8. 証明の価値
ダーツはしばらくの間行けずじまいとなっていた。
僕たちは受験生だ。受験勉強に取り組んでおり、今の僕たちの生活は受験のためにあると言っても過言ではない。なぜなら目標があるからだ。
「いがくぶ?」黒川先生は面談室でそう訊いた。
「そうです」と僕は答えた。
先日受けたセンター模試には筆記模試もついており、1次試験・2次試験の成績をドッキングして結果を評価してくれる。その評価が塾に返ってきたため、僕たち受験生は黒川先生と一人ひとり進路についての話し合いをしているというわけだ。
希望すれば親も出席して三者面談とできるのだが、僕の家は貧乏だけど放任主義なので、一応伝えた僕は「いってらっしゃい」とただ送り出された。
「なるほどね」と黒川先生は言った。「一応訊くけど本気なんだよね?」
「そうです」
「それじゃあ簡単にお話しようか。狩井も知ってるだろうから偏差値でいうと、君の志望しているぶどうが丘大学医学部医学科はだいたい偏差値70くらいと言われてる。偏差値70って、だいたい割合にして上位何パーセントくらいになるか知ってる?」
「知りません。10パーくらいですか?」
「惜しい。だいたい2パーちょっとくらいだね」
「にぱー!?」
「4・50人の受験生に対して1人が受かるわけだね。狩井のクラスが何人かは知らないけど、クラス1番か悪くて2番くらいの成績じゃないと無理そうじゃない?」
「割合でいうとそうですね」
「諦める気になった?」
「ぜんぜん」と僕は言った。「だって、僕のクラスの僕より成績の良いやつらが全員僕と同じ大学を受けるわけじゃないでしょう?」
「その考え方はとてもいいね」と黒川先生は言った。
少し考え、黒川先生は冷蔵庫からコーラを2本取り出してきた。僕に片方を与えて自分の分のプルタブを引く。僕もそれに倣い、一口分の炭酸で喉を潤した。
「狩井の偏差値は今60くらい。この間まで部活ばかりやっていたにしては十分優秀なものだと思うよ。ただし、季節は受験の夏になろうとしていて、ここから偏差値を10程度上げるのはあまり簡単じゃあない。まわりも勉強するからね」
「先生は無理だと思います?」
「大切なのは、わたしがどう思うかじゃなくて、君がどういう生活をするかだよ」
「せいかつ? 考えではなく?」
「生活だよ。考えで成績は上がらない。結局のところ、受験勉強というのはどれだけ時間をかけられるかにもっとも依存するのよ。イメージとしては、頭の良し悪しなど個人の資質による定数kに勉強時間tをかけた値が学力gとなる、って感じかな。g=kt。どう? 理系っぽい説明でしょ」
「同じ時間をかけるにしても、質というものがありそうですけど」
「そうだね。だから定数kは実は変化させられる。それに気づかず勝手に諦める生徒のなんと多いことか!」
黒川先生は大げさな仕草で嘆きを表現した。顔は笑っている。
「と、まあそんな感じで、偏差値とか、順位とか、まあ色々と”常識的なこと”を言ってくる人は多いだろうけど、要は合格点を取れば受かるわけだからね。無理だなんて全然わたしは思わないよ」
「合格点は毎年同じじゃないから、順位は必要じゃないですか?」
「考え方の問題だね。順位を気にするのと合格点を気にするのとでは何が違うかわかる?」
「よくわかりませんね。どっちにしても勉強するだけだと思います」
「違いは、敵だよ。仮想敵と言ってもいい。順位を気にすると、仮想敵はほかの受験生となる。たとえば狩井の場合は藤間愛だね。君は愛に学力や総合点で勝てると思う?」
「想像もできません」
「でしょ。それじゃあ、たとえばセンター試験で9割以上の点数を取るのは可能だと思うかい」
「9割ですか」
僕はしばらく考えた。9割というと、900点満点で810点取ればいい。今回の模試で僕は700点ほど取れている。あと100点程度を埋めるわけだが、まだ受験までに時間があることを考えると、漠然とだが不可能ではないように僕には思えた。
「まんざら不可能ではないような気がします」
「いい答えだね」
「少なくとも、藤間さんと張り合うよりは現実味がある」
「その通り。確かに年によって合格点は違うけど、概ねセンターで9割、二次で6割程度が取れればぶどうが丘大学の医学部には合格できる。医学部受験の実際の倍率を3・4倍程度と仮定すると、ほかの医学部受験性を何人か殴れなければならないわけだけど、これは攻略が難しい。実態がわからないからね。身近にいる”できるあいつら”を何人か倒すというのはとても難しそうに思えるんじゃない? その点、合格点を考えると、仮想敵は点数であり、試験になる。これは過去問というものがある以上、ある程度実態がみえるわけ。そこに合わせた勉強法というのも考えやすい」
「なるほど」と僕は言った。
黒川先生は満足したようにコーラを飲んだ。そして「そうそう」と付け足した。
「休息はちゃんととるように。時間をかけるのはとても大事だけど、狩井も言ったようにただ時間をかけても効率はよくならない。脳筋という言葉があるでしょ? これは意外と字面が正しくて、脳は筋肉に似てると思う。使えば鍛えられるし、鍛えないといけないけれど、ずっと負荷をかけるのではなく、きちんと休ませてあげないといけないのよ。正確には、休むんじゃなくて使う部位を変える感じ。筋トレも、ある筋肉を鍛えた翌日は別の筋肉をやるでしょ? 頭は常に使うべきだけど、対象は勉強だけじゃない方が最終的には強いんじゃないかとわたしは思うね」
「ふうん」と僕はコーラをすすった。
「大切なのは生活だよ。充実した毎日で、質の良い勉強時間を十分に取ることができれば、月にタッチするなんてわけないよ」
それがもっとも難しいのだろうと僕はぼんやり考えた。
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「それじゃあ狩井との話はこんなとこかな。次は愛の番だから、帰る前に声をかけていってくれない?」
黒川先生は意外と時間のかかった僕との面談の最後にそう言った。
「それはいいですけど、僕、帰った方がいいですか?」
「ん? いや、質問できなくていいなら自習するのは構わないよ」
「わかりました。呼んできます」
僕は黒川先生に挨拶をして退室し、面談の待機所のようになっている自習室に戻った。質問を受け付ける先生はおらず、面談予定の生徒とその保護者たちしかいないため、半ば談話室のような雰囲気になっている。
そんな中自習をしていた藤間さんは、横に座った僕に気がついた。藤間さんも保護者なしだ。
「えらく時間がかかったね」
「第1志望がD判定だったからね」
「D!? あんたマークだけでも8割くらい取れてんじゃなかったの?」
僕が密かに藤間さんと同じ学校・学部を狙っていることを彼女は知らない。
「まあ積もる話は後にして、次は藤間さんの番みたいだよ」
「ちょっと、帰るんじゃないわよ」
「帰らないよ。いってらっしゃい」頷きながら僕は手を振り、思いついて付け足した。「愛さん」
はじめて下の名前で呼んだ僕に、藤間さんは目を見開いた。僕は少し愉快になった。藤間さんの心を乱すのは面白い。
「”愛を呼んでくれ”って依頼されたからね。愛さんでしょ?」
「そうよ。それじゃあいってきます」
「いってらっしゃい」と僕はもう一度繰り返した。
愛さんが面談室に消えた後、ひとりになった僕は模試の結果表と問題・解説のセットを机に広げた。
僕の医学部受験に対する現時点の評価はD判定だ。おそらく良識のある大人だったら「目指すのはいいけど受験の時期になったら現実的な志望校も考えろよな」って感じだろう。実際、愛さんというモチベーションを得る前の僕は適当に受験勉強をこなし、行ける国立大学に行くつもりだった。条件をつけられるとしても、望むのはバスケットボールができる環境くらいのもので、将来の展望も持ち合わせていなかった。
無理だろうか? 必ずしも無理ではないんじゃないかと僕は思う。
無理ではないと思える以上、それを証明する必要があった。これが僕だ。僕が諦めるのは、僕の頑張りでは不可能だと証明されるか、その証明には価値がないと心底思い至った場合だけだ。そうでなければ僕はバスケ部を辞めていないし、効率的なスリーポイントシュートよりも監督の好む2点プレーを選択している。
「センター試験で9割か」
2次試験の範囲は未習熟の内容も含まれているため、僕はわかりやすいセンター試験をまず意識した。平均で9割取るということは、当然だけれど100点満点で85点を取ったら落ち込む必要があるということだ。バスケ部を辞める前の僕からしたら笑ってしまうくらい非現実的な目標だろう。
僕は紙に各科目の目標点を記入した。現実と理想の乖離に唸っていると、愛さんが面談室から帰ってきていた。僕の隣に腰かける。
「早かったね」
「あたしの面談はシンプルだもの」愛さんは言った。「第一志望、B判定だし」
「流石だね」
「それはいいとして、なんでD判定なんて取ってるのか説明しなさい」
僕は黙って模試の結果表を愛さんに渡した。
しばらく内容を見ていた彼女は、志望校と学部に気づいたのか少し驚いた様子を見せた後、僕の方を見てニッと笑った。
「あたしに付いて来られるかしら?」
「せいぜい頑張るつもりだよ」と僕は言った。