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26. 2次試験


 国立大学の前期試験までにはセンター試験終了後1ヶ月半ほどが空けられていた。その間に僕たち受験生は願書を取り寄せ、記載し、センター受験用に凝り固まった学力の方向性をオーバーホールした。そのくらいしかできなかったと言った方が適切かもしれない。この40日あまりはまさに光陰矢のごとしといった具合で瞬く間に過ぎていった。


「結局医学部受けるのか?」


 お誘いあわせの上出願に必要な調査書というやつを高校に取りに行く道すがら、直人は僕にそう訊いた。僕は努めて平静に頷いた。


「そのつもりだよ。少なくとも前期は」

「ボーダーマイナス10点、圧縮されたらマイナス5点か。まあ、現役だし、地元だし、2次で普通にやれれば十分受かるか」

「そういうのって関係あるの?」

「あるだろ。じゃないと浪人生に有利すぎる。少なくとも医学部にはあるっていうのが専らな常識だと思うけどな」

「それはありがたい話だね」と僕は言った。


 そして直人に常識的な知識を啓蒙される。医学部受験は現役生で地元出身の男子がもっとも有利らしい。その有利さを点数に反映させるために面接や小論文の試験があるといっても過言ではなく、僕のような現状そのすべての要素をクリアする者はそれらを無難にこなしさえすればよい。


「なんだか都市伝説じみた話だな」

「何しろ採点の基準なんかは特別公開されないからな。実際やつらが欲しがりそうな人材像みたいなところを考えて、やけに課される面接試験や小論文なんかを加味すると、ありえない話じゃないんじゃないか?」

「確かに試験問題を誰が作っているのか、採点を誰がするのかなんてまったくの謎だな。僕らのイメージする大学教授たちにそんな暇があるようには思えない」

「だろ。それに医学部は理系高学歴の象徴だからな、そりゃ都市伝説も作られるだろうさ」


 ぶどうが丘大学理学部の受験に有利となるセンター試験8割程度の得点をすんなり獲得した直人はそう言った。実に様々な情報をもっており、とてもスマートな印象を受ける。自分の志望していない学部についての噂話にどうしてそんなに興味があるのだろう?


 僕たちは必要な数の調査書を学校から発行してもらった。僕は国立前後期用のそれぞれひとつと、黒川先生たちにお願いされたセンター利用受験用の計3通だ。結局商学部とスポーツ科学部に申し込むことになったが、これらは一度の手続きで併願できる。


「どこか私立も受けるのか?」

「センター利用だよ」

「なるほど、それだけ取れてりゃ確かに通るな。しかもセンター利用の結果は前期前にもらえるから、自己採点のミスがないかもわかる」

「そんな使い方もあるんだ。親切なことだね」

「ところが満更親切なだけじゃあない。入学金支払いの期限も前期試験前だから、2次の手ごたえを知る前にお金を払う必要があるんだ。結果を早く出すのはこのためだよ」

「なるほど」と僕は言った。


 センター利用での受験は必要となる費用も手間も少ないが、それは大学側にしても同様なのかもしれない。自前で試験問題を作る必要も採点する必要もなく、受験料を広く集められ、入学金を回収できる。センター利用の専願で第一希望を受験する者はいないことだろうからこの制度は何のためにあるのだろうと疑問に思っていたものだったが、なるほど納得できる仕組みである。


「大人は賢いね」

「それで、その賢い制度を使って祐輔はどこを受けるんだ?」


 僕の願書提出先を知った直人は驚きと納得の表情を同時に見せた。


「ここから文転か? 波乱万丈な受験人生だな」

「商学部はそうだろうけど、スポーツ科学部って文系なのかな? 一応科学ってついてるけど」

「体育会系なのは間違いないな」

「うまいこと言うねえ」


 後日合格通知が送られてきた。母さんに知らせることをすっかり忘れていたため、とても動揺した電話がかかってきてそれは発覚した。確かに前情報なしにいきなり有名私立大学からの公文書が送られてきたら驚くことだろう。ひょっとしたらスカウトでもされたのかと思ったのかもしれない。


 家に呼び出された僕は母さんに事の次第を説明し、疑念を晴らした。最後まで母さんが気にしたのはやはり金銭面のことだった。


「でもあなた受験費用を塾に出させるって、そんなのいいの?」

「向こうが言い出したことだしいいんじゃないの? 違法性はないように思ったけどな」

「確かに違法ではないだろうけど、でもそんなお金をねえ」

「お金がかかる上必須じゃないことを僕が自分からする筈ないだろ? 塾の宣伝にもなるんだからいいんだって。別に本当に行くわけでもないんだし」

「あら行かないの? 有名どころよ?」

「行かないよ。私立って授業料も高いんだろ。うちにそんなお金はないよ」

「あなたねえ」と母さんは深いため息をついた。


 そして母さんは僕に対してまっすぐと座り直した。僕もつられて背筋を正す。特別間違ったことを言ったつもりはないのに何か叱られる予感をしていた。


「確かにうちはそんなに裕福ではないけれど、そこまで貧乏ではありませんよ。あなたが行きたいというなら大学くらいは行かせてあげます」

「そうなの?」

「もちろん奨学金はたんまりもらって自分で返さないといけない分は返してもらうけどね、母さんはこれでも結構働き者なのよ」

「それは知ってるけど、知らなかったよ」

「少なくともどちらかひとつ、滑り止めにしときなさい。入学金は出してあげるから」


 どちらかひとつと言われ、僕は迷った。どちらも選択しないつもりだったからだ。改めて考えると商学部もスポーツ科学部も何をする学部なのかあまりイメージができなかった。


 それでもわざわざ遠方の大学にまで行ってやりたいことといったらバスケットボールが第一に挙がる。これまで何の功績もなく入学してきた低身長ポイントガードがどれほど受け入れられるかはわからないが、いずれの学部も特別な資格が得られるわけでない以上、卒業後の進路に決定的な何かがあるようには思えなかった。


「スポーツ科学部の方にするよ」と僕は言った。

「スポーツ科学部って何するとこなの?」

「知らないけど、少なくともバスケはできるんじゃないかと思ってる」

「留年なんかしたら必ず後悔させるわよ」


 目の笑っていない笑顔で母さんはそう言った。必ず後悔させるという妙な脅し文句に僕はぶるると身を震わせた。


-----


 試験当日の朝は晴れだった。2月の寒さが僕の肌に突き刺さろうとしてくるけれど、軽く走って体を動かした後ウォームアップを施した僕には通用しない。白い息を吐きながら、結局最後の最後まで僕はバスケットボールに触れていた。


 愛さんと直人と僕はいずれもぶどうが丘大学を受験するわけだが、それぞれの試験はそれぞれの学部で行われる。つまり僕は彼らとキャンパスが違う。お誘いあわせの上向かうことができないため、アラームに時刻を告げられた僕はひとりで試験会場に向かわなければならない。


 歩いて向かうと決めていた。足を動かすと血流が回り、目に映る景色が刺激となって頭に様々な考えを浮かばせる。受験に役立つ知識を反芻したり、これまでの日々の出来事を思い出したり、何も考えず歩道に浮かんだ影の形を眺めたりする。


 これまで僕は僕なりに真面目な受験生をやって来られたのではないかと思う。そんな受験生としての生活が、ひょっとしたら今日終わるかもしれないのだ。それはとても不思議な感覚だったが、その感覚を共有する者は僕の周りにいなかった。


 この世界中で僕はひとりぼっちなのかもしれない。


「悪くないね」


 白い息を長く吐き、僕はそう呟いた。


 服装はこれまで通り動きやすいジャージと防寒具の組み合わせだった。浪人生にプレッシャーをかける目的で戦闘服として制服を着用する現役生もいるとの情報を直人から得ていたが、僕がひとりサボったとしても十分な量の制服姿が会場にはいた。


 その光景は僕に対してプレッシャーとはならない。しかしこの場にいる全員が医学部受験生であるというのは少し強烈な感じである。何人が受験するのか知らないが、仮に倍率が2-3倍であったとしても彼らの半分以上が落ちるのだ。僕は机に受験票と筆記用具と時計をセットし、携帯電話の電源を切った。


 1コマ目は数学だった。僕の受験する2次試験は数学、理科、英語、小論文の順に課せられる。小論文の配点は50点で、ほかは200点の650点満点だ。これにセンターを圧縮した400点を加えた1050点満点で僕らは競争させられる。僕は合格ラインよりやや後方からのスタート。なんとか優位を勝ち取らなければならない。


 朝食にたっぷりのエネルギーを摂取し、運動を施して臨戦態勢に入った脳が回転する。まずは問題用紙全体をさらりと眺め、全貌を把握する。大問4つで構成されていた。最後に陣取る微積分の問題が目を引いた。


 ふたつの円柱を交差させる問題だ。2次試験の数学を必要とする受験生なら一度は経験したことのある種類のものだろう、僕にも解いたことのあるポピュラーな種類の出題である。


 小問はふたつ。ひとつめは重なった部分の体積を、ふたつめはその表面積を求めさせる。まずはここを完答しようと考えた。


 記憶の海から解法のサルベージを試みる。確かこのパターンは断面図が正方形になる筈だ。


 立体の体積問題はいかに断面図を描き式を立てるかがキモである。僕レベルの頭脳でこのように複雑な図形の状況をその場でイメージするのは難しいが、予備知識としてそれを知っていれば問題の難度は大きく下がる。


 何とか思い出すことに成功した。朧げに掴んだその知識を余白に書き出して確認する。細部を修正し、おそらくこれで正しいだろうと思える式を立てることに成功した。


 時計を見る。思ったより時間が進んでいた。思い出しからの微調整に時間がかかったらしい。しかし立体の図形問題はただの計算問題に落ちぶれていた。僕は大きくひとつ息を吐き、この計算に取り掛かる。僕が回答に辿り着くのは時間の問題だった。


 続いて表面積の問題に取り掛かる。同じイメージの図形で、正方形の周を重ねれば良いように思われた。


 スムースに立式して解く。すべてが済んだところで不思議に思った。


 確かに計算はやや煩雑だったが、このような小問の作りがありえるだろうか?


 通常小問が複数ある場合、その難易度は進むに従って高くなる。1問目より2問目の方が難しく、特にこういった記述の試験では浅い小問に知識の有無を問う程度のものを用意し、深いところで本当の数学力のようなものを問うことが常識的だ。


 しかし僕は同じようなイメージからどちらの小問も解いたわけである。あるひとつをイメージをもち立式できるかどうかを複数の設問で訊くことがあるだろうか?


 改めて考えると、軸を用いた回転などではなく平面図形の周を直接積分して立体の表面積を求めるような解法を使ったことが僕にはなかった。


 式を立てて計算もしたが、その大元の考え自体が間違っている?


 僕は背筋にひやりとするものを感じた。


 この解法が誤っているかは確かめることができる。公式やほかの解法で答えを知っている、この解法で解くことができそうな問題を自分で用意し検算してみればよい。僕は球体の表面積を求めてみることにした。


 先ほどと同様に式を立て、計算してみる。計算は実にスムースに進んだ。


 こうして僕は時間をたっぷりとかけ、自分が先ほど用いた解法が間っていることを証明した。お前は馬鹿かと自分を呪う。


 僕の解法は一見理屈が通っているように思われたが、確実に間違っている。どこが間違っているかがわからないが、それを考える時間はなかった。


 時計を見る。僕は大問をひとつしか終えておらず、しかもその半分は誤りがわざわざ担保されている状態だ。


 比較的たっぷり時間を用意されている筈の2次試験、僕は1科目目の数学で大失敗した。


 数学でやらかした僕は動揺を隠せないまま理科の問題を解くことになった。物理・化学・生物のうち2科目を選択する必要がある。僕は物理と化学を選ぶ。


 無意識に数学から離れた科目を望んだのだろうか、あるいは表紙をめくったら先頭だったからか、先に化学を解くことにした。これがふたつ目の失敗だった。


 この化学の設問は、大問ひとつを消費してひたすら合成高分子化合物の知識を問うものを含んでいた。


「要る、それ!?」


 僕は心の中で大きく叫んだ。


 このような規模の丸暗記能力を問う設問はこれまでのぶどうが丘大学医学部の歴史でされてこなかった筈だ。もちろん過去問とその傾向を根拠にそれを責めることは誰にもできないが、それにしても、あんまりではないだろうか。


 糖類やタンパク質といった天然高分子化合物ならまだ戦いようのある知識を僕は持っていたが、合成高分子化合物となると知識があまりに貧弱だった。化学に限らず僕の知識はほかの分野などで使用するところと関連付けることで補強されており、単純に覚えているかどうかを訊かれると非常に貧弱だ。


 ナイロン。知っている。衣類などの原料となるアレだ。6-ナイロンと6,6-ナイロン。それらの存在は聞いたことがあるけれど、違いを厳密に知っている筈がないだろう!


 もう好きにしてくれって感じだった。


 数学で心に負った傷に化学で塩をすり込まれ、しかしながら僕に休息は許されなかった。次は物理だ。物理は可もなく不可もなく。


 強烈な印象を残した数学の立体問題と化学の高分子化合物、午前中の試験でそのほかに何を解いたか僕はほとんど覚えていなかった。



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