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6. バスケットボールコート


 知りたいと言うので教えてあげたら、見たいと言うので松尾さんのバスケットボールコートに藤間さんを連れて行くことにした。


 思えば藤間さんにバスケの話をしたことはない。バスケ部を辞めた僕にとってバスケットボールは必ずしも全てが誇らしい話題ではないため、無意識に避けていたのかもしれない。


「ずーっと毎回持ってくるその大きなスポーツバッグに何が入ってるのか気になってたの。でも盗み見るのも嫌だし、そんな目立つものなのに話してはくれないし、謎だったんだよね」

「訊いてくれれば答えたのに」

「なんだか機会を逃したのよねえ。こういうのって、一度逃すとなんだか改めて訊くのって難しくない?」

「少しわかるよ」


 たとえば藤間さんの連絡先を僕は知らない。塾で会え、そこで話すため、自宅において連絡を取る必要がないからだ。


 とはいえ当然僕は藤間さんの連絡先を知りたいものだと思っている。しかし、おそらく連絡先の交換なんて儀式は知り合いから友達の親密さに深まる前に行っておくのが正解で、使用する用事がないため今更言い出す機会が僕には見当たらないのだった。


 訊いてくれれば教えたのに。おそらく彼女もそう言うだろう。わかっていてもどうにもならないことはとても多い。


「バスケットボールが入ってるの?」

「いや、ボールはコートに置かせてもらってる。ここには着替えと、飲み物と、勉強道具とタオルと靴とが入ってる」

「くつ?」

「結構ちゃんとしたコートなんだ。野外だけどさ、ゴムチップか何かでできてて、バッシュを履いたら良い動きができるんだ」

「バッシュって普通に外でも履くものだと思ってた」

「ファッションで履く人たちとか、裕福なボーラーは履くかもしれない。僕はそうじゃないんだ。だから履き替えてる」

「バスケットボールプレイヤーは、自分たちのことをボーラーって言うんだ?」

「そういえばそうだね。あまり考えたことがなかったけど、英語としてはプレイヤーが正しいのかもしれない」

「でもバスケって黒人スポーツのイメージだから、ちょっと崩してる方がカッコイイのかもしれないね」

「そうだね」と僕は言った。「カッコイイのは大切だ」


 ふと僕は不安になった。これまで僕が松尾さんのコートに来た経験ではあまりガラの悪そうな人はいなかったが、この時間帯にお邪魔するのははじめてだ。どのような層が集まっているのかわからないし、そこにかわいい女子高生を連れて行った場合にどのような事態に陥るかもわからない。藤間さんを連れて行っても安全だろうか?


 知らない人影が遠目にいるようなら尻尾を巻いて逃げようと思っていたが、どうやらコートにはひとりしかいないようだった。松尾さんだ。そういえばこの時間帯に松尾さんと会うのもはじめてだった。


「祐輔」僕に気づいた松尾さんは僕の名前を呼んできた。


 夏に移行しようとしている気温の中、松尾さんはたっぷり汗に包まれていた。どうやら練習中の、たまたま休憩しているところだったらしい。


「ゆーすけ」藤間さんは繰り返すようにそう言った。「知り合いだ?」

「このコートの所有者で、松尾さん。松尾さん、この娘は藤間さんです」

「こんにちは。しかし祐輔がここに女を連れ込んでるとは知らなかったな」

「違う! 今回がはじめてです」

「まあまあ。別にコートを汚さないなら追い出しはしないよ。女連れで来るやつもいるし、中には女の子ボーラーもいるからな。面倒はごめんだが」

「気をつけます」と藤間さんは言った。


 僕はスポーツバッグから荷物を取り出し、素早く着替える傍らに松尾さんのシューティングを観察した。とても上手だ。ドリブルをついてのプルアップジャンパーも非常に滑らかで、しかもただ打つだけではなく、どうやら実戦を見据えた動きの中で練習している。


 着替えを済ませた僕は軽くストレッチを行った。松尾さんとの対決ではどのような技を見られるだろうか。次第に体が臨戦態勢となっていく。ウォームアップがてらに何度かその場でジャンプすると、藤間さんと目が合った。


「いってらっしゃい」


 藤間さんはニッと笑った。僕もつられて笑い返した。そして松尾さんの方に目をやると、シューティングを中断し、ボールを保持して僕の方をまっすぐ見ていた。


「お待たせしました」

「待ってねえよ」と松尾さんは笑った。


 松尾さんは持っていたボールを僕にパスしてくれた。胸の高さだ。綺麗なバックスピンがかけられており、まっすぐ僕に向かってくる。


 僕はボールをキャッチすると、そのままの流れでシュートした。あまりに良いパスだったので自然と放ってしまったのだ。よどみなく僕の手を離れたボールは理想的な弧を描いてリムのどこにも当たらずにネットをくぐった。


「わーお」藤間さんが声を上げた。

「勝手に打ってんじゃねえよ」

「すみません。いいパスだったんで」

「だろ?」


 松尾さんはゴール下にボールを拾いに行き、僕に再びパスをくれた。バウンドパスだ。やはり良い位置にボールがくる。キックアウトのような形でパスを受けた僕は自然と捕球の姿勢がシュートフォームの一部になっている。


 再び僕はスウィッシュと表現される音をネットに上げさせた。松尾さんがボールを拾う。今度はボールを持って僕に近づき、少しの距離を残して対峙した。


「やろうか」と松尾さんは笑って言った。目が笑っていない。

「もちろん」と僕も笑って言った。僕の目は笑っているだろうか?


 オレンジの光が僕らを照らす。僕は細く長い息を吐き、松尾さんを観察する。ジャブステップ。良い反応だ。松尾さんの年齢を僕は知らない。少なくともただのお金が余ったから趣味でバスケットボールコートを作ったおじさんボーラーではなさそうだ。


 速く小さなジャブステップ。続いて小さなポンプフェイク。いずれにも松尾さんは不適切な反応はしない。ゆらりとした動きから、急激にスピードを上げて僕はドライブを試みた。


 松尾さんはついてくる。完全に止められたわけではないが、このまま突破するとしたらやや強引なものになる。僕は右足を強く踏み込み、ボールをその場でついてスピードを殺した。すかさずステップを踏んでボールを背後に送り、用意した左手に受け渡す。


 緩急をつけた切り返しだ。僕の左足は松尾さんの右足よりも外側にある。突破の十分条件だ。右足を大きく踏み出し松尾さんに並ぶと、突破を防ぐことは物理的に不可能となる。


 僕はそのままゴールまで直線的に切り裂いた。背中に松尾さんの追跡を感じる。レフトハンドでレイアップシュートの体勢をつくり、感じられる松尾さんの位置からは決して触れられない場所からボールを放ると、イメージ通りにボールは一度ボードに当たり、リムにの内側に吸い込まれていった。


「いいキレだ」


 松尾さんがボールを拾って僕に言った。1on1でよくあるルールでは点を入れると次も攻撃を続けられるが、ここでは松尾さんがルールである。どうやら交互に攻めるらしく、3ポイントラインの外側に立った。僕は少し離れて対峙する。


 ジャブステップ。戻らずそのままドライブ。松尾さんはいきなり仕掛けてきた。僕はフットワークでドライブを阻止する。レッグスルーでタイミングを測り、松尾さんは大きくステップバックした。意外な動きで元いた場所にぴったり戻る。つまりスリーポイントラインの外側だ。


 僕は精一杯手を伸ばそうと試みたが、松尾さんのリリースは速かった。妨害できず、ボールは軽くリムに当たって得点となった。


「3対2だな?」松尾さんは笑って言った。

「今のところはね」と僕は言った。


 体の奥底にある何かの塊が溶け出し、燃料となってエネルギーを供給するかのようだった。僕はしばらく夢中で松尾さんとボールをゴールに放り合い、太陽が沈むころまでそれは続いた。


「そろそろやめるか? ほかの奴らも来そうだし、彼女も見てるだけじゃつまらんだろ」

「あたしは結構楽しいですよ」

「いや、そろそろ帰ろう。遅くなるのは僕も心配だ」

「あらそう?」藤間さんは言った。「しょうがないねえ。帰ろっか」


 手早く荷物をまとめると、走りやすいようにバッグを背負って僕は藤間さんを送っていくことにした。藤間さんは一旦断ったが、重ねて提案すると、ニヤリと笑って僕が送ることを許してくれた。


 家の近所まで送った僕に、藤間さんはお礼を言った。


「ありがと。バスケをしているゆーすけはなんだか新鮮で、なかなかカッコよかったよ」


 褒められた。天にも昇る心地とはこのことだろうか。結局綺麗に松尾さんを抜けたのは最初の1回だけで、あとはほとんどやられていたが、意外と好印象を与えられたらしい。


 何か言わなければならない空気だった。とてもテンパった僕は信じられないことを口にしていた。


「ありがとう。藤間さんはいつでもかわいいよ」


 藤間さんは少し驚いた顔をした後ニッと笑って「おやすみ」と言い、家にひとりで歩いていった。


 心拍数。体温。コントロールがまるで効かない。そのくせ、残念ながら、全力で何かを叫ぶことのできない程度の理性は残っていた。


 僕はどうにもならない状態となり、とにかく全速力で自分の家へと駆け出した。季節は夏に近づいており、僕はバスケットボールをプレイした後だ。全身余すところなく汗まみれだった。



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