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黄金の時代は一瞬にして、大量の紙屑を生成し、次いで道端に群がる群衆を作った。雑巾から零れ落ちたゴミくずの様なあまりに無価値の存在を、この世の中に生成し、誰も彼をも絶望の縁へと送り込んでいた。恐怖に震える群衆に、忌避されていた暗黒の週末を経て、魔女の鍋の如き混沌の新たな時代へと進んでいた。
誰もが絶望を胸の内に秘め、暗澹たる表情を道端には溢れさせていた。”あの”出来事があってからすでに三年は経過しようというのに、ニューヨークの街並みは変わらない。人という淀みは、より一層深みを増して灰色よりも仄暗い黒に近き嘆きを世界に満ち溢れさせていた。ヘドロの様にこびりつく怨嗟の数々は、路地に、壁面に、下水の奥底にすらひたすらにへばりつき、にやにやとした厭らしい笑みを浮かべて、人々の行き交う様を嘲笑していた。
生きる希望を持つ者は、時代の流れから取り残されていた者か、あるいは見切りの良かった者。それ以外には”法の外”に存在している者くらいだ。
大量生産の極みを象徴する自動車は、ガソリンも買えない者にとってはテントと同等だった。未だに道端には放置されたT型の残骸が残っていた。一般的には未だに現役として迎えられる車種ではあったが、幾分時代遅れの感じを拭えないでいた。ある種のブルジョアジーの象徴として存在していた車というものが大衆に降りてから久しい――はずであった。
車の様なテントに家族三人で住んでいるのだろう。開放的なドアには、洗濯物が掲げられ、トタンで延長された屋根のみすぼらしい”家”は奇妙な形で存在していた。子供たちはひどい飢えに戦っているのが目に見えてわかる。細い手足、膨れた腹は水が溜まっているのだと、容易に予想ができた。芋を湯がく事すらもできず、綿のシャツの袖口を噛みながら恨めしそうな視線を向けていた。
栄養の行き届かない劣悪な環境を保守するべき家主は自由気ままに湿気て曲がった煙草をまずそうに咥えて車から引っぺがしたような粗雑なソファーに座して空を見上げていた。かつては唸るほどに金で身を整えていた名残だろう。チェック柄の年季の入ったベストは今では油で汚れ、黒い染みを年輪の様に蓄えていた。
子供達の肌は荒れており浅黒い。何日も湯を浴びていない事が分かるほどに浮いた汚れは、虎柄の様に縞模様を形成し、強くこすれば球になってぱらぱらと零れ落ちるだろう。しかし、まともに手入れをされていない指でカリカリとひっかくものだから、よけいに筋張った腕を強調する縦じまの赤い爪痕を残していた。その上、栄養失調によって脆くなった皮膚は、幾度となく炎症を起こしている様で、見るからに痒そうな吹き出物を全身に生み出していた。
トラビス・ジャマル・ロビンソンが、恨めしそうな顔をする子供たちにひと箱、チューインガムを投げ渡すと、嬌声を上げて奪いあっていた。
トラビスの高い身長と筋肉質な体は、黒いスーツによって誇張されていた。白いワイシャツではちきれんばかりの筋肉を押しとどめているのがすぐにわかる。しかし、強さを強調する肉体に対して、綺麗に揃えられた髪の毛は、神経質そのもので丁寧に油で整えられて、清潔感を前面に出していた。
子供たちの背後を見送る視線は温和で、口元に広がる微笑みが穏やかな印象を与えた。外見的特徴だけを鑑みれば、あまりにも不釣り合いな雰囲気ではあったが、トラビスの隣に立っている少年の姿を見ると、子供好きな”大人”という好印象を周囲に与えるには十分だった。「まったくさ、君は相変わらず無駄に《慈悲》深いね」と少年が悪態をついたが、全く気にしない度量の深さがあった。
巨大な体躯に太い手足だけを見れば先の大戦を経験した兵士と想像しただろうが、胸元に光るロザリオのシルバーと、傷一つない顔からそういった兵士たちが漂わせる影はにじみ出ていない。「戦場についた途端、戦争がおわったんですよ」とトラビスが笑うと、「本当ですか? いやぁ、それは神の御加護があったのでしょうね」と大人達は破顔していた。
多くの人々はトラビスを見れば、直ぐ角の孤児院の院長である事は分かっていたから、下手な想像をするよりも先に口から”神父様”と敬意をこめて挨拶を行っていた。トラビスは大変温厚な性格であるから、通りの奥から小さい感謝の言葉を述べる母親たちも不審がる事はない。
しかし、大人たちが子供たちに手渡されたガムを一つとっては銀紙のまま口にすぐさま運ぼうとするものだから、「中だけな。外は食べれないよ」と苦笑して注意した。本当にそこの注意でいいのかと、少年が「……は?」と怪訝な顔をした。
懐疑的な視線で見ているのは、マイケル・キーソン・フォスター。嫌そうな表情を隠す事なく、卑しい大人たちの姿を眺めていた。少年というには少しまだ背が低く、幼年ともとらえられない背丈だが、彼の纏う独特の雰囲気は、すでに大人顔負けの存在感を持っていた。
ジャガーを彷彿とさせる鋭い真紅の視線もそうだったが、それ以上に彼の立ち振る舞いの方が大人びていた。小さく体をゆすったり、親にねだる様にごねたりするような子供らしい素振りは一切なく、紳士然とした落ち着いた姿だった。派手ではない暖系色を取り入れたスリーボタンのスーツを、淀みなくぴっしりと着こなして、すらりと立っている姿はそれだけで絵になった。
赤毛の髪はきちんと梳いて整えられているというのに、油は使わず、流れに身を任せている。童顔な顔に少し長めの襟足。マイケルが着ているのが中性的な装いであれば、一見すると少女の様な可憐さをも持っているだろう。というのも、顔つきからまだ年齢の若さから出来上がっていない事が容易に見て取れた。だというのに、彼の周りにあるどす黒い不快感は一切消さないものだから、となりのトラビスの温厚さを一切合切、無にする雰囲気を周囲にとげとげしく発していた。中和できるものであればいいのだが、とトラビスが苦笑した。
「そう睨むものではないよ」とトラビスが注意をしたが、マイケルは一切気にする事なく、小さく鼻を鳴らして視線を切った。「誰もが飢えている時なのだから、少しくらいその恩恵に預かりたいというのは当然の事だろう? チャールズや、ザカリーが飢えていたとして、マイケルの前に焼き立てのパンがあるとする。君はそれを独り占めする様な存在だろうか? それとも自分の空腹を満たすために一口食べ、残りを二人に分け与えるだろうか? はたまた、自分の空腹など考えず、全て二人に分け与えるのだろうか?」
愚問だよ、とマイケルは鼻で笑った。あまりに自然の姿ではあるが、相手を馬鹿にしているその姿は本来注意を受けるべきものだと思われた。しかし、トラビスは口を挟まずマイケルの言葉を待った。
「僕のものは僕の物であるし、それを慈悲という欺瞞じみた自己欲求のためにわざわざ誰かに渡すという事は”無い”ね」不敵に笑うマイケルは、矢継ぎ早に言葉を追加した。「もし、チャールズやザカリーならば殴って教育してやる。仮にそうじゃなかったら頭でもぶち抜いて、身の程を分からせるまでさ」ふてぶてしいマイケルに苦笑して、特に咎めることなくトラビスは「そういうきつい物言いは良くないな。死肉を食らった鴉の方がまだ、ましな言葉を言うというものさ。自己欲求の極みは大罪にあたるというのに――」「そんなおとぎ話は現実には存在しない。そんなことは君だって良く分かってるだろうに」
トラビスは言葉を止めた。同時に顔から表情が一瞬抜けのっぺりとした何とも言えない顔を作った。しかし、すぐさま寂しそうな表情となると、「マイケルの様な子供の作ってしまった社会構造にはやはり欠陥しか存在しない、という事を再認識したよ」と口惜しそうにつぶやいた。ゆったりとした動きで右のジャケットのポケットから煙草を取り出すと、オイルライターを左手にさっさと一本火をつけた。
マイケルは、鼻先にツンとした煙がやってきて嫌がるように顔をしかめているが、トラビスは一切気にせず煙を吐き出しながら歩きだした。「僕の前ではやめて欲しいっていつも言ってるだろう? サニーのおかげでだいぶ鼻が利くんだ」「そいつは失敬。でもこいつをやめろというのは、モグリ酒場に行って、”酒を飲むな!”と、説教をするくらい無意味な事だとおもうけれどね」ちっ、とマイケルは舌打ちをした。苦笑してトラビスは少しだけ煙を上に吐く様にこころがけて歩みを進めた。
彼の歩幅はマイケルの倍近くになる。単純な身長差を覆すなどできないので、トラビスがいくらゆったりとした歩みであっても、少年の歩幅では少し軽快な、トトトッといった歩調で横についた。憎たらしい口をきいているにもかかわらず、トラビスに付いていく姿は微笑ましく、口では吠えている甘えたい盛りの子犬を想起させた。
二人が通る道の両端には、小さい村という雰囲気が漂っているが、本来はこのニューヨークでも随一の公園だった。広く、黄金期を讃える様に本来では靴磨きの子供達の休憩場所か、ウォール街から息を抜くために縫え出したビジネスマンの憩いの場だった。
緑色の木々の隙間から差し込む太陽の柔らかい光を浴びて、芝の柔らかい感触を確かめながらランチを取ることもできた。強烈な海風が入り込む場所でもないから、非常にゆったりとした時間を過ごす事ができる。ホワイトキャッスルで手にいれたハンバーガーでも持ってくれば十分なピクニック気分を味わう事ができた。
今では停滞した重苦しい空気の中で、大人も子供も絶望の色を目に宿し、活力なく、紙屑となった自分の資産の事を恨めしそうに口をつぐんで空を眺めるだけだった。
父親と思われる背格好が萎れた男性が、ぷかぷかと煙を吐き出して、遠くに視線をむけたまま、アイロンすらかけられないスーツを着ている姿は何とも哀愁が漂う姿だったが、誰に対してトラビスは実際のところ、悲しみも、憐みも起きはしなかった。
時代がそうさせたのだという事は十分に理解していた。誰もが悲嘆にくれて、誰もが絶望していた。一部の金持ち連中だけが、我が物顔で町にのさばり、黄金の時代を生き延びたのだ。それこそマフィアなどと言われて裏の世界を牛耳り、欲望の限りを尽くして、無心の者達を食い物に、更なる財を築くだけだった。
トラビスは吸い切った煙草を親指ではじいて排水溝のグレーチングに向かって放り込む。赤い燃えがは、三度跳ねる。その度にあたりに小さく線香花火めいた火の粉をまき散らした。
左右に広がる光景は煙草の火の粉と変わらない”無価値”だと事をトラビスは良く分かっていた。トラビスには、虚空を見つめる悲しき人々が、あの十年程度の時間に起きた燃えがらであり、自分から燃え上がる力もない、ただの灰と変わらないと感じている。夢も希望もすべていつまでも上がると思われた株は、20時近くまで叩きつけられたストックティッカーの残響と反響し続けた悲鳴によって燃え上がった。ガソリンの様に一気呵成に燃え上がり、しかし木材の様に灰のみ残るとは、なんとも無常なものだろうか。
「結局のところ、自業自得じゃない」マイケルの指摘は確かにそうだったが、指をさして笑う事は違うと思っていた。トライビスは自分もそうなっていたかもしれない、という恐怖感は存在していた。「ただの分岐の話しさ。誰もが同じ目に合う事もある。人間は結局傲慢なのですから」「説教は結構。傲慢、強欲、嫉妬、憤怒、色欲、暴食、怠惰。どれであっても人間の本質だよ。いくら綺麗ごとを並べても教会すら律する事はできてないさ。権威という傲慢の上に、立派な教会をたてて、力ある物は全部を楽しんでいるじゃないか」
「それは……」耳の痛い言葉にトラビスは、言葉を言いよどんだが、「それは、一部の者であり中にはきちんと律し、信仰に殉じる者も少なくない」マイケルはハハッと軽い笑い声で一蹴した。「そいつらを食い物にしてんだよ」
マイケルの言葉もまた無常だ。教会に使えるトラビスの友人のスティーヴ・ヴァン・ハードであれば、その無常さこそが神への信仰に繋がるべきものだと、心から思うに違いなかったが、穿って見ることの多いトラビスにしてみれば、自業自得を神頼みするなど、罰当たりなものだとマイケルと共に鼻で笑ってもよかった。
口調では随分と大人びた事いっていても、この時代に生きる一人の人間として、侮蔑と嘲笑をもって敗者を見下していた。マイケルは口を閉ざし、二人でメインストリートをずっと北上していく。
トラビスは社会主義者や共産主義者でもなかったが、東側諸国の全体主義的思想は悪く思っていなかった。好意的とは違うが、彼らの目指す理想というのは、本当の理想の究極系に思えていたのは確かだった。
しかしトラビス自身はその社会に自ら入りたいとは思わない。いまの社会構造ですら欠陥品である事は分かっていても、急激な価値観の変革を起こした東側の世界観というのは、得体の知れない恐怖感を抱かせるものだった。純粋にトラビスは怖かったとはいえ、彼らの掲げる理想が自分が信仰するカトリックと同等の世界観を構築しつつある事に驚嘆した。長い歴史によって作られたローマカトリックであるにもかかわらず、それと比肩するほど熱量をもった信望は、一種のトランス状況をかの国の国民たちに与えている事だろう。神の祝福に近い幸福感が、人の身から発せられ、形状ある国家として成立する様は福音であると思えた。
煙草を探るあさましい自分の右手にかすかな苛立ちを感じながら、トラビスは目的の場所についた事を確認すると、右手を静めて歩みを止めた。
「ここ?」というマイケルの真面目な疑問に対して、靜かに頷いた。寂れた小道の一角にある古い建造物は、黄金期の絶頂を反映させる事無く、旧時代の遺物して存在している。しかし、間抜けな黒い外壁は、コンクリートというよりは年代ものの紙粘土の様にボロボロとした壁面を浮き彫りにしていた。風雨にさらされたため、雨の跡がタコの吸盤の様に染みを作っている。どこも水に膨れ、打ちっぱなしのコンクリートを覗かせていたが、長年の塗料の堆積によって、木の皮の様に層をなした長いたゆみを生成して、ひどく不格好に見せていた。黒い木製の扉は年数の経過を感じさせるように所どころ塗料が剥げており、風雨でくすんだ木くずが、今にも零れ落ちそうなほど浮き出ていた。金属製の蝶番は本来、真鍮の輝かしい色を反射させ、金色のまばゆさが目に刺さる物であったのだろうが、黒ずみ汚れ、本来の輝きは失われ鈍く光りを放ち、雨の跡が牛の模様の様に球になって白んだ汚らしさを演出する。トラビスが扉を引けば油も刺されていないため、途端に酷い金切声を上げて出迎えた。
嫌そうなマイケルの顔を後目にトラビスは勢いよく扉を開けた。ニューヨークとはいえ、スラム街となれはてた一角には、テナントの一つも入っていない。いくらトラビスが大きな音を立てようとも、不審がる顔一つ、誰も見せない。たった数年の間にごった返していた喧騒は、蜃気楼であった様に消え去っていった。
「ネッドは笑いながらこんな場所にいたんだろう。なんとも憎々しい限りではあるがね」とトラビスは口を尖らせた。マイケルは小さい溜息をついて、頭痛をこらえる様に額に右手を当てた。「結局、灯台下暗しというやつで、足元がお留守になるというのは当然の事だね。だからと言って、見逃してやる道理はないけどね」違いないと、トラビスはゆっくりと頷く。
トラビスは態度こそ沈痛なものであったが、その口調は酷く冷めているマイケルの言葉を聞くと、内心ネッド・バン・アールズのことをひどく気の毒になっていた。未だにジュニア・ハイスクールに入りたてと思われる少年が、こうも憎悪を持った声を出せるのだという事実は、過去にどの様な人生を歩んできたのか、その十数年の時間がトラビスの知りえない未曾有の出来事を孕んでいる事を物語っていると思え、背筋が寒くなった。
いつもの事ではあったのに、トラビスはうすら寒い背筋を気にする様に、肩を軽くぐるりと回し、肩甲骨を動かして緊張を緩和させ、震えそうになる気持ちを落ち着けた。スーツの上着の下から、腕の太さ程ある巨大なナイフを取り出した。良く研ぎ澄まされたナイフは艶やかな煌めきを放っている。反射したどんよりたした雲の隙間から覗かせた太陽光がさっと撫でる度に、朽ちた壁に白い光を映し出して存在感を主張していた。
彼がナイフを取り出したのはマイケルのことを恐れてではない。これから踏み込むこの場所が、危険であることを物語っているだけだった。退廃の今では、どこでも潜りの酒場は存在していたし、その場所には決まって後ろ盾が存在している。
ルチアーノだってそんな一人である事は周知の事実だ。マフィアは夜の世界を自由に闊歩していたし、金を持っている者たちは明るい世界ですら自由に羽ばたいていた。おどろおどろしい数々の新聞記事の出来事など、スターの放つ眩い輝きで彼らの影と同じ様に一瞬にしてかき消されていた。
ニューヨークは世界で一番の危険地帯といっても過言ではない。多くの移民を受け入れた事が、その秩序を混沌としたものにしたのは間違いなかった。しかし、自由である事は正義であったし、それこそが人を高みに連れて行くという事は誰もが知っていた。だからこその黄金の時代があったのだ、とトラビスも理解はしていた。と同時に、人間不信になるに十分すぎる出来事を受けていたが、そのことは今は気にしまいとぐっと飲みむために腹に力を入れた。そうすれば、辺りに漂う冬の寒さが、薄すぎるトラビスのスーツの生地を素通りして、一瞬にして冷静さを取り戻させた。
吐く息が白いというほどに冷え込んでいるわけではないが、それでも例年以上に寒く感じられるのは、人の出が明らかに少ないからだろう。経済活動は停滞し、生活はすべてが根底からくずされたのだから、フィッツジェラルドの体験していた様な豪奢な生活は送れないのは誰もが分かり切っていた。人の喧騒が絶え間なく、二十四時間動いていた街は水底に沈んだ様に静まり返っている。トラビスが開けた扉の音がどこまでも反響しているだけに感じた。
粗雑な作りの建物はニューヨークには無い。いくら手入れがされず、朽ち果てているとはいっても、元は良い素材を綺麗に整備された建物だった。外観だけはみすぼらしかったが、建物の中は別段普通に感じる。ペルシア絨毯を模した幾何学模様が特徴的な吸音用のマットが入口から建物の奥まで伸びていた。元々アウトロー達がもぐりの酒場として使っていた建物の一つであるから、方々にそういった外に音が漏れないための細工がされていた。ちょっと開いたままになっている部屋の壁を覗く。
吸音用の小さい穴がいくつも明けられた壁面構造になっていた。床に残った染みは、酒のものか、あるいは、人の血だろうか、黒ずんだままで放置され、カビを発生させていた。金メッキされた電飾は、弱いオレンジ色の電球のせいでチラチラとした光を影の濃い廊下を踏ん張りながら照らしていた。入口のすぐ脇にある階段に設置された踊り場にある、大きな窓から差し込む光が、白っぽく壁を染めていたが、暗色に染められた手すりや床材の色から全体的には、暗いという印象が強かった。
一歩踏み出せば、静かに床が沈み、所々で多少の軋みをさせた。だが、床一面に存在する高そうなマットのおかけで音のほとんどは建物内に響き渡る事なく、トラビスの耳にちょこっと入ってくる程度だった。体重の関係もあるのだろう、トラビスのすぐ後ろを歩いているマイケルの立てる足音は、雲の上でもいる様に靜かだった。存在は確かなはずのに、彼の本来放つべき音が無い事は、彼の存在を希薄にさせ、トラビスの気持ちを少しだけ不安にさせた。
老朽化した建物にはつきものの、床の木材の軋みは遠くから響くのみ。トラビスもマイケルに負けじと、革靴を丁寧に滑らせて音を殺していた。一歩、一歩とゆっくりとした歩幅ではあるが、しかし、遅すぎるというほどでもない。全体的にゆったりとして、余裕を感じさせる動作は、トラビスの類まれなる肉体と相まって、老獪なあるいは、歴戦の勇士を彷彿とさせる。特に先の大戦からまだ年数がそれほど立っていないのだから、「神父」という肩書を放逐すれば、「戦士」というのが妥当だろう。
神父がスーツを着ているというのもまるでプロテスタントの様で可笑しなものだったが、トラビスはこの十年近くは、教会の外に行くときにはスーツに着かえていたから、あまり気にもならなかった。マイケルが時折、「キャソックの方が余所行きの服装にみえるね」と揶揄するのは、彼がいかに外に出ているかを象徴していた。マイケルはそういったトラビスの姿ばかり見ているのだから、今回の事でも違和感は感じていない様子だった。
時計が規則正しく時間を奏でる音がした。金属の時間を切り刻む画一的な音は、振り子によって生成された反復運動の結果だ。何十もの歯車が時を刻むために一秒という時間をの中を疾走する。こち、こち、と高い音と、クッ、クッという低い音を合わせて響いていた。響いていたとはいえ、元々音が反響しにくい建物であるから、一体どうしたものか、と穿って見るほうが正しい。トラビスにしてみれば、異音である事は間違いなく、この場に存在していてはいけない、という事はしっかりと理解できる。《対象》が規則的な音だけ敏感に感じ取っているのであれば、トラビスの押さえた靴音であっても、瞬時に異音として感じ取り、この廃墟から逃げ去ってしまう事は容易に想像できた。
しかたない、という様にトラビスは軽い溜息をついた。最低限の音だけでマイケルに振り替えると、「マイケル」静かな口調で提案した。「ちんたらやっていたら奴が逃げてしまう事も考えられる。だから――」「さっさとヤッてくればいい?」
臆面もなくマイケルは目をぱちぱちとさせてトラビスに問いかけた。自信があるのか、あるいはただのゲーム感覚か。命を張っているという事すら矮小化されて薄っぺらに感じる表情だった。「小言を言いう時ではないのでここで説教をするつもりはないけれどね、マイケル。――とりあえず、君は君の特技をやってくれるかい?」
「――具体的には?」
尋ねるマイケルはとぼけている表情を浮かべていた。子供じみた言い回しなど、この怪物には似つかわしくないとトラビスは思った。しかし、そのことを口にだすのは憚られるし、何より仕事中に意味をなさない激情によって、マイケルをいたずらに刺激するのは得策ではないのは十分に理解していた。
トラビスは知っている。
いくら怪物であろうともその目の前にいるマイケルは子供なのだ。未だに十四歳で浅い人生経験がこの世のすべてでだと思っている類である事は理解していた。だからこそ大人の言葉を欲しているのだ。ゴーというだけの簡単な号令を毎度の事の様にトラビスに求める。彼が子犬であれば微笑ましく見えるのだろうが、トラビスにはそうは思えなかった。マイケルの中に隠し切れない牙は子犬というよりは狼だったし、隠し切れない爪は大鷲の様だとすら思えた。マイケルのことを考えればたった一つしか言葉はでないはずなのに、毎度のことながらトラビスはその言葉を述べるのをためらった。
マイケルにであった時、トラビスと彼の間柄は逆転していたはずだった。窮地にあるマイケルを救い、地獄の底から引きずり出すために三人の悪党を始末した。その時であれば、マイケルの子供らしい姿は当然だ、と思ったことだろう。しかし、トラビスが助けに入るまでの数週間、マイケルの受けた仕打ちというのは少年の持つ価値観を根本的に破壊せしめたものだという事を次の月には理解する事になった。些細な事であっても、マイケルは人を信用する事が無かった。根拠を求めるのではない、そこにすでに契約が成立していなければ信用できない。トラビスですら、契約に定めのない事は”一切”出来ない。
虐待にあった犬を保護した時、同じ様な表情を見せる。怯え、どう猛さをむき出しに、自分を虐げたものに対する怒りを研ぎ澄まされたナイフの様にあたりかまわず振りかかる。無差別であり秩序さは存在しない。
数舜の沈黙であったにもかかわらず、甲高い音を伴った時計の音が、嫌に耳障りに感じた。子供の姿をした怪物を前に、トラビスは言葉の震えを悟られぬように慎重に言葉をつないだ。「――殺せ」
獰猛に笑うマイケルの表情に恐怖を覚えたトラビスではあったが、彼自身がマイケルの首につながった鎖を解き放ったということは理解していたから、今更言葉を飲み込んでなしにすることは出来なかった。ただ一言言ってしまえば胸の中にあるむず痒さというか、つっかえというものはスーッと落ち着いたものになった。マイケルの子供じみた表情は一瞬の物であったが、次にはふっとマイケルの姿が消え、ろうそくの光が消されたように目には残像が残っていた。