第4話 ルシン博士
水中ボートが音もなくおりていき、やがてその海洋学者、ルシン博士の研究所が近づいた。
大きな気球のようなものがいくつもプカプカ、水中に浮いている。それぞれの球体は、フニャフニャしたパイプでつながっていた。
遠くから見ると、全体がゆらゆらとうごめき、ただよっているので、なんだかひとつの生物のようにも見える。
球体は透明で、いくつかには人の姿が見えかくれしていた。いちばん大きな球体に博士はいるはずだった。
ボートが近づいていくと、フニャフニャのパイプのひとつが、ゆるゆるとこちらへ伸びてきた。
その大きな口がパッとチューリップのようにひらき、ボートはするりと、すいこまれた。パイプ内の水流で運ばれ、ストンと着地したときは、もうまわりに海水はなかった。
『ようこそ、チャーリーとケンタ』
ボートからおりると、かべいっぱいに書かれた文字が、ふたりをむかえてくれた。
「やあ、いらっしゃい。漫才のお二人さん」
正面のドアがいきなりあいて、どこかのっぺりとした印象の博士が、女性をともなってあらわれた。
「わたしがルシンです。これは娘のハンナ。助手をしています」
「はじめまして。チャーリーとケンタです」
「あなたたちのことは、ようく知っています。ビデオで漫才を何回も見させていただきました。おや、あなたは」といったなり、博士はケンタの顔をじっと見つめた。
恐竜のケンタは、ひょっとして変身がバレたかと思って身をすくめた。
「いや、失敬。なんでもありません。さあ、こちらへ」
ルシン博士は研究所内をひとわたり案内し、ていねいに解説してくれた。
ケンタは、テレビ局からわたされたビデオカメラを回しながら、熱心に話をきいた。博士の声は、おだやかな口調だったが、どこかピンと張りつめていた。
それぞれの球体のなかでは、海水の分析やプランクトンなど生物の調査がおこなわれ、総合的な判断が博士にゆだねられている。特殊な薬品やX線も利用されているらしい。
「しかし、わたしがもっとも気にかけているのは、目で見える海の変化なのです」
博士はイスにすわって、球形をとりまく海を見た。
そこは博士の大きな研究室で、上半分は透明なガラスになっていた。それぞれの球体から、手さげランプのような灯りが海を照らしている。
魚の群れがビュンととおりすぎたり、ジュゴンがのんきに顔を近づけてきたりする。
「巨大いん石事件があってから、はっきり海が変わりました。組成にも変化が見られます。未知の、まったく分析不能のなにかが海に発生してきています」
ケンタとチャーリーは顔を見あわせた。
「博士、やはり、そうなんですね。海は死にかけているんですね」
「きみたちがいっているように、海は死につつあるのかもしれません。そう考えれば説明がつきます。きみたちが海は死ぬといいだしたとき、正直な話、わたしは、はっとしました。それまでは、どんなふうに考えていいか、まるでわからなかったものですから」
ケンタはカメラを手にもったまま、きいた。
「ルシン博士。あなたは海をたすけることができますか」
「わかりません。とにかく、まず、この未知のものがなんなのか、つきとめなければならないでしょう」
「時間がないんです。ぐずぐずしていると、海は死んでしまいます」
「時間がせっぱつまっていることは、想像がつきます。未知のものが、時間がたつにつれ、ますます、ふえていくようですから。このままふえていけば、海が決定的な変化をむかえ、これまでの海でなくなるときがやってきます。急がなければなりません。しかし、分析には時間がかかります」
博士はメガネをはずして首をふり、頭をかかえてしまった。
「とりあえず、研究がどこまですすんでいるか。また、あの巨大いん石事件をどのようにお考えなのか、きかせてください」
「研究はまだ調査の段階です。また、巨大いん石については、あの前後に地球に接近したいん石はひとつも観測されなかった。それがすべてでしょう」
「では、あのいん石はじつは海だったという、ぼくの話はどう思いますか」
「それ、きみじゃなくて、こちらの、ロボットのチャーリーくんがいってたんじゃないですか」
博士はまじめな顔をしてそういった。
「いや、あれ、漫才ですから。チャーリーのほうが漫才にくわしいので、それでボケ役になったんです。海や火星と話したのはぼくなんです」
「そうだったんですか。それはともかく、いん石が海だったというのは、興味ぶかい話です。海に発生している未知のものが、それにも関係しているのかもしれません。その未知のものが、ある一定の割合でふえたとき、海は変化するのでしょう。変化してガス状になるか、石のようになるか」
小さなドアがすーっとあいて、ハンナが飲み物をもってきた。
ケンタの前にソーダ水のグラスを置くとき、ハンナはふとケンタの顔を見て、「あら、あなたは」と小さな声でいった。
恐竜のケンタはまたも変身がバレたかと思って、身をすくめた。
「こちらの方はアルコールでよろしかったんですね」
ハンナはロボットの前にアルコールの小さなビンとストローを置いた。ロボットのチャーリーは満足そうにうなずいて、ストローでアルコールをうまそうに飲んだ。
以前、チャーリーにきいたところ、アルコールを飲むと、自動的に全身の洗浄ができるそうで、これをやると、たいへん気持ちがよいらしい。
「なにか、手がかりになるものがあるといいのですが。きみ、えーと、ケンタくんは火星と話されたとき、なにか火星は、いっていませんでしたか」
博士はあいかわらず海に目をやりながら、ケンタにきいた。
「火星がいうには手だてはないということです。海が旅立ちを決意したら、もう、もとにもどすことはできない、あとは海が死ぬか、旅立つかだけだっていってました」
「そうですか。火星にあった海も、地球の海とおなじように、この未知のなにかを、発生させていたのかもしれませんね」
「チャーリーはなにかきいてないか」
ケンタはカメラをロボットにむけてきいた。
「オレか。オレは火星とカラオケやってただけだから、むつかしい話はなにも。ただ、火星のデータだったらもってるぜ」
「そうですか。もちろん、火星の海はとっくのむかしに消えていますからね。でも、未知のなにかが火星の表面に残っていたかもしれませんね。ちょっと、そのデータ、見せてもらえますか」
「おやすいご用」
チャーリーはディスクをもらうと、例によって、それを口から食べた。
「ガーガー、ピーピー、ググググ、グガ、ゲェップ!」
こんどはディスクをはきだし、博士にわたした。博士は、そのディスクを、指先でつまむようにして受けとり、すぐさまコンピューターのトレイにほうりこんだ。
「なるほど、なるほど。ふーん、これ、すごいね。めったに見られないデータばかりだ。おや、地中のデータもあるなあ。ほおー。きみ、チャーリーくん。きみは見かけによらず、優秀なロボットなんだね」
「見かけどおりっていってほしいな」
チャーリーはムッとして横をむいた。ハンナがクスッと笑う。ケンタはハンナがかわいいと思った。
「このデータを分析すれば、未知のものが発見できるかもしれません。急いでやってみます」
そういってルシン博士は研究室からあわただしくでていってしまった。
ケンタはカメラをかまえて立ちあがったが、博士を追っていいものかどうか、まよった。その間に博士は走り去った。
ケンタはしかたないので、ハンナにカメラをむけた。
「ハンナさんはいつから、お父さんの研究を手伝ってらっしゃるんですか」
「あら、わたしにインタビューなさるの。なんだか、はずかしいわ。わたし、お手伝い、はじめたばかりですの。この海の研究所に来てからですわ」
「ハンナ、キミはオレの好みだぜ。どう、オレと結婚しない?」
「まあ、このロボットったら。あなたがいわせてるの?」
「まさか! ちがいますよ。チャーリーはこういうやつなんです。それとも、さっきのアルコールでよっぱらったのかな」
「あら、そう。なーんだ」とハンナはつまらなさそうにいった。
「ハンナさんは、ぼくたちの漫才をどう思いますか」
「とてもおもしろいわ。でもかなしいお話よね」
「え」
「この海が死んでしまうなんて、わたしには信じられないの。ほら、こんなに美しいのに」
魚たちの遊びたわむれるような泳ぎが、ライトに浮かびあがり、海がゆらめいている。
「それは地球だって、太陽だって、いつかはほろびるわ。でもまだ、太陽だってあと五十億年はだいじょうぶなのよ。だのに、海だけが、四十億年ぽっちで、もうなくなってしまうなんて、ありえない。あっちゃいけない」
「おお、ハンナ。そのすてきな横顔」
「まあ! このロボットったら。どういう設計したら、こんなのができるのかしら」
ケンタは、なんかようすがおかしいなと思ってチャーリーを見た。
口もとのあたりがへんだ。うす笑いを浮かべているように見える。前はそんな表情なんかなかったのに。
「チャーリー、きみ、そういえば、休みの日、電気街へ行ったね。なに買ったの。ひょっとして、きみ、部品を買って、自分で改造したんじゃ・・」
「ああ、やったさ。感情のバリエーションをふやすチップがあったから、ちょっと入れてみたんだ」
「ロボットはクールなほうがすてきよ」
ハンナがいうと、チャーリーはいっそう口のはしをゆがめて、たぶん笑った。
ケンタは頭をふって、話をもとにもどそうとした。
「ハンナさんは、海が好きなんですね」
「そう、ほんとに大好き。だから、海が死ぬなんて、あっちゃいけない話よ。海がなんといおうと、火星がなんといおうと、流星たちがなんといおうと」
「ハンナ、きみはまったくすばらしい」
チャーリーはいきなりひざまずいて、ハンナの手をとった。
ハンナはまた「まあ!」とあきれたが、クスッと笑った。
ケンタはかまわずハンナに問いかけた。
「ぼくも、このままなにも起きずに、これまでどおりの生活ができれば、なにもいうことはありません。しかし、海は死にかけています。だからこそ、海をたすけたいと思っているのです。あなたのお父さんのように」
「父は」といいかけてハンナは目をふせた。
「あなたのお父さんは、海の異変をさとって、海をなんとか、たすけようと、それで、この研究所にいらしたんですね」
「海をたすけるということが、どういうことか。ケンタ、もういちど、よく考えたほうがいいぜ」
ロボットのチャーリーが、まじめな声でいった。ケンタは火星のことばを思い出した。
『わしは、海を行かせてやれなかったことが、大きな心残りじゃ』
海を、海の意志にしたがって旅立たせてやること、それが海をたすけることなのだろうか。
では、海の生きものたちはどうなる。
まちがいなく、海が行ったとたん、みんな死んでしまう。それでも海を旅立たせるというのか。
しかし、海が残っても、地獄がまっている。地球で生き残るのは、チャーリーたち、ロボットくらいしかないだろう。
やはり、たすけられるものならば、海をたすけてやって、これまでどおりの生活をおくりたい。それを身勝手というなら、いえばいい。
あきらめて海を行かせてやること、それは、自分たちのいのちを大切にしないことになる。これこそ、身勝手なのではないか。
「チャーリー、きみは、海がなくなっても生きていられる。だから、そんな人ごとみたいにいうんだ。ぼくらは、海が行ってしまえば死んでしまう」
「いいえ、ケンタさん」とハンナが口をはさんだ。
「わたしたちの命はかんけいないわ。わたしたちがどうなろうと、この美しい海は残らなきゃいけない。わたしはそう思っています」
ハンナは海に顔をむけていた。恐竜のケンタは、カメラのレンズをとおして、ハンナの横顔に親しみを感じた。
博士は、なかなかもどってこなかった。
時間がせまったので、ケンタとチャーリーは研究所をあとにした。ハンナが手をふって見送ってくれた。
ケンタがカメラを回したこのドキュメンタリーは、テレビで放映されるや、たいへんな話題となった。
有名な海洋学者であるルシン博士が、大がかりな研究所を海中につくって、海の異変に取り組んでいる。そのようすを見て、それまでは、漫才のネタにすぎないと思っていた人々も、本気で海の心配をはじめた。
もう、そうなると、ふたりの漫才は笑うに笑えないので、依頼はすくなくなった。
海の話は、ふたりのもとをはなれた。海の異変が、人間たちのあいだで、熱心に話されるようになったのだ。