表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
3/31

3. 塾の見学


「狩井、ちょっと待て」

 

 退部した次の日、授業が終わったので帰ろうとしているところを呼び止められた。担任の教師だった。僕は不審に思いながらも荷物を降ろした。


「なんですか先生」

「お前、バスケ部辞めたらしいな?」

「確かに辞めました。なんで知ってるんですか?」

「そりゃお前、お前たちの担任だからだよ。受験生の内申書を書くのに所属クラブの情報を知っていないといけないだろ」

「なるほど」と僕は言った。「もしかして、退部したら内申点下がります?」

「別にそういうわけじゃないさ。ただ、部を辞めたお前はこれからどうするのかと思ってな」

「どうって、別にこれからわざわざ不良になるつもりはありませんよ」

「誰もそんな心配はしてねえよ。受験勉強するのか?」

「まあ、普通に考えたらするでしょうね」

「どこでだ」

「考えてないですけど、家か図書室か街の図書館あたりじゃないですか」

「ふうん」と担任は面白がるように頷いた。「塾にはいかないのか?」

「行く予定はありませんね」

「なぜ?」

「なぜって――」


 家計に負担をかけたくないからだ。僕の家は母子家庭で、お世辞にも裕福な家庭環境とはいえない。担任はそれを知っているので不思議に思う筈がないのだが、なんだか僕は改めてそう答える気にはならなかった。


「なんでそんなこと訊くんですか。学校の教師は塾に行くなと言うものでしょう?」

「そりゃまあ、多くの場合はな」


 担任は少し笑ってそう言った。「実は、お前に紹介したい塾がある。本気で受験勉強するならの話だが」


「なんでです?」今度は僕が訊く番だった。

「それは俺が英語の教師で、お前の英語の成績が良くて、その塾を最近新しく開いたのが俺の友達だからだよ」

「はあ」

「まあまあ、俺は紹介するだけで別に実際入らなくてもいいし、見学だけでも行ってみないか? 悪いようにはしないから」


 悪いようにはしないときたものだ。


 しかし実際僕を悪いようにしたところで得られる利益はほぼないだろう。担任教師という立場を考えても僕をそれほどひどい目には合わせられない筈だ。リスクに利益が釣り合わない。


「遠くないなら見学に行くのはいいですよ。万一のため、母と誰かほかにも善意の第三者に先生の紹介によって行ってくると伝えて行って良いならね」

「お前、さては俺を信用してないな?」

「だってなんだか怪しいんですもん。さ、住所を教えてください」

「お前の家からそこまで近くはないけどな。通学可能な範囲だろ」


 こうして僕は担任教師推薦の塾の住所を手に入れた。見ると、調べたら出てきたのでそのうち見に行こうと思っていたバスケットボールコートの近所だった。


 僕は断然食指を動かされた。どれほど真面目に受験勉強をするかや、おそらくタダということはないであろう塾通いをどれだけするかは別にして、とにかく一度見てみなければならないだろう。


「これ、今日行ってもいいんですか?」と僕は訊いた。

「積極的じゃないか。もちろんいいぞ。その旨連絡しておこう」

「一度家に帰ってから行きますよ」


 一度帰って荷物を持って、だ。当然荷物というのはバスケットボール用品のことである。


-----


「それじゃあとりあえず授業でも受けてみる?」


 はじめましての挨拶もそこそこに、担任教師の友人で新しく塾を開いたという黒川先生はそう言った。「百聞は一見に如かずと言うしね」


「いいんですか?」と僕は訊く。

「いいのよ。ここではわたしがルールだ」黒川先生は胸を張った。


 黒川先生の塾はアパートの一角を改造して作ったような教室で、授業を行う一部屋と主に自習を行う一部屋が基本的に生徒に提供されているらしい。授業を担うのは黒川先生か、まだ姿を見ぬ井手先生だ。僕たちは通常生徒には解放されていない応接室のようなところでお茶を飲んでいる。


「今日の授業は数学で、担当は井手。3年向けのは8時35分から始まるから、それまで自習でもしてるか、てきとーにぶらぶらしてくるか、1・2年の分でも見るかしたら?」


 平日の授業は3コマ行われるらしい。それぞれ高校1・2・3年生が対象で、この塾は高校生のみを対象としているらしい。


「講師が増えたら対象年齢も広げられるんだけどね。狩井君がメキメキ成績を上げて、良い地元の大学に受かって、バイトで働いてくれることを期待しているよ」

「バイトですか」

「格安でね。そのかわり授業料は安くしとくよ」


 見せてもらった料金プランは本当に安かった。少なくとも、ちょっと調べた予備校の月謝とは比べものにならない。


「まるで」と僕は口にする。「僕の家の経済状況を知ってるみたいだ」


「知ってるよ。友達から聞いてるからね」

「それって個人情報じゃないですか?」

「まあまあ。そのかわり君の学力についても知ってるよ」

「何がそのかわりなんですか。それで、僕の担任の教師は何て言ってたんですか?」

「そうねえ」黒川先生はいたずらっぽく笑った。「とても講師としてやりがいがあるだろう、って言ってたわ」


 それでこの料金プランになるなら良い意味で受け取ればいいのだろうか。僕は大きくひとつ息を吐く。


「時間まで自習しますよ。部屋はどこですか?」


 自習部屋となっている一室へと黒川先生は僕を連れて行った。


 自習部屋はそれなりの広さをしていた。机はすべてホワイトボードの設置された一方向を向いている。教卓もあるため、時期によってはこの部屋で授業を行うこともあるのかもしれない。僕を空いている席につかせると、黒川先生は教卓の椅子に腰かけた。すかさず自習中の生徒の一人の声が飛ぶ。


「もういいですか?」

「もちろん。待たせたねえ」


 どうやら自分の授業がない間、黒川先生はこの部屋の教卓について生徒の質問に応えているらしい。行列をつくるのではなく挙手制で、先生は質問を受け付けた。


「それじゃ、藤間から。一番手を挙げるのが早かったからね」


 積極的な女の子の質問が採用された。トウマさんは教卓に向かい、黒川先生へ質問をする。僕は自習をして待つと言ったくせに教科書も開かず彼女の様子を観察した。見とれていたと言っても良い。活発そうな雰囲気、制服のスカートから伸びる健康そうな足、シャンと背筋の伸びた良い姿勢。トウマさんはとても魅力的だった。


「藤間の質問は君らのためにもなるから、皆で関係代名詞の復習をしよう。3年以外も聞いとけ~」


 黒川先生はホワイトボードを使って短い授業を開始した。言った通り、関係代名詞の復習がてら、ややマニアックな使用法と上手な和訳の仕方を説明していく。


 英語は好きだ。学力面でも僕はそれなりに自信をもっている。それでも黒川先生の授業はためになると思えるもので、何より話として面白かった。


 この先生に習うのは良いかもしれない。僕はこの塾に興味を持っていた。授業が有益で、授業料が安く、何よりかわいい女の子がいる。その上バスケットボールコートも近所にあるのだ。


 受験勉強に時間と労力を注ぐのも悪くないのかもしれないと僕は思った。



女の子の名前は藤間愛


トウマ アイという読み方です

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ