29. 経験豊富
部活を辞めた祐輔の受験生としての生活は特記するようなこともなく淡々と進むものだと思っていたのだが、どうやらそうでもなかったようだ。
俺たち祐輔の抜けたバスケ部員たちが夏の大会に向けて課題に取り組んでいる間、祐輔は名前も聞いたことのない塾に入って熱心に受験勉強をしていたらしい。
どのくらい熱心かというと、休み時間に英単語の暗記をするくらいだ。こいつの暗記科目に対する態度を知っている俺にとって、それは衝撃的なことだった。
高校受験の時にもこいつは驚くほど勤勉な日々を過ごしていたが、英単語の暗記をちまちまとしたりはしなかった。語彙を増やすというよりは、少ない語彙で何とか問題を解く能力を身につけようとしていたのだ。
祐輔は一貫して変なやつだったが、同時に有能なやつでもあった。そんな効率的でないと思えるやり方で、比較して明らかに語彙力の高い俺と同じような点数を取るのだ。通常学校の試験は能力というよりは勉強に時間を十分費やしたかどうかを見極めるような問題を作りたがる。その上で、そつない勉強の仕方をしている俺に、歪な努力で追いついてくる。
そんな祐輔が英単語を暗記しようとしている。誰に言っても伝わらないかもしれないが、これは凄いことだった。
俺は祐輔に話しかけ、雑談の中でお菓子をもらい、彼をバスケ部の追い出しマッチに誘った。
祐輔の籍はバスケ部から抜かれていないことだろうし、監督に見られず行う試合に無許可で出してもバレないだろう。ひょっとしたらバレても怒られないかもしれないし、場合によっては監督は喜ぶかもしれない。監督も祐輔の能力自体は認めている様子だったからだ。
返事は曖昧なものだった。ひょっとしたらバスケットボールへの情熱は薄まっているのかもしれない。それは祐輔らしくないようにも思われたが、しょうがないかもしれないな、と少し寂しく思いながらも俺は納得した。
つまりはそれほど熱心に受検に取り組んでいるというわけだ。俺は今の祐輔の目標が何なのかが気になった。
「受けるところは決めたのか?」と俺は訊く。
その答えときたら!
これを聞いた時の俺の驚きは筆舌に尽くしがたい。この暗記科目が大嫌いで高校3年生の夏になってやっと英単語の暗記に取り組んでいる男が、医学部に行くというのだ。
「それはまた、思い切ったな」
実際祐輔は思い切ったのだろう。彼の母親は看護師だった筈だから、そこからの影響もあるのだろうか? とても医学部を目指した教育を施してきたようには思えないが。
驚きのうちにこの日はお開きとなり、さらなる驚きは追い出しマッチの日に訪れた。それまでどこで何をやってきたのか知らないが、この受験勉強にあらゆる時間を費やしている筈の男は、バスケットボールスキルがまったく衰えていなかった。
「下手になっていないじゃないですか」
菊池は祐輔にそう言った。俺たちと仲の良い後輩だ。俺は菊池に全面的に同意する。祐輔はコートビジョンがどうのと謙遜していたが、春あたりにバスケを辞めた男の動きではない。というか、当時の祐輔よりも動きがキレているようにさえ見えた。
どうやらどこかでバスケットボールを触っているらしい。俺に声をかけずにだ。気に入らないことである。
その成果がどれほどのものか、直接確かめようと思い、俺はボールを持って祐輔を1on1に誘ってみることにした。
結果は散々だった。かつて祐輔には止められなかった得意のスピンムーブも妨害するコツを得られていて、豊富な1on1経験値の蓄積を実感した。どこかのストリートボールにでも参加しているのかもしれない。世の中にはそのような世界もあるというのを知識としては知っている。
祐輔は俺の知らない世界を覗いているのかもしれない。それは新鮮な驚きだった。衝撃の事実はそれがすべてではなく、なんと祐輔から女の気配がしたのだ。
俺と違って祐輔はこれまで女の子とろくに接したことがない筈だ。そんな祐輔から女の気配がするというのは、微笑ましいようでいて違和感を伴うことである。菊池と俺は「面白いことになった」と顔を見合わせたものだったが、祐輔は俺たちのオモチャになることを拒んでさっさと部室を後にした。
俺たちは祐輔を解放する条件としてことの次第を後日詳細に報告することを義務づけた。祐輔はそれに従って俺に顛末を話したわけだが、残念ながらそれは俺たちの望むこれからどうやってその女を攻略しようかという段階ではなく、既に祐輔には彼女ができていた。さらにお泊りもしてきたらしい。なんということでしょう、俺は祐輔を祝福した。
俺と祐輔の間には持ちつ持たれず制度と呼ぶものがあって、それはお互いの親に言えないイベント時に自動的に口裏を合わせて利用し合おうというものだった。発案者は俺で、昔から俺は女の子に人気があったが、その人気を何らかの行動に移すことを考えだしたころに作られた制度である。
この制度はとてもうまく働いた。なぜなら祐輔は母子家庭で、家にひとりでいることがほとんどであるため、俺の親が祐輔の家に連絡したとしても直接祐輔が対応してくれるからである。これが保護者間でのやりとりとなると少々分が悪い。
祐輔が満足そうな様子だったのでわざわざその不平等さを周知することはせず、俺は祐輔に童貞を捨てた感想を訊くことにした。聞けなかった。なぜならこいつは彼女がひとりで住む家にお泊りしてきたにも関わらず、童貞を脱してこなかったと言うからだ。
プラトニックラブというやつか? 正気の沙汰とは思えなかった。
第一彼女もそれで満足なのだろうか。俺は男女関係の先輩としてこの新参者に指導を施した。言葉を額面通りに受け取ることが正しいとは限らない。
それにしてもこの女の方もいったいどういうつもりで若い男を泊めたのだろうか。顔を見てみたいものだと思っていたら、会う機会がやってきた。オープンキャンパスだ。
将来的に家の不動産業を継ぐ継がないは別にして、俺は大学では生物学を専攻するつもりだった。好きな分野だからだ。祐輔と何かで張り合うつもりはないし、親から強制されてもいなかったため、理学部生物学科を受験する。この決断は簡単だった。
「生石くんの成績だったら、ちょっと頑張ればもっといい学部に行けるよ」
そんな内容のことをバスケ部を引退して通いだした予備校のチューターからは言われたが、偏差値の高低は俺にはどうでもいいことだった。生物的な分野の研究は医療系でも熱心に行われていることだし、そちらに進めば資格も取れる、とのことだ。
しかし幸いなことに俺には実家の裕福さという武器があったため、そんな安心を買うための資格を必要としていないのだ。このあたりのことを考えている間に、ひょっとしたら俺は祐輔の考え方の影響を少なからず受けているかもしれないな、と感じていた。そしてそれは不快なことでは決してなかった。
それもあって、俺は祐輔をオープンキャンパスに誘うことにした。どうせオープンキャンパスの日程など知らないだろうと思っていたら、当然のように知らなかった。祐輔はいつも知らないことだらけである。
祐輔の彼女、藤間愛さんも同じ大学を受けオープンキャンパスにも行くつもりだということで、俺たちは3人お誘いあわせの上ぶどうが丘大学全学キャンパスに向かうことになった。
藤間さんは活発そうで利発そうなかわいい子だった。よくぞ口説き落としたものである、と俺は親の心境で心の中で賛辞を送る。この変なやつを気に入ってくれてありがとうという気持ちと、俺以外にもこの男の面白さに気づくやつが出てきやがった、という少し悔しい気持ちが入り混じっている。
何にせよ、喜ばしいことだった。
大学では生物学の体験学習みたいなものに参加させてもらい、非常に有意義な時間を過ごした。その後なぜかバスケ部の人たちとボールを触ることになり、俺は半ば辟易としながらウキウキの祐輔に付き合ってやった。
俺は大学で部活に入るつもりはない。何かふわふわとしたサークル活動には参加して女の子と遊んだり旅行に行ったり、時にはレクリエーション的な運動をして汗を流しはするだろう。これまでに培ったバスケットボールスキルを駆使して人気を得ることもするかもしれない。
祐輔は可能なら今から大学部活の練習に参加させてもらえないかとすら考えているようで、関係者と連絡先を交換していた。やっぱりこいつは変なやつというよりクレイジーと形容する方がふさわしい気さえする。
俺は藤間さんと顔を見合わせ、祐輔に対して苦笑いを浮かべた。
「あんなやつの彼女でいいの? 苦労するよ」
冗談半分に言ってみる。藤間さんは挑戦的な笑みを浮かべた。
「苦労は買ってでもしろって言うけどね。直人くんは祐輔と友達してて、これまで苦労してきたの?」
「いや、そういえば、別に困ったことはなかったな」
「あたしも今のところ面白いことばかりだよ」
「あいつの変なところを楽しめるなら、あんなに面白いやつはいないだろうね。俺の友達をよろしく頼むよ」
「直人くんも、あたしの彼氏をよろしくね」
俺たちは再び顔を見合わせ、ニヤリと笑い合った。
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寒さが深まるころにはすっかり祐輔は出来上がってきていて、彼の選択していない生物や、純粋な暗記科目である社会以外で俺は太刀打ちできない状態になっていた。
あの偏った変な学力の人間が普通の努力もしているのだ。当然そうなるだろうと思っていた俺に追い抜かれたという意識はない。
だから俺は素直によくわからない問題の解説を祐輔に乞うこともあったし、実際彼の説明はわかりやすかったり妙な説得力に富んでいたりしたため重宝していた。
「ひとに教えるって、すごく自分の復習になるね」
祐輔はそう言い、そのうち頼んでもいない範囲の話も勝手にしてくるようになった。俺はそうやって自動的に与えられる新しい知識をありがたく頂戴し、自分は自分で適当な量の受験勉強をこなしたりしながら、ほかの友達や親しくしている女の子と遊んだりした。
そんな中、ある日街を歩いていると、女の子の声に呼び止められた。
「直人くん」
振り返ると藤間さんが立っていた。すっかり冬の出で立ちといった感じのモコモコとした格好で、小柄な彼女に良く似合っている。「やあ」と俺は挨拶をした。
「今日はひとり?」
「実はクリスマスプレゼントを買おうと思ってるんだけど、何がいいのかわかんなくって。祐輔ってあまり物を欲しそうにしないじゃん? バスケ用品かなとも思ったんだけど、そういうのって自分で好きなの買いたいかなあとも思うのよね」
「なるほどね。そこにあいつの友達を発見したわけだ」
「そうなの。あたしは神様の存在を実感したね。何かあいつが喜びそうなもの知らない?」
「そうだなあ」と俺は頭を悩ませた。
確実にわかっているのは、祐輔はブランドや流行といった実益を伴わないものにはまったく興味がないだろうということだ。デザインとして好きなものはあるだろうが、自分の好み以外の根拠を彼は必要としない。
「難しいな、わかりやすく好きなものってなさそうだもんな。食べ物とかの方がいいかもしれない」
「食べ物? ケーキとか?」
「ケーキもいいけど、何か特別な料理を用意してやるとかね。いつもあいつが転がり込んでるときは藤間さんが作ってるの?」
「大体はね。あたし、意外と料理も上手いのよ」
「それは俺も味わってみたいものだね。でも料理が上手なら素敵なクリスマスディナーでもこしらえてあげたらどう? それをプレゼントだと言っても、ひょっとしたらかえって喜ぶかもしれないよ」
「喜ぶかなあ?」
「あいつのプレゼントはケーキでいいと言えばいい。たぶん何を贈ったら喜ぶかわからないのはあいつもそうだろうからね。受験が終わって余裕ができたら、普段からお互いに欲しいものを把握しあうといいさ」
「普段から。なるほどね」
「プレゼントの候補は日常生活でリサーチしとかないと、その日考えても浮かばないよ」
「直人くんは、なんだかすごく慣れてる感じね」
「経験豊富なんだよ俺は。祐輔との付き合いも長い」
「それじゃあ今年はそうしようかな」
ありがとう、と藤間さんは礼を言い、鞄からのど飴の袋を取り出して俺にくれた。「これあげる、直人くんへのクリスマスプレゼント」
「飴かよ。しかも食べかけひと袋」
「ほかにあげられそうなものって持ってなくって。でもそれ美味しいよ」
「ふうん」
俺は藤間さんがいなくなった後その袋から飴玉をひとつ取り出し口に入れた。ほのかに酸っぱくやわらかな甘みが広がる。確かに旨い。俺はクリスマスに向けたイルミネーションの中、再びひとりで歩きだした。




