【サク爺の前で〜FLUKE】
第1章、epilogue
『ハル、元気ですか?
私は今、ハルと過ごした素敵な時を思い出しています。
とても大切に、そっと両手に救う様に、こぼれ落ちない様に少しづつ、楽しかったたくさんの日々を私の心の中に描きなおしています。
「ねえハル、覚えてる?
ハルが居て、サク爺が居て、私が居て、
私はあの時、目に映る全てのものが優しくて、愛おしくて、キラキラ輝いて見えてたんだ。
サク爺がくれた素敵なプレゼントが、
私たちを優しく包み込んでくれてたよね 。
あの時、胸の奥がとても暖かくて、穏やかで
、私はとても幸せだったんだよ…』
その時、俺はスケッチブックに挟まれていた彼女からの手紙を手に取り、その当時の事を思い出しながら歩いていた。
穏やかな春の日だった。
手紙を読みながらその場所に辿り着いた俺は、いつもと変わりなく彼に挨拶をした。
「ちょっと早いけど、今年も来たよ、
サク爺」
俺は彼に軽く会釈した後に周りを見渡した。
俺たちを囲う様に芝生の絨毯が遠くまで広がっている。
芝生の先に着いた露が傾きかけた太陽の日差しに反射してキラキラ輝いて見えた。
海風に乗った花びらが優しく頬を流れる。
乱れている筈の俺の心は不思議と穏やかだった。
しばらくして俺は呟いた。
「何も変わってねぇや…」
そこは俺たちにとってとても大切な場所だった。
あの時サク爺が見守るこの場所で俺と彼女はひとつの約束をした。
それは4月1日にサク爺に会いに来てあるものを確認し合うといった約束だった。
俺はそれまで慣れ慕しんだこの場所がこの日を境にして違う意味を持つ事などそれまで想像すらしていなかった。
その日から4年。
今になって思えばこの日に俺がこの場所に来ることを彼女は知ってたんだと思える。
彼女はとても不思議な女性だった。
おそらく俺は彼女と出逢ったあの日からその不思議な魅力に惹かれていったのだと思う。
初めて彼女の話を聞いた時、俺は「この子は嘘つきだ」と思った。
彼女はその「説法」を無知だった俺に対してまるで勧誘でもするかの様な勢いでその教えを力強く説いていた。
その話は「私は人の考えている事が解る」とか「私は人の未来が見える」と言った類のよくインチキ宗教の教祖が言いそうな内容のものが多かった。
その時はただの嘘の作り話だと思っていた彼女のその「インチキな説法」も広い目で見れば粗方嘘では無かった様に思える。
彼女が説いていたその話のなかで俺が初めて真剣に耳を傾けたのは「人にはそれぞれ決まった数の幸運が訪れる」と言った内容の話だった。
彼女いわく、その幸運が目の前に訪れた時、大半の人はその事に気付かずにただ通り過ぎてしまうらしい。
だが、その「幸運」に気付く方法がひとつだけ有ると彼女は俺に教えてくれた。
それは自分の心の中で常に「FLUKE」と唱える事だと彼女は言っていた。
あの4月1日の約束の日から11ヶ月経ったこの日に俺がこの場所に来た事も彼女が言っていたその「FLUKE」なのだろう。
第2章、出会い
彼女との出会いはこの日から7年前に遡る。
それは高校の入学式当日だった。
俺が入学した高校は神奈川県の平塚市に有った。
その高校は進学校ではなく、かと言ってスポーツが盛んな訳でもなく、その高校に入ったからといってその後の人生にこれと言ったメリットは特に無いのだが、海が近いせいか何故か学生からは人気が高かった。
俺が何故この高校に入ったかと言うと「海が近い」といった理由では無く、特に取得も無い自分の事を快く受け入れてくれる唯一の高校だったからだ。
当時神奈川県厚木市に住んでいた俺は電車では無く路線バスを使って平塚駅迄行きそこから徒歩で高校へ向かう通学路を選択していた。
JR平塚駅の南口から海に向かって真っ直ぐ伸びたその道は、極端に交通量が少ない割には無駄に広かった。
その道を只管進み、海岸線を走る国道134号線の手前を左に曲がって広い公園を抜けるとその隣に校舎の入口が有った。
当日その門を潜り、初めて教室に入って席に着くと俺の隣の席に彼女、
「森野さくら」が座っていた。
俺は小学生の頃からあるコンプレックスに
悩まされていた。
俺の誕生日は3月15日、4月で区切られる学校生活において俺は周りからするとひとつ歳が少ない、いわゆる年下の同級生だった。
俺はいつまで経っても歳の追い付かない同級生に対し違和感を感じていた。
何故なら時折同級生が大人に感じる時が有ったからだ。
その事が理由で俺は周りの同級生とは少し距離を置いた学生生活を送っていた。
俺の隣に座る彼女「森野さくら」の誕生日は4月15日。
もちろん彼女も年上の同級生の一人だが、
彼女は他の誰よりも俺の事を子供扱いにしていた様に思う。
俺が彼女と初めて会話らしい会話をしたのは初日の授業を終えた帰り道の時だった。
その日俺は隣に座る彼女から幾度と無く話掛けられはしたが、緊張のあまり彼女と話をするどころか彼女の顔すらまともに見る事が出来なかった。
とても居心地が悪く途方も無く永く感じた時間を何とか遣り過ごした俺は、終業のチャイムと共にそそくさと帰途に着いた。
その帰り道の事だった。
校舎隣の公園に入り、暫く歩いた所でまるで拡声器を使ったかの様な大音量の声が俺の背後を襲った。
「オイ!花見 一春!」
不意を突かれ驚いた俺は悲鳴にも似た声を上げ、後を振り向いた。
「あぁー。な、何?」
そこには右手にメガホンを持った彼女、
「森野さくら」
が俺を睨みながら立っていた。
短い沈黙の後、彼女は大きく息を吸うとまるでその息を吐き出すかの様に憮然とした態度で俺に対する自らの疑問をぶつけて来た。
「私の事、何で無視するの?」
「え?、そう言う訳じゃああ、
ないんだけど」
俺はしどろもどろになりながらも何とか彼女に返答した。
よく見るとメガホンに見えたそれは、スケッチブックをメガホン状に丸めた物だとその時になって初めて気付いた。
彼女は左手を自分の腰に当て、左足を少し前に出し、そのメガホンで自分の右肩を小刻みに叩きながらまるで自分が担任の先生であるかの様な威圧的な態度で俺に話し掛けた。
「何だ、普通に喋れるんじゃん
花見 一春!」
「え?、な、何だよそれ」
俺は戸惑いながらも何とかそう言って返した。
その時だった。
怪訝そうにしていた彼女の表情がいきなり変わった。
俺がそれ迄誰からも感じ得た事がない無防備な彼女の笑顔がそこに有った。
例えるとしたら深い森がいきなり開けて広大な花畑が目の前に現れた、そんなとても印象的な笑顔だった。
その笑顔の彼女が話を続けた。
「先生に落し物届け出そうと本気で考えたんだから」
彼女が何を伝えようとているのか理解できない俺は、聞き返した。
「落し物って、何?」
「コ、エ、!」
彼女は当たり前の様に平然とした口調でそう言った。
「コエ?何それ」
「今出してるじゃん」
「え?、それって、声の事?」
彼女か俺に何を言おうとしているのかがやっと理解出来た俺は、自身の口を指差しながらそう言うと彼女はまるで俺の心を見透かしたかの様に俺の性格を言い当てた。
「人見知りなんでしょう!」
「え?…あ、あぁ」
俺は自身の性格を言い当てられた驚きにそう言い返すのが精一杯だった。
「そっか。じゃあさ、あそこ行こうよ」
彼女はそう言ってある方向を指差しながらひとり歩き出したので俺も彼女を追う様にその後に続いた。
暫くして彼女の足が止まると、目の前には枝を淡いピンク色に染めた桜の古木が咲き誇るかの様にその存在を主張していた。
その木の前で振り返った彼女は俺にひとつの提案をした。
「じゃあさ、教室で話しづらいんだったら、放課後ここで話そうよ」
「放課後?ここで?」
「うん。だめ?」
彼女は「きょとん」とした表情で少し首を右に傾げながら俺にそう言った。
その時、俺は彼女のその提案に対して少し面倒な気もしたが「このまま帰ったとしても何もすることが無い、そんな暇でつまらない自分と話しをしたとこでどうせすぐ飽きて彼女は何処かへ行ってしまうだろう」そう思った俺は割と安易な気持ちで彼女の要求に応じた。
「別に…いいけど」
その返事を聞いて気を良くしたのか、彼女は続け様にふたつ目の提案を俺に持ちかけた。
「じゃあさ、お互い何て呼ぶか決めようよ」
「え?…あ、う、うん」
俺がそう言って頷くと彼女は俺が何でも受け入れると思ったのか自らの主張を要領よく、しかも的確に、俺に考える隙を与える事無く、思い存分に、
捲くし立てた。
「私の事は さくら って呼んで、
花見くんは ハルくんでいいよね」
「はる?、カズなら解るけど」
「えー、カズなんて他に使ってる人
いっぱい居るじゃん、ハルがいい、
うん、いいよね ハル!」
「ハルって、呼び捨て?」
「ハル と さくら 、うん、いいよね、
これで決定ね!」
俺の事を初めに花見一春と呼んだ彼女は「花見くん」「ハルくん」とその呼び名をまるで出世魚の様に数秒で変えた後、最後は ハル と呼び捨てにしてしまった。
殆ど一方的に事を進め、ご満悦の彼女はこの日最後の提案を俺に持ちかけた。
「そうだ!この場所の名前も決めとこうよ!」
「桜の木の前でいいんじゃないの?」
少し面倒くさくなって適当に言った俺のその提案は当然のごとく直様却下された。
「えー、それじゃあぁ何処の桜の木の前か解らないじゃん」
「そうかなあ…」
その後何か考え事をしていた彼女が閃いたか様に右手の人差し指をピンと立てて話し始めた。
「じゃあさ、この桜の木に名前付けようよ」
「木に?」
「うん、この桜の木に」
考えている振りをしながらも内心面倒くさいと思っていた俺は、何も考えずまた適当に彼女に提案した。
「桜の木だから さくら でいいんじゃないの?」
それを聞いた彼女は少し「ムッ」としながら俺に言い返した。
「それじゃあ私と同じじゃん!オイ、ハル!
考えてる振りして本当は面倒くさいと思ってるんでしょ!」
一瞬「ドキッ」とした。
やはり彼女は俺の心を見透かしてると思った。
「もういい!私が考える!」
そう言ったまま暫く黙り込んでいた彼女は、
いきなり俺を見つめると「うん、うん」と頷きながら話し始めた。
「サク爺 なんてどぉ?」
「サク爺?」
「そお、桜の木のお爺ちゃんだからサク爺、どぉ?カワイイでしょ」
「サク爺かぁ…いいね!」
その時、俺はその提案に対して適当に合わせた訳では無かった。
俺は彼女が付けたその名前が、目の前に立つ桜の古木にぴったりだと感じた上の賛同だった。
「ハルとさくらとサク爺、何か楽しそうでいいじゃん、じゃあ決定ね!」
そう言って彼女が笑った。
俺は暫く彼女のその笑顔を眩しそうに見ていた。
この時に彼女のその無防備な笑顔が俺の目に焼き付いたんだと思う。
その笑顔を見ながら俺は何か今まで感じだ事がない胸の高鳴りの様なものを感じていた。
それは苦しい様な、暖かい様な、言葉では言い表せないとても複雑な感情だったのを覚えている。
咲き誇るサク爺が見守るなか、俺とさくらの高校生活がこの日から始まったんだ。
第3章、さくらと呼んだ日
『ハルは覚えてるかな?
サク爺にイタズラ書きした日。
ハルと出会って3カ月くらいだったかな、
ふざけながらサク爺の周りで
追いかけっこしたよね。
その時初めてハルが私の事
さくらって呼んでくれたんだ。
私はね、あの時にやっと本当の意味で
ハルに近付く事が出来たんだって、
そう思えたんだ…』
その日は6月の終わり頃だった。
これから夏本番を迎える初夏、
あと半月もすれば待ちに待った夏休み、
晴れわたる空に浮かぶ雲がとても近く感じる太陽の光が眩しいそんな日だった。
その頃になると人見知りだった俺も彼女の影響もあって、そのクラスの連中とも何とか慣れ始めて来たと自分でもそう思えていた。
初めはすぐ終わるだろうと思っていた彼女との関係も気付けばもう3ヵ月、すぐ終わるどころか不思議と彼女と過ごす時間が楽しく思える自分がそこに居た。
その日の授業中、先生の質問に間違えた俺が恥ずかしい思いで自分の席に戻った時だった。
隣の席に座っていた彼女が先生に見えない様に4つ折にしたメモを俺の机の右隅に置いた。
その時机の下でそのメモを開きその内容を読んだ俺は思わず彼女に声を上げてしまった。
「あのな!」
その声に気付いた先生が俺に注意をする。
「コラ!花見!またお前か!」
それを見ていた彼女は隣でケラケラ笑っていた。
そのメモには、
「ハルのバカ!」
と書いて有った。
いつもこんな感じだ。
彼女からの小さな手紙にはいつも俺が予想し得ない事が書いてあった。
俺は不覚にもその度に驚いて声を出してしまう。
しかも、その全てが何故か授業中だ。
だが、その事すら楽しく感じられたのは彼女からの手紙だからなのだろう。
その日の放課後も俺たちはいつもと変わりなく同じ時間にサク爺の待つあの場所で待ち合わせた。
その日は先に彼女がサク爺の前で座って待っていた。
俺はふたりに手を振りながら
近寄って行った。
「お待たせサク爺!今日は暑いね。
ごめん、待った?」
俺が彼女の隣に座ると彼女はケラケラと
笑い出した。
俺はその姿を見てあのメモの事を思い出した。
「あのな!あのタイミングで
バカはないだろう」
彼女は俺が少し怒りながらそう言った後もずっと笑っていた。
「だって、バカなんだもん」
「バカ、バカって…ひっでえな…」
俺がそう言い終わる前に彼女は俺の肩を
「トントン」と叩き「ねぇねぇ知ってた?」
と言いながらサク爺の幹の辺りを指差した。
草に隠れてそれまで気付かなかったが、その草を搔き分けると幹の根元に小さい空洞が見えた。
「へぇー。こんな所に空洞が有ったんだ」
「へっへっへー。見つけちゃいました」
彼女はそういい終わると急に真顔になり、暫く黙り込むと深刻な表情で俺に話し始めた。
「あのね、ハルに言わなきゃいけない事が有るんだ」
そう言った彼女を見て俺は一瞬「ドキッ」とした。
何故か俺の頭の中に「別れ」の文字が浮かぶ。
その後彼女は少し泣きそうな顔で話を続けた。
「ハルにすごく話し辛い事だから、この幹の中に書いたの。
ちょっと、読んでもらっていいかな」
そう言った後、彼女は俯いてしまった。
その彼女の姿を見て俺は途惑ったが、恐る恐るでは有るがそれでも意を決してその幹の中を覗き込み、その文字を見つけた。
それは書いたのではなくおそらく彫刻刀で彫ったのであろう。
その文字はこう刻まれていた。
「ハルのバカ!」
俺が慌てて振り返ると隣に居た筈の彼女は遠くでまたケラケラ笑っていた。
俺は彼女を追いかけた。
「あのな、さくらー!」
「キャー!誰か助けてー!」
彼女は両手を上げながら走っていた。
彼女との日々が続く安堵感からか、俺も笑いながら走っていた。
「あんな事したら
サク爺が痛いじゃねえかー!」
「へっへっへー」
「へっへっへーじゃねえ、このあまー!」
俺はわざと追い着かない様に彼女を追いかけていた。
「あまじゃないもーん、さくらだもーん」
「お前は警視庁かー!」
俺は時折走りながら振り向いく彼女の笑顔がたまらなく愛しくて、いつまでも追いかけていたいと願っていた。
この時、俺はどさくさに紛れてでは有ったが彼女の事を初めてさくらと名前で呼べた。
それまでずっと名前で呼ぶ勇気を持てずにいた俺の背中をサク爺が押してくれたんだと思う。
彼女を追いかけながら「サク爺が居れば、さくらと過ごす楽しい日々がいつまでも続く」そう思っていたんだ。
第4章、FLUKE の花火
『その年の夏休みだったよね
花火を見に行ったの。
あの時の花火、すごく綺麗だったなぁ。
その時描いた絵、いつでも見れるように私の部屋の机の上に飾ってあるんだ。
その時初めてハルにFLUKEの事
話したんだよね。
あの時サク爺の所に着くまであまり話さなかったのは心の中でFLUKEってずっと唱えていたからなんだ。
場所取りの事じゃないよ。
この時間が永遠に続きます様にって、
そう願ってたんだ…』
その日は夏休みに入って間もない7月の下旬、毎年恒例の花火大会の日だった。
海岸から打ち上げられる花火を見るために浜辺に向かう大勢の人が列をなして歩いていた。
普段はあまり人気の無いこの辺りもこの日だけは大勢の人で賑わう。
俺とさくらもこの花火をふたりで見る約束をしたが、俺たちは大勢の人が集まる浜辺には敢えて行かずにいつもと同じ様にサク爺と一緒に花火を見る事にしていた。
俺たちはサク爺の前に並んで座り、幹に凭れながらまだ花火が打ち上げられない海の方向を見ていた。
暫くするとさくらはスケッチブックを開き何かを描き始めた。
俺はそこに着く迄の間何故か無口だった
さくらの事が気になり何となく声を掛けた。
「何描くの?」
「花火!」
彼女は即答した。
「えっ?まだ上がってないよ」
「いいの、花火は後で描くから」
そう言って彼女は真剣な表情で花火が上がる前の風景を描き始めた。
長い沈黙の後、耐え切れなくなった俺は恐る恐る彼女に話しかけた。
「花火だったら写真のほうがいいんじゃない?」
「ハルは分かってないな、写真だとその時の繊細なものが残らないでしょ」
「そうかなぁ、写真のほうが繊細だと思うけど」
「そうじゃなくて、私が言ってるのは感情って言うか…、その時の、忘れてはいけない大切な想いとか」
「想い?」
「ほら、だってよく言うじゃん、忘れたく無いなら書け!って」
「あっ、それって、テストの暗記と同じだ」
「…バカ」
「…」
この後、俺はしばらく黙っていたが、その絵を描き続ける彼女との沈黙を嫌って話しかけた。
「サク爺の前、空いててラッキーだったね」
俺がそう言うと彼女は「当然だ」と言わんばかりの態度で話しかけてきた。
「そお?私は必ずここが空いてると思ってたけど」
「えっ?何で?」
驚いてそう言った俺に対して、彼女は絵を描きながらその理由を話し始めた。
「ねえハル、人にはね皆それぞれ決まった数の幸運が訪れるんだよ」
「え?幸運?、訪れるってそんなの見えないから分かんないじゃん」
「そう、そこが問題なの!」
彼女はいきなり俺の顔を見るなり右手に持ったペンで俺を何度も指差す様に話し始めた。
「普通の人は幸運が自分の所に来たなんて解らないからその幸運がバイバイって、
手を振って目の前を通り過ぎちゃうの」
「バイバイ?やっぱ気付かないじゃん」
俺がそう言うと彼女はキョロキョロ周りを窺いながら小声で話し始めた。
「誰にも言っちゃダメだよ」
「う、うん!」
俺はそう言って息を飲み込んだ。
「自分の心の中でね、
FLUKE って何度も唱えるの!」
「フレーク?何それ?」
「バカ、それじゃあシリアルじゃん、
フルーク、フルークよ!」
「…」
暫く続いた沈黙を嫌った彼女が静かに話し始めた。
「英語でね、幸運って意味なんだ、私はいつも心の中でずっとFLUKEって唱えてるから、サク爺の前が空いてるって信じてたもん」
「ずっと?」
「うん!」
「FLUKEって?」
「そぉ!サク爺の前が空いてるのも、
こうしてハルと花火が見れるのも、今日が晴れてるのも、みんなそのFLUKEのおかげ!」
「へぇー、そうなんだぁ…」
そんな話をしていた時だった。
一筋の光の線を描いた花火が空高く舞い上がりって、その花を咲かせた。
「うわー!綺麗…」
彼女は笑顔でそう呟いた。
この時、俺はその花火を見ながら何故か初めてさくらの笑顔を見たあの時の事を思い出していた。
「本当に、綺麗だよなぁ…」
そう言って暫く花火に見蕩れていた俺はふと彼女が開いていたスケッチブックの絵に目を止めた。
そこに描かれていたのは何故かサク爺を真ん中にして3人が横に並んで海を見ている風景が背後から見た構図で描かれていた。
この時、俺はそのFLUKE の言葉の意味を初めて彼女から教えてもらった。
それまで迷信とかそう言った類の物をまるで信じていなかった俺は初めてその事を信じる様になった。
彼女の言っていた「忘れてはいけない大切な想い」その意味にも気付かずに俺はただ「来年もさくらと花火が見れます様に」と願いながら心の中で何度も何度も
「FLUKE」
と唱えていたんだ。
第5章、七夕のウォーリー
『ハルと初めて行った七夕祭り、
楽しかったなあ。
あの時ハルには言ってなかったけど、
あの前の日、私は病院に行ってたんだ。
その時病院の先生にもしかしたら入院する事にかも知れないって言わて。
もしそうなったらハルとサク爺に会えなくなっちゃうでょ。
だからあの時、どうしてもサク爺に似た木が欲しかったんだ…』
その日は七月七日、七夕の日だった。
あの入学式から一年と四ヶ月、
俺たちは高校二年生になっていた。
この頃になるとクラスの連中は妙に色気づいて、やれ誰と誰が付き合だしたとか、誰と誰がキスをしただとか、休憩時間になるとそんな話題で盛り上がっていた。
当の俺とさくらの関係はと言うと、あの時のまま特に進展も後退もなく、友達以上恋人未満と言った微妙な関係が続いていたが、学年がひとつ上がると同時に隣の教室ではあるが、俺と彼女は別のクラスになっていた。
その七夕の日、俺とさくらはふたりで平塚の七夕祭りに行く約束をしていた。
平塚の七夕祭りは全国的にも有名な祭りで、
駅前から数百メートルも続く長いアーケードの両脇に様々な形をした飾りが並ぶ規模の大きな祭りだった。
その日待ち合わせ場所に決めていた駅前のハンバーガー屋の前に約束時間の10分前に着いていた俺はさくらが来るのを待っていた。
周りを見渡すと数組のカップルが話をしているのが見えたが、そこには彼女の姿はなかった。
俺はそれから15分、約束の時間が過ぎても一向に現れる気配のない彼女を「この場所で間違いないよな」と不安を抱きながら待っていた。
その時だった。
「待ち合わせですか?」と背後から声を掛けられ振り返るとそこには一人の女性が立っていた。
「え?、はい、そうですが」と言いいながらその女性をよく見た時、そこで初めてその女性がさくらである事に気付いた。
俺は驚きのあまりしばらく何も言えなった。
何故なら浴衣を着たさくらが突然目の前に現れたからだ。
言葉が出てこない俺を見て彼女は少し怒りながら話し始めた。
「何で気付かないかなぁ」
「え?何時から居たの?」
「約束の時間だよ」
「え?全然分からなかったよ」
「ハルが私のこと見付けてくれないから、
何人の獣に声を掛けられたか」
「獣?」
彼女は驚いている俺の事など気にも止めず急に笑顔になり、それまで何も無かったかの様にその場で両手を広げぐるっと一回転して俺に自らの浴衣姿を見せつけた。
「どぉ?カワイイでしょ!」
俺はしばらく彼女に見蕩れていた。
彼女は少し長めの髪を後ろにまとめ、
その髪に色鮮やかな髪飾りを着け、
薄くではあるが少し化粧をしていた。
その時俺は彼女の事を「かわいい」ではなく初めて「綺麗」だと思った。
そんな俺の事などお構いなしに彼女は自ら考えたその段取り通りに次の行動に移った。
「何ボーっとしてるの!
ハル、早く行くよ!」
そう言って歩き始めた彼女の隣で俺はまだ側に居るさくらが別人の様に思えて何か不思議な感じがしていた。
「うわぁー、すごいね!」
そう言ってアーケード両脇の飾りを見ながら歩く彼女の横でまだ彼女の美しさに動揺していた俺は、その事を彼女に悟られまいと胸ポケットの中からサングラスを取り出しそれを掛けた。
彼女は俺のその姿を見て俺にこう尋ねた。
「夜なのにサングラス?」
「え?う、うん、まぁ」
「怪しくない?変なの」
そう言って俺を不審者扱いにした彼女は「喉が渇いたから先に飲み物探そう」と俺に言いながら歩き始めた。
両脇に並んだ出店の前をしばらく歩いた彼女はあるテントの前で足を止めた。
そのテントは前には大きい浴槽が置いてあり、その中で氷とともに入れられた水に浮かんだ缶ビールとジュース類が泳ぐのが見えた。
その奥で中年の店主が銜えタバコでパイプ椅子に座りながら横を向き、スポーツ新聞を広げて読んでいた。
その店主に彼女はわざと「だみ声」で話し掛けた。
「おっつぁん、ビールふたつ!」
「あいよ!」
そう言ってその浴槽の中に自らの手を突っ込んで缶ビールをふたつ手にしたその「おっつぁん」は、その声の主がさくらだと分かったと同時に口に銜えるいたタバコをその浴槽の中に落とした後でこう言った。
「君たち、子供だよね?」
その「おっつぁん」がそう言ったのと同じタイミングだった。
「ハル、逃げるよ!」
彼女はそう言って人込みの中を走り出した。
華奢で背の低い浴衣姿である筈の彼女が何故か物凄いスピードで人込みの中をすいすい抜けて行く。
訳の分からない俺はとにかくその彼女を見失わない様に必死で追いかけた。
俺がやっとの思いで追いついた時、彼女は丁度アーケードの境目辺りで俺の事を待っていた。
俺が彼女のところへ辿り着くと彼女はケラケラ笑いながら話し始めた。
「あー、面白かった、
一度やってみたかったんだよね、あれ」
「さくら、あのな…」
息が上がってそう言うのが精一杯だった俺の事など気にも止めずに、すぐさま彼女は次の行動に移った。
「遅いぞハル、もう行くよ」
「えー、マジで」
それからしばらくアーケードを少し進むと、彼女は一軒の花屋の前でその足を止めた。
大勢の人が囲んだその奥の方からまるでバナナの叩き売りの様な威勢のいい声が聞こえてきた。
「安いよ、安いよ」
「えーい!持ってけドロボウ!」
その日の彼女の目的はこの店に来る事だったのだとこの時になって気付いた。
その人込みを掻き分け奥へ進むと店の前に鉢に植えられた様々な植木が、その店の前を囲う様にぐるっと半円状に並べられていた。
普段であれば五千円以上はするであろうその木が、その日に限り全て千円で売られていた。
彼女はその並べられた木の前にしゃがみ込むと、まるでカニの様に右に左に移動しながらその木を眺めていた。
俺はその彼女の後ろに着き、まるでその動きに連動するかの様な体制を取っていると、その動きが余程滑稽に見えたのかその店主がいきなり笑いながら俺たちに指を指し話し掛けてきた。
「後ろでピッタリくっ付いてるの、彼氏?
動きが一緒でなんか黒子みてえだな!」
その店主の話を聞いていた周りの群衆が俺とさくらを見て「ドッ」と笑い出した。
恥ずかしくなった俺がその半円状の群集の外へ退くと、今度は通行の人の波に飲まれその外側から右へ左へ流され始めた。
その光景をみて笑っていたその店主が、
何を思ったか俺を指差し大声でこう叫んだ。
「あっ!ウォーリーが居る!」
その声を聞いたその周りに目が一斉に俺に集まり、短い静寂の後その群集が再び「ドッ」と笑い出した。
無理も無い、俺はボーダーのTシャツにサングラスの出で立ちだったのだから。
そして、その笑いに気をよくしたその店主が今度はさくらに向かって笑いの連打を打ち始めた。
「お宅のウォーリー、探すの大変だねえ」
その笑いの群集の外で相変わらず俺は右へ左へ流され続けた。
そのうちその群集の中から「ウォーリーどこ?」とか「あっ、ウォーリーあそこだ!」と揶揄する声が出始めた。
その俺の姿を見てさくらは周りの人と一緒に楽しそうにケラケラ笑っていた。
しばらくその「人体版ウォーリーを探せゲーム」が繰り広げられた後、ようやくさくらが買う木を選んだらしく俺の事を大声で呼んだ。
、
「決まったよー、ウォーリー!」
その時、その群集の笑いは最高潮を迎えた。
俺はあまりの恥しさに不貞腐れながら何とか彼女の横まで辿り着くと、彼女に小声で「何でさくらがそう呼ぶんだよ」と言ったが、彼女からは逆に「そんな怪しい格好してるからじゃん」と突っ込まれた。
その後彼女は会計を済ませその木が入った袋を俺に持たせると自らの右手を空に掲げながらこう叫んだ。
「ウォーリー、いくよー!」
その彼女の声を聞いた群集が再び騒ぎ出し、様々な人達が俺とさくらに声を掛けてきた。
「またなウォーリー!」
「次はどこに隠れるんだ?」
「絶対見付けるからな!」
「ウォーリーさよならー!」
そして、最後は店主のその一言で締め括られた。
「綺麗な彼女、
大切にしろよウォーリーくん!」
すると誰からとも無く拍手が鳴り出し、俺たちの前が開けて人の道ができた。
俺とさくらはまるで花道を進む役者の様に、拍手喝采のなかその道を進んだ。
隣のさくらは何故か周りの人に右手を上げ「ありがとう」と連呼しながら進んでいた。
その花道を進み終えた後、
笑顔のさくらが俺にこう言った。
「人気者だね、ウォーリーくん!」
「あのな!」
俺がたとえ怒っていても、笑っているさくらを見れば何も言えなくなる。
問題はその後の出来事だった。
七夕の飾りを一通り見終えた後、俺の右手にぶら下げていた彼女が買った木の袋に何かが強くぶつかった。
気付くとそれは小学生が乗った車椅子の車輪だった。
俺はすぐさま袋の中身を確認した後、その車椅子の子供に向かって強い口調で怒鳴ってしまった。
「気をつけろよ!危ねえじゃねえか!」
何も考えずに言ったその一言が、その子供はもとより彼女までをも傷つけてしまった事を
俺はその後しばらく経ってから気付いた。
俺がその車椅子の子供に文句を言った時、
すぐさま彼女が止めに入った。
「ハルやめて!」
彼女はそう叫ぶと、その車椅子の子供に近寄りその子供の目線と同じ高さまでしゃがみこむとその子に優しく話し掛けた。
「ごめんね、びっくりさせちゃって、
大丈夫?怪我は無い?」
彼女のその行動が何故か気に入らなかった俺は、何も言わずただその場に不貞腐れながら立っていた。
その後、大事が無い事が分かりその車椅子の子供を見送った彼女が俺を睨んでこう怒鳴った。
「あんな小さな子に何で酷い事言うの?」
「だって、あっちがぶつかって来たんじゃん」
俺は不貞腐れながら彼女にそう言い返した。
すると彼女は強い口調でそんな俺に反論をした。
「ねえハル、相手は子供なんだよ」
「そんなの分かってるよ、大体こんな人込みの中あんなスピードで通る事自体間違ってんじゃん」
「車椅子の子供なんだよ」
「だから?、あんな乗り方するぐらいだからどうせ大した病気じゃねえんだろ」
「大した事無い病気なんか…ないじゃん…」
彼女は怒りながらも少し涙目になって弱々しくそう言った。
「何ムキになってんだよ」
俺がそう言うと彼女は俺の事をキッと睨みつけた。
「ハルはあの子が私だったとしても同じ事言うんだ」
「は?何言ってんの?訳わかんねえ」
俺がそう言った後だった。
「ハルがそんな人だと思わなかった」
彼女はそう言って走り出した。
何故か納得のいかない俺は彼女をの事を追わずしばらくその場に止まった。
だが、少し落ち着き彼女が心配になって来た俺は彼女を探し始めた。
駅から来た道を逆に進み彼女と寄った場所の何処にも彼女の姿が無かった。
最初に待ち合わせた駅前のハンバーガー屋の前にも彼女が居ない事が分かると俺はその場であの車椅子の子供とぶつかった時の事を思い出していた。
あの時俺は確かに周りの人に揶揄われたせいで少し機嫌が悪かった。
だが、普段の俺だったらあの時にどうしてただろう?。
ぶつかったのは確かにさくらが買った大切な木だ。
だが、相手は子供、しかも車椅子だ。
もし相手がさくらだったとしたら、いやさくらじゃなかったとしてもあんな事は言わない。
どう考えてもさくらの取った行動が正しかった。
不安になった俺は心の中で
「FLUKE」と連呼した。
俺はやがて頭の中にふと浮かんだその場所に向かって俺は走り出した。
俺がその場所に着いた時、さくらはしゃがんで俯いていた。
サク爺の前だった。
俺は彼女の横にそっと近づき静かに話し掛けた。
「ごめんな、さくら…」
俺がそう言っても彼女は黙ったままだった。
「さくらが正しいよ…」
彼女は無言のまま俯いていた。
「俺、何であんな事言ったんだろう…」
俺がそう言った時、彼女は俯いたまま首を横に振りか細い声で言った。
「そうじゃないの…」
「え?」
俺が聞き返すと彼女は寂しそうに何かを言ったが声が小さくて聞き取れなかった。
俺はその時、彼女のその言葉をうまく聞き取れないままただ黙って彼女の隣にしゃがんでいた。
それからどれくらい時間が経ったのだろう。
少し落ち着いてきた彼女はその手に持っていた袋の中から二枚の紙を取り出した。
その紙は短冊だった。
まだ涙目の彼女は俺の顔を見た後、
その短冊を見詰めながら話し始めた。
「ふたりで書いて飾ろうと思ったのに…」
彼女に対して罪悪感を感じた俺の目からはいつのまにか涙が溢れていた。
「ごめんな…」
そして彼女は俺の頭を優しく撫でならがら
つられて再び泣き出した。
「何でハルが泣くの」
暫くふたりで泣いた後、先に落ち着いた彼女が静かに話し始めた。
「ごめんね、ハル」
「さくらは謝らなくていいよ、俺が悪いんだから」
まだ涙目の彼女がそのぎこちない笑顔で話し出した。
「この短冊、どうしよう、
戻る時間無いよね」
しばらく無言で考えていた時、
俺は突然閃いた。
「サク爺に飾ろうか?」
俺の顔を見たまだ涙目の彼女が笑顔で言った。
「あっ!ハル冴えてるねえ」
その後俺たちはその短冊をサク爺の枝に飾り付けた。
少し恥ずかしかったが俺は正直にその短冊に願いを綴った。
「さくらの笑顔がずっと見られますように」
さくらの短冊の表には「ハルのバカ!」と書いてあったが、その裏に書かれた内容は彼女いわく読んではいけないらしい。
その帰り道、歩きながら話していた俺たちはその日にさくらが買った木の名前を決める事にした。
その名前は俺が提案した「サク坊」が採用された。
この時、彼女が一瞬俺に伝えようとして飲み込んでしまった言葉に俺は気が付かなかった。
「おっ!今日は冴えてるねえ」と言って笑っているさくらを見ながら、例えこの先さくらとの間にどんな事が起きようと、サク爺に会いに行けば二人は仲直り出来る、そう思っていたんだ。
第6章、卒業プレゼント
『それから卒業までは
あっという間だったなぁ。
三年生になって、
お互いに進む道が何となく見えてきて。
その頃からだったな、
病院に通う様になったの。
学校も休みがちになって、
ハルとサク爺にあまり会えなくなっちゃったでしょ。
寂しくてくじけそうな私の心を、
ハルとサク爺が救ってくれたんだ。
あの時のふたりの想いを胸に抱きしめて、
その想いを勇気に変えて、
それを支えにがんばろうって、
そう思ったんだ…』
事の発端はこうだった。
それはサク爺のところに居た俺たちの事を見た数名のクラスメイトが言った「あの2人いつもあそこに居るよな」の一言から始まったらしい。
その話が周りに伝わるにつれ、その内容が徐々にエスカレートして行った。
何気ない一言から始まった噂が急に「2人は付き合ってる」に変わり、次には「2人がキスをしていた」になり、その後「2人はエッチをした」になった後、「子供が出来た」と騒ぎ出し、最後はとうとう「卒業と同時に結婚をする」と噂が一気に膨れ上がった。
等の俺たちと言えばもちろんのことキスはおろかまともに手すらも繋いだ事もなく、あの時のまま白線上にある綱引きの赤いしるしの様に白線の上を前後する、そんな微妙な関係が続いていた。
高校3年生になって再び同じクラスになった俺たちがその噂を初めて聞いた時、特にそれ程気にはしなかったが、彼女の通院が始まるにつれエスカレートして行くその内容に戸惑っていた俺に対し、彼女は逆に気にも留めず頷きながら普通に笑っていた。
クラスメイトはそんな俺たちの事をネタにして彼女のことを「花見さくら」と呼び、俺のことは何故か「森野ー春」呼んでいた。
その俺の呼び名に至っては何故か「森野」の「野」がひらがなの「の」になり「ー春」の「ー」が漢数字から長音符の「一」に変換されて呼ばれる様になってしまい、誰かと顔を合わせる度に揶揄されていた。
特にホームルームの時には酷かった。
担当の先生が俺たちの事を指名する時「それじゃあ、森野」と言うと誰からともなく「の~」の掛け声の後クラスの全員で「ハル!」と言い、先生が逆に「それじゃあ、花見」と言うと、何故か同じ様に「の~」の掛け声が始まり「さくら!」とクラスの全員が言っていた。
初め俺はどっちが答えてればいいのか混乱したが、彼女は一度聞いただけでその事に対応し「の~」の掛け声の時には既に立ち上がっていて「さくら」の声に合わせ笑顔でその右手を空に掲げた後、何もなかったかの様に普通にその問に答えていた。
彼女の病名に付いては俺は彼女に聞いてはみたものの、彼女いわく「変な名前の病気」と言うだけで詳しく話さなかったので、俺もそれ以上を聞けなかった事もあってそのままの病名で記憶されていた。
高校3年生になってからはお互いの進路の事や彼女の通院の事もあってふたり揃ってサク爺に会いに行く機会が少なくなっていた。
年が変わり高校卒業の時、お互いの進路も決まりその頃になってやっと彼女が毎日通学する様になった事で再びふたりでサク爺の元へ集える様になっていた。
その日は2月下旬、暖かい春が訪れるにはもう少しだけ時間がかかる、そんなまだ肌寒い日の夕暮時だった。
この季節になると俺たちはお互い使い捨てカイロを持ち寄りサク爺に会いに行っていた。
そのカイロを体の要所に貼った後、寄り添うようにサク爺の幹に凭れながら座った俺たちはすぐ近くまで迫ってきた卒業を少し意識しながら話していた。
「みんなよく飽きないよなあの掛け声、
もういい加減止めてもらいたいよ」
「そうかな、私は結構気に入ってるけど」
「さくら、何かノリノリだもんな」
「うん!何か、あの掛け声聞くと、
燃えてきちゃうんだよね」
「燃える?本当に?」
この頃になると先の不安からか楽しい会話も途切れがちになり、ふたりの話の中に卒業という言葉が増えていった。
「あと少しで卒業だね」
「うん…さくらが行く美大、
横浜だったよね?」
「うん、ハルは地元で働くんだよね?」
「うん、厚木」
この時、俺は改めて卒業を境に彼女とは別の道を歩む事を実感していた。
「卒業したら会えなくなっちゃうね」
「そうだよなぁ…」
そう言いながら俺は彼女に告白するかどうか悩んでいた。
いまいち掴みきれない彼女の本心を考えるとどうしても自分のその想いよりも
「彼女との関係を壊したくない」
と思う気持ちが先に来てしまう。
2年以上もそんな気持ちを持ちながらもその一歩が踏み出せない、そんな自分がそこに居た。
そんな俺の気持ちに気付いているのか分からない彼女がまた静かに話し始めた。
「3年間、楽しかったね…」
「うん、楽しかった…」
そう言った後、お互いに昔の事を思い出しながらも何も話さない、そんなふたりの心地よい時間が流れていた。
「今なら告白出来るかも」そんな周りの雰囲気が俺の背中を押していると感じて「俺、さくらのこと」と言い出すのと同じタイミングだった。
彼女のエンジンのスイッチが「カチッ」と鳴る音を俺は聞いた様な気がした。
それは彼女が「これから始めるよ!」と言う合図の音だ。
「ねえハル、覚えてる?初めて話した日?」
「え?、あ、ああ、あの日ね」
彼女は自分が楽しいと思う事を話す時、徐々にその話のスピードを上げていく。
「あの時ハルの事、マジで変な奴だと思ったんだから」
「ひっでえなぁ、俺だってさくらの事変だと思ったけど」
「ひどーい!でも話してみると何か面白くって」
「俺が?そうかなぁ」
「気付いてないのはハルだけだぞ!
ハルのバカ!」
「バカって言うなよ!」
「あのメモ開いた時のハルの顔、
今でも忘れないよ」
「え?、初日の話じゃないの?」
「遅いぞハル!着いて来て!」
捲くし立てて話すのは彼女の真骨頂だ。
俺は着いて行くのがやっとなのだが、
何故かそれが楽しく思えるから不思議だ。
「七夕も面白かったねぇ」
「もしかして、ウォーリーが?」
「そう、そのウォーリー!あのおじさん、
マジ天才かと思った!」
「あのおやじが?」
「そうだよ!あれだけ笑いが取れる素人なんてなかなか居ないよ!」
「笑われてるの、俺だけど」
「いいじゃん、ハルのボケは天然物なんだから」
「まぐろか!」
「お!、ツッコミもなかなかだねえ」
「もうええわ、どうもありがとうございましたー」
それは戯いない掛け合いだが、
彼女は笑ってる。
俺はただその笑顔をずっと見ていたいだけなのかもしれない。
そんな掛け合いしばらく続けた後、
彼女はさすがに疲れたのか「タイム!」と言いながら、自らの手で「T」の字を作った後、横に置いてあったペットボトルのお茶を一口飲んだ後に「ハルも飲む?」と言ってそれを俺の前に差し出した。
俺は一瞬「ドキッ」としたが、そんなそぶりを見せずそれを一口飲んで彼女に返した。
俺たちは、それからしばらくの間黙っていた。
「付き合ってくれ」その一言が言えずにただ時だけが過ぎて行くなか、やがて彼女は今までとは別人の様に静かに話し始めた。
「こうしてハルとサク爺の前で話せるのも、
あと少しで終わっちゃうんだよね」
言葉が出て来ない俺はただ「こくり」と頷いた。
「私、サク爺の前でハルとこうしている時が一番楽しかったなぁ」
彼女はしみじみとそう呟いた。
「俺だってそうだよ、いつもさくらとサク爺の前に行くの楽しみだった」
「本当に?」
俺はまた、無言で頷いた。
「ねぇハル…」と言ってからしばらく黙りこんだ彼女は、その後戸惑いながらも俺たちの関係の核心に迫った。
「ハルは私のこと、どう思ってるの?」
彼女の声は少し震えていた。
「好きだよ」
俺は正直にそう答えた。
そして彼女はその小さな体から振り絞る様に小さな声で俺に尋ねた。
「それって…友達として?」
その時、胸の鼓動が頂点に達した俺はそれまで何度も言おうと思っていた彼女への想いを意を決して言葉にした。
「さ、さ、さくら、お、俺、さくらの事、だ、大好きだし、これからもずっと、さくらの前で、じゃねぇや、さく、サク爺の前で、サク爺とすっと居たいし、あっ!、さくらと居たいし、20歳位になったらさ、け、け、結婚してもいいかなって、っつーか、け、け、け、結婚してください!!」
その告白の後、俺の頭の中は真っ白になった。
彼女に告白したという実感は確かに有るのだが感情が入り過ぎたせいか自分が彼女に何と言って告白したのかが思い出せずにいた。
しばらくして我に戻り、何と無くだが告白が失敗に終わった様な気がして来た俺は「やっちまった!」と思いながら恐る恐る彼女の表情を窺い見た。
するとその彼女は案の定「ケラケラ」笑っていた。
そんな彼女を見た俺が自分のあまりの不甲斐無さに「終わった」と思った時、彼女はそんな俺にダメ押しとも思える一言を言った。
「今、自分がカッコ悪いって思ってるでしょ!」
図星だった。
「やはり俺の心は彼女に読まれてる」
と思った時、彼女は俺が思い浮かべた
「失恋」とは眞逆の言葉を口にした。
「でもね、私はそんなハルが好きになったの!」
俺は自分の耳を疑った。
いやそんな筈がない、これは妄想だ!
と思った。
「ハルがそう言ってくれるの、
ずっと待ってたんだ」
俺は彼女のその言葉で夢でない事に気付いた。
「そ、そうなの?」
「そうだよ!いつ恋人になろうって言ってくれるのかずっと待ってたんだから、
高一!高一からだよ!」
「そんな前から?」
「そうだよ!」
俺は彼女が、そんな前から俺の事を恋人として認めていたなんて思いもしなかった。
「でもいいの、今、ちゃんと私にプロポーズ
してくれたから!」
俺はこの時になってやっと自分が彼女に何と言ったのか、その話の骨格が朧げに見えて来て「付き合って下さい」と言うつもりがそれを大幅に飛び越えてしまっている事に何と無く気付いた。
「じゃあさ、いつ頃にするか決めようよ!」
「何が?」
俺は無意識にそう言った。
「何が?じゃないよ!結婚!20歳頃って言ったよね!」
「え?俺、そんな事言ったの?」
本当にそう思った。
「あっ!惚ける気だ!自分で言ったんだからちゃんと責任取ってよね!」
俺が何で20歳頃って言ったのだろう?と考えている時、何時の間にかに俺の頭の中に埋め込まれていた「さくらセンサー」が、彼女がもう少しで「怒りモード」に切り換るのを察知して俺にその事を伝えた。
「このままでは大惨事になる!」と危機感を抱いた俺は、それが切り換る寸前でミサイル発射ボタンを押した。
「さくらは何歳で結婚したい?」
その時、爆発寸前だった彼女の表情が笑顔に切り換った。
「抑制ミサイル」と化したその言葉は、
間一髪のタイミングで彼女に命中したらしい。
「えっとね、もう少し先の方がいいかな、美大卒業してからだよね」
「そうか、やっぱり20歳は無理だよな」
そう言いながら俺は内心「ホッ」とした。
どう考えてもあと2年は無理だ、そう俺が考えている時、彼女がある年を指定してきた。
「じゃあさ、あと4年、
ふたりが22歳の時!」
「あと4年かぁ、じゃあ俺は21歳だ」
俺がそう言った時、彼女は不思議に思ったのか首を傾げた。
「え?何で?同じ歳でしょ、一か月しか変わらないじゃん」
「違うよ、俺とさくらの差は11ヶ月、年が違うんだよ」
「え?一年年下?あっ、そうか、
3月生まれだからか…」
彼女がこれ迄11ヶ月の差に気付いていなかった事を俺はその時に知った。
「そっかぁ…11ヶ月かぁ…」
そう言いながら何か考えている彼女を見ながら、俺は次の質問に入った。
「さくらは何処に住みたい?」
「ここ!」
彼女は即答した。
「え?ここ?」
「そぉ!サク爺の前でテント暮らし!」
「そんな、ホームレスじゃぁ無いんだから」
俺がそう言うと彼女は笑いながら「嘘!相変わらずいいツッコミ入れるねぇ」と言った後、静かに話し始めた。
「絶対サク爺の近くがいい、
この辺で家を探してハルと暮らしたい、
だってもしもハルと喧嘩したって、
サク爺に会いに行けば仲直りさせてくれるでしょ」
そう言いながら彼女はサク爺を優しい目で見上げた。
「うん、そうだね」
俺もそう思った。
その時、俺は彼女の話に合わせたのではなく彼女と同じ事を考えていた。
「気が合うね」
そう言って笑っている彼女を見ていると俺は何でも出来る様な気がした。
何故なら俺が小さい頃よく遊んだ「合体ロボット」の様に、個々の力はそこそこかも知れないが笑顔のさくらとサク爺が居れば俺は無敵になれる、そう思えたからだった。
その日の帰り道、俺が「卒業プレゼント買いたいんだけど何がいい?」と尋ねると彼女は「何も買わなくていい」と言った。
少し機嫌の悪い彼女とその理由が分からない俺は、その事とプロポーズの興奮が絡み合い眠れない夜を過ごした。
それから数日後の卒業の日、卒業式を終え先生やクラスメイトと話し終えた俺たちは高校生活最後の待ち合わせをした。
言ってみれば「クラスサク爺」の3人だけの卒業式みたいなものだった。
咲き誇るサク爺のもとふたりで今後の事を話し合う楽しい場である筈が、俺のプロポーズの後から何故か精彩を欠く彼女がそこに居た。
俺が「最近元気ないみたいだけど大丈夫?」と言うと彼女は「そんな事ないよ」と言って笑顔を見せたが、その笑顔にさえ精彩を欠いている様に俺には思えた。
その事が気にはなるが彼女が言いにくい事なのかも知れないと思った俺は、彼女にそれ以上の事は聞けなかった。
しばらくふたりの無言の時間が過ぎるなか、
その事を嫌った彼女がぎこちない笑顔で話し始めた。
「卒業おめでとう、ハル」
「うん、さくらもおめでとう」
「ありがとう…」
途切れがちな会話を何とかしようと思った俺は、今後の事を彼女に話始めた。
「結婚までどうしようか?会う曜日とか決めとく?それとも…」
俺がそう話している時だった。
彼女はその話を遮る様に突然話し始めた。
「4月1日、4月1日にサク爺の前で会うの」
「4月1日?その日だけ?」
「うん、その日だけは必ず会うの」
「いいけど、あとは?」
「んー、後はその時話して決めればいいじゃん」
「そうかぁ…」
そう言いつつも何故か腑に落ちない気もするが、お互い新たな道を進む事を踏まえた彼女が「最初は忙しくてそれどころじゃないかも」と言ったその言葉を復唱する様に自分に言い聞かせながら俺は納得した。
「だって、あと4年もあるんだよ!」
彼女のその言葉で、俺は自らの不安を胸の奥にしまい込む様に言った。
「うん、解った、あとは携帯で話して決めよう」
その後彼女が「少し寒くなって来たね」と言ったので、彼女の体を気遣った俺が「じゃあそろそろ帰ろうか?」と言って立ち上がった時だった。
「ハル待って!」
そう言いながら彼女は立ち上がった。
その時、俺は何故か嫌な予感がした。
それは何故か「さくらの気が変わった」とか「病状の悪化」とか、その類のものだった。
それを裏付ける様に最近の彼女はそれ迄とは明らかに何かが違っていた。
だが、俺のその嫌な予感は外れていた。
「まだハルから卒業プレゼント貰ってない!」
俺は、彼女が言っている事が理解できなかった。
「え?プレゼント?だって何も買わなくていいって、さくらそう言ってたじゃん」
「そうじゃないの!」
彼女は、頭と体を同時に横に振りながらそう言った。
そんな彼女を見ながら何をすればいいのか解らない、そんな俺を見兼ねて耐え切れなくなった彼女がその言葉を口にした。
「キスして!」
「…」
俺は固まった。
永い沈黙を嫌った彼女が、その早口で一方的に話し始めた。
「何度もきっかけ作ってるのに」
「何で気付かないかな」
「本当はプロポーズの時にキスしてくれると思ったのに」
「キスもしないでプロポーズなんて訳わかんないし」
「大体こんな恥ずかしい事何で私から言わなきゃならないの」
「ハルのバ…」
話しながら徐々に顔が紅潮していく彼女の腕を手繰り寄せた俺は、まだ話している彼女を3年分の想いを込めて強く抱き締めた。
そのままの時がどれほど流れただろう。
「痛いよ、ハル…」
彼女のその一言が合図となり俺はその腕の力を緩め彼女の瞳を見詰めると、それ迄その華奢な体に回していた右腕を彼女の頭に乗せて優しく撫でた後、彼女の前髪を上げ、その額に軽くキスをしてその言葉を口にした。
「ごめんな、さくら」
そう言った後、俺は彼女の唇に優しくキスをした。
その時に俺が彼女に言った
「ごめんな」
には様々な想いが込められていた。
それは「気付かなくて」だったり「遅くなって」だったり「怒らせて」だったり。
だが、一番強く込められた想いは言葉こそ違うが、やはり
「ありがとう」
だったんだと思う。
その時だった。
一瞬強い海風が吹き、桜の花弁が空に舞い上がった。
やがてその風は桜の花弁を乗せた微風となり、俺と彼女の周りをぐるっと一周して優しくふたりを包み込んだ。
この時、俺は少しはにかんださくらの笑顔と、その後ろから優しくふたりを見守ってくれるサク爺を見ながら。
「この桜の花びらをのせた優しい風は、サク爺からの卒業プレゼント」
そう思っていたんだ。
第7章、タイムカプセル
『卒業してからの一年間も
あっという間だったなぁ。
それまでハルとずっと
同じレールの上を進んでいて、
卒業を分岐点に別のレールの上を
進む事が心細かったけど
再び合流する4年後の目標が有ったから
がんばる事が出来たんだ。
私はまだ学生だけど
ハルはもう社会人になっていて
私との結婚の事を真剣に考えてくれて
本当に凄いなぁって思えて
その事がとても嬉しかった。
卒業して初めての約束の日
ふたりで映画を観に行ったよね
あの時ハルには内緒にしてたけど
あの映画の内容、知ってたんだ、
その物語が私たちに似ているなって、
そう思えて…』
高校を卒業後、社会人一年目の俺はとにかく忙しかった。
俺は本社を横浜に構える「セントラルフーズ」という社名の会社に就職した。
その会社は関東一円支店を置く、
その業界では中堅所の食品会社だった。
食品会社と言っても食品を作るのではなく、各食品メーカーの商品を仕入れ、それをまとめて会社や学校、病院又は役所の社員食堂等に届ける主に卸を事業内容にした食品会社だった。
その幾つか有る支店の中で俺は地元に有る厚木支店で卒業後の新たなスタートを切った。
その会社に入社してから三ヶ月にも及ぶ永い研修期間を終えた後に実務を任されるのだが、その研修内容に俺は戸惑っていた。
初期研修の仕事の全体的な流れはすぐに覚える事が出来たが、その後に待ち構えていた実務研修はその大半が暗記だった。
簡単なマニュアルを一冊だけ持たされた俺は、実務を行っている主任担当者の横に着き、実務を見ながらその仕事を覚えさせられた。
もともと記憶力が極めて乏しい俺は当然の事ながら記憶する事など出来る筈もなく、言われた事をメモ帳にただ只管書きなぐるしか術がなかった。
それでも何とか二ヶ月間の初期研修を終えた
俺に下った配属先は何故か営業部だった。
そこ後の一ヶ月間、実務研修が同様のかたちで行われたのだがその取り扱う商品の多さ故に俺は混乱した。
どの食堂にはいつも何の商品が納品されているか、から始まるその研修は複雑極まりないものだった。
俺は研修担当者の「まだ覚えてないの?」の連続攻撃にメモを開いては閉じを繰り返していた。
例えば中身がまったく同じ缶詰でもA社指定も有ればB社指定も有り、それを間違えた場合もの凄いクレームになると脅かされながら覚えさせられ、その後先任から引き継ぐ事が決まっていた10数件の得意先をふたりで周った。
その得意先の担当者に会い挨拶をしては次の得意先へを繰り返した後、誰が何処の誰かもまだ頭の中で整理されないまま先任の「もう大丈夫だよな、後はやりながら覚えろ!」の一声でそのエリアの顧客全ての管理を任された。
それでも何とか頑張ってはみたものの、
そのうち徐々にクレームの嵐に巻き込まれ、
その対応に追われる日々が続いた。
出社してから夜遅くまで働き、
自宅に帰った後もその復習をする。
そんな日々のなか当然の事ながら空き時間は夜しか無く、さくらの言う通り恋愛など楽しんでいる時間も余裕も無い日々が続いた。
それでも何とか要所である「七夕」や「花火」だけは彼女と会う事は出来たが、それ以外は電話での遣り取りで「タイミングが合った時に会う」的な感じが続き、気付けば正月を迎え、年が明けると同時に挨拶回りが始まり、それがひと段落したところで漸く少し余裕が持てる様になった。
そんな日々を送るなか「やはり、さくらは未来が見えるのではないか?」などと考えられる時間が持てる様になった頃には気付けば約束の4月1日になっていた。
「あっ」と言う間とは正にこの事かと思える程、本当にあっと言う間だった。
それでも何とか頑張って来れたのも結婚という目標が有ったからだとさくらの存在の大きさを俺は改めて実感していた。
その日は卒業後一年目の4月1日、
約束の日だった。
日曜日だったこの日、俺たちは駅前のハンバーガー屋で待ち合わせをしてサク爺と一緒に花見をする前に映画を観る計画を立てていた。
当初、花見だけの予定であったが2日前に彼女がその予定の中にその映画鑑賞を組み入れる様提案してきた。
先にその待合わせ場所で待っていた俺の背後から彼女が忍び寄り、「待合わせですか?」と言いながらあの七夕の時と同じ様に現れた。
「そのフレーズ、懐かしいね、
七夕だったよね?」
「そうかな?2年半位しか経ってないよ?」
彼女のその言葉を聞いて、この一年で自分が置かれた環境が目まぐるしく変わった事を改めて実感した。
あっと言う間の一年では有ったが何処か懐かしく感られるのはそれだけ内容が充実していたからなのだろうと俺は思った。
その後俺たちは歩きながら駅から少し離れた複合ショッピングモール内に有る映画館へ向かった。
彼女が最初の予定に組み入れたその映画は彼女の友人から勧められたものである事を俺はその時歩きながら彼女から説明を受けた。
しばらくしてその映画館に着くと、そこは四つに仕切られた館内でそれぞれ別の内容の映画が同時に上映されていた。
その通りに並べられた宣伝用ポスターの中から彼女が「これ!」と指差したのは森を背景に若い男女がキスをしている写真の前にその作品のタイトルが描かれたその内容が恋愛ものだと一目で分かるポスターだった。
その時、俺はウンザリしていた。
俺は映画は好きだが観る映画わ決まって洋画のSFものか東映の怪獣ものやアニメだった。
何故ならそれ以外は全てストーリー性に欠け、つまらないと思い込んでいたからだった。
恋愛ものなどその代表の様なもので、それを観る事自体以ての外だと思っていたからだった。
彼女とふたりで館内の椅子に座りこれから始まるであろう2時間にも及ぶ退屈な時間をどう遣り過ごすかなどと考えているうちにその映画が始まった。
そんな俺だったが映画が一度始まるとその物語の内容設定が俺と彼女の関係に少し似ていたせいかその予想を覆す様に俺はその物語の世界へ徐々に吸い込まれて行った。
俺はその物語の主人公で有るかの様に感情移入してしまった。
その物語は、ある大学の入学式で知り合った男女が写真を撮りに入った森の中で偶然見つけた湖の畔に立つ一本の木を舞台にして写真を通して物語が進む構成で作られていた。
その後二人は恋人同士になったがある日彼女が突然彼に何も告げずにひとり旅立ってしまった。
その数年後、彼宛に届いた彼女からの手紙住所をもとにその場所に行った彼は、彼女がすでに病気で亡くなっている事を知った。
その時に残された彼女の遺品の中から彼女がこれ迄撮り溜めた写真を見る事でその時々に彼女が抱いたであろう彼へのその想いを窺い知る、と言った内容だった。
その映画の主人公の彼がその彼女の死を知ったところから隣のさくらが泣き始め、その後のクライマックスシーンではその場所に居合わせたほとんどの人が泣いていた。
やがて、その上映が終わり明りが点いたが俺はすぐには立ち上がることが出来なかった。
隣に座るさくらを見ると彼女は俯いたまま肩を震わせ涙を流していた。
俺はそんな彼女をその係りの人に言われる迄はと思い彼女をそのままそっとしておいた。
それから暫くしてようやく彼女が少し落ち着いたらしく買い物に行こうと言い出したのでその席を立ち上がり館内を後にした。
その後、俺たちはその映画館に隣接するショッピングモールで花見の買い物を済ませてからサク爺が待つその場所へ向かう途中、交差点で信号が変わるのを待っていた時にさくらが何かを思い出したかの様に俺に話しかけてきた。
「あっ、ちょっと寄り道していい?」
「えっ、別にいいけど、どこに行くの?」
「うん、ちょっと買い物」
「あぁ、うん、分かった」
この時、さくらはその交差点を右に曲がり駅へ戻る様に歩き出した。
それから5分ほど歩いたところでさくらがその足を止めた。
そこには全体を茶系の色でまとめられた小さな店があった。
よく見るとその店のドアの上のトタン板に「湘南ブリキ博物館」と書かれた看板が掲げられていた。
「あれ?ココって」
「覚えてる?帰りによく寄った駄菓子屋」
「へー、変わっちゃったんだ」
「うん、この間気付いたんだ、
中入ってみようよ」
「うん」
俺は彼女に促されるままその店のドアを開けて中に入った。
その狭い店内は、古いブリキのオモチャが看板に書いてある 博物館 とは程遠いと思えるほど乱雑に、しかも山積みに置かれていた。
「何か、すっげぇな」
「うん、だけどいっぱい有るよ」
彼女はそう言うとその山積みにされたオモチャを手に取り何かを探し始めた。
「何かいいの有る?」
「うーん…」
俺は自身が興味の無いそのオモチャを無造作に手に取りながら何かを探している彼女を見ていると、しばらくして彼女はいきなり声をあげた。
「有った、コレ」
振り向いた笑顔の彼女がその手にしていた物は花の絵が描かれた10cm角の小さなブリキの箱だった。
「えっ、箱探してたの?」
「うん」
この時、俺は彼女が見せた笑顔に心なしか元気がない様に思えた。
その箱を買った後、俺たちは再びサク爺が待つその場所へ向かって再び歩き出した。
俺は映画を観終わってから何処か元気の無い彼女を見ながらその歩幅に合わせる様に並んで歩いていた。
その時、俺は彼女に幾度と無く話し掛けてはみたものの、彼女は何処か上の空で俺の話に対し「うん」と「そうだね」を繰り返していた。
俺はそれが映画の余韻なのかそれとも他に理由が有るのか、そんな事を考えながらサク爺のもとへの道程をともに歩いていすた。
サク爺が待つ公園に入るとその公園の周りの桜のもとには何組かの花見客は居たがサク爺の周りには誰も居なかった。
疎らな花見客を不思議に思いながら歩いていると前から歩いてきたカップルがすれ違い様に「これから雨が降るなんて信じられないよな」と言いながら晴れ渡る空を見上げながら通り過ぎた。
「これから振るのか…」などと考えながら歩いているうちに俺たちはサク爺のもとに辿り着いた。
「お待たせ、サク爺」
そう言った後、サク爺の幹に凭れながら彼女と並んで座った俺はまだ元気の無い彼女を気遣いさりげなく彼女に話しかけた。
「元気が無いみたいだけど、大丈夫?」
すると彼女はそれ迄何か考え事をしていた彼女が静かに話し始めた。
「ねぇハル、タイムカプセルって作った?」
「えっ、タイムカプセル?未来に行くやつ?」
「違うよ、それはタイムマシンでしょ、小学校の時に作らなかった?」
「あぁ、土の中にうめるやつだ」
「そぅ、作った?」
「うん、作った作った」
「急に思い出して、何か欲しくなっちゃって」
遠い海の方を見ながらそう言った彼女の横顔を見ていた俺は、彼女が買った箱の事を思い出した。
「あっ、さっきのブリキの箱?」
「そう、懐かしくて」
「それで買ったんだ」
「うん、ハルはそのタイムカプセルの中味ってもう見た?」
「うん、たしか小学校の卒業式の前日だったかな」
「そうなんだ…」
「さくらは?見たの?」
「ううん、小学校の卒業式の前に書いたテーマが「10年後の君へ」だったから私が21にならないと見れないの」
「そうなんだ」
「ハルはそれを見た時どう思った?」
「すっげぇ懐かしかったけど、バカだなぁって思ったかな、だってさ俺手紙にドラえもんの絵しか書いてないんだもん」
「やっぱりハルは昔からバカだったんだ」
「バカって言うなよ」
「今自分で言ったんじゃん」
彼女は笑いながらそう言った。
「ねぇハル、もしもだよ、そのタイムカプセルが見つからなかったらその手紙一生受け取れなくなるじゃん。
そしたらずっとその想いが伝わらないんだよね」
そう言って彼女は再び遠い海の方を見つめた。
「さくらは何て書いたか覚えてないの?」
「うん、覚えてない。」
「何処に埋めたの?」
「サク爺の下」
「えっ、この下?」
「うそ、校舎の桜の木の前」
「それならあと三年待てば見れるじゃん」
「うん、あと三年かぁ…」
彼女がしみじみとそう言った後、俺たちは咲き誇るサク爺を見ながら買ってきたランチを広げ、昔話に花を咲かせる頃には彼女はすっかり元気になっていた。
そのうち「ハルのバカ!」の話題になった時、彼女は思い出したかの様に「あの文字、まだ有るかな?」と言ってサク爺の幹に刻まれた文字を覗き込んだ。
彼女は俺に笑いながらその文字を見る様促すので、俺がそれを確認するとそれはあの時のままはっきりと残っていた。
それを見終えた俺に向かって彼女は話始めた。
「ね!変わらないでしょ!」
「本当、全然変わってないや」
「あの時のままだねぇ」
彼女が言い終えた後だった、何かを閃いたのか彼女が俺にひとつの提案を持ち掛けた。
「じゃあさ、これから毎年、約束の日にこの文字が有るかどうか確認しようよ」
「4月1日に?」
そんな戯いない会話がしばらく続いた後、
彼女は突然その日ふたりで観た映画の話題に切り換え、その感想を俺に尋ねた。
「ハルはさっき観た映画、どう思った?」
「え?いい映画だと思うよ」
俺がそう言った時、彼女は言い方を変えて同じ質問をした。
「ううん、そうじゃなくって、もし、
もしもだよ」
その時、俺は彼女が「もしも」
を強調した事が少し気になった。
「あの主人公がハルで、
ヒロインが私だとしたら?」
その時、俺は彼女のその言葉を聞いて、
一瞬「ドキッ」とした。
何故なら、俺は以前から彼女が何も話さないその病気の事が気になっていたからだった。
そして俺は思い切って、
その事を彼女に尋ねた。
「さくら、病気は、どうなの?」
「え?」と言って驚いた彼女は、
少し考えてから話し出した。
「全然大丈夫、だってほら、元気じゃん」
「本当?ならいいけど」
そう言いながらも俺は「何でそんな事聞くんだ?」といった思いが心に残った。
そんな俺を見ていた彼女が、
笑顔でその理由を話し始めた。
「ハル、実はね、私の行ってる大学であの映画をカップルで観に行って彼氏があの映画の主人公だったらどうするかって聞くのが流行ってて、その返事でふたりの相性が解るんだ」
「へー。そんなの流行ってるんだぁ…」
俺はそう言いながら内心「ホッ」としたが、
何故かその相性診断そのものに少し違和感を感じた。
「うん。だからハルがもしもあの主人公だったらどうする?」
「どの場面で?」
「彼に何も言わずに、彼女が旅立ったほうがいいか、残ったほうがいいか」
その時、俺は「少し考えさせて」
と彼女に言ってから暫く考えた。
なぜならとても難しい選択だったからだ。
旅立ってしまえば永遠に会えないが、
やりたい事が出来る。
逆に残ってしまえばずっと一緒には居られるがやりたい事が出来ない。
その人にとってどちらが幸せなんだろう?
そう思った。
そして俺が選んだその答えは、後者だった。
「俺は、残ったほうがいいと思う」
彼女にそう伝えたその俺はその時こう思った。
彼女が残ったとして俺がその病気の事を知る事が出来ればその病気を治す医者を必ず見つけ出す。
その医者がドイツに居ようが、ロシアに居ようが、イギリスに居ようが、必ず彼女をそこへ連れて行って絶対に病気を治す。
ちゃんと病気を治してから旅立てばいい、そう思った。
しばらくして彼女は「正解!」と言った。
それを聞いた俺は胸を撫で下ろした。
「やっぱり、相性ピッタリだね!」
「もちろん、だって最強トリオだもん、な、サク爺!」
二人で見上げた先居るサク爺が、俺には優しく微笑んでいる様に見えていた。
この時、俺はそう言いながらも彼女が話したその相性診断に対する違和感が気になっていた。
彼女が話したタイムカプセルの意味も知らない俺は、見上げた空に遠くから迫り来る薄黒い雲がその不安な気持ちを煽る様にその青い空を飲み込んでいく様を見ながら、それでも「3年後の結婚に向けて無心で頑張るだけだ」、そう自分に言い聞かせていたんだ。
第7章、タイムカプセル
『卒業してからの一年間も
あっという間だったなぁ。
それまでハルとずっと
同じレールの上を進んでいて、
卒業を分岐点に別のレールの上を
進む事が心細かったけど
再び合流する4年後の目標が有ったから
がんばる事が出来たんだ。
私はまだ学生だけど
ハルはもう社会人になっていて
私との結婚の事を真剣に考えてくれて
本当に凄いなぁって思えて
その事がとても嬉しかった。
卒業して初めての約束の日
ふたりで映画を観に行ったよね
あの時ハルには内緒にしてたけど
あの映画の内容、知ってたんだ、
その物語が私たちに似ているなって、
そう思えて…』
高校を卒業後、社会人一年目の俺はとにかく忙しかった。
俺は本社を横浜に構える「セントラルフーズ」という社名の会社に就職した。
その会社は関東一円支店を置く、
その業界では中堅所の食品会社だった。
食品会社と言っても食品を作るのではなく、各食品メーカーの商品を仕入れ、それをまとめて会社や学校、病院又は役所の社員食堂等に届ける主に卸を事業内容にした食品会社だった。
その幾つか有る支店の中で俺は地元に有る厚木支店で卒業後の新たなスタートを切った。
その会社に入社してから三ヶ月にも及ぶ永い研修期間を終えた後に実務を任されるのだが、その研修内容に俺は戸惑っていた。
初期研修の仕事の全体的な流れはすぐに覚える事が出来たが、その後に待ち構えていた実務研修はその大半が暗記だった。
簡単なマニュアルを一冊だけ持たされた俺は、実務を行っている主任担当者の横に着き、実務を見ながらその仕事を覚えさせられた。
もともと記憶力が極めて乏しい俺は当然の事ながら記憶する事など出来る筈もなく、言われた事をメモ帳にただ只管書きなぐるしか術がなかった。
それでも何とか二ヶ月間の初期研修を終えた
俺に下った配属先は何故か営業部だった。
そこ後の一ヶ月間、実務研修が同様のかたちで行われたのだがその取り扱う商品の多さ故に俺は混乱した。
どの食堂にはいつも何の商品が納品されているか、から始まるその研修は複雑極まりないものだった。
俺は研修担当者の「まだ覚えてないの?」の連続攻撃にメモを開いては閉じを繰り返していた。
例えば中身がまったく同じ缶詰でもA社指定も有ればB社指定も有り、それを間違えた場合もの凄いクレームになると脅かされながら覚えさせられ、その後先任から引き継ぐ事が決まっていた10数件の得意先をふたりで周った。
その得意先の担当者に会い挨拶をしては次の得意先へを繰り返した後、誰が何処の誰かもまだ頭の中で整理されないまま先任の「もう大丈夫だよな、後はやりながら覚えろ!」の一声でそのエリアの顧客全ての管理を任された。
それでも何とか頑張ってはみたものの、
そのうち徐々にクレームの嵐に巻き込まれ、
その対応に追われる日々が続いた。
出社してから夜遅くまで働き、
自宅に帰った後もその復習をする。
そんな日々のなか当然の事ながら空き時間は夜しか無く、さくらの言う通り恋愛など楽しんでいる時間も余裕も無い日々が続いた。
それでも何とか要所である「七夕」や「花火」だけは彼女と会う事は出来たが、それ以外は電話での遣り取りで「タイミングが合った時に会う」的な感じが続き、気付けば正月を迎え、年が明けると同時に挨拶回りが始まり、それがひと段落したところで漸く少し余裕が持てる様になった。
そんな日々を送るなか「やはり、さくらは未来が見えるのではないか?」などと考えられる時間が持てる様になった頃には気付けば約束の4月1日になっていた。
「あっ」と言う間とは正にこの事かと思える程、本当にあっと言う間だった。
それでも何とか頑張って来れたのも結婚という目標が有ったからだとさくらの存在の大きさを俺は改めて実感していた。
その日は卒業後一年目の4月1日、
約束の日だった。
日曜日だったこの日、俺たちは駅前のハンバーガー屋で待ち合わせをしてサク爺と一緒に花見をする前に映画を観る計画を立てていた。
当初、花見だけの予定であったが2日前に彼女がその予定の中にその映画鑑賞を組み入れる様提案してきた。
先にその待合わせ場所で待っていた俺の背後から彼女が忍び寄り、「待合わせですか?」と言いながらあの七夕の時と同じ様に現れた。
「そのフレーズ、懐かしいね、
七夕だったよね?」
「そうかな?2年半位しか経ってないよ?」
彼女のその言葉を聞いて、この一年で自分が置かれた環境が目まぐるしく変わった事を改めて実感した。
あっと言う間の一年では有ったが何処か懐かしく感られるのはそれだけ内容が充実していたからなのだろうと俺は思った。
その後俺たちは歩きながら駅から少し離れた複合ショッピングモール内に有る映画館へ向かった。
彼女が最初の予定に組み入れたその映画は彼女の友人から勧められたものである事を俺はその時歩きながら彼女から説明を受けた。
しばらくしてその映画館に着くと、そこは四つに仕切られた館内でそれぞれ別の内容の映画が同時に上映されていた。
その通りに並べられた宣伝用ポスターの中から彼女が「これ!」と指差したのは森を背景に若い男女がキスをしている写真の前にその作品のタイトルが描かれたその内容が恋愛ものだと一目で分かるポスターだった。
その時、俺はウンザリしていた。
俺は映画は好きだが観る映画わ決まって洋画のSFものか東映の怪獣ものやアニメだった。
何故ならそれ以外は全てストーリー性に欠け、つまらないと思い込んでいたからだった。
恋愛ものなどその代表の様なもので、それを観る事自体以ての外だと思っていたからだった。
彼女とふたりで館内の椅子に座りこれから始まるであろう2時間にも及ぶ退屈な時間をどう遣り過ごすかなどと考えているうちにその映画が始まった。
そんな俺だったが映画が一度始まるとその物語の内容設定が俺と彼女の関係に少し似ていたせいかその予想を覆す様に俺はその物語の世界へ徐々に吸い込まれて行った。
俺はその物語の主人公で有るかの様に感情移入してしまった。
その物語は、ある大学の入学式で知り合った男女が写真を撮りに入った森の中で偶然見つけた湖の畔に立つ一本の木を舞台にして写真を通して物語が進む構成で作られていた。
その後二人は恋人同士になったがある日彼女が突然彼に何も告げずにひとり旅立ってしまった。
その数年後、彼宛に届いた彼女からの手紙住所をもとにその場所に行った彼は、彼女がすでに病気で亡くなっている事を知った。
その時に残された彼女の遺品の中から彼女がこれ迄撮り溜めた写真を見る事でその時々に彼女が抱いたであろう彼へのその想いを窺い知る、と言った内容だった。
その映画の主人公の彼がその彼女の死を知ったところから隣のさくらが泣き始め、その後のクライマックスシーンではその場所に居合わせたほとんどの人が泣いていた。
やがて、その上映が終わり明りが点いたが俺はすぐには立ち上がることが出来なかった。
隣に座るさくらを見ると彼女は俯いたまま肩を震わせ涙を流していた。
俺はそんな彼女をその係りの人に言われる迄はと思い彼女をそのままそっとしておいた。
それから暫くしてようやく彼女が少し落ち着いたらしく買い物に行こうと言い出したのでその席を立ち上がり館内を後にした。
その後、俺たちはその映画館に隣接するショッピングモールで花見の買い物を済ませてからサク爺が待つその場所へ向かう途中、交差点で信号が変わるのを待っていた時にさくらが何かを思い出したかの様に俺に話しかけてきた。
「あっ、ちょっと寄り道していい?」
「えっ、別にいいけど、どこに行くの?」
「うん、ちょっと買い物」
「あぁ、うん、分かった」
この時、さくらはその交差点を右に曲がり駅へ戻る様に歩き出した。
それから5分ほど歩いたところでさくらがその足を止めた。
そこには全体を茶系の色でまとめられた小さな店があった。
よく見るとその店のドアの上のトタン板に「湘南ブリキ博物館」と書かれた看板が掲げられていた。
「あれ?ココって」
「覚えてる?帰りによく寄った駄菓子屋」
「へー、変わっちゃったんだ」
「うん、この間気付いたんだ、
中入ってみようよ」
「うん」
俺は彼女に促されるままその店のドアを開けて中に入った。
その狭い店内は、古いブリキのオモチャが看板に書いてある 博物館 とは程遠いと思えるほど乱雑に、しかも山積みに置かれていた。
「何か、すっげぇな」
「うん、だけどいっぱい有るよ」
彼女はそう言うとその山積みにされたオモチャを手に取り何かを探し始めた。
「何かいいの有る?」
「うーん…」
俺は自身が興味の無いそのオモチャを無造作に手に取りながら何かを探している彼女を見ていると、しばらくして彼女はいきなり声をあげた。
「有った、コレ」
振り向いた笑顔の彼女がその手にしていた物は花の絵が描かれた10cm角の小さなブリキの箱だった。
「えっ、箱探してたの?」
「うん」
この時、俺は彼女が見せた笑顔に心なしか元気がない様に思えた。
その箱を買った後、俺たちは再びサク爺が待つその場所へ向かって再び歩き出した。
俺は映画を観終わってから何処か元気の無い彼女を見ながらその歩幅に合わせる様に並んで歩いていた。
その時、俺は彼女に幾度と無く話し掛けてはみたものの、彼女は何処か上の空で俺の話に対し「うん」と「そうだね」を繰り返していた。
俺はそれが映画の余韻なのかそれとも他に理由が有るのか、そんな事を考えながらサク爺のもとへの道程をともに歩いていすた。
サク爺が待つ公園に入るとその公園の周りの桜のもとには何組かの花見客は居たがサク爺の周りには誰も居なかった。
疎らな花見客を不思議に思いながら歩いていると前から歩いてきたカップルがすれ違い様に「これから雨が降るなんて信じられないよな」と言いながら晴れ渡る空を見上げながら通り過ぎた。
「これから振るのか…」などと考えながら歩いているうちに俺たちはサク爺のもとに辿り着いた。
「お待たせ、サク爺」
そう言った後、サク爺の幹に凭れながら彼女と並んで座った俺はまだ元気の無い彼女を気遣いさりげなく彼女に話しかけた。
「元気が無いみたいだけど、大丈夫?」
すると彼女はそれ迄何か考え事をしていた彼女が静かに話し始めた。
「ねぇハル、タイムカプセルって作った?」
「えっ、タイムカプセル?未来に行くやつ?」
「違うよ、それはタイムマシンでしょ、小学校の時に作らなかった?」
「あぁ、土の中にうめるやつだ」
「そぅ、作った?」
「うん、作った作った」
「急に思い出して、何か欲しくなっちゃって」
遠い海の方を見ながらそう言った彼女の横顔を見ていた俺は、彼女が買った箱の事を思い出した。
「あっ、さっきのブリキの箱?」
「そう、懐かしくて」
「それで買ったんだ」
「うん、ハルはそのタイムカプセルの中味ってもう見た?」
「うん、たしか小学校の卒業式の前日だったかな」
「そうなんだ…」
「さくらは?見たの?」
「ううん、小学校の卒業式の前に書いたテーマが「10年後の君へ」だったから私が21にならないと見れないの」
「そうなんだ」
「ハルはそれを見た時どう思った?」
「すっげぇ懐かしかったけど、バカだなぁって思ったかな、だってさ俺手紙にドラえもんの絵しか書いてないんだもん」
「やっぱりハルは昔からバカだったんだ」
「バカって言うなよ」
「今自分で言ったんじゃん」
彼女は笑いながらそう言った。
「ねぇハル、もしもだよ、そのタイムカプセルが見つからなかったらその手紙一生受け取れなくなるじゃん。
そしたらずっとその想いが伝わらないんだよね」
そう言って彼女は再び遠い海の方を見つめた。
「さくらは何て書いたか覚えてないの?」
「うん、覚えてない。」
「何処に埋めたの?」
「サク爺の下」
「えっ、この下?」
「うそ、校舎の桜の木の前」
「それならあと三年待てば見れるじゃん」
「うん、あと三年かぁ…」
彼女がしみじみとそう言った後、俺たちは咲き誇るサク爺を見ながら買ってきたランチを広げ、昔話に花を咲かせる頃には彼女はすっかり元気になっていた。
そのうち「ハルのバカ!」の話題になった時、彼女は思い出したかの様に「あの文字、まだ有るかな?」と言ってサク爺の幹に刻まれた文字を覗き込んだ。
彼女は俺に笑いながらその文字を見る様促すので、俺がそれを確認するとそれはあの時のままはっきりと残っていた。
それを見終えた俺に向かって彼女は話始めた。
「ね!変わらないでしょ!」
「本当、全然変わってないや」
「あの時のままだねぇ」
彼女が言い終えた後だった、何かを閃いたのか彼女が俺にひとつの提案を持ち掛けた。
「じゃあさ、これから毎年、約束の日にこの文字が有るかどうか確認しようよ」
「4月1日に?」
そんな戯いない会話がしばらく続いた後、
彼女は突然その日ふたりで観た映画の話題に切り換え、その感想を俺に尋ねた。
「ハルはさっき観た映画、どう思った?」
「え?いい映画だと思うよ」
俺がそう言った時、彼女は言い方を変えて同じ質問をした。
「ううん、そうじゃなくって、もし、
もしもだよ」
その時、俺は彼女が「もしも」
を強調した事が少し気になった。
「あの主人公がハルで、
ヒロインが私だとしたら?」
その時、俺は彼女のその言葉を聞いて、
一瞬「ドキッ」とした。
何故なら、俺は以前から彼女が何も話さないその病気の事が気になっていたからだった。
そして俺は思い切って、
その事を彼女に尋ねた。
「さくら、病気は、どうなの?」
「え?」と言って驚いた彼女は、
少し考えてから話し出した。
「全然大丈夫、だってほら、元気じゃん」
「本当?ならいいけど」
そう言いながらも俺は「何でそんな事聞くんだ?」といった思いが心に残った。
そんな俺を見ていた彼女が、
笑顔でその理由を話し始めた。
「ハル、実はね、私の行ってる大学であの映画をカップルで観に行って彼氏があの映画の主人公だったらどうするかって聞くのが流行ってて、その返事でふたりの相性が解るんだ」
「へー。そんなの流行ってるんだぁ…」
俺はそう言いながら内心「ホッ」としたが、
何故かその相性診断そのものに少し違和感を感じた。
「うん。だからハルがもしもあの主人公だったらどうする?」
「どの場面で?」
「彼に何も言わずに、彼女が旅立ったほうがいいか、残ったほうがいいか」
その時、俺は「少し考えさせて」
と彼女に言ってから暫く考えた。
なぜならとても難しい選択だったからだ。
旅立ってしまえば永遠に会えないが、
やりたい事が出来る。
逆に残ってしまえばずっと一緒には居られるがやりたい事が出来ない。
その人にとってどちらが幸せなんだろう?
そう思った。
そして俺が選んだその答えは、後者だった。
「俺は、残ったほうがいいと思う」
彼女にそう伝えたその俺はその時こう思った。
彼女が残ったとして俺がその病気の事を知る事が出来ればその病気を治す医者を必ず見つけ出す。
その医者がドイツに居ようが、ロシアに居ようが、イギリスに居ようが、必ず彼女をそこへ連れて行って絶対に病気を治す。
ちゃんと病気を治してから旅立てばいい、そう思った。
しばらくして彼女は「正解!」と言った。
それを聞いた俺は胸を撫で下ろした。
「やっぱり、相性ピッタリだね!」
「もちろん、だって最強トリオだもん、な、サク爺!」
二人で見上げた先居るサク爺が、俺には優しく微笑んでいる様に見えていた。
この時、俺はそう言いながらも彼女が話したその相性診断に対する違和感が気になっていた。
彼女が話したタイムカプセルの意味も知らない俺は、見上げた空に遠くから迫り来る薄黒い雲がその不安な気持ちを煽る様にその青い空を飲み込んでいく様を見ながら、それでも「3年後の結婚に向けて無心で頑張るだけだ」、そう自分に言い聞かせていたんだ。
第8章、フランスへの留学
『そしてクリスマスイブ
ハルが私に指輪をくれた日
あの時間そのものが FLUKE
私たちの周りだけ別世界に思えたんだ。
周りがキラキラ輝いて見えて、
その時私はね
さくらに産まれて来てよかったって
こころからそう思えたの
だから、
私は前に進む事を決めたんだ…』
その日は同じ年の暮れ、
クリスマスイブだった。
俺は仕事を終え学生時代に慣れ親しんだ路線バスに乗って彼女との待ち合わせ場所の平塚駅へ向かっていた。
そのバスの中で鞄の中から5CM角の立方体を取り出しそれを眺めていた。
それは俺がさくらに渡す為に買った指輪だった。
俺はそれを冬のボーナスほぼ全額使い購入していた。
それ迄宝石屋など行った事が無かったが、以前ネットで調べた時に価格、質共に評価の高かったその店の事を知り、この店で指輪を買おうと心に決めていた。
その店は横浜駅西口に有る百貨店の1階に有った。
それ迄宝石屋など入った事が無かった俺は、その店に入る前からかなり緊張をしていたが、その店に入るとそこの店員がそんな俺の事を察してかとても丁寧に対応してくれた。
その店員に指輪のサイズを尋ねられた俺はそれ迄大事に持っていた以前サク爺の前で彼女が草で作った指輪をその店員に「このサイズで」と言って差し出した。
その時、その店員は少し笑ったがその笑顔はとても好感の持てるものだった。
さくらの年齢と特徴を伝えるとその店員は3種類の異なる指輪を俺の前に差し出した。
俺はその中から花の形をモチーフにした指輪を選んだ。
卒業してからと言うもの特にこれといった物を彼女にプレゼントした事のない俺が彼女に贈る心からのプレゼントだった。
さくらには内緒にしていた。
はじめは何処かレストランでも予約してそこで渡そうと思い彼女にその事を提案したが、彼女はサク爺と一緒に居る事を望んだ。
俺が平塚駅で彼女と会い、その無駄に広い道をふたり並んで歩きサク爺の前にふたりで辿り着いた時には20時近くになっていた。
「お待たせ、サク爺」
「ごめんね、サク爺」
俺たちはふたりでサク爺にそう話し掛けながその幹に凭れながら並んで座った。
俺は彼女に会う前に駅の近くでシャンパンとシャンパングラスを3個買っていた。
食事に行かない事もあり彼女に指輪を渡す為のせめてもの演出といったところだった。
俺は彼女が話し出すのを静止してそのシャンパンを袋から取り出し、彼女にそれを見せながら話し始めた。
「じゃーん!シャンパン
買って来ちゃいました。」
「え?シャンパン?高そう、グラスは?」
彼女にそう尋ねられた俺は「あるよ」と言って袋の中からグラスを取り出してそれを自分の前に並べた。
「サク爺のも有るんだ」
俺はそう言った彼女を見ながら「もちろん」と言いながらシャンパンのコルクを空けた。
「ポン!」という音と共にそのボトルの口から黄金色に輝く泡が零れ落ちた。
それを見て「あっ、もったいない」といった彼女にグラスを持たせながらそのシャンパンを注いだ。
俺とサク爺のシャンパンは
彼女が注いでくれた。
「それじゃぁ乾杯しようか」と言った俺を制止した彼女は自らが持ってきた袋の中から箱を取り出した。
彼女がその箱を開けるとその中には小さくて丸いシートケーキが3個入っていた。
彼女はそのショートケーキをひとつ取り出すと紙皿の上に載せ、その皿をサク爺の前に置いてから小さなローソクを3本そのケーキに飾りつけた。
俺は彼女の促す通りそのローソクに火を点けてから自らのグラスを手にした。
俺たちはサク爺の前にケーキと共に並べられたそのグラスにそれぞれのグラスを近付けてからその言葉を口にした。
「メリークリスマス、サク爺!」
そう言ってから俺たちはシャンパンを口にした。
俺は「シャンパンってもっと甘いのかと思った」と言いながら渋い顔をしている彼女に「これで調節して」と笑いながらそのケーキの皿を差し出した。
俺は彼女がそのケーキの皿を置いたのを見計らって。
「さくら、ちょっといいかな」
と言いながら彼女に立つよう促した。
「目を瞑って手を出して」
「え、何?」
彼女はそう言いながら俺の指示に従った。
俺は彼女が出したその小さな手に自分の手を添えると、彼女の手のひらにその立方体を乗せた後に「見ていいよ」と言った。
「え?」
彼女はリボンで十字に飾られたその小さな箱を見ながら俺に尋ねた。
「開けてもいいの?」
俺は何も言わずにコクリと頷いた。
しばらくして箱の中身を見た彼女は何も言わずその箱の中を見詰めていた。
その後、俯いていた彼女の目からポツリと一粒の涙が零れ落ちた。
彼女のその姿を見ていた俺はすぐにでも抱きしめたい気持ちを抑え彼女にこう言った。
「着けてもいい?」
彼女はその涙目でコクリと頷いた。
その時、俺は改めて彼女にプロポーズした。
「俺、さくらの事、幸せにするから」
そう言って彼女のその細い指にその指輪をそっと通した。
すると彼女はその鼻声で、
「よ”ろ”し”く”お”ね”が”い”し”ま”す”」
と言いながら俺に抱き着いて来た。
その時、俺はその何語だか解らない彼女の言葉を解読した。
気持ちが伝われば、どんな言葉でも相手は理解するものだ。
俺がそのまま彼女の頭を優しく撫でていると彼女は何かを思い出したらしく「ハルも目を瞑って」といった後に俺と同様に「手を出して!」と言った。
俺がそれに従うと彼女は何を考えているのか「もうちょっと左」、「あっ、ちょっと右」、「ちょっと下」とまるですいか割りでも始めるのか?と思うほど俺に小刻みな動きを要求して来た。
俺はその時「彼女は絶対何かを企んでる」と思った。
どうせさくらの事だから俺が目を開くとその前に「ハルのバカ!」と書いた大きな紙か何かが有るのだろうと思った。
そして彼女は「少し前に進んで」と言った後、その指示に従っ手少し前に進んだ俺に「ストップ!そのまま動かないでね」と言ってから俺の首に何かを掛けた。
その後彼女の「目を開けて」の声に従いそっと目を開けると目の前10CMほど先に俺を見つめる彼女の笑顔が有った。
彼女は自らの口から発した「ハルのバカ!大好き!」の言葉をすぐさま掻き消すように俺にキスをした。
しばらくして俺は彼女を抱きかかえるとその場でぐるっと一蹴した。
笑顔の彼女と一緒に回る俺の首に掛けられたネックレスを見ながら、俺のさくらに対する二度目のプロポーズはささやかな結婚式のように小さなウエディングケーキと、シャンパンが添えられた牧師役のサク爺によって慎ましく執り行われた。
それから数日後の年が明けた正月、
俺は彼女と鎌倉へ初詣に行った。
その時、彼女からフランスへの留学の話を聞いた。
以前からその話は耳にしていたが、突然2月15日に出発すると聞かされたので驚いてしまった。
期間は一年ほどで、4月1日前に一時帰国するとの事だった。
俺はその時、正直不安な気持ちも有ったがそれでも来年の結婚に向けさくらが戻る来年迄は仕事に集中するだけだと自分に言い聞かせた。
そして迎えた2月14日、彼女がフランスへ飛び立つ前日、その日も俺たちはサク爺の幹に凭れながら並んで座っていた。
俺は不安では有るが不思議と明日から彼女と会えなくなるといった感覚を持てずにいた。
「フランスかぁ、明日、
本当に行っちゃうんだよな、パリだっけ?」
「うん、パリ美術館大学」
「パリかぁ、何かピンと来ないな」
「ごめんねハル、必須科目だからどうしても行かなきゃならなくて、でも今年中には終わるし4月1日迄には一時帰国するから今迄とそんな変わらないって」
「そうかぁ…、あっそうそう、携帯は?使えるの?」
俺がそう尋ねると彼女は思い出したかの様に
「あっ、そうだ」と言ってその案内に挟んで有ったメモを取り出してそれを俺に渡した。
「通話だと高いから
メールで遣り取りしようよ」
そのメモを見るとそこには「・COM」で終わるメールアドレスが書かれていた。
それを見ていた俺を見て彼女はそのメモに補足を加えた。
「それ、大学側から各学生に割り当てられた
個別のメアドなんだって」
「へぇー、そうなんだ…」
大学の事など解らない俺は「きっと凄いところなんだなぁ…」と想像していた。
俺のその姿が彼女には不安気に見えたのか、まるで俺を励ます様な言い方で話しかけて来た。
「もぉ、大丈夫だって、サク爺も居るんだしハルは仕事に集中して!」
俺は「うん、そうだよな」と自らを励ます様に彼女に返事をした。
その日の帰り道、別れ際に彼女は笑顔で俺に話し掛けて来た。
「それじゃぁハル、行ってくるね」
「うん、じゃあ気を付けて行ってらっしゃい」
俺はそう言いながら不思議と次の日から彼女と会えなくなるといった感覚を持てずにいた。
その翌日、彼女はフランスへと飛び立った。
この時、俺は彼女が乗った飛行機を探す様に晴れ渡る青い空を見上げ「俺に翼が有れば」と考えていた。
彼女に会う為ならどこまでもでも飛べると思っていたからだ。
その心の翼の方向はどこに向いていたのだろう。
微笑んでいるサクラはその先に居たはずなのに。
第9章、伝えられた真実
その日は3月15日、俺の誕生日だった。
その日の俺は、朝から顧客からのクレーム対応に追われていた。
俺担当する伊勢原市に有る大学病院の食堂からその当日納入分の食材がまだ届いていないと言った旨のクレームの電話が入り、調べるとその発注分だけ出荷リストから抜け落ちている事が解った。
慌ててその内容を確認し倉庫からその商品を揃えた後、それを会社のバンの荷台に積み込んだ俺は急いでその病院に向かっていた。
その車中で今朝方彼女から届いたメールの事を考えていた。
その後、彼女とはメールの遣り取りが続いていて今朝も彼女から俺の誕生日を祝うメールが届いていた。
だが、問題はその後に続く文面で4月1日までには戻れず一時帰国の目処が付かないばかりか年内に帰国出来るかも解らないといった内容だった。
理由は定かではないがとにかく彼女が帰国するまでは「お互いの事に集中してがんばろう」と締め括られたその文面にそれもそうだと自分に言い聞かせながらも内心「嫌な誕生日だ」と思いながら俺はその病院へ向かっていた。
その病院は県内でも有数な規模を誇る大学病院で広大な敷地の中に様々な分野の病棟が立ち並んでいた。
その日俺が納品に向かっていた所はその病院が運営するレストランだった。
しばらくして俺はその場所に着き、車の荷台からその商品を台車に積み替えその建物の5階に有るレストランの厨房に入った。
「いつもお世話になりますセントラルフーズです、遅くなって申し訳ありません」
その声に気付いたその担当者が俺の顔を見るなり意外な表情で話し掛けて来た。
「あっれぇ、花見さんが持って来たんだ、
いつもの兄ちゃんは?」
その担当者は、俺に配達が稀に遅れるその担当ドライバーの事をそう言って尋ねて来た。
「いや、今日は彼には問題は無くてですね、どうやら当社の受注ミスの様でして、ご迷惑お掛けして申し訳有りません。」
そのドライバーの事を気遣い俺がそう誤ると、その担当者は「そうだったんだ、ま、いいや、こっちこっち」と言いながら右手を振って俺をその場所へ誘導した。
大量にあるその商品を何往復かに分け台車で納品し終えた俺は、その車の横に立ちその棟の周りを見渡した。
俺は改めてその広大さに関心しながらふと彼女の病院の事を思い出していた。
「そう言えば、彼女はフランスで通う病院の目処は付いていたんだろうか?」
彼女にその事を聞かなかった俺は、そんな疑問を抱きながらその場所を後にして会社へ戻った。
そして迎えた3年目の4月1日。
平日だったこの日の午後、俺はサク爺の近く有る老人ホームの担当者の所へ商談に訪れていた。
その日は新商品の売り込みだったのだが、その担当者いわく丁度メニューの切り替えを考えていたらしく運が良い事に売り込みに来た商品と、それとは別の商品も今後数種類発注する方向で話がまとまった。
「これもFLUKEのおかげなのか?さくら」とひとり呟きながらその帰り道、俺はひとりサク爺に会いに行った。
「サク爺来たよ、今年はさくら来れないんだって、ごめんね」
俺はそう言いながらサク爺の幹に凭れながら座ると、その手の持っていた3本の缶コーヒーのうち2本をサク爺の前に置いた。
俺は自分の缶コーヒーのプルトップを開けるとサク爺の前に置いた2本の缶コーヒーにそれぞれ一度づつ自らが持った缶コーヒーを当てた後、
「3年目おめでとう、さくら、サク爺」
そう呟いてからその缶コーヒーを一口飲んだ。
その時、丁度ひとり分空間が出来た俺の右隣に視線を向けながら、それ迄自分が隣に彼女が居る事を当たり前の様に思っていた事に気付いた。
正直それ迄は彼女が隣に居ない事がこれ程寂しいとは思っていなかった。
その時、俺は改めて彼女の存在の大きさを実感し、そのありがた味を痛感していた。
そんな俺はその重い空気を何とかしようと思って彼女と過ごした日々の事を初めから思い出す事にした。
初めて話した入学式の日から今までの事を時に笑い、時に話し掛ける様にひとりその想いを回想していた。
海の方向を見ながら彼女への想いを巡らせているうちに気付けば辺りは日が暮れて暗くなっていた。
ふと時計を見ると時刻は20時を回っていた。
会社に車を戻す事を考え「そろそろ行くか…」と言いながら立ち上がった俺は咲き誇るサク爺を見ながら、
「また来るよサク爺、今度はさくらと一緒に来るから」
と言って帰ろうとした時、なぜかさくらに話し掛けられた様な気がして辺りを見渡した。
「空耳か」と思った俺は、止めてある車に向かって歩き出しながら「さくらの事ばかり考えてるからだ」と思いその場所を後にした。
その数日後、その年の新入社員の研修を俺が担当する事に決まった。
結婚の事も有り仕事に集中していた甲斐有って年間成績の上位に入った俺が社の業績に貢献したといった理由の大抜擢だった。
通常は主任クラスが担当するその研修を高卒採用で、尚且つ二十歳の若さで担当するのは社始まって以来の事だとその時に聞いた。
その事が決まった時、周りの同僚は驚き持て囃されたがその後は逆に揶揄された。
周りの者たちは俺の事をやれ「次期主任候補」とか「期待のホープ」と言っていたが、その後は「期待のピース」とか「期待のわかば」と、人の事をまるでタバコの銘柄の様に呼んでいたが、そんな事は気にも止めず俺はただ彼女との約束通り仕事に集中していた。
それから3ヵ月後の7月、俺の担当した新人が何とか様になり、それ迄俺が担当していたエリアの顧客を全てその新人に任せる事になった。
その新人を見ていると3年前の自分の姿を見ている様で「頑張れよ!」と背中を押したくなった。
その後俺は新たなエリアの顧客への対応に追われた。
そんな事も有ってしばらく彼女とのメールをしていなかった事に気付き、久し振りに彼女にメールを送ったが彼女からの返事は来なかった。
その時不安では有ったが、俺は2年前に彼女の実家へ出向き彼女の両親に交際の了承を得ているので「何か有れば連絡が来る、連絡が無いのは元気な証拠」と思いながら仕事だけに集中していた。
そしてその年の暮れのクリスマスイブ。
俺はその日もいつもと変わりなく仕事に追われていた。
その時、俺は新たなエリアの顧客にも慣れその売り上げを着実に伸ばしていた。
その成績は当初の目標に掲げたその額を裕に越えていた。
当然会社からの評価は高いが、その反面同僚からは妬まれる様になっていた。
俺は依然連絡が途絶えたままの彼女の事を考えない為に、とにかく売り上げを伸ばす事だけに集中していた。
それは周りへの配慮など無視するが如く、俺の成績だけが突出していたから尚更の事だった。
だが、俺はその事への達成感は愚か喜びすら感じていなかった。
何故なら、いくら頑張ったところでその事を共に喜べる相手が居なかったからだった。
それでも俺はその事を続けるしか術がなかった。
俺はただ、その不安な気持ちを掻き消す様に仕事だけに集中していた。
だが、この日だけはそうもいかなかった。
この日も22時頃まで会社に居た俺に対し、その場に居合わせた同様が言った何気ない一言が俺が敢えて気付かない様にしていた辻褄が合わない真実の扉を一瞬だけ開けた。
「あっれぇ、花見、イブなのにまだ仕事してるの?もしかして彼女にふられたか?」
俺の頭の中に彼女との連絡が途絶えた理由、その憶測が渦巻く。
その真実からの意識的な逃避がこの時から遂に始まってしまった。
そして年が明けた2月、彼女が旅立ってからもう一年が過ぎていた。
彼女との連絡も依然途絶えたままの俺は、それでも必ず帰って来ると信じていた。
いや、本当は信じるしか無かったのかも知れない。
俺は朧げに見え隠れする何かから逃れようとしていた。
時折浮かぶ彼女が嘘と言っていた
「その日なら嘘だったんだって、笑う事が出来るでしょ…」
その言葉の意味する事、それが怖くてそれを避けるように、ただ仕事の事だけを考えそれに集中していた。
そんな俺は次第に感情が薄れ、表情が無くなっていった。
そんな俺を皮肉って誰かが俺の事を「期待のポーカー」と言っていた。
朝目覚めたら会社に行き、夜遅くに誰も居ない広い部屋に帰り、休日出勤も自ら志願していた。
そんな毎日を繰り返す事で、血の通わない冷たい機械の様な心になってしまっていた。
その事から逃げ続けていた、そんな俺の心はとうそう捉まり、真実という檻の中へ連れ戻された。
2月末日、その電話は何の前触れも無く突然掛かって来た。
「オイ花見、外線3番、森野さんって、女性から」
俺はその時、しばらく呆然とした後、息を「ゴクリ」と飲み込んでからその電話に出た。
「お待たせしました、花見です…」
「森野さくらの姉の森野かえでと申します」
その電話がさくらの姉の かえで から掛かって来た事でさくらの身に何かが起こった事は確定した。
「もしもし、もしもし」
電話口での彼女のその声を聞いて我に戻った俺は、その姉との会話を続けた。
「あっ、申し訳有りません、花見です、
ご無沙汰しております」
「お忙しい所、突然のお電話で申し訳有りません」
「いえ、大丈夫です、何、でしょうか?」
「実は妹のさくらの事で、
花見さんにお話が有りまして。
お電話では何なので、直接、何処かでお会いしてお話をさせて頂きたいのですが、少しお時間を頂けませんでしょうか?」
「解りました、では、今日は遅くなりそうなので、明日でもよろしいでしょうか?」
「はい、解りました」
さくらの姉とのその電話での遣り取りで、3月1日の日曜日、午後1時に平塚駅の南口二階に有る和風喫茶で会う事になった。
そしてその翌日の3月1日の日曜日、俺は彼女との約束の場所に着いた。
俺が約束10分前にその店内に入った時には既に彼女は席に着いて俺の事を待っていた。
姉のかえではその顔質こそさくらに似ているが、さくらとは5歳年上ということもあり以前彼女の実家で会ったその時の活発な印象とは変わり、落ち着いた大人の女性に見えた。
俺は彼女のテーブルの横迄行き「お待たせしました」と彼女に言った後、その店の店員に「同じものを」と言ってから彼女の正面の席に座った。
すると彼女は「この度は、わざわざ語足労頂きまして」と丁寧に挨拶をして来たので、俺が「ご無沙汰しております、二年振りでしょうか?」と言うと、彼女は「はい」と言ったまましばらく黙っていた。
やがて店員が「お待たせしました」と言い、俺の前に彼女と同じ抹茶を置き、俺がそれを一口飲んだのを見計らって彼女は静かに話し始めた。
「妹のさくらが大変お世話になりまして、
有難う御座います」
「いいえとんでもない、こちらの方こそあまりご挨拶にも伺えなくて申し訳有りません」
その後彼女は「いいえ」と言いながら首を少し横に振るとその本題に入った。
「その、さくらの事なんですが…」
彼女はそう言った後、一度話すのを躊躇ってから再び話し始めた。
「実は…。
大変申し上げ難い話なのですが、
昨年の4月1日の夕方、
妹のさくらが病により亡くなりまして」
「………」
俺は自分の耳を疑った。
その事は、さくらとの連絡が途絶えてから一瞬だけ俺の脳裏を掠めた、最悪の場合の予想だった。
だが、俺は怖いが故にその事を考えない様にしていた。
俺の心が無意識のうちに鍵を掛けてしまった、言わば俺にとっての禁断のシナリオだった。
「…花見さん?大丈夫ですか?」
俺は再び、彼女のその言葉で我に戻った。
「あっ、はい、すみません、話を続けて下さい」
その時、俺は泣くどころか涙すら浮かばなかった。
俺は彼女との連絡が途絶えてから、今迄その悲しすぎる結末を自ら理解しないようにただ、ずっと耐え続けていたのだと思う。
その積み重ねが俺の心の中から感情を奪い去ってしまったのだろう。
俺はさくらの姉、かえでの話すさくらに起こった出来事を無表情で聞いていた。
彼女のその話は、俺の脳に着実じ蓄積されて行くのだが、その事に自らが反応する事が出来なかった。
その時、俺は彼女のその話を自らの頭の中に只管刻み続ける、ただのレコーダーの様だった。
その時、姉のかえでが語った「さくらに起こった真実」とはこの様な内容だった。
さくらは生まれた時、ある病気を持って生まれて来た。
生まれた時は元気で症状も無かったので、彼女の両親もその病気には気付かなかったらしい。
ところが中学三年生になった頃、突然体調を崩し病院で詳しく調べたところ、とても珍しい病気に罹っている事が解った。
その当時、その病気の進行を遅らせる薬は有ったが、その病気そのものを治す薬も治療法も無かったらしい。
最初はその薬の効力も有ってその投与で病気の症状は抑えられていた。
だが、高校二年生頃になりその薬の効力が弱くなってきた。
高校卒業後は、一週間単位の入退院の繰り返しで体調を維持していたらしい。
そしてその日から2年前にその病気に効力が有ると思われると発表された新薬の実用化が決まった。
そして昨年の2月15日、さくらはその新薬の効力検査の為、一週間の検査入院をした後、自宅でその結果を待った。
その後の連絡で、その結果は何とも言えないところだったらしい。
さくらの場合、それだけ病気が進行していると言った理由だった。
ギリギリの選択は結果彼女に委ねられたらしい。
そして彼女は新薬の継続投与を選んだ。
3月1日の入院の時、さくらは姉のかえでにこう言ったそうだ。
「私、絶対に負けないから、行ってきます」
と。
初めは新薬の効果も有り容態も安定したので、本人の強い希望も有ってその後の長期入院に備える為3月16日に3日間の外泊許可をもらい自宅へ戻った。
その後3月20日に病院へ戻り、本格的な治療に入った。
だが、その後の3月25日、急に容体悪化し、3月28日意識が無くなり、4月1日の夕方静かに息を引き取った、との事だった。
姉のかえではあまりにも突然だったので初めは信じられなかったらしい。
そのかえでは彼女が亡くなる瞬間の話も俺に話してくれた。
さくらは息を引き取る寸前、何か夢を見ている様で、よく聞き取れなかったが何かを言ってから一瞬微笑んだと俺に教えてくれた。
その後俺の事を思い出し連絡を入れようと思いさくらの携帯を見たが、何故か中身が全部消去さらていたらしい。
その後高校時代の名簿を見付け、俺の実家へ電話をしたが通じず、その時になって初めて引っ越している事が解ったらしい。
そして数日して彼女が俺宛に期日指定で送った宅配便の封筒が所在不明で彼女の実家に戻って来たそうだ。
それから永い間俺の事を捜していたところ、漸く俺の勤め先が解り俺の会社に電話を入れた、という事だった。
さくらの事を俺に一通り話し終えたさくらの姉かえでは、
「お近くに来た際はいつでも構いませんので、是非お立ち寄りください、さくらも喜ぶと思いますので」
と言った後、さくらが俺宛に送った封筒を俺に渡すと、深々と頭を下げてからその場を去っていった。
俺は「是非お伺いさせて頂きます、有難う御座いました」と言った後、彼女の後姿を見送った。
その後彼女から渡された封筒に目を遣ると、A3サイズの封筒に宅配便の伝票が張られていた。
その伝票には約束の日4月1日必着の指定で、引っ越す前の俺の実家の住所と電話番号がさくらの字で記入されたいた。
神様の悪戯にしては残酷すぎる擦れ違いだと思った。
その後店を出た俺は、無意識のなか自然と足は海の方向へ向いていた。
歩きながらその封筒を開けると中には見覚えの有るスケッチブックと青い封筒に入った手紙が入っていた。
その封筒の中から青い手紙を取り出すと、その表にはさくらの文字で「愛しきハルへ」と書いてあった。
俺はその青い封筒をしばらく眺めてから。
封筒を開け、
中の手紙を取り出し、
ゆっくりと歩きながら、
その手紙を、
読み始めた。
第10章、さくらの想い
『ハル、元気ですか?
私は今、ハルと過ごした素敵な時を思い出しています。
とても大切に、そっと両手に救う様に、
こぼれ落ちない様に少しづつ、
楽しかったたくさんの日々を私の心の中に描きなおしています。
ねえハル、覚えてる?
ハルが居て、サク爺が居て、私が居て、
私はあの時、目に映る全てのものが優しくて、愛おしくて、
キラキラ輝いて見えてたんだ。
サク爺がくれた素敵なプレゼントが、
私たちを優しく包み込んでくれてたよね 。
あの時、胸の奥がとても暖かくて、穏やかで
、私はとても幸せだったんだよ』
手紙の中で踊る見覚えの有る文字は
まるで彼女がその場所に居るかの様に
これ迄の思い出を俺に優しく語りかけながら
俺の冷え切っしまった心を
少しづつ暖めていった。
俺は無意識のうちに
さくらがくれたその手紙に向かって
話しかけていた。
「桜の木に文字を刻んだ奴なんて、
日本でさくらだけだと思うよ」
『それからハルが居るサク爺のところに行くのが楽しみでしょうがなくなっちゃって。
ハルは覚えてるかな?
サク爺にイタズラ書きした日。
ハルと出会って3カ月くらいだったかな、
ふざけながらサク爺の周りで
追いかけっこしたよね。
その時初めてハルが私の事
さくらって呼んでくれたんだ。
私はね、あの時にやっと本当の意味で
ハルに近付く事が出来たんだって、
そう思えたて。
その年の夏休みだったよね
花火を見に行ったの。
あの時の花火、すごく綺麗だったなぁ。
その時描いた絵、いつでも見れるように私の部屋の机の上に飾ってあるんだ。
その時初めてハルにFLUKEの事
話したんだよね。
あの時サク爺の所に着くまであまり話さなかったのは心の中でFLUKEってずっと唱えていたからなんだ。
場所取りの事じゃないよ。
この時間が永遠に続きます様にって、
そう願ってたんだ』
「素直にそう言ってくれれば、
その日に告白したのに」
『それから二年生になって、ハルとは別のクラスになっちゃって、少し寂しくなっちゃって。
そんな時だったかな、
ハルがさそってくれたふたりで初めて行った七夕祭り、楽しかったなあ。
あの時ハルには言ってなかったけど、
あの前の日、私は病院に行ってたんだ。
その時病院の先生にもしかしたら入院する事にかも知れないって言わて。
もしそうなったらハルとサク爺に会えなくなっちゃうでょ、だからあの時、どうしてもサク爺に似た木が欲しかったんだ』
「ウォーリーにはまいったなぁ、
あれから俺、サングラスしてないよ」
『それから卒業までは
あっという間だったなぁ。
三年生になって、
お互いに進む道が何となく見えてきて。
その頃からだったな、
病院に通う様になったの。
学校も休みがちになって、
ハルとサク爺にあまり会えなくなっちゃったでしょ。
寂しくてくじけそうな私の心を、
ハルとサク爺が救ってくれたんだ。
あの時のふたりの想いを胸に抱きしめて、
その想いを勇気に変えて、
それを支えにがんばろうって、
そう思ったんだ』
「前回の告白がグダグダだったから、
ビシッと決めようと思ったのに、
最後は全部サク爺に持って行かれたよな」
『卒業してからの一年間も
あっという間だったなぁ。
それまでハルとずっと
同じレールの上を進んでいて、
卒業を分岐点に別のレールの上を
進む事が心細かったけど
再び合流する4年後の目標が有ったから
がんばる事が出来たんだ。
私はまだ学生だけど
ハルはもう社会人になっていて
私との結婚の事を真剣に考えてくれて
本当に凄いなぁって思えて
その事がとても嬉しかった。
卒業して初めての約束の日
ふたりで映画を観に行ったよね
あの時ハルには内緒にしてたけど
あの映画の内容、知ってたんだ、
その物語が私たちに似ているなって、
そう思えて』
俺はその時、その手紙を読みながら、
本当にさくらと話している気がしていた。
あの時と同じ様に、ふたりで笑いながら並んで歩いている、そんな気がした。
久し振りに彼女に再会した、
そんな感覚さえ有った。
『そしてクリスマスイブ
ハルが私に指輪をくれた日
あの時間そのものが FLUKE
私たちの周りだけ別世界に思えて
まるでおとぎ話の中
周りがキラキラ輝いて見えたんだ。
その時私はね
さくらに産まれてよかったって
こころからそう思えたの
だから、
私は前に進む事を決めたんだ。
だって、私にはハルとサク爺からもらった
たくさんの笑顔とFLUKEがあるから。
この想いがあれば私は大丈夫。
だから、行って来るね、ハル。
いつ戻れるか解らないけど。
サク爺と待っててね。
森野さくら 』
そして、その手紙を読み終えるのとほぼ同時にその場所に辿り着いた俺は、いつもと同じ様に彼に挨拶をした。
「ちょっと早いけど、今年も来たよ、サク爺」
俺は彼に軽く会釈した後、
彼の周りを見渡した。
俺たちを囲う様に芝生の絨毯が遠くまで広がっている。
芝生の先に着いた露が、傾きかけた太陽の日差しに反射してキラキラ輝いて見えた。
海からの潮風に乗った花びらが優しく頬を流れた。
乱れている筈の俺の心は、
不思議と穏やかだった。
しばらくして、俺は呟いた。
「何も変わってねぇや…」
そして俺はサク爺の幹に凭れながら海に向かって座った。
何故か気持ちは穏やかだった。
全ての事から開放された感じさえあった。
不思議と彼女と会えなくなってしまった事への実感を持てずに居た。
何処か「もう二度と会えないが、遠くてまだ生きている」そんな感覚さえ有った。
その時、しばらくこの場所さえ避けていた自分に気付いて
「バカなよなぁ・・・」と呟いた。
本来の自分に戻れる気がした。
右手に持ったままの手紙を青い封筒の中に入れた時だった。
その時、スケッチブックの存在を思い出し、それを封筒から取り出した。
見覚えの有るそれは、時にメガホンに変身する彼女の高校時代のものだった。
ふと彼女と花火を見た時の事を思い出した。
その時少しだけ彼女の絵を横から覗き見した事を思い出した。
懐かしくなった俺はその表紙を捲った。
それはサク爺を中心にした風景画だった。
だが俺があの時彼女の横から覗いた絵とは何と無く違って見えた。
よく見るとその絵の右側にメモ書きの様にその当時の感想が綴られていた。
俺はその絵を見ながらそのメモ書きを読んだ。
その絵はサク爺を中心に置き、そこへ向かう二人の人が描かれていた。
おそらくメガホンを持っているのがさくらなのであろう。
メモ書きには、
「今日花見一春くんと初めて会って話した。
口数は少ないけどたぶん優しい人だと思う。
友達になって、ハルと呼ぶ事にした。
桜の木はサク爺、
みんなが集まる場所になった。
明日からが楽しみ。」
と綴られていた。
「あっ、これは絵日記なのか」とその時になって気付いた。
そして次の絵を開いた。
その絵はサク爺を中心に、その周りをふたりで走っている絵だった。
メモ書きには、
「今日サク爺にイタズラをした、
最初はハルのバカ!ってマジックで書いたけど読めないから彫刻等で彫った。
おかしくて笑ったから時間がかかった。
の字が難しかった。
ハルと追いかけっこした。
とても楽しかった。」
と綴られていた。
俺は最初にマジックで下書きした事は彼女から聞いていなかった。
だが、うまく書けなかったおかげでその文字が残ったのもFLUKEだと思った。
次の絵を見た。
その絵は花火大会の日、俺が彼女の横から覗き見した絵だった。
サク爺を中心にして、その左が俺、右がさくら、おそらく最初の花火だろう。
ひとつの花火が開いた様子が描かれていた。
その時、その絵の構図が全て同じである事に気付いた。
全ての絵がサク爺を中心に置いて海の方向を見る様に描かれている。
メモ書きには、
「今日ハルと花火を見に行った。
とてもキレイだった。
FLUKEの事をハルに教えた。
ずっと一緒に居たいと思った。
来年も3人で見よう。」
と綴られていた。
その時、俺は「綺麗」と言っていた彼女の横顔を思い出していた。
次の絵を見た。
その絵はサク爺を中心に、何故かその前におそらく花屋の店主らしき人が描かれていた。サク爺の前にその店主が居て、サク爺を囲う様にたくさんの人が描かれている、その輪の外に居るサングラスの人が俺なのだろう。
メモ書きには、
「今日七夕祭りに行った。
ハルのウォーリーが面白かった。
みんなで盛り上がった。
ハルとケンカした。
ふたりで泣いた。
サク爺が仲直りさせてくれた。
さすがサク爺、ありがとう。」
と綴られていた。
何かごちゃ混ぜの絵だが、何故かそれがさくららしいと思って微笑した。
次の絵を見た。
その絵はサク爺の横でキスをする俺とさくらの周りを、桜の花弁が囲っている絵だった。
メモ書きには、
「今日ハルとキスをした。
改めてハルが好きになった。
ハルがプロポーズしてくれた。
ハルが何を言っているのか解らなかった。
だけど解った。
サク爺が私たちを祝福してくれた。
サク爺FLUKEをありがとう。」
と綴られていた。
俺はしばらくその絵を見ていた。
その時、俺は胸に込み上げる何かを感じていた。
そして次の絵を見た。
その絵はサクラ色に染まったサク爺の前にひとつのマグカップが置かれ、そのカップに俺とさくらが持つカップを近付けている絵だった。
メモ書きには、
「祝一周年!
今日ハルと映画を見に行ってから
サク爺と一緒に花見をした。
ハルの気持ちを知りたくて自分なりの方程式を作って確かめた。
答えは話さないだった。
だから病気の事はハルに話さない事にした。
とにかく、ハルを見習ってがんばろう」
と綴られていた。
「方程式?」
あの時、彼女が言っていた「相性診断」に感じた自身の違和感の答えが分かった気がした。
あの時彼女は、あの映画のヒロインの様に先の自分の病気に不安を抱えていた。
最悪の場合、死も有り得る状況のなか俺にどうすればいいのか?。
俺がどう望んでいるのか?。
俺にとっての幸せを考えていた。
そう思った。
あの時、俺は残ると行ったが仮に残ったとして彼女の死に直面した場合、当時の俺はその事に耐えられただろうか?。
そう考えた時、今の自分のあり様を思えを考えればその答は分かる。
彼女は気丈にもこの時、彼女自身が取るべきその後の行動を決めようとしていた。
だからその時の俺の言葉の裏側を知りたかった。
そして俺の答を聞いて決断したのであろう。
嘘のフランス留学の話も然りだ。
そう思った。
俺は彼女のその想いを知る事で徐々に高まる自らの感情を抑え込む様に次の絵を見た。
その絵は忘れもしない彼女と過ごした最後のクリスマスの絵だ。
サク爺のとなりで俺が彼女を抱え回っている絵だった。
指輪とネックレスがやたらと大きく書いてある。
メモ書きには、
「今日ハルから指輪をもらった。
とても嬉しかった。
私が一番幸せに思えた日。
私たちの結婚式。
サク爺が牧師になって祝ってくれた。
この想いがあれば大丈夫。
頑張れ!元気出せ、さくら!」
と綴られていた。
気付くと、その絵の上に俺の涙が一粒、
「元気出せ、さくら!」の文字の右側に
「ポツリ」と落ちた。
そして次の絵を見た。
その絵はそれ迄とは構図が違っていた。
中央に大きな窓が描いてあり、窓の外に車と人が描いて有った。
その窓の手前にベッドとそこに座る人の絵が描いてある。
おそらく入院中に描いた絵なのであろう。
メモ書きには、
「今日、偶然仕事で病院に来ている
ハルを見た。
その時、もしかして私のお見舞い?
と思った。
車から荷物を台車に積んで運んでいた。
働いているハルを初めて見た。
カッコいいぞ、ハル!
改めて、惚れ直した。
「ハルがんばれ!」って心の中で叫んだ。
一瞬ハルと目が合って「ドキッ」とした。
「誕生日おめでとう」って小声で言った。
ハルの声がどうしても聞きたくなっちゃっただから、消しちゃった」
と綴られていた。
その時、俺は初めてさくらが入院していた病院が解った。
「俺の誕生日?伊勢原の大学病院のクレームの日だ、あの時?さくらが俺と目が合った?辺りを見回した時だ、あの時、あのどこかの病室にさくらが居たんだ」
俺は溢れ出る涙を抑える様に次の絵を見た。
だが、その絵を見た瞬間、俺の涙は止まらなくなってしまった。
俺はそれ迄、無意識のうちに自らが押さえ込んでいた感情が蘇るのを感じた。
さくらの事が好きで、好きで、たまらなく好きで。
さくらの事ばかり考えていて、さくらがどうしようもなく好きだったあの頃の自分が、
そこに、居た。
俺はその感情の赴くまま、まるで解き放たれた様に泣いた。
声を荒げ、肩を震わせ、子供の様に泣いていた。
俺はその時、自分がずっと泣くのを我慢していた事に気付いた。
泣くと何かを認める事になる、だから、泣きたくても泣けない。
無意識にそう思っていてのだろう。
それは、さくらとふたりで泣いた、
あの七夕の日以来の事だった。
さくらが描いた最後の絵。
その絵は、サク爺の前に俺とさくらが並んで立っている絵だった。
俺はタキシード、さくらはウエディングドレスを着ていた。
何故か手が有るサク爺がその手に本を開いている。
おそらく聖書なのであろう。
俺たちの両隣に子供が居る。
おそらく俺たちの子供なのであろう。
花火が上がっている。
おそらく祝福の花火なのであろう。
みんなとても幸せそうだ。
そして、俺はさくらが書いたそのメッセージを読んだ。
「3月18日、晴れ。
今日、ひとりでサク爺に会いに来た。
もしも、私が元気で、ハルと結婚出来たら、
どんな感じだろう?
そう思って、想像してみた。
やっぱり、優しくて、穏やかで、
暖かい家庭なんだろうなぁ。
男の子と女の子、ふたりの子供が居て、
サク爺の周りを走り回って。
「おかあさんたちもそうやって遊んだんだよ」って、言って、笑って。
そんな想いで描いてみた」
と綴られていた
「ひとりで来てたんだ…」
俺はそう呟いた。
そして、しばらくその絵を見ている時にふと、気付いた。
その時、俺は何故か
「彼女はこの日に俺がこの場所に来る事を知っていたいたのではないか?」
そう思った。
おそらく彼女は二通りの事を考えていたのだろう。
そのひとつは、もちろん自分の病気が治ったとき。
その時は俺に謝ればいい。
問題は残るひとつ、仮に自分が居なくなった場合。
その時に残された者の悲しみや苦しみが最小限になる様に、ゆっくりと時間をかけて、俺がちゃんと彼女が居なくなる苦悩を受け入れる時が来るのを待って、偶然かも知れないがふたりの年の差、11ヶ月目にその封筒が届く様計画し、そして実行した。
楽しい思い出になる事を願って。
彼女はその事を望んだのではないか。
そして、俺を導いてくれた。
そう思えた。
その後、俺はしばらくその場でその事を考えていた。
「彼女が残し、伝えようとした想い」
その事を考えていた。
しばらくして、ふと自分と同じである事に気付いた。
「笑顔を望んだんだ…」
その時、俺はまるでその事を確認するかの様にサク爺を見上げた。
サク爺は俺を見つめながら頷いている様に思えた。
そして俺は、そのスケッチブックを閉じて手紙とともにその封筒の中に入れた。
その後、俺は去年忘れてしまったさくらとの約束を守る事にした。
サク爺の幹の空洞に刻まれた「ハルのバカ!」の文字の確認だった。
そして、その文字を見た時、
「ハルのバカ!」の文字の下に何かが置いてある事に気付いた。
それは映画を観に行った時にさくらが買った
ブリキの箱だった。
その箱を手に取り、蓋を開けた俺の目から
再び涙が溢れ出た。
その箱に入っていたのは桜色の封筒だった。
俺はまるでピントの合わないカメラのレンズの様にぼやけてしまった自分の目を少しずつその文字に合わせて行った。
その手紙には同じ様に見慣れた文字で「愛しきハルへ」と書かれていた。
その時、去年の4月1日、約束の日の夕方、その帰り際に聞こえたさくらの声、その言葉ををはっきり思い出した。
「あの時、さくらはこの場所に来て
俺にこの事を言ったんだ…」
そして、俺はその封筒から手紙を取り出て読んだ。
『ハル、元気ですか?
私ね、未来を想像してみたんだ。
そしたらハルとふたりで歩いて行く絵しか描けなくて、それが私の希望なんだなって、改めてそう思って。
だからすごく頑張ったんだ。
だけど、ハルがこの手紙を読んでいるという事は、私、負けちゃったんだね。
ごめんね、ハル。
私の病気の事、フランスへ行くと嘘をついた事、ハルに会わずに旅立つ事、謝らなきゃいけない事、いっぱいあるね。
だけど、私は私なりにいろいろ考えたんだ。
もしも病気の事、ハルに話したらハルはどんな顔をするんだろうって。
私が病気の事を言ったら、
ハルは優しいから、
きっと「大丈夫、俺が治す」
って言って、
私を勇気をくれるんだろうなって、
そう思ったんだ。
だけど、そんな事言われたら多分、
私はボロボロになっちゃうんだろうなって、そう思ったの。
私はいつもハルからたくさんの
笑顔をもらっているから、
ハルと生きる未来を考えた時、
私には笑っているハルしか想像出来ないし、
それが私の希望なの。
だから、私が悲しむ姿をハルの目に
残したくない。
そう思って。
私はこれからもずっと、
ハルに笑っていてほしい。
だから私は会わない事を選んだの。
わがままで、ごめんね。
ねぇハル。
ハルは私と居て、幸せだったかな?
こんな病気になっちゃったけど、私はね、
さくらに生まれて来て、ハルに出会えて、サク爺出会えて、本当に幸せだった。
私はハルの幸せを願ってるの。
だから笑って、ハル。
たくさんの笑顔を、
プロポーズを、
指輪を、
素敵な時間を、
サク爺との思い出を、
ありがとう。
またいつか、
何処かで。
花見 さくら』
その時、涙でぼやけた
そのブリキの箱の中に
手紙とともに大切に添えられていた
さくらが草で作った結婚指輪が、
俺には何故か微笑んでいるように見えていた。
12.prologue
その日から10年が過ぎた。
あれから俺はその手紙に託された「さくらの思い」を何日も何日も考えた。
俺に彼女の想いが伝わるまでの事は偶然かも知れないが、彼女の強い思いがそうさせたのではないか、彼女にはそれが出来た。
そう思えた。
何故なら彼女が一番望んでいた「FLUKE 」
それは「笑顔」なのだから。
その数年後、俺はある女性と結婚をした。
その女性は物静かで控えめで、さくらとはまるで正反対な性格だが、ただひとつ、さくらと同じ優しい心の持ち主だった。
その女性との間にふたりの子供にも恵まれた。
今年で長女が5歳、長男が3歳になる。
長女が産まれる前、俺は妻にさくらと過ごしたあの時の事を話し、これから生まれてくる子供たちの名前を決めさせてもらえる様願い出た。
心優しい妻は俺のその願いを快く受け入れてくれた。
長女は さくら 、長男は はる と命名した。
四月の日曜日だった。
俺たち家族は公園に来ていた。
俺と妻のまわりをふたりの子供たちが笑いながら走り回っている。
俺はその子供たちの姿をさくらと過ごしたあの時の自分たちに重ね合わせる様にして見ていた。
そして、やがて訪れるであろうこの子たちの初恋が、あの時の俺とさくらのように優しくて穏やかな日々でありますようにと、
何度も、何度も心の中で、
「FRUKE」
と唱えていた。
「ハルのバカ!」
の文字が今も残る、
桜舞う、
サク爺の前で。
完






