30. 自然
センター試験の開始時刻は科目の選択によって異なる。俺と祐輔はいずれも社会を1科目しか選択していないため、2科目選択している藤間さんと比べて開始が1時間ほど遅くなるのだ。
しかし、その試験当日の貴重な1時間を、バスケに充てる受験生がこの世にいるというのだろうか?
祐輔にストリートのバスケットボールコートの場所を知らされ、試験開始前の待ち合わせ場所として指定された俺は途方に暮れた。
どちらかというとそういった呑気さは俺の方にあって然るべきだ。俺は志望する理学部生物学科に対して余裕をもった成績を模試で取れており、これまでの偏差値からしても受かって当然といった按配である。
もちろん絶対ではないけれど、この1年足らずの間にメキメキと成績を伸ばしてきたとはいえ、この医学部医学科を志望しており元旦模試にも失敗したらしい男よりは似つかわしい。半信半疑の俺は学ランの下に一応運動しやすい格好を作り、普段履きするスニーカーの代わりにバッシュを履いて家を出た。
祐輔はバスケットボールコートで待っていた。いつからいるのか、ひとりシューティングを続けており、白い息と共に全身から湯気がたっていた。
「こんな寒い中よくやるな」
俺は祐輔に声をかけた。俺の吐く息も白い。
「直人」と祐輔は俺の名を呼ぶ。そして俺たちは試験会場に向かうまでの空き時間をコートで過ごすことになった。
予想の範囲内だ。こうなることはわかっていた。
「来いよ」と俺は挑発してやる。「特訓の成果を見えてみろ」
「吠え面をかかせてやるよ」と祐輔は言った。
違和感があった。どこにそれがあるのだろうと考えるともなしに考える。やがて気づく。祐輔の軸足が少し遠いのだ。
通常祐輔は1on1でトリプルスレットに構える場合、スリーポイントラインぎりぎりに足を並べて陣取ってきた。即シュートに行く可能性を残すためだ。しかし今回は左足をやや後方に下げており、いつも祐輔は左足でピボットを取るため、シュートにいくとき右足を下げることになる。
シュートは少しでも近く打ちたいものだ。なぜこの位置なのだろう、例外的に左足を動かすのだろうかと考えていると、祐輔は右足を床から離して小さなジャブステップを見せた。
これでピボットは左足、シュートはない。いやあった。祐輔は右足を下げないやや半身になった態勢のまま、まっすぐ飛んでシュートを放った。
意表をつかれた俺はろくな反応ができなかった。振り返ってボールの軌道を目で追うと、ややバックスピンのかかったバスケットボールは大きな弧を描いてゴールを通った。
俺はネットをくぐって地面に跳ねるボールを拾い、しばらくボールと祐輔を見比べた。
「フォーム変わった?」
やっと俺がそう訊くと、「少しね」とこの男は答えた。
少しの変化ではない。スタンス、ジャンプ、リリースとすべてが変わった印象だった。医学部に合格してもおかしくないほどの勉強時間を積みながら、これまでも決して悪くなかったシュートフォームを改造している?
それは大きな衝撃だった。しかも俺の知る“正しいフォーム”からは逸脱しているようにも見える。
「思い切ったんだ。正解だったかもしれない」
祐輔はさらりとそう言った。
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センター試験を無事終えた俺たちには自己採点する必要があった。翌日の学校で報告しなければならないため、周囲の好奇心に晒されながら採点することを避けるためには今夜中に終えなければならない。
俺たちは藤間さんと合流し、近くのファミレスで打ち上げの食事兼自己採点を行うことにした。
祐輔は目に見えて疲労している様子だった。藤間さんの疲れた様子は祐輔ほどでない。俺はというと、模試を受けたときと同じ程度の感触だった。おそらく得点具合も同等だろう。
ケアレスミスが少しあったとしても思いがけない得点も時おりあるため、俺の望む程度の得点を取るのはそこまで難しいことではない。9割がノルマなのは辛いだろうな、と俺は他人事ながら思った。少しのミスや失点を挽回してくれる偶然の正解の余地がない。
疲労もあって祐輔の口数は少なかった。気を遣ってふたりにしてやろうとも思ったのだが、むしろ残って雑談してくれと乞われたためそうすることにした。
とはいえ祐輔のダウンしている状態で話題はそれほど豊富ではない。アドバイスしたクリスマスプレゼントのその後の次第を訊いたり、俺の知っている昔の祐輔の話をしたり、このセンター試験の話をしたりするほかなかった。
「今年の英語は難しかったと思うんだけど、ふたりにとってはどうだったんだ?」
俺は高学力カップルにそう訊いた。藤間さんは少し祐輔の様子を伺い、先に答えるつもりがないのを確認して口を開いた。
「そうねえ、難しかったと思うわ。図表問題が例年より時間がかかるようになってたし、文法問題もちょっとマニアックなものがでてたんじゃない?」
そう言い藤間さんはそのマニアックな文法問題の解説を簡単に行った。俺は見事にその問題を間違っている。
「まじか。これって関係代名詞の副詞的用法を問う問題じゃなかったの?」
「それだと訳がおかしくなるでしょ? だからこの問題で使わないのはこの単語」
与えられた7単語のうち6語を使って並び替えるという問題だ。単語群から使う文法知識を汲み取ってさらさらと答える種類の学生をカモにするようなひっかけが施されている。
その解き方は祐輔もよくすると言っていた種類のものだ。俺はこの疲労困憊男に目を向けた。
「あんたは間違わなかったの?」俺より先に藤間さんが訊く。
「僕は間違わなかった」と祐輔は答えた。「関係代名詞の副詞的用法は会話文の方でも訊いている。同じ年に同じ文法知識を2度訊くのはとても不自然だから、かえってすんなり答えられたな。解く順番に感謝だよ」
センター英語の攻略法のひとつとして、解く順番を出題順にせず難しく配点の高い文章題をフレッシュな脳で解くというものがある。祐輔はそれを実践していたためそれに気づけたとのことだった。
俺もその順番で解いてはいるが、とても祐輔の言うような問われる知識の偏りなどに気を配ってはいなかった。目の前の1問1問に全力で取り組まなければならないセンター試験本番の中、こいつはそんな視野の広さを保っていられる。
変なやつだ、変で面白いやつだと思ってきたが、本当に凄いやつなのかもしれない。
俺はしばらく祐輔を眺めた。チーズインハンバーグをもそもそと食べ終えた祐輔はようやく口が回るようになってきたらしく、少しずつ発言するようになってきた。祐輔たちの発言数が増えるにつれ俺は自然と聞き役に回る。
祐輔はこの春以降の住居を話題に挙げていた。
入試で失敗することなど少しも想定していないため、俺は大学近くのマンションにひとり暮らしをする算段をつけていた。不動産業を営む親たちが所有権をもっているマンションで、近くにある音大の学生に向けて作られた防音性抜群の物件だ。俺の大学生生活にふさわしいものだろう。
その物件の話をしていると、祐輔が俺に褒め言葉を並べてくれた。
「直人くんってお金持ちなの?」という藤間さんの言を受け、
「こいつはイケメンで身長も高いくせに金持ちだ」ときたものだ。その後に「死んだ方がいい」と続いたことは水に流そう。
祐輔は冗談めかして話したが、これらは実際本当だった。俺は平均よりそれなりに背が高く、顔が良いと言われることが多い。実家は金をもっている。
だから、仮に俺より祐輔の方が色々なことを考えられる頭をもっていてバスケットボールに優れ、かわいい彼女と仲良くやっていたとしても、それを妬む必要はない。それらを羨ましく思うのは単なるないものねだりだからだ。
そう頭ではわかっていたが、どうにも落ち着かない部分が俺には残った。理由はすぐに検討がつく。それら祐輔にあって俺にないものを俺は羨ましいと思う部分があるのに、俺にあって祐輔にないものを、こいつが羨ましがっている素振りをこれまでろくに見たことがなかったからだ。
だから祐輔が「いいなあ」と羨望の眼差しを俺に向けてきたとき、俺は内心とても驚いた。「僕の分も頼んでおくれよ」と物件の交渉をおねだりされる。
「いいぜ」と俺は即答した。「約束はできない」と保険をかけながら、俺は頭の中で親を説得する戦略を張り巡らす。なに、俺の友人で、しかも比較的貧しい環境で育った男が医者になると言っているのだ。余裕のある大人にサポートしたいと言わせるのは簡単なことだろう。
ふと藤間さんと目が合った。彼女はその大きな目をすぐに逸らす。まるでバツが悪いことでも考えていたような態度である。
俺にはすぐにその原因がわかった。今藤間さんの家に転がり込んだような形になっている祐輔が、出ていくと言っているようなものだからだ。おそらく彼女は現在の生活が幸せなのだろう。
ひょっとしたら俺の存在を呪っていたのかもしれない。藤間さんは気を紛らわすようにスマホのチェック作業を行いはじめ、メッセージの着信に気づいた様子で画面を祐輔に突きつけた。
「これ、あんたにも来てるんじゃないの?」
どうやら藤間さんたちの通う塾から呼び出しがかかっているらしい。進路についての緊急会議のようなものでもするのだろうか。
俺たちは本来の目的を思い出し、ようやくセンター試験の自己採点にとりかかった。
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祐輔のセンター試験の結果は失敗気味なものだったらしい。あいつは900点満点に換算して9割の得点、つまり810点の獲得を目指していたわけだが、結果は801点だったとのことだ。1の位と10の位の数字が入れ替われば当然センターリサーチの判定は変わる。
これまでの祐輔の偏差値を知っている俺からすれば、それは途方もなく良い結果なのだが、藤間さんに聞いたところによると、あいつは泣きそうなほどヘコんでいたらしい。
全教科で90点しか失点できない中現代社会を選択し、そこで30点の失点を許容しているくせに本気でそんなことができると思っていたのだろう。ふてぶてしい限りである。やはりこいつは変なやつというよりもクレイジーな思考回路をしているといった方がふさわしい気がする。
しかし、そんな失意の夜はすぐに明け、いつもと変わらない顔で祐輔は2次試験に向けた勉強をはじめたし、当然のようにバスケットボールにも触りつづけた。確かにシュートタッチや瞬時の判断といった感覚的な部分ははひとたび競技から離れると驚くべき速度で衰えるため、それを悔しく思う気持ちはわかるが、センター試験で自身に課したノルマが達成できなかった上それでヘコんだにも関わらず生活態度を変えないというのは、それはそれで凄いことだなと俺は思った。
「そのバスケしてる時間を、勉強しなきゃ! とか思ったりしないのか?」
ある日俺は祐輔にそう訊いてみた。祐輔は少し考えるような素振りをみせ、「あまりそうは思わない」と答えた。
「よく1日中勉強しました、とか1日12時間勉強しました、とか言う人がいるけど、本当にそうなのかな? 皆ご飯も食べれば風呂にも入るし、ずっと集中していられるように人間の体はできてないんじゃないかと思う」
「でもさ、たとえば棋士のインタビュー記事とか読むと、本当に1日中やってそうな感じじゃないか? ほかにも漫画家の漫画なんかでは1日中描いてたりするじゃん」
「それはそのこと自体が幸せだったり楽しかったり、達成感や使命感みたいなものにあふれていたりするからじゃないかな? 必要性があるっていうかさ。僕らにとっての受験勉強って、受験勉強自体が目的じゃないよね。合格して、その先大学で身に着けるものが人生に大切なのであって、受験勉強自体に価値があるわけでもないし、僕は正直勉強が嫌いだ。その中で楽しみながら集中してこなせる時間には上限があって、空いた時間はバスケをしているというだけだよ」
「お前、受験勉強が楽しいのか?」
「楽しいというか、やってりゃ面白味は感じられるよ。直人はそうじゃないの?」
「俺はそうだな、あまり考えたことがない。生物は確かに面白いけど」
「でも生物だけやってるわけにはいかないだろ。僕も英語だけやってられたり英文解釈なんかをずっと吟味していられるなら1日中できるかもしれないけど、全教科ではちょっと無理だな。区切りがついたら疲れちゃう」
「なんだか変な説得力があるな。それが正しい振る舞いのような気がしてきた」
「僕にはそうだ。これで合格しないなら、きっと僕には縁がなかったことなんだろうね。でも、なんていうか、バスケ部を辞めて愛さんに出会ってこれまでやってきたことを思い返すと、なんだか受かる方が自然なんじゃないかと思うわけだよ」
「ポジティブ野郎め」
「言わなかったっけ? 僕はポジティブ野郎なんだ」
「妖怪ポジティブ小僧と呼ぼう」
「”妖怪”にカタカナは似合わないな」
祐輔は笑ってそう言った。
そして俺たちは学校からこの3年間の評価を示した調査書というやつを作ってもらい、それぞれ願書を作って志望校に郵送した。祐輔はセンター利用で私立も受験するらしい。有名校の文系学部だ。明らかに彼の意思ではないだろう。
しかしその大学は奨学金の類が充実していることでも有名で、一定の成果を上げられるのであれば返済義務が生じないものもある筈だ。それらのシステムを活用し、優秀な成績を収めて授業料免除の権利などを得られるなら狩井家の財政でも学生生活を送れることだろう。ぶどうが丘大学に進学するより充実したバスケットボール生活を送ることすらできるかもしれない。
やがて合格通知が送られてきて、祐輔はスポーツ科学部へ進学する権利を得た。本気でバスケに人生を捧げるならば理想的な環境だ。
俺も詳しくは知らないが、大学バスケは地域ごとにリーグみたいなものができていて、それぞれのリーグを勝ち上がったものたちが決勝戦のようなことをするシステムになっている筈だ。そして関東リーグは群を抜いた実力となっているため、大学バスケの最高峰で戦うならば関東の大学に所属することが必要となる。
祐輔はこの1年ほどの生活を踏まえて医学部に進むのが自然なように思われると話していたが、バスケットボーラーになる人生であるという前提で考えるならば、ここでスポーツ科学部に進学する方がより自然な流れなのではないだろうか。
彼はおそらくバスケ部を辞めてどこかほかのステージで鍛えなければ、今のようなスキルは身についていないだろう。シュートフォームひとつをとってもそうで、祐輔の今のフォームは教科書的な“正しいフォーム”からはやや逸脱している。しかしその方が彼に合っているのは一目瞭然で、まるで水が川の形に沿って流れるように、とても自然にシュートを放つようになっている。
祐輔の小さな体と秀でたスキル、そしてちょっと変わった考え方で果たしてどこまでやれるのだろうか?
あいつもそれを知りたいのではないだろうかと俺は思った。




