9. 想定外の事態
つくづく暗記が下手だった。
これまでの人生におけるお勉強でも一貫して僕を悩ましてくれたこの性分が、真面目な受験生となった今重くのしかかっていた。好き嫌いと得意不得意が一致しない事例は多いが、こと暗記に関しては嫌いで不得意、僕にはどうしようもないことである。
何より厄介なのは、暗記ができないのは単に努力不足と捉えられることが多いところだ。受験科目の中では英語がもっとも得意で、英文法も今では良く理解できている方だと自負しているけれど、僕の語彙力は高くない。同じ程度の偏差値をもっている学生たちの中でもっとも少ない英単語数で英文を読んでいる自信がある。
英単語を覚えるための本を開き、ぐりぐりとアルファベットを紙に並べてみたりもするけれど、ただ並べられた単語たちは僕のつるつるの脳に固定されることなく驚くほど容易に零れ落ちていくのだ。
僕のもっとも嫌悪する試験問題は、単純に英単語の意味を答えさせたり、ある日本語に対応する英単語を答えさせたりするものである。そんな設問は小学校で良くやった、漢字の書き取りテストだけで十分なのだ。
一緒に食べるような友達を持たない僕は、サンドイッチを齧りながらそんなことを頭に浮かべ、昼休みに英単語本を眺めていた。つまりまったく集中していなかった。嫌いで、かつ不得意なものに集中するのはとても難しい。
だから僕の隣の空席に誰かが腰かけ、話しかけてきたときも、それが生石直人であるとすぐにわかった。僕はカフェオレをストローでちうちう吸った。
「受験勉強?」
直人が言った。僕はストローから口を離して頷いた。
「受験生だからな」
「俺も今日から受験生だ」
「引退したのか?」
「した」と直人は言った。「いつも通りの堅実なバスケで、じりじりと負けていったよ。ああ疲れた。しばらく何もしたくねえ」
労いの意味を込めて、僕は直人にチョコレートバーを進呈した。直人はそれを受け取りバリバリと食べた。
「今度3年の追い出しマッチがあるから、祐輔も来いよ」
「ええ? 僕はいいよ。追い出されるまでもなく辞めたんだし」
「知らないのか? お前、まだバスケ部に在籍してるんだぞ」
「嘘だろ。監督に辞めると言って、ロッカーも片付けて、退部届も出したぜ」
「あれから監督と話したか?」
「いや」
「だから知らないのかな。祐輔の退部届は監督か担任のどっちかが止めてる筈だ。受験生だし、面接なんかで部活に所属してる方が有利だからじゃね?」
「そういうのって、なんていうか――」
ずるいな、と正直なところ僕は思った。あるいは感謝するべきなのかもしれないが、子ども扱いをされたように感じるのか、僕に感情として発生したのは屈辱や憤りといった類のものだった。
僕はそのまま部に残ることによって生じる利益と損害を天秤にかけて、納得の上で退部したのだ。その事実を、たとえ僕にとってマイナスに働くものであったとしても、不当に奪う権利が彼らにあるというのだろうか。
あるいは感謝を強要されているように感じているのかもしれない。僕の頭の中は想定外の事態にぐるぐるしていた。
「何だよ?」
黙った僕に直人が訊いた。僕は自分の子供じみたように思える心の中を打ち明けることはせず、「別に」と言った。これも子供じみた発言だろうか。
「まあそれよりさ、追い出しマッチ、来いよな」
「行けたら行くよ」と僕は答えた。
「それ、大抵来ないやつじゃないか」
「実際忙しいんだ。受験生だし」
「そんなに勉強してるのか?」
「かなりね。だって直人、僕が休み時間に単語帳を眺める人間だと思うかい」
「確かにまったく思わない」
直人とは中学校からの付き合いで、僕の勉強に関する好き嫌いは概ね把握されている。僕も直人の勉強に関する好き嫌いは概ね把握しているつもりだ。彼が好きなのは生物と日本史。僕にとっては暗記だらけのくせ試験では意外に点が取りづらいという何のためにあるかわからない教科だ。
僕と違って直人は暗記科目も難なくこなせる。羨ましいことこの上ない。特別な疑問を持たずに宿題もやってくるタイプで、バスケットボールがなかったとしたら、はたしてこの男と仲良くなれていたか想像が難しいところである。
僕は直人をぼんやり眺める。僕と違って背が高く、バスケで鍛えた肉体を持つイケメンだ。僕には女友達がいないので実際どれほどのものかはわからないが、さぞかし女子にも好かれることだろう。
「受けるところは決めたのか?」
かつて大学に関する情報をほとんどもってなかった僕に直人はそう訊いた。僕が英単語を暗記するために休み時間を費やしているという衝撃的な事実を前に、おそらく何か具体的な目標があるに違いないと推測したのかもしれない。
その推測は合っている。
「まあね」と僕は答えた。
「どこ?」
「ぶどうが丘大学」
「一緒じゃん」直人は声を弾ませた。
僕はまったく覚えていなかったが、どうやら直人の第一志望もぶどうが丘大学だったようだ。そういえばそんなことを聞いた気もする。あまりに知識のない分野の話だったため、記憶に残っていなかった。
「身の程知らずに、と思われるかもしれないけど、僕は今医学部を受けようと思っている」
「医学部? 理学部じゃなくて?」
「医学部だ」
「それはまた、思い切ったな」
「そう、僕は思い切ったんだ。だから大嫌いな英単語の暗記もなんとかこなそうと頑張っている」
実際は努力の甲斐なく僕の語彙力は医学部レベルにほど遠い。伸びない背のために牛乳を飲む子供のように、無駄かもしれないことでもやらないという選択肢はないのだ。
僕たちはしばらく受験生らしい会話を弾ませ、それぞれの持つ情報を交換しあった。浪人する余裕などない僕は前期試験で医学部を、後期試験では受かりそうなどこかの大学の何かしらの学部を受験することを心に刻み、バスケ部を辞めたつもりの日の会話で直人が言っていた彼の志望校の情報を再度入手した。
僕たちそれぞれの第一希望が叶った場合、どちらもぶどうが丘大学の、僕は医学部へ彼は理学部へ進むことになる。
「自己紹介のとき紛らわしいな!」
そう言い、僕らは笑い合った。僕らのイメージ上の男子大学生は合コンなるものに参加するのが当然であり、うまくいったら直人も聞き間違いを誘発させて医学部の肩書を一時的に得られるかもしれない。この容姿に学歴も伴えば鬼に金棒と言えるだろう。
「でも、なんでまたいったい医学部を受ける気になったんだ?」
「理系の学生で、一応進学校に通ってて、受験勉強をそれなりに真面目にやろうと思ったわけだから、ピンのピンを目指そうと思うのは不思議ないだろ」
「いや不思議だろ。お前これまでの通知表の社会、何点つけられてきてると思ってるんだ」
「だいたい2か3だ」
「とても医学部を受けていい成績じゃない」
「確かにそうかもしれない。でも僕にとっては幸運なことに、なんと受験はセンターと2次の点数で合否が決まるんだ。通知表の数字は重要じゃない」
「ほんとに?」と直人は訊いた。「医学部ってそれこそ内申点とか、面接とかもいるんじゃねえの?」
「そうなの?」と僕は訊き返した。
予想していない情報の出現に僕はすっかり焦っていた。加えて、直人に促されてぶどうが丘大学医学部医学科の受験情報を改めて調べ、面接はないものの小論文が課されることを突き止めたころには塾の時間が迫っていた。
だから開始ギリギリになって塾の授業部屋に飛び込んだ時点でこれまで一度も遅刻などしたことがない愛さんがまだ来ていないことに強い違和感をもたなかったし、そのまま授業がはじまったときも、愛さんの不在を気にかけつつも危機感などもっていなかった。
愛さんはそれから1週間以上にわたって塾に来なかった。僕がなけなしの勇気を振り絞って送ったメッセージに対しても、何のリアクションも返ってはこなかった。




