好きな人が居た
私には、好きな人が居た……らしい。
志波冬弥。
不思議なくらいに親切で、いつも私の周りに居る人。それが、私の好きだったらしい人だ。
何故自分のことなのにこんなに曖昧なのかと言うと、私が記憶喪失だから。事故に遭ったらしく、体中ギプスやらなんやらでぐるぐる巻きの状態で目が覚めた時には驚いたものだ。だって、私の最後の記憶は間近に迫った高校入学に心を躍らせている、春休みの夜だったから。それが、目覚めたら知らない天井だし、季節は夏だし、体はボロボロで微妙に成長しているし、母さんたちからすごく心配されるし、話を聞けば既に高校生活も半分終わっていたしと散々だったのだ。当然、私はとても混乱した。
そんな私の前に現れたのが、私の同級生であり──と言っても、私には年上にしか見えないけれど──彼氏であるという、志波冬弥という男だった。最初はだれかわからない不審者が私の彼氏を名乗って病室に入ってきているものだから、父さんや母さんの良く見知った人に対する反応を見たうえで、狐か狸に化かされているのではないかと思ってしまって、しばらく受け入れられなかったのも仕方ないことだと思う。というか、知らない人を彼氏として見ることはできないのは当然というか。
ただ、話してみて確かに、私ならこの人を好きになりそうだという気はした。なんというか、雰囲気とか物腰とか、そういう類のものが私のイメージする理想の男性って感じだったから。でも、それはそれとして、私は彼を好きになることは無かった。理由は簡単だ。彼が見ているのは、彼の知っている「藍乃」であって、今の「私」ではないのだという気がしてならなかったからだ。
そんな彼は、今度は僕の番だから、とかなんとか言って、私に勉強を教えてくれることになった。そう、私は高校二年生で、一年半にも渡る授業の記憶をすっぱりと忘れてしまっているのだ。私にとって、人間関係よりもそちらの方がよほど重大な問題に思えた。だから、私は彼氏だと名乗るその人を利用して、何とか受験が始まる前には授業に追いつこうと必死になって勉強をした。
自分で言うのもなんだが、私は頭がいい方だ。とはいえ、あの夏休み三週間程度で半年にも及ぶ期間の勉強を終わらせたのは、我ながら頑張ったと思う。それと同時に、私が勉強を教えていた相手だった志波君がいたのが幸運だった。君が教えてくれたように教えているんだ、とか言っていたけど、その教え方がとても分かりやすい。でも、当然ではある。彼の言う通りなら、元は私が理解した内容を他人が分かるように整理して説明したもの。つまり、自分なりに要点を整理した内容、理解の仕方を直接知るわけだ。分かりやすさが段違いだ。
とはいえ、学校が始まってしまうとそうはいかない。入院期間中は志波君がいない間は私一人で勉強をしなければならず、彼が放課後にやってきたとして、解釈が正しいかとかそういう内容になる。そして、合っているにせよ違っているにせよ、その間は勉強の進みとしては無いと言える。よい教師をしてくれる人がいないことで、私の勉強のペースは一気に落ちてしまった。
私が退院できた後も、志波君は暇さえあれば勉強を教えてくれたけれど、正直、この頃から彼も惰性でやっていたのかなと、今となっては思う。そして同時に、難易度の上昇に伴って中々みんなの授業の進度に追い付かないことに、私はストレスを溜め始めていた。それが爆発したのは、志波君の前だった。
何故、私はこんなに大変な思いをしなければならないのか。何故、好きでもない人──自分を見てくれているようで、全く見ていない人──の彼女なんてやらなくてはならないのか。私の青春はどこに行ったのか。他にも、普段なら何とも思わないだろうちょっとしたことにまで怒りを吐き出し、何の責任もないはずの志波君にぶつけた。そして、その数日後に志波君と別れることになった。志波君が見ていたのは私の知らない私。私としても、自分自身を見てくれているわけではない人を、好きな人がほかに居る人を好きになるのは難しかったのだし、ちょうどよかったと思った。
そうして彼と別れたことを、今、激しく後悔している。
それから一人で必死に勉強して、二次試験までには試験に使う内容を何とか履修しきって、運よく大学に受かった。中学校の頃妄想していたような名門大学ではないけれど、そこまでレベルが低いわけでもない、国公立大学だ。場所は実家から距離がある。だから、荷物を持っていくために、部屋を整理していた、そんな時だ。ふと、お気に入りの小説を入れている本棚の段、この一年半、手を触れることもなかったそこに、小さな手帳が入っていたのを見つけた。
そこに記されていたのは、私が失っていた記憶。冬弥くんとの出会いを、好きになった当時に振り返るところから、彼に意識してもらうためにがんばった日々、それが実って、晴れて付き合うことになった喜び、その後の幸せな日々。濃密な青春を記録したそれは、私に私の日々を追体験させるものだった。結果、私は失っていた記憶を取り戻し、手帳を閉じて、涙した。
こうして記憶を取り戻してしまうと、彼が好きになれなかったはずの理由が、彼のことをより好きになる理由に置き換わる。自分に一切好意を抱いていない女の記憶が戻ることを信じて、高校生活の一年間を捧げてくれた彼氏の、どこに好かない要素があるだろうか?
しかし彼は、私よりずっとレベルの高い大学に行ってしまう。住む場所は全く別だ。ああ、私はなんて愚かなんだろう?後悔が募る。でも、まだ遅くはないはずだ。うちのクラス委員は、最後にお別れ会をやろう、と、みんなで遊ぶ計画を立てている。合格発表の後だから、合格した人にしか声をかけていないらしいけれど、つまりは彼には声がかかっているということだ。
不参加を告げていたクラス委員に、SNSで記憶を取り戻したことを告げ、冬弥くんが参加するかを尋ねる。驚きと祝福の言葉とともに、彼は参加すると、そう返ってくる。それを受けて、私は参加に訂正し、クラス委員からの激励を受ける。それをあいまいに受け流して、私は顔を上げた。
今、私は改めてこう言うことができる。
私には、好きな人が居る。