4. 400cc
黒川井手塾に通いだしてしばらく経った。
黒川先生と井手先生でやっている塾なので黒川井手塾。一応ボスは黒川先生の方らしく、名前が先に入っている。なんと安易なネーミングだろうと当初は呆れたものだったが、今ではすっかり慣れてしまった。歳月は残酷なものである。
そのしばらくの間に僕は英文法を学びなおした。元々バスケのトップリーグがアメリカNBAであるため興味をもち、割と無理なく点数を取れてきたため詰めが甘かった得意科目だ。黒川先生の教えは単純に面白かったため良く身についた。生来理屈好きである面も良い方向に働いたのだろう。模試のようなものを受けていないので偏差値などはわからないが、我ながら上達したものだと思われる。
そしてトウマさんの名前は藤間と書くこと、フルネームは藤間愛であること、土日に着てくる私服の中ではレモン色のワンピースがとてもよく似合うことを今の僕は知っている。さらに、彼女は姿勢が良いため気づきにくいが、どちらかというと背が低い。学年は僕と同じ高校3年生。積極的に質問ができ、おそらく成績も良いのだろう。
そのくらいが僕の藤間さんについての知識だった。つまり、このしばらくの間にまったく接点のようなものを作れてはいなかった。最初の頃は何とか話しかけたり何かアクションを起こせないものかと頭を悩ませたものだったが、すっかり遠くから眺めるだけの生活に慣れてしまっている。歳月は残酷なものである。
目的のひとつだったバスケットコートは家と塾の間にあった。塾寄りだが帰り道と言っても差し支えはないだろう。僕は塾が終わるとここに向かい、1時間ほど練習をさせてもらって家まで走って帰っている。
公共の施設ではなく、自称”本屋”のお兄さんの私設コートらしい。公園のようなものだと思い、街灯が近く夜でもボールが見えるのを良いことに、夜間施錠されている金網を乗り越え無許可で勝手に使用していたところ、一発で見つかって怒られたのだ。野外でボールをつく音はよく響く。僕はひとつ賢くなった。
その際お兄さんの名前が松尾であること、元々松尾さんはバスケットボーラーで”本屋”をはじめた後も私設コートをついでに作ってストリートボーラー達と遊んでいること、遊びといっても中々ガチでやっていること、僕の若さがうらやましいことなどを教えてもらった。
松尾さんは割とコワモテなのにも関わらず良い人で、塾帰りに僕がコートを使うことを許してくれた。野外のドリブルは音が響くが、近くに住宅地はなく近所迷惑にはならないらしい。”本屋”は翌午前2時まで営業するので、それまで残っていれば一緒にプレイしてくれるとのことだった。
「そんな夜中までやってるなんて、明らかにただの本屋じゃないですよね?」
「いやあ本屋だよ。だって本も売ってるし」
「だったら僕、バイトできます?」
「いやあ止めといた方がいいぜ。高校生だろ」
「明らかにただの本屋じゃないですよね?」
「どうかな。本は売ってるけどな」
以前チラ見した松尾さんの店は明らかにいかがわしいネオンを光らせていた。流石に夜中まで待つことはできず、僕に松尾さんとプレイした経験はない。話も何度かした程度だ。
土日の塾は午後から開始となるため、午前中僕は大抵ストリートボーラー達と松尾さんのコートで過ごした。松尾さん自身が午前中参加してくることは珍しいのだが、彼と親しい何人かがコートの鍵を開けることができ、彼らが半ば仕切り役となってゲームをしたり練習をしたりと僕は充実した時間を過ごすのだ。
野良ボーラーたちとはいえほとんど全員が経験者で、かつ僕よりキャリアが長いため、僕は正直やられっぱなしだった。中には大学までしっかりバスケに漬かった人や、ほかのコートでも活動し、プロになろうと励んでいる人なんかもいる。
考えてみれば当然で、部活でもないのにわざわざ私有地のバスケットコートに集ってくる情熱の持ち主たちが手ごわくないわけがないのだった。
バスケットボールに触れる。塾に行って勉強をする。家で寝る。食事やトイレ、お風呂などを除くと、現在僕の生活はほとんどこれらで構成されている。そのシンプルさは嫌いでなかった。
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この土曜日の朝は例外で、僕は街の大きな本屋に足を運んだ。文房具を買い足すためだ。近所の文房具屋に行っても良かったが、せっかくなのでたまには立ち読みでもしようと思ったのだ。
どうやらそれが良かったらしい。NBA関連の雑誌をパラパラ眺め、レブロン・ジェームズのインタビュー記事を読んでいるときだった。
「ねえ、あなた」と声をかけられたのだ。
声のした方を向くと、藤間さんが立っていた。
僕はわけがわからず何も言えない状態がしばらく続いた。藤間さんは僕の持っている雑誌を覗き込んできた。
「すごい髭!」と彼女は言った。
「もっとすごい髭の選手もいるよ」僕は何とかそう言った。
そして雑誌のページをめくり、ジェームズ・ハーデンの写真を見せた。
「なにこれ!」
藤間さんはくるくると笑い、落ち着くと僕ににっこり微笑んだ。「ところであなた、塾のひとでしょ?」
「そうだよ」
「よかった、人違いだったら大変だった。返事くらいしてよね」
「ごめんよ。驚いて」
「まあそれはさて置いて、あなた、血液型は何?」
「血液型? ABだけど」
「いい血液型だね」
藤間さんは僕の血液型を褒めてくれた。これほどAB型で良かったと思ったことはない。
「それで、この後暇?」
「塾に行くまではね」
「あたしもなの。ちょっと一緒に来てくれない?」
どんなにわけがわからないとしても、僕に断る理由はなかった。僕のもつ財産は微々たるもので、仮に高級な壺などを購入させられそうになったとしても支払い能力がないだろう。この歳と社会的身分でローンが組めるとも思わない。
そんなことを考えながら藤間さんについていくと、行きついた先は白い部屋だった。
藤間さんは慣れた動きでカウンターのお姉さんとコミュニケーションをとり、お姉さんは座って眺める僕にボードのようなものを手渡してきた。ボードには紙が挟まっていて、僕は言われるがままに個人情報を書き入れた。
「はじめて?」と訊かれたので
「はじめてです」と僕は答えた。
そして待合室のようなところに通され、藤間さんと一緒にしばらく待った。待合室には様々な雑誌とお菓子やジュースが配備されていた。
「僕はこれからどうなるの?」と僕は藤間さんに訊いてみた。
藤間さんは答えず、紙製のコップに自分と僕の分のオレンジジュースを注いだ。ポテトチップスの袋を開け、一枚取り出し一口で食べた。舌を出して唇を舐める。藤間さんの唇は赤かった。
「これからあなたは血を200ccか400cc取られる。そして手帳を作成される。あたしはあなたの付き添いで、お菓子を食べてジュースを飲むの。ついでに立ち読みできない雑誌をここで読む」
藤間さんは僕に紙コップに入ったオレンジジュースをくれた。ここは献血施設の待合室だ。僕はこれから生まれてはじめての献血に挑む。
「自分の血を抜いても良いんだけど、献血ってお休み期間を空けないとできないのよね。あなたがいてくれて助かったわ。ありがとう」
「どういたしまして」と僕は言った。
「そうそう、自己紹介もしてないわね。あたしは藤間愛。よろしくね。知ってるかもしれないけど高校3年生。女子」
「僕は狩井祐輔。知ってるかもしれないけど、高校3年生、男子」
「カルイ君?」
「ハントの狩るに、井戸の井だよ」
「へえ、狩井君。絶対太るわけにはいけないね」
「そうなんだ。極端に痩せるわけにも太るわけにもいかない。困った名前だ」
「わたしの名前も、藤原族の藤に、間でトウマなの。これまで1000回くらいフジマって呼ばれてきたわ」
「フジマ、なるほどね。お互い困った名前だ」
しばらくすると採血された。思ったより細い針で喜んでいたら、それは検査用のものであり、本番は大量採取用の思ったより太い針がやってきた。
僕は400ccの血液と引き換えに藤間さんと知り合いになった。
藤間さんは定期的に血を収めてはお菓子やジュースと雑誌の揃った献血ルームで過ごすらしい。僕には想像もつかない趣味だ。
「どうしても読みたいけど、買うほどじゃない雑誌がいくつかあってね。さっきも言ったけど、狩井がいてくれてよかったよ。あ、呼び捨てでいいよね?」
「もちろん」と僕は言った。何なら祐輔と呼んで欲しいくらいだ。そこまで口にする度胸はなかった。
僕らは思い思いの雑誌を読んだ。あいにくNBA関連のものはなかったため、僕は興味のないファッション雑誌を眺めたり、Tシャツに書かれた英文を和訳しようと努めたりした。
もっとも時間が速く流れるのは藤間さんを眺めている間だった。前髪の分け目から覗く額、ややつり目がちの大きな目、小さめの鼻、赤い唇。癖なのか、藤間さんは時々唇を口に収納して甘噛みしている。記事に集中するあまり眉間に皺が寄っている。
「なに? 暇?」
不意に声をかけられた。これまで一方的に盗み見ていた両目が僕の方を向いている。
「いや」僕の心拍数は一気に跳ね上がる。「暇じゃないよ」
「そう」
藤間さんはいたずらっぽく笑ってオレンジジュースを飲み干した。僕は黙ってポテトチップスを何枚か食べた。
「ところで、狩井はどこを受けるの?」
そして藤間さんは至極受験生らしい質問をしてきた。僕は困った。いまだにまったく考えてなかったからだ。
「実はまったく決まってない」僕は正直にそう言った。
「秘密なの?」
「秘密じゃない。本当にまったく考えてないんだ。何なら、僕は大学名もろくに知らない」
「本当? じゃあ何のために塾に来てるの? 狩井って結構真面目に勉強してるよね?」
「そうだね」と僕は言った。
そして改めて考えた。僕は何のために塾に行ってるんだろう。確かに僕は比較的真面目に塾に参加している方かもしれない。
「僕は受験生で受験勉強のために塾に通っているわけだけど、実は受験そのものにそこまで興味があるわけじゃないかもしれない。単純に結構楽しいからやっているだけだと思う。黒川先生の英語の授業は好きだし、井手先生の数学も悪くないよね。物理もやってくれれば嬉しいんだけど」
「黒川先生の英語はいいよね。あたしも好き」
黒川先生を褒められた藤間さんは嬉しそうにそう言った。ここで君に会うのが目的だとでも言えればあるいはモテるのかもしれないが、あいにく僕には不可能だった。
そのかわり、僕は質問を返すことにした。
「藤間さんはどこを受けるか決まってるの?」
「今のところはね。あたしはぶどうが丘大学の医学部に行こうと思ってる。地元だし」
藤間さんは迷わずこの地域にある国立大学の名を挙げた。”受ける”や”行きたい”ではなく”行く”と表現するところに彼女の意思の強さが感じられる。
この瞬間、僕の希望進路が決定した。




