28. 変なやつ
狩井祐輔は変なやつだった。
やつとはじめて会ったのは中学1年の春だった。俺の家は不動産業を営んでいてそれなりに裕福なのだが、俺を中高一貫の私立中学に進学させたりはしなかった。それで入った地元の公立中学で同じクラスになったというわけだ。
生石直人と狩井祐輔というわけで、出席番号順に並んだ座席で俺たちは隣になった。俺たちの間に”加藤君”でも座っていればまた俺たちの歴史は変わっていたかもしれないし、小学校までのように座席が必ず男女で並ぶように配置されていればまた俺たちの歴史は変わっていたかもしれない。
しかしとにかく俺たちは隣同士になり、俺はバスケ部に入るつもりだった。全校集会で部活の紹介があり、入部方法を聞いていた俺は放課後を待ち遠しく思っていたのを覚えている。
中学校という新しい環境に新しいクラスメイト達と一緒に入れられ、俺たち新1年生たちは新しい人間関係を作らなければならなかった。皆それぞれ知らないながらにコミュニケーションを取り、気の合う者を探そうとする。
しかし中には自分からほとんど働きかけないやつもいる。狩井祐輔もそのひとりだった。
オリエンテーション後の休み時間にやつは誰に話しかけるでもなく、ついさっき配られた国語の教科書を開き、目次のページをぼんやり眺めていた。中の文章を読むのでも表紙の絵を眺めるのでもなく目次のページだ。周りがおしゃべりしている中、自分も誰かと話さなければならないと焦ることをしないのだろうか?
放っといても良かったのだが、俺はこの目次野郎に話しかけてみることにした。
「なあ、目次だけ見ておもしれぇの?」
狩井祐輔はちらりと俺を眺め、「面白いよ」とはっきり答えた。
「何が?」
「目次には題名が書かれてるだろ? そこから内容を考えて、合ってるかどうか確かめるんだ」
「それの何が面白いんだ?」
「わからないかなあ、やってみなって。まあでも僕はそれより”エルマー”の続きが読みたかったな」
「えるまー?」
「小学校の国語に載ってただろ。好きなんだ。中学校でも授業中に読めたらよかったのにな」
「買って読めよ」
「読みはしたよ。でも授業中に好きなものを読めるのってなんだかお得な感じじゃない?」
狩井祐輔はそう言い、目次のページに目を戻した。「”竹取物語”って、どう考えても泥棒の話だよね」
「それだと”竹盗物語”じゃないか? 漢字が違う」
「それはそうだね」とやつは言った。
その後俺は狩井祐輔の名前を訊いて、自分の名をやつに教えた。互いに珍しい苗字なので親近感が沸いたのかもしれない。俺は祐輔に少し興味をもっていた。
「部活どこにするんだ?」
俺が祐輔にそう訊くと、やつは「入るつもりはないよ」と答えた。
「部活に入らず何するんだ?」
「別に何も。直人君はどこか入るの?」
「俺はバスケ部だ。今日入る」
「ふうん」
物好きなことだね、と言わんばかりの態度だった。
俺は自分で言うのも何だが、昔から背が高くて顔が良い。身に着けているものもそれなりだ。そのため俺に対する態度には羨望や、もしくは逆にそれを誤魔化すための拒絶感のようなものが多少なりとも含まれることがほとんどである。
そんな俺が、何もするつもりのないこの男に対してバスケをすると言っているにも関わらず、こいつは無関心でいるようだ。そのくせ教科書の目次には多大な関心を寄せている。
変なやつだ。
この時この変なやつを放っておけば、俺たちの歴史はまた違ったものになったのだろう。俺がこの男に構ってやる必要はなかったし、この男から構ってもらう必要もなかった。ほかに友達はいくらでもできる。しかし、当時の俺はこいつの無関心さを許せなかった。
「祐輔も来いよ」
俺はそう言い無関心男を誘った。意外なことに、祐輔はさほど迷った様子も見せず、「いいよ」と頷いた。
「いいのかよ」
「やらなくてもいいけど、やったら面白いかもしれないし」
「そんなこと言って、お前、誘ってほしかったんじゃねえの?」
ニヤニヤ顔でそう訊いた俺に、祐輔は「なんで?」と本当に不思議そうに尋ねてきた。俺はそのニヤつきを苦笑に変え、大きくひとつ息を吐いた。
「直人君も目次で話を考えるといいよ。やってみたら面白いから」
それには答えず、「直人でいいよ」と俺は言った。「俺は祐輔って呼んでるだろ」
「それもそうだね」と祐輔は言った。
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祐輔はバスケにどっぷりとハマった。
中学校でバスケ部に入る生徒は大きくふたつに分けられる。ミニバス等で小学校の頃からボールに本格的に触れ合ってきた者と、せいぜい遊びで触った程度の未経験者たちだ。俺は前者で祐輔は後者だが、部活が始まってからの熱の入れようは明らかに祐輔の方が大きかった。
俺と行動を共にするため、体育館に誰よりも早く来て誰よりも遅く残るというわけではないが、そのひとつひとつの練習態度は部の誰よりも勤勉だった。
しかしそれに気づく者は少なかったかもしれない。なぜなら祐輔には大きな欠点があって、それは重要性を感じられない、ただこなすだけの練習にはまったく身が入らないというものだったからだ。
たとえばルーチンワーク的に反復するだけの練習だ。ハンドリングでもステップワークでも、もっとも練習効果があるのは自分にギリギリ不可能な難度のものをできるようになるため努力・工夫することである。明らかにできることを再確認する作業にウォーミングアップ以上の意味はない。
集団練習では足並みを揃えるために往々にしてただの反復練習が強制される。たとえばシューティングのような感覚的なものが必要でフォームを固めるための繰り返しや、基礎体力作りやコンビネーションの確認といった意味がある場合を除き、祐輔はこうした課せられて行う反復作業をほとんど嫌悪しているといってよかった。
そんな態度が指導者に良く思われるわけがない。加えて、バスケットボールという身長の高さが大きく有利に働く競技において、祐輔の体格は明らかに弱点だった。
俺は背が高くそつがない。同じポジションでプレイする同学年の俺たちの内、俺を試合で使う比率が高くなるのはとても自然なことだった。
俺と祐輔のポジションはいずれもポイントガードで、コート上の監督だとか司令塔だとか言われる。ゲームをコントロールし、チームに勝利をもたらすのがその仕事内容だ。自分で得点を取りに行くこともあるが、それほど多いわけではなく、どちらかというと駆け引きの1要素として得点力を利用することの方が多い。
祐輔はその得点を取る能力にも優れており、また背は低いが熱心な守備ができるため、シューティングガードとして得点と守備を期待されて起用されることも少なくなかった。こちらをメインとするよう希望していれば、ひょっとしたら俺の控えとしてずっと過ごすことはなかったかもしれない。
しかし祐輔はポイントガードのポジションにこだわっていた。そのこだわりは中学校を卒業し、同じ高校に進学してバスケ部に入った後も続いていた。
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俺たちが進学したのは校区内の公立高校のうち、もっとも偏差値の高い中のひとつだった。
俺の知っている祐輔はバスケ部の練習メニュー同様科目の好き嫌いが激しく暗記科目が壊滅的な点数だったので、そんな偏りのある学力でよく合格したものだと思ったが、彼曰く「合格点と試験科目を調べて受かると思ったから受けた」らしい。それで実際受かるのだから大したものである。
「なんでここにするんだ?」と受験勉強の合間に訊くと、
「直人が行くからさ」とあっさり答えた。「高校の違いなんて調べるのも面倒だったし、別に特別行きたいところもなかったから、直人が行くところにする。行けそうだしさ」
祐輔にとって大事なのは比較的お金がかからないことだけだったらしい。
学校の課す定期試験で良い点を取るためにはまったく勉強をしないにも関わらず、受験という目標のためには並々ならぬ情熱を傾けられるのがこの変なやつの凄いところだ。しかもそれを凄く頑張っているという態度ではなく自然にやれる。
変なやつだと改めて思ったが、変わらず変なやつだったため、俺は不思議なことに少し安心した。変で、面白いやつだ。俺は付き合っていく中で祐輔のことを気に入るようになっていた。少なくとも部分的には優秀なのだが、本人はそのことに無頓着で、欠点を隠そうとしないためその優秀さは目立たない。”俺だけが知っている”という感じは悪くなかった。
意味のある練習には非常に勤勉で試合中も決して手を抜かない。ポイントガードというポジションにはこだわっている筈なのに、シューティングガードで起用されれば自分の役割を受け入れる。そのくせ、監督の指示は平気で無視するやつだった。この矛盾はこいつの中でジレンマとなっていないのだろうか。
おそらく自分の考えというものが確固としてあるのだろう。アイデンティティが確立されているというやつだ。それは俺には魅力的な側面に見えるのだが、同時に生きづらいだろうなとも思っていた。
しかし祐輔はその点を悩むことなく、自分なりに勝手に楽しくバスケットボールに取り組んでいるようだった。それは学年が上がって後輩ができても変わらなかったし、その後輩のうち一人と仲良くなって指導するような立場になっても変わらなかった。
だから高校3年生の春、祐輔がいきなり部を辞めると言い出した時、俺はとても驚いた。
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一応引き止めはしたが、祐輔が自分で一度下した決断を、他人から何か言われて考え直すことはないだろうとも同時に思っていた。そのためどちらかというと今後の祐輔との関係がこじれないことを念頭に話を進めた。
辞めるのか。このバスケ選手としては小柄な男を眺めながら、自分にはその決断ができるだろうかとぼんやり考えた。
おそらくどのような理不尽な目にあったとしても、俺はこの男のように簡単に部を辞めることはしないだろう。中学から続けているこの部活動はあまりに俺の生活の一部となっていて、当然人間関係にも大きく影響している。それらがすべて覆るのだ。終わりがいずれ訪れるとわかっている中、その不満な生活を変えるリスクはあまりに高いように思われる。
それをやってのけるのだ。他人から評価はされないだろう。ただの根性なしと思われる方が自然だ。それでも俺はなんとなく祐輔がそうすることは理解できるような気がしたし、その決断を非難する気にもならなかった。
「バスケ、辞めるのか?」
そう訊いた俺に、祐輔は「バスケは辞めない」と答えた。辞めないのかよ、と思ったものだが、こいつはこういう人間なのだろう。
適当に話を切り上げ、俺はハンバーガーショップを後にした。祐輔はついてこない。部活も高校も、形としては祐輔は俺についてきたようなものだったが、特別そういう意識があるわけではないのだろう。そう見える形になっていることを気にすることもない。
やっぱり変なやつだと俺は思った。
後日、ロッカー前で監督と遭遇した。監督は後片付けの済んだ祐輔のロッカーを眺めていた。俺のロッカーはその隣であるため、俺はペコリと一礼し、自分のロッカーを使用した。
「生石」と監督は俺の名を呼んだ。
「何ですか?」
「今日、狩井が退部届を持ってきた。あいつはもう戻ってこないだろうか?」
「戻ってこないと思いますよ。そういうやつじゃない」
「そうか」
監督は呟くようにそう言い、大きくひとつ息を吐いた。平気で指示を無視して自分の思うベストのプレイを選択し、それを咎めても修正せずにいつづける祐輔に監督は根気強く接していた。
裏切られたように感じるのだろうか? しかし俺から見ればふたりの間に信頼関係は築けておらず、一方的な思い入れを拒絶したからといって裏切られたと感じるのはあんまりな気もした。それにおそらく祐輔は監督のそのような思いを感じてはいなかっただろう。
監督と祐輔のバスケ観はあまりに違っているように感じられた。しかも都合の悪いことに、祐輔の考えが明らかに間違っているわけでもなかった。だから監督は祐輔に十分なプレイタイムを与えた上で己の誤りに気づかせる、という手法を取ることはできなかった。成功するかもしれないからだ。
今では総合的なバスケットボール能力として俺が祐輔に明らかに勝るとは思えない。体格的には明らかに俺の方が優れているため、おそらく技術や意識面では祐輔の方が優れているのだろう。
あんな変なやつに全方面で勝つことなどできない。俺はそれを自然のことのように受け入れているが、監督には難しいことかもしれない。俺は少し監督に同情していた。
「戻って来ないとは思いますけど、やつも受験生ですからね。部には所属しといた方が有利に働くかもしれない。万が一ってこともあるし、それは受理しないでおいたらどうですか?」
どうせ半年もせずに引退だ。俺たちは引退後、気持ちとしては部に所属していないがわざわざ籍のようなものを抜いたりはしない。それと同様の扱いにしてはどうかと提案したわけだ。
監督は何か考えながらも俺の提案に頷いた。
「よかったら生石もあいつの話を聞いてやってくれ」
「監督もそうするといいですよ」と俺は言った。




