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リチャードは供回りを付けて廃倉庫に来ていた。この場所は良く知っている場所で、ジョージの所有していた倉庫の一つだ。がらん、とした平面的な建物がいくつも並ぶ一つには、人気も、生活感も一切ない。錆の浮いたトタンは全く手入れがされておらず、所々穴が開いていた。鼠の住処か、よくて鴉のたまり場だ。車が通るための舗装はされているが、一切の色彩がないため、同じ建物と灰色の地面によって自分が立っている場所すらわからなくなる始末だった。
この倉庫群は元々ジョージの私設の財を収めていた"金庫"だ。周囲には4メートル近いウォールが用意されていて、刑務所の様に有刺鉄線が張られ、見張り台まで存在していた。使わなくなって数年のうちに、ただの廃墟と化している倉庫たちの中には、何も残っていない。鉄くずの一片も、結束材の欠片も、麻袋の塵すらも。ここにあったはずの全てが失われていた。ジョージの身に不幸がある直前に、『何者か』が全てを奪いとったのだ。
リチャードは忌々し気に9番倉庫を睨んだ。巨大な船舶でも入りそうな倉庫の群の中で、中心に位置する倉庫であり、彼が良く利用する一つだった。塀からも遠く、叫ぼうが、銃の引き金を引こうが、一切外に聞こえる事はない。潮風によって運ばれてくるのは、遠くで聞こえる地鳴りの様な音で、遠くの港でせわしなく働く者たちのうねりの声だけだ。
「まったく、こんな手間を駆けさせなければいい物を」吐き捨てる言葉を拾う者もいない。スーツの内側からシガレットケースを取り出すと、無言でガタイの良いスーツの男がリチャードにマッチの箱を差し出した。「ふん。今日はストレートか」マッチ箱の上面に書かれたトランプの柄を見て一言。「可もなく不可もなし、というのは嫌いではないな。クリスも派手な物よりはいいだろう?」マッチを差し出した男、クリスは静かに肯定した。「そうですね。予定通りに進むというのは悪い気はしません」
まったくだ、とリチャードは煙草を口にくわえると、さっと火をつけてマッチを足元に放り投げた。靴の裏で念入りに火を消すと、襟を正して歩き出す。クリスがすぐ脇に控えて、高い靴音を響かせながら、9番倉庫へと入っていった。来客を待受けるように広く口を開けた倉庫の中は薄暗い。ニ、三人程度でやっと開けられそうな大きな入口は、錆がうていたものの、良く油が刺されている様で、レールの上には先日降った雨に交じって虹色の色が見えた。
倉庫の中はがらんとしていた。しかし、元々どの様な用途で建てられたのか、プレハブでできた小屋が左手側に存在していた。高さは4メートルないくらいで、奥行きは4人程度が入れる大きさだろう。こじんまりとしていて、作業員の休憩小屋として作られたのではないか、と推測されるが、倉庫の使用用途はジョージの財を保管するためのものであったのだから、加工を伴う物はなかったはずである。しかし、こういった小屋はどの倉庫にも存在していて、何に使われていた変わらない棚と、小さいテーブル、木製の椅子だけが乱雑に残されていた。
9番倉庫はそういった残った材料を元に、リチャードの指示で色々変更がなされていた。巨大なプールの様な水槽があったし、プレハブ倉庫には電気も通っている。短波ラジオは聞けたし、少し型の古い蓄音機からオペラを流す事すらできた。「お早いおつきですわね」出迎えた妖艶な美女はヴァネッサだ。赤毛の長い髪は地獄の業火の様に燃え盛り、倉庫の無粋な感じとは無縁な体のラインを強調するドレスを着こんでいた。高いヒールなどは汚れた倉庫の床には勿体無いと思えるほど。肩口近くまである長い手袋をして、細い指先で紙巻きたばこを持っている様は、まさしくフラッパーとも思えなくもない。ばっちりとしたメイクは目を強調し、濡れる程の唇はエロスを強調した。
「勤勉な男は嫌いじゃないわ、ねぇリチャード」「俺の評価を考えているのだったら止める事だ。いずれニューヨーク全体を手に入れる男だぞ」クスクスとヴァネッサは口元に手をあてて上品に笑った。「貴方のそういう大きな夢を持つところ、好きよ」ふん、とリチャードはそっぽを向いた。「それから、そういう照れ隠しを擦る仕草も。年とは違って可愛いもの」
くすぐったい感触を落ち着けるように煙草の煙を肺に入れ、リチャードは大きく息を吐いた。「それで、"お嬢さん"は何をしゃべったのかね?」「あら、せっかち」真っ赤な唇を尖らして、ヴァネッサは飽きれた。少しくらい会話を楽しみたいという彼女なりの思いはあったのだろうが、リチャードとしては利益をもたらす情報の方が重要度が高かった。「しっかりとしたら"ご褒美"を与える、というのが俺の方針だ。文句があるなら、先に成果を見せてほしいものだ。かつての――マイケルの様な事があると困るものでね」
ヴァネッサは心外そうに目を細めた。しかし、それも一瞬ですぐに目元を柔らかくした。「あのガキの事は、今でも悔やんでいるわ。私が可愛がってあげたというのに、何一つ応えようとしない傲慢さは屈辱でしかなわ。『教育者』として、これほど悲しいことはないものね」「ヴァネッサは良くやっているよ。あいつの頭がおかしいだけだ」リチャードは労う様に彼女の腰に手をまわした。嬉しそうにヴァネッサは求めに応じて肌を密着させた。
「でもね、」ヴァネッサは悲しそうに目を伏せて、煙草を投げ捨ててリチャードに甘えた声を上げる。「あの子も中々強情なのよ、もう二日にもなるというのに、心が折れないのはおかしいわ。私のやり方ってぬるいのかしら?」「どんな風にやったんだ? 俺はヴァネッサの腕を信頼しているから任せたんじゃないか。クリスもそう思うだろう?」唐突にクリスは話題を振られたが、いつも通り冷静に「私もこれ以上の適任は居ないと思います」と追認をした。
ギシリと音を立てて、プレハブの建物の扉をヴァネッサの右手としてリチャードが貸し出したスーツ姿の部下が開いた。鼻につくツンとした臭いは、汚物の臭いだろうか。中には他の薬品類の刺激臭が含まれている事は想像ついた。椅子に縛り付けられた少女の姿をみて、クリスは顔をしかめた。彼であっても見慣れているであろう死体の姿と比べれば、いかに尊厳が存在せず、冒涜的な姿でメアリーは項垂れていた。「強情、っていうのは最近の子供のトレンドなのかしらねぇ。酸で焼いてみたり、塩化ナトリウムを使ったり。その程度は何度もくりかえしてるから、ほら、右手なんて骨が見えるほどよぉ。――簡単に壊れても困るから、《核》は埋め込んでおいたけれど……。素直になればいいのに、まったくどこまで嫌がるのかしらねぇ。爪はまだ8個残っているから後で針を通してみるわ。それでもだめなら歯でも削ろうかしらね。ほらみてよ」嬉しそうにヴァネッサはリチャードから離れ、首を垂れているメアリーの側までくると、前髪を乱雑につかみ上げて顔を引き上げた。鼻血をたらし、苦悶の表情を浮かべていたメアリーは、リチャードの姿を見て口の中に溜まった血を吹きかけるように吐き出した。
「久しぶりだなぁ、メアリーお嬢様」リチャードはおどけて両手を広げてみせた。二人が顔を合わせたのはジョージの形式的な葬式の時だけだ。墓場で顔を合わせたきりで、それ以降5年は会っていない。「随分と、ご機嫌でわすわ、ね。"糞野郎"」瞳をぎらつかせて、彼女は罵った。しかし次の言葉を絞り出す前に、ヴァネッサが喉を締め上げて、「違うわ、そうじゃないでしょう。貴方が言うべきことは、ほら、言って御覧なさいな」爪を立て、血がメアリーの白い肌から漏れ出した。あまりに締め付ける力が強いからか、声にならない呼気だけが苦しそうに断続的漏れでていた。少しヴァネッサが指を緩めると、「言う、もんか……っ。言ってやる……もんかっ!」彼女の否定が木霊すだけだった。悔しそうに目じりに浮かんだ涙が頬を伝って零れるが、メアリーの強靭な意思はそれでも折れる事はない。
このとおり、と言わんばかりに、呆れた表情でヴァネッサはリチャードを見た。「どうしてだい?」リチャードは疑問に思った。守るべき相手ではないだろうという事は知っている。彼女に問いかけているのは簡単だ「たかがうちの商品の場所を聞いているだけで、なぜ他人の命だというのに、しかも赤の他人だというのに、頑なに拒むんだ?」メアリーは喉に溜まった血で激しく咳き込んだ。二度ほど血痰を吐き出すと、強く笑って見せた。「アナタの様なろくでなしには分からない事だわ。――人の命はとても尊いものなのよ……っあぁ!」メアリーの言葉に反応して、ヴァネッサが椅子の手に縛られたメアリーの右手の内部が覗く、とてつもなく敏感な部分にナイフを這わせた。見ているだけでも背筋が凍るのか、クリスは普段とは違いそっぽを向いた。「よせ、今は俺が話している。後でしっかり教育させてやればいい。――話せ無くなっても困るしな」「そうおっしゃられるのであれば、構いませんわ」
ヴァネッサがナイフを銀色のトレーに引き上げると、微かに肉片が飛び散った。うっとりとしたヴァネッサを無視して、リチャードは再び問いかける。「エヴァンジェリンはお前が隠すほどの相手なのか? 守るべき相手なのか? あの二人が、どこに連れ去ったのか凡その見当はつくが、だからといって、そこに確定的な情報を持たずに飛び込める程、俺は神を冒涜しているわけではない。事実があれば、"令状"を伴っていけるがね」ぎりりと、メアリーは歯を食いしばってリチャードを睨みつけた。「そうだといえ。どうせ教会の隣の建物に連れて行ったんだろう? あの忌々しいフォスターの名前を未だに掲げる孤児院にさ。そこに誰がいて、どういったやつがいるのか言え。そうすれば楽になれるぞ?」悪魔は囁く。楽なことを提示し、堕落させるために。苦痛から解放させるとリチャードは嗤う。「言う、もんか。言ってやるもんか」
「本当に強情だな」リチャードは鼻で笑った。しかし、そのリチャードに対して、メアリーも笑った。鼻で。「あいつも、同じ気持ちだったのかもしれないな、」リチャードは口には出さないメアリーに揺さぶりをかけるべく投げかけた。「あいつが"勝手に"持って行った財の場所を当時言わなかった。最後までだ。最後まで一言も何も、一切!」両手を上げ、周りを見渡す。「ここに、ここいら一帯にどれだけの物が貯めこまれていたのか知っているか? 国家予算に匹敵し、一個人で持つには以上すぎる"物"だ。簡単に移す事も、誰かが盗み取る床すらできない。重さだけで考えれば、戦艦に例えて十も二十にもなる量の金属だぞ!」
はー、っと吐き出した息は、興奮しつつあったリチャードの沸騰した血液をゆっくりと冷ましていった。「強情なのは結構だがな、今、あいつの財の事は半ばあきらめているんだ。もう5年も経つ。あいつがポンと差し出せば別だろうが、いまさらどうこう言っても女々しいだけだ。だからあいつが、この街にいるのを知ってても、手を出さないでやっているんだ。だというのに――、」リチャードは煙草を取り出した。さっと口にくわえると、先ほどクリスからもらったマッチを擦った。「今度は仕事の邪魔か? それは気にくわないは気にくわないが、……ビジネスの邪魔までしやがるんだったらただのマフィアの抗争と変わらない、だろう? なぁ、お嬢さんよ。肩入れするなとは言わんし、感情的になるなとも言わん。俺もお前の立場で――、親戚の息子の仇敵ともなればそりゃぁ、良い難いだろうよ」
リチャードは、煙草を味わい、紫煙を吐き出した。ふーっという呼気だけで、そこからリチャードの感情は漏れない。冷静になってきたというのを実感している。頭は冷えてクリアに物事を考えられていた。「だけど、だけれどな。二度とあいつの手を握れなくなるし、二度と着飾って前に立つこともできないし、二度とあいつの顔を見えなくなるし、感情を伝えるには醜い姿になって、ただの肉の塊の様にベッドの上で一日に三度のゲロみたいな餌を与えられる、そんな存在になることを許容するのか? 今、言えばそれで済むだけだろう。まだ、――ちょいと傷は残るが、綺麗なままであいつの前に立てるんだぞ? 諦めちまえよ」
ふふ、とメアリーは笑い声を漏らした。次第に、それは高笑いに変わっていった。乾いた笑みでもない。本気で心の底から可笑しそう笑い声を上げた。「なんだ? 狂っちまったか?」リチャードの杞憂に対して、メアリーは笑いながら応えた。「ふふ、……諦めろ、とか、楽になれ。とても甘美で、蠱惑的な、雑な……言葉ですわ。――無様で、幼稚で、なんて……とても、卑しい提案である事でしょう。……耐えられ、なかった、些細な辛さすら、超えられなかった……、無法者の酷い、言い草。悪魔と罵られてしかるべき、卑劣な言葉。ふふっ……。答えは一つですわ」
メアリーは歯を見せて笑った。「言ってやるもんか」リチャードは、メアリーにため息をついた。おい、とクリスを手招きした。「クリスさ、少しヴァネッサのことを手伝え、な? お前はなかなか、いたぶるのが上手いじゃないか。特に女の扱いにもたけているし、あの、なんだっけ? あぁそうだ、メリッサを相手に一晩中よがらせたんだろう? 痛みだけが全てじゃないってことを教えてやれよ」クリスは、リチャードの言葉に一瞬信じられない者を見たように見開いた。それは一瞬であったから、リチャードの視線にはうつらなかったが、気配は伝わった。リチャードは意外そうにクリスを見つめた。「なんだ、不満か?」「いえ、そうではなく――、」クリスは一瞬言いよどんだが、「彼女の様な"貧相"な体ではあまり満足を得られないかと思いまして」下卑た笑い声を上げてリチャードは笑った。「そうか、たしかにそうだな、まだレディにはほど遠い体つきじゃなぁ! ――ヒヒッ! でも、お前なら、それなりにやってくれるだろう?」「御命令という事であれば、今日の夜にでも、しかし今は次の会合がありますので、時間がありませんな」そうか、とリチャードは満足そうに頷いた。




