葉を出しながら、エヴァンジェリンの言葉の意味を考えているようだった。

 「オレの、記事の事は、まー、いろいろ評価がある、っつーのは分かる。嫌われもんだって、自覚もあるわな。見せたくもないところつついて、飯くってんだからさ。だから、最近噂になっている誘拐魔とキーガンの関係がどうしても切れなくてな」スティーヴはジョンソンの「誘拐魔」という単語がしっくりこない様で、頭をひねった。「そんな事件があったのか? 誘拐魔なんて言われる程の事件が? ほとんどマフィアがらみじゃ……」そのとおり、とジョンソンは傷のない左手の人差し指をたてたが、すぐに痛みから引っ込めた。顔が一瞬苦悶の色に変わる。

 エヴァンジェリンはタオルでジョンソンの汚れた顔や首筋、腕などを拭いていった。白色のタオルは赤黒い液体を吸い込んですぐさま汚れて行った。「神父様。先に病院につてて行った方がよろしいんじゃないでしょうか……。とてもつらそうに見えるのですが」「それもそうか……。信用しちゃいないが、死なれても困るしな。――っていっても足がねぇなぁ。……あ、ティムがそろそろ来るな、あいつに頼むか」

 「警察の方は、――遠慮をしたいのでは?」ちらりとエヴァンジェリンは含みのある言い方でスティーヴにくぎを刺した。しかし、スティーヴは気にした様子なく、「ティムなら大丈夫さ。あいつは口の堅いやつだから。それより、エヴァンジェリンさんには手伝ってもらうとしますか。私も行くとしても、一人抱えると荷物が持てない。ティムに全部押し付けるわけにもいかんしなぁ」

 難しい顔をしてエヴァンジェリンは了承をした。OKを口にはしたものの、腑に落ちないところもあった。「それはいいのですが……。――ふぅ。神父様が、ジョンソンさんを信用なさっている様なら構いませんわ」スティーヴは一度きょとんとしたが、エヴァンジェリンが普段のスティーヴと違い、冷静さを欠いていること指摘したという事に思い至り、頭をカリカリと掻いた。「ん、あぁ、まぁ。そうだな。うん」年下のエヴァンジェリンに指摘される様では、と恥ずかしさのあまり視線を外して、逃げるように「ティムを呼んでくる」と孤児院の方へと歩いて行った。

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