ヘマして県庁から飛ばされた公務員、妖怪だらけの田舎町で越境異種共生推進課に配属される
ひなびた海沿いの田舎町。それが僕の――高遠和馬の抱いた海鳴町の第一印象だった。
高台に建つ町役場の窓から見下ろす景色から目を離し、自分の机の上に目を向ける。着任初日の机の上には支給された型落ちのノートパソコンだけが寂しく置かれていた。平成の大合併から取り残されてそれっきりになった小さな町の役場の、文字通りの窓際部署。つくづく自分にふさわしいと、乾いた笑いが漏れそうになった。
「彼が、あの……」
「県庁での栄達を諦めてまで……」
「……立派なもんだよ、可哀想にね」
あーあー聞こえない、聞こえない。僕の様子をこそこそ窺いながら何事か囁きあっている町役場の職員を視界から外して、新人らしい業務用スマイルを浮かべる。どうやら職場の先輩方は例の件を好意的に受け取っているようだが、正直やめてほしい。虚像が僕の実態とかけ離れたとき、失望されるのは僕なんだ。
ふと、背後から何かが軋む音がした。こちらへ近づいてくるその音は、妙に低い位置から聞こえてくる気がする。振り返ると、にこりと笑う女性を見下ろす形になった。地毛だろうか、茶色がかった長い髪に白い肌が目に残る、全体的に色素の薄い美人だ。年のころは二十代なかほどか。
「おはよう、高遠君だね。初めまして。私は矢尾椿、弓矢の矢に尻尾の尾で『やお』と読むんだ。よろしくね」
音の発生源――車椅子に腰掛けた女性は、首から提げられた名札を掲げてこちらに見せてくる。確かに彼女が名乗った、矢尾椿という名が記されていた。いや、名前よりも気にするべきは名札に示された所属部門の方で。
「は、はい! このたび県庁から出向して参りました、高遠和馬と申します! ここ、海鳴町『越境異種共生推進課』にて、ご指導ご鞭撻のほどよろしくお願いしましゅ!」
直属の先輩への自己紹介で盛大に噛んだ。どうしよう、早速呆れられる気配しかしない。
「まあまあ。初日だし、そう緊張しないでいいよ。とりあえず、今日からしばらくは窓口での対応を見学してくれればいいから。業務対応マニュアルはそこの棚ね。最初は大変だと思うけど少しずつ慣れていきましょう」
当たり障りのないしっかりした大人の対応に、ほっと胸をなで下ろした。県庁から越境異種共生推進課なんて舌を噛みそうな名前の部署に左遷さ……飛ばさ……出向となることが決まったのちに聞いていた、業務の指導を行う職員とはこの矢尾さんで間違いなさそうだ。車椅子で現れたときは少しだけ驚いてしまったが、優しそうな人でよかった。美人だし、というセクハラ紛いの感想は表に出さないよう必死に飲み込む。願わくは、僕がここに来る原因となった例の件については知らないでいてほしい。
「ああ、ところで。聞いたよ、勇気あるんだね。県庁職員と天狗の談合を告発するなんて」
願ったそばからこれだ。僕に救いはないのだろうか。知らない田舎町に着任して早々、唯一の心のオアシスとなりそうな先輩から例の件――僕がやらかした致命的なドジを聞かれるなんて。
「……あの一件は、純粋な僕のミスです」
「そんなに謙遜しなくても大丈夫。こんな田舎に上へチクるやつなんていない、好きに言ってくれていいんだよ」
「いえ、ですから。本当にミスなんです。まさかあんなことになるなんて思ってなかった」
「過ぎた謙遜はかえってためにならないよ。言い訳をしなくてもいい。自分が正義だと思ったから、メディアに決定的な証拠となる文書を渡したんでしょう?」
「いや、あれは記者会見で配るから印刷しとけって言われたファイルを普通に間違えたんです」
「……マジ?」
「マジです」
我ながら初日にしてとんでもない告白をしている気がする。それでも、僕のあずかり知らぬところで勝手に築かれてしまった英雄像のメッキが剥がれていくのを身にしみて体験するよりはマシだ。グッバイ僕のエリート(笑)イメージ、ハロー先輩の生ぬるい視線。
昔から『それっぽい』雰囲気を醸し出すことだけは人一倍得意だった。真面目くさった顔で授業を受けていれば成績は中の下でも内申点は高かったし、就活でもやたらと面接官の反応はよかった。でも、雰囲気だけだ。実績は伴わなかった。
だから、雰囲気から相手が勝手に抱く『できる人』の虚像はすぐに崩れていく。中高では先生方に目をかけてもらったにもかかわらず、成績は平均点以上には伸びなかった。進学先の地元の国立大学では課題を出し忘れて落とした単位もいくつかあった。なまじ当初の期待値が高かった分、落差は大きい。僕が失敗する度に向けられる失望の目が耐えきれず、ほぼ面接の印象だけで入れたような就職先――県庁ではミスだけはするまいと思っていた。
それなのに、やってしまった。
そもそもの発端としては、現在では県有林となっている山のうちいくつかが、伝統的に天狗の住処となっていたことだ。山の主である天狗は歴史的に林業と関係が深いほか、異種族の社会進出が進んだ近年では天狗達が自ら山の管理を請け負う会社を立ち上げる例もある。そして、天狗が山々における権利を主張するのを快く思わない人間達も、また存在する。
天狗や河童といった異種族との間で、土地やその資源をどう扱うかは古今東西政争の火種の定番だ。だが、どうも法律に照らしてみると、どうやら県の自然管理局の職員と天狗達の『話し合い』はやってはいけないことだったらしい。天狗達と競合する人間の業者が県の対応に不満を抱き、メディアを巻き込んで県に直訴した。慌てた県は、とりあえずの公表用に当たり障りのない文書、当たり障りのない回答を突貫作業で用意して疑惑を晴らそうと記者会見を開いたわけだ。後ろ暗いところがあっただけにドタバタと用意された会見には、『なんとなく仕事ができそう』といった印象で入庁したての新人職員も駆り出され――そのうち一人がついうっかり配布用の資料を間違えてしまった。
ここで発生した問題は二点。ひとつは、ミスに気づかず報道陣へ配布されてしまった資料がまさに県が誤魔化そうとした内容のものであり、具体的な談合の内容がしっかり記載されていたこと。もうひとつは、そのミスをやらかした新人が僕だったこと。
手元の資料を閲覧していた報道陣の妙な雰囲気に、県庁職員が気づいたときには手遅れで。特ダネを狙った全国紙地方部の記者が素早く不正を訴える記事をニュースサイトに放流し、ちょっとした炎上を経て、その日の夜には知事が直接会見を開いて陳謝する羽目になった。異種族というマイノリティである天狗達の権利保護の点から県を擁護する世論もないではなかったが、いかんせんこの国の公的機関は法律に違反してはならないのだ、絶対に。強いて言うなら、密室でコソコソ決めていたのが悪かった。知事の謝罪会見とほぼ同時、遠い目をしたお偉方の集う会議室に呼び出された僕は針のむしろに座らされ、そして現在に至る。
ここまでが、僕が県庁から追い出されて、県の外れも外れ、海を臨む小さな小さな町役場の長ったらしい名前の部署に配属されるまでの過程だ。
「だから僕は誓ったんです。『それっぽい雰囲気』を醸し出してしまうのも、雰囲気に実力が伴わないのもしょうがない。せめて、周囲の人が僕に勝手に抱く幻想だけはさっさと否定して、ありのままのダメな僕でいさせてもらおうと」
「わ、わぁ……色々あったんだね……」
あれ、どこまで僕の回想でどこから独白だったっけ。押さえつけていた心の箍が外れてしまった気がして矢尾さんの表情を伺えば、なんとも言語化しづらい表情で笑みを浮かべていた。
「とにかく、そろそろ窓口業務を始めます。まずは私の後ろで見ていてくれる?」
「は、はい。よろしくお願いします」
初日から盛大に『ダメなやつ』というイメージを大々的に開示しながらも。こうして僕の海鳴町ライフ、越境異種共生推進課の業務が始まることになった。
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「はい、異種族特有疾患の医療補助申請をご希望ですね。ろくろ首の方の頸椎ヘルニアは適応対象です。診断書をお出しください」
「座敷童の転居に適した一家のご紹介ですね。個人情報保護の観点から座敷童の受け入れを希望される世帯のみのご紹介となりますが、よろしいでしょうか」
「申し訳ございません、のっぺらぼうの方の美容整形は医療補助対象に含まれておりません。自費診療でお願いしますね」
「七人ミサキの方々の新規加入者制限の撤廃は致しかねます。残念ですが勧誘手段が従来の呪殺のみですと役場としても許可を出しかねる訳でして、ええ、成仏をお望みの方に対して寺社仏閣等の宗教法人を紹介することならできますが」
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廊下から差し込む西日が目に眩しい。怒濤の一日が終わり、矢尾さんは車椅子の上でひとつ大きく伸びをしている。僕はといえば、大変個性的な異種族の方々の、大変個性的な相談内容と矢尾さんのそつのない対応をメモするだけで手一杯だった。臨機応変かつ正確な対応が求められるこんな仕事、僕にやっていけるのだろうか。
「まあ、うちの課はこんな感じ。一応、異種族の方々の対応については県庁での研修で習ってない?」
「まあ、はい。でも、実際に対応してみると……」
「うちは田舎だからねえ。異種族の人口はこういった自然が多く残るところに多いんだ。下手したら県庁よりも相談件数が多いんじゃないかな」
ぎぃ、と車椅子のホイールを回して矢尾さんが後退する。彼女の下半身にはずっとブランケットが掛かっており、その下の足がどうなっているのかはほとんど窺えない。だが、車椅子が動いた弾みにちらりとブランケットが揺れ――その下から幾重にも巻かれた包帯がちらりと見えた。まじまじと見つめるのも失礼な気がして、僕は目を逸らす。ふと、呼び出しベルが響いた。音源は、この課の固定電話だ。
「はい、こちら海鳴町、越境異種共生推進課です」
車椅子の矢尾さんに先んじて、大きく踏み出した僕が受話器を取る。定型文を読み上げたあとで、今日配属になった新人にできることなんてないことに気づいた。またやらかした。
幸い、電話の主は最初から矢尾さんに用があったらしい。指名された彼女に受話器を渡し、少し離れた場所から手持ち無沙汰に受話器越しの会話を眺める。矢尾さんの言葉しか聞こえないので詳細は分からないが、『海坊主』という言葉が何度か漏れ聞こえた。
ややあって、通話を終えた矢尾さんが受話器を元の位置に戻す。そのまま僕の顔を見上げてきた。ばつの悪そうな顔に、なんとなく不安になる。
「えっとねー、ごめん! 海坊主の方が漁船と衝突事故を起こしたらしくて、事故処理の手続きに直接出向かなきゃいけなくなっちゃった! だから、明日は丸一日役場を留守にします!」
「……と、いうことは」
「君には窓口担当をしてもらいます。一応できる限り補助はつけるけど、うん、その、二日目なのにごめんね?」
地方行政の人手不足はこんなところまで忍び寄っている。ガンバリマスと片言で答える僕の頭の中を、百鬼夜行が列をなして行進していった。
そうして二日目。矢尾さんの代わりに僕を待っていたのは、壮年の男性だった。
「後藤信吾だ。矢尾さんの代わりに、君の補助を担当する」
後藤と名乗った彼も越境異種共生推進課の一員らしい。もっとも矢尾さんは住民の異種族から直接持ち込まれる相談に対応するのに対し、後藤さんは県や国といった上層部からのやりとりを受け持っているらしい。昨日はたまたま出張で町役場にいなかったと聞いた。
「基本的な対応は頭に入っているか?」
「一応、マニュアルにあった通りは」
「なるほど。だが、覚えとけ。実際の相談内容はマニュアルなどには収まりきらない。小さな部署だが、窓口対応はなかなかに忙しいぞ」
「……善処します」
窓口から見えない奥の席にいるから、何かあったら俺に相談しろ。そう言い残して、後藤さんは自身の仕事に取りかかってしまった。
半ば脅されるようなことを言われたが、相談できるに越したことはない。一瞬とはいえ、県庁で働いたこともあるんだと自分に言い聞かせる。後藤さんの手を煩わせず一日を切り抜ける。そう目標を定めて、窓口に向かった。
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「後藤さん! 河童の方が町内の複数店舗で侮辱的な扱いを受けたとの抗議にいらっしゃってます!」
「河童には『お辞儀をする』という行為は厳禁だ、お辞儀を返してしまうと皿の水がこぼれるからな! 侮辱的な意図はなかったと説明しろ、町内報で周知を図る!」
「後藤さん! ガソリンスタンドに猫又の方が来るって相談なんですけど、レギュラーですかハイオクですか軽油ですか⁉」
「菜種油だ、スーパーで売ってる普通のサラダ油に誘導しろ! 猫又はガソリン舐めても死なないが、『不味いにゃ』とめちゃくちゃ苦情が来る!」
「後藤さん! 雪女の方が養育費不払いの相談にいらしてます!」
「そもそも父親は生きてるか⁉ 母子に対しては公的支援の手配、父親に対しては生存確認の手配を!」
「後藤さん! 子泣きじじいの方が子ども手当の申請にいらっしゃったのですが」
「却下ぁ!」
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おわった。つかれた。結局多くの案件で後藤さんに頼り切ってしまった。最後の窓口利用者を見送り、べったりと自身のデスクに倒れ伏す。
「ぶ、文化が違う……」
「異種族と人間では食事から社会通念、果ては生死の感覚まで異なるからな。人間の固定観念に凝り固まったままではこの課でやっていけない。とにかく応対する中で知識を詰め込んでいけ」
思わず愚痴を漏らしたら、後藤さんが缶コーヒーを机に置いてくれた。口をつける体力もなく、今はお気持ちだけいただくことにして、缶は鞄に滑り込ませる。
「高遠君、お疲れ様。後藤君、彼はどうでした?」
きゅるきゅると車椅子のタイヤの回る音。ぐったりした身体で目線だけを上げれば、どこかから帰ってきたところらしい矢尾さんがいた。
「まあまあだな。最初にしては上出来だ、これから少しずつ対応を覚えていかせる」
「なるほど。私の後任として、しっかりやっていけるのを見られるまでここに居られたらいいのだけれど」
なにか不穏な響きを聞いた気がする。具体的には、配属早々に先輩のひとりが辞める気配。僕が顔を上げると、ちょうどこちらを見ていた二人と視線がかち合った。ごほん。矢尾さんの咳払いが響く。
「私としても不本意なんだけどね。今日、久しぶりに海に入ったら家族と鉢合わせてしまって。そろそろ戻ってこいと言われたし、両親の体調も心配でね。前から検討していたんだけど、この役場を辞めて家業を継ごうかと思ってるの」
世の中、悪い予感ばっかり的中する。僕の顔色が悪くなったのを察してか、慌てて矢尾さんが言葉を継いだ。
「もちろん、今すぐ辞めるって訳じゃないからね。新人教育が一段落するまではここにいる。そうね、二ヶ月くらいは役場に留まるから、その、こう、突貫で仕事ができるようになってほしいな……?」
「俺も協力する。まあ、なんだ。こういう事情なので、スパルタで行くぞ」
先輩方の笑みが怖すぎる。訪れるであろうデスマーチを予感して、僕は遠い目になった。
それからの日々は本当にスパルタだった。従来の窓口対応だけでなく、ぬらりひょんの不法侵入騒動や、四つ辻で鎌鼬と送り狼が喧嘩している現場にも動員されるなど役場の外に駆り出されることも増えた。海鳴町というだけあって海と関係の深い異種族の案件が持ち込まれることも多かったが、幸いそういったものは矢尾さんがほぼ引き受けてくれた。そのおかげで、僕は窓口から出たり戻ったり陸地を駆けずり回るだけで済んでいる。
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――そして、二ヶ月が経ってしまった。
昨日は三人でのささやかな送別会だった。小さな海鮮料理店で、鍋をつつきながら思い出話に浸る。スパルタの甲斐あってか、最近は一人で業務をこなせるようになったと矢尾さんが褒めてくれるのも、これが最後かと思うと素直に喜べない。
翌朝。今日は土曜、役場は休みだ。別れの寂しさを紛らわすように酒を浴びて寝ていた僕を布団からたたき起こしたのは、一本の電話。後藤さんからだ。
「高遠か? 悪い、実は矢尾に荷物の回収を頼まれてたんだが、急用が入って行けなくなった。代わりに向かってくれないか」
「……了解です。町役場に行けば良いでしょうか」
「いや、町外れの海岸だ。崖になっているところがあるだろう、あそこだ。地図データを送るから向かってくれないか」
酒は抜けている。車に乗るのに支障はない。それに、矢尾さんに最後に会う機会を――僕は逃したくなかった。
田舎町ではマイカーは生命線だ。ハンドルを握り、スマホのナビを頼りに指示された目的地に着く。崖沿いを歩いていると、見覚えのある車椅子姿を見つけた。厚手のスウェットに袖を通し、ひとり水平線を眺める矢尾さんは僕に気づいていないらしい。今にも彼女が崖から落ちそうで、危ないですよと声をかけようとした瞬間だった。
矢尾さんが、消えた。車椅子から身を乗り出し、崖の下へ身を投げ出した。
絶叫は声にならなかった。名前を呼ぶのを忘れて崖の縁に駆け出すと同時、水しぶきの音が響く。崖の縁に到着し、海面をのぞき込む。既に矢尾さんの姿はなかった。
どうしよう、まさか、何故。訳も分からぬまま疑問の言葉だけが頭を駆け巡る。
――崖はさほど高さはない。もしかしたら、まだ助かるかもしれない。頭の僅かに残った冷静な部分が囁く。
逡巡してみせるほどの余裕は残っていなかった。気づけば、重力に引かれる身体と空をかく足。そして、迫り来る海面。
「……ぷふぁっ!」
ずぶ濡れの顔を海面から出す。骨が折れそうな衝撃があったが、まだ生きている。
「矢尾さん! 矢尾さん、どこですか!」
呼びかける。海面に、それらしい影はない。塩水に晒された目の粘膜が痛みを訴える。もう一度、だ。立ち泳ぎのまま、大きく何度か息を吸う。肺が膨らみきったタイミングで息を止め、もう一度海面の下へ潜った。
ある程度の深さまでは海面から光が差し込む。だが、一定以上の深度では何も見えない。暗黒の世界だ。その中に矢尾さんが沈んでしまったと考えると背筋が凍り付く。車椅子ということは、きっと泳げないはずだ。
ぐわん、と水流が動くのを感じる。上から差し込む光が何かに遮られる。振り仰いだ先、何か大きな魚の尾びれが動くのが見えた。全体像は見えなかったが、かなりの大型魚なのは間違いない。もしかしたら、鮫かもしれない。
パニックを必死に押さえつけて、いったん海面に浮上することにした。水面を突き破ると同時、息を吐き出した。続けて数十秒ぶりの酸素を吸い込む。早鐘を打つ心臓にさらに鞭打って、もう一度大声で呼びかけた。
「矢尾さん、聞こえますか! 矢尾さん!」
「うん、いるよ」
「……えっ?」
振り向いたら矢尾さんと目が合った。僕と同じように、立ち泳ぎするかたちで海面から顔を出している。
「え、いや、なんで」
「何って、実家に帰ろうとしたんだ。いきなり飛び込んできた君に呼ばれたから引き返してきたけど」
あっけらかんと矢尾さんは告げる。そして、その頭がやにわに海面下に潜った。入れ替わるように波間を割って現れたのは――虹色に輝く鱗に覆われた、大きな尾びれ。先ほど海中で見上げた影と同じかたちをしていた。ばしゃん、と尾びれは水面を叩いて海中に消え、ちょうど一回転するように矢尾さんの顔が再び浮かんでくる。と、いうことは。
「にん、ぎょ……?」
「うん、人魚です。ごめんね、言っとけばよかったかな」
――人間社会に溶け込み、その一員となって暮らす異種族も多い。越境異種共生推進課の、そもそもの存在理由ともなる大前提だ。それなのに、ああ、灯台もと暗しというべきか。この町で一番近くにいた優しい先輩の真実に、僕は気づいていなかった。
「……ごめんなさい」
「いいよ、謝らなくて。私も自分が人魚だって告げてなかったし」
とりあえず陸に戻りましょう、と矢尾さんに手を引かれて僕は近くの砂浜に連れて行かれた。
「本当は後藤君にあれ回収してもらう予定だったんだけどね。後藤君に『代わりに行ってくれ』って頼まれた感じかな?」
彼女が指した先には、崖の上に取り残された車椅子があった。確かに、海に帰るとしても車椅子だけは陸に残して行かざるを得ない。
つまりはそういうことだった。矢尾さんの車椅子の理由も、鱗が乾燥しないように下半身に巻いていた包帯も、海で起こった案件が矢尾さんの担当になるのも。
矢尾さんに波打ち際で見守られながら、二本足で砂浜にあがる。濡れた服がまとわりつくのが鬱陶しい。
「……行くんですか」
「うん、実家にね」
「そちらは、島嶼部などでしょうか?」
完全な海中でなければ会いに行けるのではないかと思った僕の希望は、矢尾さんの返答にあっさりと打ち消される。
「ううん、海底。人間が潜るのは、ちょっと止めた方がいい深度ね」
「そう、なんですね」
「こればっかりはねえ。いかんせん、海底油田の管理が家業だし」
「……え?」
再びのフリーズ。先輩が人魚だった件といい、これは夢だろうか。
「日本の近海にね、小規模な海底油田があるの。中東とかの陸上の油田に比べれば採掘コストも桁違いだし、まだまだ調査中だけどね。私たち人魚が協力することで、研究も結構進んでる。お金もたくさん貰えるし」
夢じゃなかった。というか、なんでこんな小さな町の役場で働いてるんだろうという家庭環境な気もする。
「なんで公務員なんかやってるんだ、って顔だね。うーん、そうだねえ」
僕の表情から言いたいことを察したのか。波打ち際の矢尾さんが首を傾げる。
「当たり障りのない答えで言えば、陸の上に憧れてたの。家業を継いで忙しくなる前に陸の上で過ごしてみたかったのもあるかな。家族には、二本の足がない私が陸に上がるのを反対されたけど。期待どおりに、刺激的な生活でした」
憧れ。久しく聞かなかった言葉だった。
――僕が憧れていたのは何だったろうか。自分の持つ雰囲気に負け、流され、実態とかけ離れた幻想を抱かれては幻滅され、果ては誰にも期待されずに生きていこうとした僕はどうすれば良かったのだろうか。
「まあまあ、難しい顔しないで」
水音を立てて、虹色の鱗が海面を叩く。
「実家に戻ったら、採掘企業との交渉人に頼んでプール付きのプライベートクルーザーを買おうと思ってるんだ。暇ができたら遊びに行くから――そしたら、休暇を取ってゆっくり海の真ん中でのんびりしよう。衣食は手配するから、君はなにも考えずにゆっくりしてくれればいい」
僕のちっぽけな悩みを財力で吹き飛ばしてくる石油王はここにいた。いや、彼女の境遇を考えれば人魚姫という形容の方がしっくり来る気がする。北欧発の有名な童話と違い、悲劇的な末路には無縁どころかえげつない財力で王子を買収しそうな気配すら感じるが。
「えっと、本当にいいんでしょうか?」
「もちろん。私は本気だよ。……おっと、もう行かないと」
水平線の方に向き直った矢尾さんは、下半身を波打たせて海の方へと出ていく。振り返りはしない。
「遠くないうちにまた来るから。またね」
――私を助けようとしてくれた人間。
最後にひとこと、空気中に残して。人魚姫は今度こそ、僕の目の前で海中に消えた。
矢尾さんの車椅子は町役場が福祉サービスの一環として貸し出しているものだった。回収した車椅子を役場まで届けにいったら、後藤さんに鉢合わせる。
「急に頼んで悪かったな、ありがとう。……別れは言えたか」
「ええ、まあ」
この人は、本当は急用なんかなかったんじゃないか。昨日の送別会で名残惜しげにしている僕を見て、最後に矢尾さんに会えるよう仕向けたのではないか。そんな疑念が胸をよぎる。
「人員の補充申請はしてあるが、今期いっぱいは忙しくなるだろう。せいぜい頑張れよ」
「はい」
僕自身の憧れは、まだ見つかっていない。それでも、あの人魚が憧れていたものはここにある。だから、僕はこの町で働いていく。異種族の方々の生活を、彼女が住みやすい世界を守っていく。そう、底の見えない海に誓った。
夢を見る。光も届かない海の底、太古の昔に降り積もった有機物が変化した化石燃料の地層。その上を悠々と泳ぐ人魚がいる。陸に憧れ、陸に上がり、やがて有機の海に帰ったひとりの人魚。
優しい先輩とまた会えたとき。『それっぽい』雰囲気なんて気にしないで、ただ僕を見据えて、そして褒めてくれるだろうか。
水平線の向こうから白馬ならぬ白いクルーザーが現れる日を待ちながら。僕は今日も、異種族の方々と向き合っていく。
「おい高遠! アマビエの方が『今年のモデル業収入が急増した』と確定申告の相談にいらしてるぞ!」
「はい! 今行きます!」