借りもの世
これは、とある人から聞いた物語。
その語り部と内容に関する、記録の一篇。
あなたも共にこの場へ居合わせて、耳を傾けているかのように読んでくださったら、幸いである。
おお、つぶらやくん、起きたかい? 結構、がっつり眠っていたね。
いや、時間は30分くらいだけどさ。あのぐでっとした寝そべり具合、いかにも「力尽きた〜」感がものすごくてね。寝息がなかったら、あのまま永眠するんじゃないかってくらいの爆睡ぶりだったよ。
新年度って、何かと疲れがたまるよねえ。私もときたま、自分が意識しない間に、眠りへいざなわれていることがある。若いころの感覚で体を動かしてると、そのときはよくても、後になって響くし、湧いてくるんだよねえ。疲労がどばってさ、
疲れない身体。それは生きる人たちの多くが求める、理想の状態だろう。
でも実際には心身に受けるストレスにより、いつしか身体が悲鳴をあげ出して、明らかに働きが鈍ってしまう。いくら心掛けても、ぶっ続けで動き続けることはできないんだ。
それを無理に克服しようとした結果、ろくな目に遭わなかったケースも、昔から存在するみたい。ひとつ、私の知っている昔話、聞いてみちゃもらえないだろうか?
「現世の疲労は、来世が力を前借りしているからである」
そう説いたのは、私の地元にある寺に、昔住まっていたという、お坊さんだ。
そのお坊さんによると、前世、現世、来世は死を境にして、またぐものにあらず。並行して存在し続けているものであり、こうしている今も同時にあり続けている。
ゆえに訪れる幸不幸は、現世での行いはもちろん、並行して続いている前世、来世の行いも加味した結果である。だから現世での善行は他の世界に報い、結果として良い結果が現世に返ってくる、と。
そしてそれは、我々の身体にも現れる。
つまり好調不調の波もまた、他の世からの贈り物、もしくは「おたずねもの」であり、帳尻を合わせるために用意されているのだと。
自分で自分に対する借りものなのだから、気兼ねがない。だから危急の事態でなくても、「ちょっと道具を借りるぜ」という感覚で、貸し借りがしょっちゅう起こっている。その支払いと受け取りが絶えないから、人はいずれ疲れるものなのだ、とお坊さんは説いたらしいんだ。
正直、このお坊さんの言葉を真に受ける人は限られていた。
自分そのものでありながら、顔も見ることができない、別の世界の自分。それは本当に存在しているといえるのだろうか?
そしてここに自分の意識がある以上、別の世の自分の意識はどうなっているのか? 自分の関知できない行動をとっているのだとしたら、それは本当に「自分」と呼べるのか?
ぶつけられる疑問に対し、お坊さんはひとえに「信じてもらうよりない」と告げてくる。なお人が離れていく気配が濃くなるも、ある物好きな男が、このお坊さんを試そうとしたらしい。
「疲れが来世の前借りによって起こるなら、自分のこの疲れを、前世から借りて、のぞいてみせろ」とね。
お坊さんは「できないことはない」と前置いたうえで、注意を促してくる。
強引に別の世を手繰り寄せる行為は、よけいなものを呼び込みやすいこと。世はそれぞれがつながっているから、そのうちのひとつだけを、器用に引き寄せることはできない。いもづるのように、重なっている他の前世も呼び込み、影響を与えてしまう。それでも構わないか、と。
それを聞いた彼は、逃げ口上と受け取ったみたい。もっともな御託を並べて、そもそもありもしない妄言を、重ねているだけだろうと挑発したんだ。
それを聞き、お坊さんは小さく息を漏らし、ふところから小さな水晶を取り出した。
鼻と同じ大きさくらいのそれを、お坊さんは相手に手渡し、中を覗き込んでみるように促す。言葉に従った彼が見てみると、その水晶の中に野良着姿で駆け回る、小さな子供の姿が見えた。
自分の周囲に、同じ格好をした子供の姿はない。水晶を透けて映り込んでいるという線はない。そして、水晶の中の子供の周囲の景色も見ることができず、あくまでその姿だけをくりぬいたかのよう。
「その姿に向かって、じっと念を送るがいい。そうすればやがて、水晶の中の姿は休み、代わりに元気が出てくるだろう」
男は言われたとおりにしてみた。駆け回る子供に対し、「元気をよこせ」とにらみつけるように、険しい視線を送る。
結果はすぐに出た。
男が前々から感じていた、両ふくらはぎのだるさ。それがたちどころにどんどん軽くなる一方で、水晶の中の子供は立ち止まってしまい、石らしきものに腰かけて休み出してしまったんだ。
確かめるようにふくらはぎを叩き出す男を見て、「満足か?」とお坊さんは水晶を取り上げる。男はお坊さんに、件の水晶を譲ってくれるように頼んだが、先に話したことをタテに拒まれてしまう。濫用は、別の前世もひきつけてしまうと。
ならばと、男はお坊さんのもとを訪れるときに、水晶を貸してほしいと申し出る。お坊さんはそれにも難色を示したが、男は無理やりに押し切って、この約束を取り付けたみたいなのさ。
それから男は、自分でも疲れを実感する日があると、昼夜を問わず件の寺へ向かったらしい。お坊さんはほぼ必ずそこにいて、水晶を貸してはくれた。利用するたびに、「これ以上はやめておいた方がいい」と告げるも、抵抗を恐れてか、禁じはしてこない。
男の疲れは水晶に映る者たちによって、どんどんと取り除かれていく。映るものは件の少年に限らず、妙齢の女性だったり、年老いた老人だったりした。
お坊さんはそれが男の前世だと話すが、男は信じる信じないなど、もはや二の次になっている。
この水晶は家よりも風呂よりもあんまよりも、疲れを取るのに適したもの。今日や明日の英気を養うのに、ぴったりだとしか考えていなかったんだ。
その男がある日、この素晴らしさを伝えようと、友人のひとりを伴って寺を訪れた。最近、疲れがたまり気味の友人に対する、配慮だったのかもしれない。
お坊さんは変わらず警告を発し、それを彼が退けて水晶を手に取り、中をのぞく。「なんともなければ、お前も試してみろよ」とのたまっていた彼だが、ほどなくして。
手から水晶が零れ落ち、石畳の上を転がっていく。それに続いて、彼はその場でいきなり四つん這いになったんだ。「グエッ、グエッ」とのどをつぶしたようなだみ声を出しながら、お坊さんと友人を交互に見やったかと思うと、軽く跳ねながら、境内の隅へと向かっていく。
「――愚かな。前世を引き寄せすぎて、畜生の気さえも取り込んでしまいおったわ」
さっと水晶を拾い上げる気配がして、友人はすぐそちらへ向き直ったものの、そこには空となった法衣と草履のみが残され、襟元から一匹、小さいハエがはい出してきた。
プンと襟元を離れたハエは、残された友人の顔の前を飛び回る。
「心配するな。まだほんのかじっただけだ。じきに抜けよう。
わしのように長い時間、前世に引きずられることもあるまい。ようやくわしも、本来の現世に戻れる」
ハエは確かに、羽音で言葉をつむぐと、本殿の屋根を越えて遠くへ飛び去って行ってしまった。
彼はというと、境内を囲う柵を飛び越えられなかったようで、半ば柵にすがりつくような格好でいたらしい。あのハエの話したように、さほど時間をおかずに我に返ったが、あの水晶のことについては、すっかり頭の中から消え去ってしまっていたんだ。