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27. 百聞は一見に如かず


 ぶどうが丘大学、通称医科歯科キャンパスには敷地内に大きな池がある。


 数学と理科という午前中の試験を終えた僕たち受験生にはお昼休みが与えられていた。持ち込んだ食料を会場内で食べる者もいれば、開放されている学生食堂にお邪魔しにいく者もいる。気分を変えたかった僕は会場をとりあえず後にし、ふらりと歩いて石造りの人工池をぼんやり眺めた。


 銅像のような男性像が建っており、彼は水瓶を右肩に担いでいた。イベント時などはそこから池へと水が流れるのかもしれない。痩せぎすの体で重荷を背負い、のっぺりとわずかに鼻の位置がわかる程度にしか彫られていない表情は、なぜだか誇らしげなように僕には見えた。


 昼休みは歩くことにした。構内を出てキャンパス周りをぐるりと歩くとやがて大学病院に行きついた。考えてみれば当たり前だが、医学部や歯学部を含有したキャンパスは大学病院に併設されている。


 目についたコンビニで肉まんとアメリカンドッグとチョコレートと水を購入した。歩きながら肉まんを平らげアメリカンドッグをかじり、行き当った公園で水を飲んだ。ベンチに座って大きくひとつ息を吐く。


 周りに誰もいない中、わずかな環境音が耳に届く。世界中にひとりぼっちのような心地がしていた。心細いものだなと僕は思う。いつもはこの孤独感を愛していた筈なのに、と自分で自分を笑ってやった。


 気弱になっているのだろうか? 否定するのは難しい。


 試合終了の5分前、6点差で負けている場面で敵にスリーポイントシュートを入れられたようなものだろうかと考えた。ボーラー間の常識では1分あたり1点のビハインドは挽回可能と考える。試合終了5分前に6点差から3点追加され、9点差となったら僕は絶望するだろうか?


「しないね」と僕はあえて口に出して呟いた。


 試合中に絶望することは意味がない。今の自分に可能なことを考え、チームが勝利に近づくためにできることをするだけだ。


 その道のりは果てしなく険しいが、ひとたび流れに乗れれば2-3分で10点ほど得点することは不可能ではない。僕がその立場にいるならば、一旦落ち着き確実な得点を目指すことだろう。


 反撃は守備からだ。相手の攻撃を防ぎ、トランジションの形でできればスリー、難しければ勢いを生む速い攻撃を心がける。追い上げる形になってしまえばかえってリードしている側がプレッシャーに晒されるというものだ。


 少し闘志が沸いてくる。この種火を大事に育て、炎を作り、反撃の狼煙を上げなければならない。


 僕は宙でボールを操り、スリーポイントシュートを放った。以前の僕より早く正確に放つショットだ。イメージ上のボールはひときわ高い弧を描き、ネット以外のどこにも触れずにネットをくぐる。


 そのイメージを大事に抱え、僕は試験会場へと歩いて帰ることにした。


-----


 さて、気を取り直して午後である。チョコレートでカロリーと共に糖質を補充し脳に栄養を行き渡らせる。少量の水を摂取し臨戦態勢を整えると試験問題が配られた。


 午前中は良くなかった。これは素直に認めよう。しかし僕の得意科目は英語であって、それはこれから発揮されるわけである。


 中でも自由英作文には自信があった。テーマに沿った論理的な文章を用意し、文法的や単語的なミスさえなければ安定して高得点が得られるのだ。言葉にすれば簡単だけれどなかなかこれが難しい。らしい。僕にとってはあまり困難でなく、難度の高さを指摘されても実感しづらいものだったのだが、この分野においては愛さんより常に高得点だったことで僕は自信をつけている。


 これまでのこの学部の入試の歴史上、自由英作文は常に出題されてきた。お題は多種多様なものだがそれほどマニアックな知識や想像もつかない単語を必要としない。僕好みの傾向だ。


「来いよ」と僕は考える。


 気分は1on1だ。いいように翻弄し、ドライブかシュートを決めてやる。


 開始の鐘が鳴らされる。僕は問題用紙の表紙をめくる。パラパラと全体を眺め、設問の全貌を把握する。既に試験は開始している、僕は静かに驚いた。


 自由英作文が無いではないか!


-----


 パニックにならないよう意識して深い呼吸をし、改めて設問に対峙した。本来自由英作文である筈のスペースにはただの英作文の課題に近いものが並んでいる。お題は日本語のことわざ的な表現を英訳しろというものだ。英語をある程度真面目に履修した人間なら誰でも知っているような難度のものから、これまで英語にしようと考えたこともなかったようなものもある。


『これらの日本語を英語で表現せよ』


 問題文にはそう記載されていた。


 とにかく不測の事態だ。僕はとりあえずこの英作文の群れを無視することにし、ほかの問題に取り掛かることにした。


 大問はやはり4つ。会話形式、物語調、評論調の長文がそれぞれひとつずつと、ことわざ英訳だ。僕はまず評論文をやっつけた。


 話題はおそらく医療関連で、”Polio”という病気の歴史についてだ。何と読むのかわからないし、当然その歴史についてもまったく知らない。どうやら腸に関連した病気らしいことがまず読み取れた。


 腸チフスというやつだろうか? 腸チフスについては聞いたことがあった。腸チフスのメアリーという強烈な家政婦の話を読んだことがあったからだ。しかしこの単語がチフスに該当するような根拠は腸関連である以外に見つけられなかったし、話題の病気は小児に多発しているようだった。


 メアリーの話で子どもに関して特記されていた記憶はない。


 さらに僕でも知っている知識なので話題に出ても良さそうだけれど、本文中にメアリーの話も家政婦の話も特別出てはこなかった。さすがに腸チフスの症状まで覚えてはいないけれど、本文に出てくる痙攣や麻痺というよりはおそらく嘔吐や下痢が多いことだろう。


 小児で麻痺か。小児麻痺という単語は聞いたことがあるなと思った。


 設問のひとつに和訳をさせるものがあり、その中にこの”Polio”という単語が含まれていた。これを何らかの日本語に訳すことが必要とされている。


 通常和訳問題で知らない単語に当たった場合、僕は減点覚悟でぼかした答えをすることにしている。前後の文脈からおよその意味を判断し、抽象的な表現をすることによって決定的な失点を防ぐのだ。


 しかし今回はキーワードとなりそうな固有名詞だった。僕の持つ選択肢はみっつ。すなわち、まったく的外れな回答となるリスクを負って”Polio”を”小児麻痺”と訳すか、減点覚悟で訳さずカタカナ読みの”ポリオ”とでも書くか、ほとんど全面降伏に近い英単語”Polio”のまま和訳の回答に書いてしまうかだ。


 一見カタカナ読みの”ポリオ”がもっとも低リスクで妥当なところのように思える。しかしこの表記が正しいものでなかった場合、どのような減点のされ方をするだろう?


 塾考する時間はない。僕はとりあえず”ポリオ”と書き、時間が余ったら再び悩むことにした。


-----


 続けて会話文と物語文を消化し、僕の脳はへとへとだった。時計を見る。とても余裕があるわけではないが、十分英作文に時間を充てられる。


 僕は改めて問題文に目を通した。


『これらの日本語を英語で表現せよ』


 これだけだ。あとはカッコ付きの数字とともに5つのお題が挙げられている。いずれも誰でも知っているような種類のことわざで、その中のいくつかは英語での表現も知っている。


 たとえば(1)百聞は一見に如かず、だ。これは”Seeing is believing.”で、おそらくこの受験会場に居る者すべてが知っているだろう。(2)早起きは三文の徳、(3)虎穴に入らずんば虎児を得ず、あたりはうろ覚えだが知っている。


 問題は(4)情けは人のためならず、(5)三つ子の魂百まで、で、これらはまったく想像がつかない。日本語の意味を咀嚼して英訳する必要があるだろう。


 ここで僕が迷うのは、知っている(1)やうろ覚えの(2)(3)をどう答えるかだ。うろ覚えの表現は使いたくない。細部が誤っていたらまったくの間違いにされるかもしれないし、そもそもこういった英語の定型的な表現は韻を踏むために受験英語で習う文法を逸脱した特殊な造りになっていることが多いのだ。


 そして問題文の『英語で表現せよ』という文言。まるで既存の英文ではなく意味を踏まえて自分で英文を作れというように読み取れる。この大問はこれまで自由英作文のスペースだったのだ。


 そんな中で”百聞は一見に如かず”を”Seeing is believing.”と書くのか? しかも他の設問には自己流の英作文を載せるというのに?


 どうする。僕は迷っていた。とりあえず(1)を飛ばそう。解けるものを解いた後に悩みを解決する方がいい。僕はそれぞれのことわざの意味を考え、通常の日本語にまず変換した。それを英語に置換しやすい日本語にさらに変換し、最後に簡単な英作文をする。自由英作文での書き方と同じだ。


 自由英作文のスペースで、形式は違えど自由英作文と同じ書き方をする。とてもふさわしいことのような気がした。


 まったく予備知識のない(4)(5)の方がかえってスムースに英文を作れた。英語で表現してやった。仮にこれで減点を食らうとしたら、むしろ僕の日本語力の方に問題があるというものだろう。


 あるいはことわざの定型文をどれだけ暗記しているかを知りたいだけのセンスを感じられないクソ出題かだ。化学の試験で合成高分子化合物を羅列させるような出題者である。その可能性はゼロではない。


 うろ覚えの(2)(3)をどうするか、僕は判断に迫られていた。うろ覚えの知識は使わないつもりだったが、出題者が暗記能力を問うているのだとしたら、かえって自己流の表現は不適切だと思われるかもしれない。


 早起きは三文の徳。確かアーリーバードがご飯をたくさん食べられる、とかいう感じで書く筈だ。虎穴に入らずんば虎児を得ず。ノーミュージックノーライフみたいな感じでトライしなければ得るものなし、的な文章になる筈だ。


 どちらの記憶もあまりに曖昧なものだった。僕は大きくひとつ息を吐く。


 バスケ部で僕の最後の試合となった、例の場面を思い出していた。


 試合終了まで残り5分、6点ビハインドの場面だ。そこで僕は守備に成功し、トランジションの展開となっていた。


 ボールを素早く敵陣に運びながら僕の頭は考える。いや、考えるという表現は適切でない。考えているような時間はないのだ。僕の体中の細胞が判断する。この局面でチームを勝利に近づけるためには何をするのがベストなのか?


 監督の考えは知っていた。数的優位な状況を利用し、より確実に得点に結び付けられるゴール下までボールを運ぶ。スリーポイントシュートなど言語道断、ベストはイージーレイアップだ。しかし敵のひとりはゴール下で僕を邪魔できる位置にいた。僕の周りには誰もいない。


 シュートを放ったとして、それが入る保証はどこにもない。おそらく失敗した場合の批判のされ方は想像を絶したことだろう。成功してもすぐにコートから追放されたのだ。


 それでも僕にはあの場面でトランジションスリーを打たないという選択はありえなかった。今この瞬間タイムトリップであの場面に戻れたとしても、僕はノータイムでシュートを放つ。何なら今の方が成功率は高いかもしれない。


 そして僕はシュートを成功させることだろう。なぜならその方が自然だからだ。


 僕は英作文に取り掛かり、あやふやな予備知識を排した英文を作り上げた。僕の作った英訳前の和文は『早起きはいいことだ』『挑戦せずに何かを得ることはできない』といったものであり、おそらくそれぞれのことわざに相応しい筈である。文法的・単語的な誤りはあり得ないレベルの平易さに仕立てている。


 減点できるものならしてみろといったところだ。これ以上のものが必須なのであれば前後の文脈や出題の文言の訂正が必要だろう。


「さて」と僕は大きくひとつ息を吐く。問題はここからだ。


 百聞は一見に如かず。こいつをどう料理してくれようか。


 知っている正解を書くのは簡単だ。おそらく減点もされないだろう。しかし僕はこの正解を知ってはいるが、理解はしていない。それほど韻が美しいわけでもなく、どのような理由によってこの正解が採用されているのかわからない。


 そして、そんなメジャーなものを、わざわざ”表現しろ”という文言で出題するのだ。正直言って気に入らない。


 それなら表現してやろうじゃないかと僕は思った。


 このことわざが言いたいのは”経験は大切”ってことだろう。少なくともこの日本で生きてきた18年間で僕がこのことわざを違う意味で聞いたことはない。ひょっとしたら、詳しく調べれば元々の意味であるとか、このことわざの成り立ちであるとかが出てくるのかもしれないが、日本語で表現するならこれだろう。


 僕は『経験は大切だ』と平易な英語で表記し、ピリオドを打った。”very”もつけて大切さを強調してやった。


 このような、これまで受けた教育を無視するような回答をして、これは受験生として不適切な態度だろうか?


 ”百聞は一見に如かず”というやつだ。結果をみてみようじゃないかと僕は思った。





意外と進みませんでした。

おそらく次でお受験は終わりです。

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