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トラビスは給仕のアリス・デル・ベルを目で追っていた。栗色のふんわりとした髪はロングヘア―で毛先までまとまっていた。切れ長の瞳には深い水底の様な蒼色で、レストラン全体の明かりが暗いというのに、しっかりと輝いていた。小さい鼻は少しつんとしていて、アリスの笑顔を愛嬌あるものにしていた。小さめの口ではあるものの、良く通る綺麗な声は、雑多な言葉が飛び交うフロアであっても、アリスの存在感をきちんと主張していた。スタイルの良いからだをレストランの落ち着いた給仕服で隠しているため、見事な女性の主張をある程度隠していた。しかし、それでも隠し切れない胸の主張を抑え込む様に、給仕用エプロンをきつく締めていた。その行為自体が逆に強調する事になっていたが、誰も突っ込み入れなかった。
店主のトム・ヴァン・ベルが、カウンターの裏からため息交じりにトラビスに「おい、坊主たちはまだ来ないのかい? 準備しちまっていいのか分からないんだが」はっとなってトラビスは壁にかかっている時計を見ると、19時を回るころになっていた。乾いた笑いを上げて、すまないと謝罪を交えながらトラビスは振り返った。「いつもなら、もっと早くくるんですけどね。いやぁ、どこかでしけこみましたかね」「お前じゃねぇんだ、そんなことする坊主じゃねぇよ」いやはや、とトラビスは笑った。生臭坊主でなければもう少し彼女の気をひけたのだろうか、とちらりとアリスの方を見た。すぐにトムに視線を戻すと、「時間としては30分前には来る予定だったんですけね。多分、久しぶりのデートですから、盛り上がっているのでしょう。特に彼女が」と強調すると、トムはやれやれと頭を振った。「そりゃ、あの嬢ちゃんならそうだろうな。昼間は会うが、夜は"危険な"仕事の所為でほとんど相手しないじゃないか。お前がたまに一人でここには来るが、俺が最後に二人を見たのは1年半も前だぞ?」「そんなになりますか。……いや、そうですねぇ。色々物騒なんでとくにねぇ」遠い目をするトラビスに、馬鹿野郎とトムは罵倒した。「そういった事込みであいつの親代わりになったんだろう。率先して地獄に連れて行って何をするんだ」「あ、いや、地獄だなんてひどいなぁ。そんなことないんですが」もごもごと口をうごかしながら、トラビスは抗議しようかと思った。
トムとの付き合いはそこそこ長い。8年前に出会い、その時はいまだに教会の神父として"まともに"仕事をしていた時期だった。しかし、様々な出来事があった中で今や教会は副業とも言えなくなかった。席はあるが出世できるような活動はしていないし、信仰心もかつてほどの熱を帯びてはいなかった。一番の問題は自分自身の状況の変化ともいえたが。「《喪失者》の事は俺はよくわからねぇけど、昔のお前の方がいけ好かないやつだと思っていたよ。仕事さえどうにかなりゃなぁ、今の方が断然いいんだが」「今も昔もいい男ですが?」とぼけるトラビスに、馬鹿野郎と再び罵った。愛想笑いを浮かべてトラビスはテーブルの上に置かれたデキャンタに入ったワインを空になったグラスに突っ込んだ。
「正直、」とトラビスは誰に言うでもなく吐露した。「仕事というより、"あの状況"が嫌なんですよ。今でも嫌だ、とは思いますがね。あの死体だらけの中に、"彼ら"がぽつんといる姿は、煉獄そのものだとは思いますね。……何人でしょうか。1人、2人、というのであれば不幸な事だと私も諦めがついたのかもしれませんがね。孤児院に居る彼らを見ると、すでにバスタブからあふれる程だと思いますよ。戦争がいけないというのか、戦争もいけないというのか。どこにも彼らを守る法がないのがいけないのか。しかし、責任は私たち大人にあるとは痛感しますね。暗い底に子供を閉じ込めるのを見て見ぬふりをするというのが、私は正しいとは思えない」一息にワインを飲み込むと、珍しく口をへの字に曲げた。「つまみくらい出してくれてもいいんじゃないですかね」「忘れてたよ」トムは頭を掻いて厨房に引っ込んだ。
酒を入れてもトラビスが酔う事はない。普通の人間と作りが違うのだ、という事は自分自身が一番理解していた。教会に居た時、自分に芽生えた力が《神》から与えられたものだと信じて疑わなかった。教会が秘密裏に作り上げた《福音》の名を持つ処刑部隊に席を置き、神罰の名のもとに15世紀ばりの処刑を演じて見せたのは、記憶に新しい。
血に酔っていたという表現が正しいか、未だに当時の心境を完全に解析できてはいなかったが、それでもそういった状況に近い集団心理的な要因はたしかにあったと思えた。「そんなことを考えるから、その枠に居られなくなったんだろ。考えることをやめておいた方がよかったのに」とマイケルは飽きれた。だが、トラビスはマイケルの言葉の「考えない歯車になる」という真意を理解したとしても、当時からそこに酷く違和感を持っていたのは事実だった。
流れる血の臭いや、手に残る人の油の滑り、苦悶の表情を残して絶命している者たちのマネキンじみた変形した死体。自分が行ったにもかかわらず、「人外の力」は絶大すぎると思えていた。人の闘争に、人ならざる者たちが介入するべきなのか、それこそ、《神罰》の名の下に《正義》をなすことは「正しい」のか、何度問いかけても答えは出なかった。ただ結果として、死体を一個作っただけだ、という事には変わらず、彼の罪は増えている、と思えて仕方なかった。
《呼ばれた者》と羨望の眼差しを教会では向けられ、《羽付き》と多くの敵からは蔑称された。血濡れの翼を見れば、どちらが正しいかは簡単に理解できた。自分たちがしている事は、明らかに殺戮なのだ。
それでもマイケルを含め数名の子供を助ける事には寄与した。跋扈する人の欲望は、子供たちに向けられ、資源として経済活動の一つの単位として彼らを使っていた。労働力をつくるためと言えば聞こえはいいが、登録のない「幽霊」達を作る事が、どれだけ法律上楽に動けるのか、"彼ら"は良く分かっていた。いらなくなれば、簡単に銃で撃って沼の底に沈めてやればいい、という非人道的考え方は、巨悪となりつつあった企業の誰もが「金儲け」のための一つの道具としてほしがった。
裏でオークションが開かれるのは今も変わりのない事だろう。中には好事家が居て、それらを嗜虐的あるいは、性的に利用する者もいたが、それらの方がまだ幾分子供たちの未来としては明るかった。多くの親のいない――又は親に売られた子供たちは、多くが密輸人や、殺し屋に仕立て上げられる。すべてを救えないと悟ってから、今に至るまでトラビスは目の前にいる子供たちを守る事しか、もう考えられていなかった。
「力ってなんだろうね」マイケルがかつてトラビスに問いかけた言葉は、マイケルには純粋な言葉であったのだろうが、凝り固まった思考の中にいたトラビスには、即答できかねる質問だった。「誰かを守るる事も、誰かを傷つける事も、同列に力だってわかる。武力だって使いようだってね。でも気持ちを持つという点では"勇気"も力だし、世論をつくるという点では言葉や新聞の記事一つだって力だよ。どれが取れに勝つとか、東洋でいう五行の様に相克の関係ではない。どれが強いとも言えないし、どれが弱いとも言えない。力である時点で弱いのか不明だけど。僕なりには……動き続ける事ができる、というのが力だとは思うけど、そこに教会とか政府とかがいう《正義》ってやつはないんだろうなってね。マフィアの言う暴力主体の力だって、生きる事を考えれば一つなんじゃないかってね」
トラビスはマイケルに諭された気になっていた。マイケルの言う考えが”正しい”とは言えなかったが、"違う"とも言えなかった。口の中に残る歯切れの悪い言葉を並べ立てても、結局マイケルの疑問に対して正鵠を射るような答えは出ないとは分かっていた。脳味噌をぼろ雑巾の様に捻り上げて、最後の一片まで知恵を出しつくしても、胸の中に残り続けるもやもやとしたわだかまりを解消する事は叶わなかった。
三日後、トラビスは自らの翼を摘出し、人とも、化物とも言えない半端な《喪失者》となった。
時計を見ると20時近くなっているというのに、未だに二人はやってこなかった。




