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25. wanna be a baller


 僕のセンター試験の結果はやや失敗の部類に入るものだったが、そんなことはどうでも良かった。


 なぜならセンター試験でボーダー以上の得点を取るのは受験を有利に進めるための手段に過ぎないからだ。僕にとっての勝利条件は最終的に志望校の合格を勝ち取ることで、それさえ満たせるのであればその他はどのような有様でも良い。


 バスケの試合でたとえるならば前半終わって5点ほど負けているだけだ。ハーフタイムに気合を入れ直し、戦略を練り、逆転を目指すほかに取る行動は存在しない。入らなかったシュートの原因を探る必要はあるかもしれないが、入らなかった結果を嘆くことに意味はない。試合中の後悔は何も生まない。


 頭ではそうわかっていた。ではこの眠れない夜の原因は何だろう?


 ほとんど僕の部屋として提供されているダーツ盤のある和室で、僕はひとりスローラインに立ち、ダーツをボードに投げていた。


 僕の投げるダーツはこの穏やかならざる心を反映するようにダーツ盤のあちこちの散らばっていた。下手くそ板にも穴が増えた。僕は大きくひとつ息を吐き、狙いを定めて赤く小さな円を狙う。指から離れた瞬間わかるミスショット、ストンと小さな音を残してダーツは18ダブルに突き立った。


 リビングから和室に繋がる襖が開く音がした。振り向くと愛さんが立っていた。僕はダーツ盤から注意深く3本のダーツを引き抜き、右手にそろえて手の平の上で転がした。


「眠れないの?」と愛さんは訊いた。


 それはとても優しい声色で、僕は小さく頷いた。「実はそうなんだ」


「おいで」


 愛さんは僕を手招き、僕たちはソファにふたり並んで座った。愛さんは片足をソファの奥に乗せ、僕の頭を抱えるように抱きしめた。肩の上に愛さんの手の平を感じる。それはとても暖かく、小さいながらも柔らかかった。


「落ち込んでるの?」と愛さんは囁くようにして訊いた。

「よくわからない。落ち込む必要はないと思うんだけど」

「そうだね」と愛さんは言った。

「でも落ち込んでいるのかもしれない。これまでの人生で、僕はあまり明確な目標をもって頑張ったことってなかったから。まだその途中なんだとしても、何かノルマのようなものを意識して、それを達成できなかったことがないんだ」

「バスケットボールで負けたことは何度もあるんじゃないの?」

「それはそうだね。でも、バスケはチームスポーツだからかな、自分ひとりに責任があるわけじゃないからいくらでも言い訳ができたのかもしれないし、僕はこれまで絶対的なエースみたいな立場で試合に臨んだことがないから、そのせいかもしれない」

「まあでもこれまで感じたことのない敗北感なら、いい経験になるんじゃない? 百聞は一見に如かずってね」

「経験はとても大事だね。確かになんでこんなに落ち込んでるのかわからないけど、この感情は僕のもので、大切にするべきなのかもしれない」


 言葉に出したことで落ち着いてきたのだろうか、僕は謎の落ち込みから気持ちが回復してきているのを感じた。あるいは時間の経過と共に自分が客観視できてきたのかもしれない。愛さんに包まれるように触れられているのはとても心地よいことだった。


 僕は頭を上げて愛さんを見た。右手を背中に回して首の付け根を引き寄せる。近くで見れば見るほど魅力的な顔だった。


「愛さんのせいかもしれない」呟くように僕は言った。


 もし医学部受験に失敗したらどうなるだろうと考えると、なかなかの高確率で遅かれ早かれ愛さんと別れるように思われた。


 一流私立大学のバスケ部に入って切磋琢磨するのは楽しいだろうが、県外に出ることになるので距離的に離れてしまう。どう考えても資金難になることが予測される中僕たちに遠距離恋愛は無理だろう。後期日程でぶどうが丘大学のいずれかの学部に潜り込んだとしても、医学部に入れなかったという意識のある中それを否応なしに突きつけられる愛さんとの付き合いが上手くいくようには思えない。


 愛さんを失って僕は幸福に暮らせるだろうか? 自分の幸せが他者に依存している現状を僕はちょっぴり恐ろしく感じた。


「もう訊かれたくないかもしれないけど、愛さんは医学部受けないの?」


 センター試験で十分な点を取っている愛さんに僕はそう訊いた。愛さんは少し笑って首を振った。


「受けないわ。あたしの成績だったらもちろん医学部を狙えるだろうけど、確実ではないし、ぶどうが丘大学の薬学部は後期日程で受けられないの。もし前期医学部後期薬学部ってできるんだったら考えたかもしれないけど、あたしは、もう悩み終わったの」

「そうなんだ」と僕は大きくひとつ息を吐く。「でもその点は僕も同じだよ。幸か不幸か、不可能とは思えない点数が取れているから、僕は医学部を受ける。元々医者になりたかったわけじゃないし、愛さんも薬学部に行っちゃうけど、これが縁ってやつなのかもしれないね」

「縁があるなら合格する方が自然じゃない?」


 愛さんは少しふざけたようにそう言った。確かにそうだ。僕の人生に流れのようなものがあるとして、俯瞰でそれを眺めるならば、苦しみながらも合格する方が自然なように思われた。


 落ち込んでいる時間は無駄だ。眠れないなら眠くなるまで勉強していた方がマシである。僕はスローラインまで歩くとダーツを構え、愛さんの見ている前で矢を放つ。


 中央の赤い円はわずかに外れたが、それを囲む黒い部分にダーツが突き立った。


「アウトブルね」と愛さんが言う。

「ど真ん中とどう違うの?」

「ルールによってはどちらにも50点が与えられたり、内側は50点で外側は25点だったりするのよ」

「ふうん。理想的ではないけどまあまあ悪くはないんじゃないの、って感じ?」

「そうね」

「僕にお似合いかもしれない」


 愛さんはそれに答えず僕をスローラインから退かせると、そこに立ってダーツを投げた。放られたダーツは文句なしのど真ん中に突き立つ。


「あたしにお似合いだと思う?」


 僕はそれに答えずキスをした。


-----


 眠れない夜があり、そこから回復したからといって、僕の生活態度に大きな変化は生じなかった。夜寝て朝起きる、ご飯を食べる、勉強をする。一日中座って勉強に集中はできないため、自由時間を何時間か設ける。その自由時間にはボールを触るのだ。


 外出先は概ね塾か日用品の買い物か松尾さんのバスケットボールコートだった。今日もそうだ。平日の昼下がりという尋常な生活をしている人には利用できない時間帯に僕はコートを占有している。愛さん抜きで、ひとりでドリブルからのシューティングをしていると、松尾さんが現れた。


「受験生じゃないか」と松尾さんは言った。「お前最近、おれよりこのコート使ってるんじゃないか?」

「その可能性は高いですね。お世話になってます」

「もう受験は終わったのか?」

「まだまだ、これからが本番です」

「勉強しなくていいのか、とおれは訊かないことにしよう。せっかく貼ったコートだし、熱心に使ってもらえるのは嬉しいよ」


 松尾さんはそう言い上着を脱いだ。どうやら通りかかっただけではなく僕とプレイしに来たようだ。足元もバッシュを履いている。


 松尾さんが準備運動をしている間、僕はステップワークを取り入れたハンドリングの練習を行った。シューティングを見せなかったのは新しいフォームを見せないためで、対戦の中で松尾さんを驚かせてやるつもりだった。


 松尾さんがスリーポイントラインの外側に立ったため、僕は対峙する形でボールを渡した。コートに足を擦り付けるように摩擦を生ませる。松尾さんの動きがよく見えた。


「いくぜ」と松尾さんが宣言をした。


 ドライブに行く気配を軽く見せたが、その後松尾さんはシュートの体勢に入っていた。この動きは見たことがある。僕は必要十分な詰め寄りでプレッシャーをかけ、これがフェイクであった場合の対応も同時に頭に遊ばせていた。


 松尾さんの右手がボールを放った。フェイクではなかったらしい。僕のプレッシャーに晒されたシュートは、しかし安定した軌道を通り、リムに当たった後ゴールした。


 松尾さんがわざとらしくガッツポーズを見せて喜ぶ。僕は大きくひとつ息を吐く。


 今度は僕の番だった。松尾さんが少し遠い。先日直人と対峙したときも思ったが、半歩ほど余分に距離が開けられている。


 これは彼らというより、むしろ僕の変化に起因しているのかもしれなかった。僕のシュートフォームの変化に、だ。軽く半身になる影響で僕の軸足となる左足の位置がこれまでより深いのだ。そのため彼らがこれまで通りに対峙しても、僕からは少し遠く感じられるというわけである。


 遠慮なく利用させてもらおうと考えた。僕はほとんど何の駆け引きもなしに、最短距離でシュートフォームを作ってボールを放る。


 ボールを離した指の感覚からシュートの成功が確信できた。ボールの行方を確認する必要もないだろう。着地した僕はそのままボールを拾いに走り、ネットをくぐってコートに跳ねたボールを回収した。


 まったくドライブの気配を見せなかった上、前回とフォームの異なるシュートを打った僕に松尾さんが驚いた顔を見せる。この顔が見たかったのだ。


「これでやり返したつもりか?」

「まさか。利息も払えていませんよ」


 得意気な顔を作って見せる。ドヤ顔というやつだ。松尾さんはやや苛立たしげにボールを扱い、僕はディフェンスとして対峙した。


 この日の僕は、五分五分か、ひょっとしたら僕の方が優勢なのではと思えるほどに松尾さんと渡り合えた。フォームの変化に慣れるに従って僕が簡単にロングシュートを打つことはできなくなっていったが、やはりそれはかえってドライブの鋭さを増す結果をもたらしたのだ。


 それでも松尾さんのプレイは流石のものだった。突破からのイージーシュートをなるべく許さず、スリーポイントシュートにもきちんとプレッシャーをかけてくる。攻めに回ってもシュート主体の巧みな動きで僕に楽をさせなかった。


 偉そうに聞こえるだろうか? 僕はそのように松尾さんのプレイを評価できる程度に良い対応ができていた。これは大きな自信となる。


 何度攻守を入れ替えボールを放り合ったことだろう。やがて松尾さんは「このくらいにしとこう」と根を上げた。


 持ってきていたスポーツバッグから保冷バッグのようなものを取り出し、そこから何やらかさばる装備を松尾さんは取り出した。手際よく右膝に巻きつけていく。どうやらアイシングをしているらしい。


「体力自体が続かないわけじゃないけどな」


 僕の視線に答えるように松尾さんはそう言った。


「怪我ですか?」

「昔な。これでもおれは、足がこうなるまでは結構良い選手だったんだぜ」


 なんでも松尾さんは学生時代それなりに名を馳せていたそうで、推薦をもらってバスケで大学へ進学し、いずれプロになることを信じて疑っていなかった時期もあったらしい。


「最初はアキレス腱だった。アキレス腱切ったことあるか? あれは凄いぞ。試合中に断裂させたんだけど、てっきりおれは相手から突き飛ばされたのかと思ったね。やられた時はやり返さないとナメられるからな、立ち上がって詰め寄ろうと思ってたら、全然立ち上がれないでやんの」


 松尾さんはあっけらかんとそう言った。アキレス腱の治療が済んでも違和感は残っており、無意識にそこを庇うようにプレイを続けていたら、今度は不自然な負荷をかけられ続けた膝を故障したというわけだ。


「かかとの時はまだ復帰を目指そうとも思ってたんだけどな、膝も壊して諦めた」


 松尾さんはフリースローラインに立ってボールを構え、安定した動きでボールをネットにくぐらせた。僕は何と言っていいものかわからず無言でボールを拾い、松尾さんにパスを送る。受け取った松尾さんは再び同じ動作でフリースローを綺麗に沈めた。


「まあでも良い決断だったと今では思うぜ。こうして趣味でバスケは続けられるし、長時間はプレイできないけどな、でも商売もそれなりに上手くいって、こんなコートも持ててるわけだから、割と成功者の部類に入るんじゃないか?」

「そう思いますよ」と僕は言った。「このコートっていくらくらいしたんです?」

「した、っていうか、する、って感じだな。見ての通り雨ざらしの上そんなに頻繁に手入れをしないから、何年かごとに貼りかえる必要があるんだ」

「ええ! じゃあこれ継続的にお金がかかるんですか?」

「当たり前だろ。ちゃんとプレイできるコートじゃないと欲しくねえよ」


 僕は目を見開いてこの大人の男をしばらく眺めた。松尾さんは僕が思っていたよりずっとお金持ちなのかもしれない。


「目安が知りたければ教えてやろうか? だいたい毎年100万円くらいかな、そのくらいを目途に積み立てれば、お前でもこのコートは維持できる。ああ、土地代なんかは別だけど」

「気の遠くなる話ですね」

「尊敬したか?」

「してますよ」と僕は言った。


 松尾さんは満足そうに頷いた。


「一番調子に乗ってた時は、どうせならアメリカに行ってみたいと思ってた。もちろん自分がNBAレベルだと思ってたわけじゃないが、自分の力がどの程度のものなのか、自分が考える自分の実力がはたして正しい認識なのか、そういうところを知りたかったわけだ。お前はそういう気持ちがないか?」

「わかりますよ。どちらかというと僕の場合は受験がそれに近いですね」

「そうだろう」と松尾さんは言った。「だからおれは頭が悪いが英語の勉強は結構した。成績は悪かったけどな。色々向こうの言い回しとか、スラングとか、バスケ用語とかな。受験英語じゃお前に敵わないだろうが、その辺は強いぜ」

「僕のはほとんど受験英語だけですからね。それじゃあ何か、ひとつ面白いやつを教えてくださいよ」

「じゃあ”baller”というやつを教えてやろう」

「ボーラー? バスケットボールプレイヤーのことですか?」

「”baller”はスラングで、他にももっと意味があるんだ。当ててみな」


 そう言い、松尾さんは僕に時間を与えた。僕は頭を回転させたが良い回答は出てこなかった。


 ボーラー。選手のことでないならバスケに関わる人たちのことだろうか? そんな出題をする筈がない。ボールハンドラー、転じてポイントガードのことを言うのだろうかとも考えたが、これも面白い回答ではない。


 球技全般を指すのなら、たとえば野球のピッチャーのことをボーラーと呼ぶのは自然なように感じられた。あるいはサッカーにおけるセットプレイを蹴る人などだ。しかしそれらも面白い回答ではない。


「わからないな。答えは何です?」


 ギブアップして僕は尋ねた。松尾さんは僕を苛めることなく答えをくれた。


「”baller”は”成功者”って意味だ。おそらくアメリカは自由と可能性の国だから、野球やバスケで成り上がったやつらをイメージしての言葉なんだろうな。ひょっとしたら”成金”みたいなニュアンスも入ってくるかもしれない。でもとにかくそういう使い方をする単語なんだよ」

「なるほど」と僕は言った。

「おれは選手としては結局プロにもなれなかったが、”baller”にはなれたんじゃないかと思うわけだ」

「自分のバスケットボールコートも持ってることですしね」

「それだよ」と松尾さんは言った。


 松尾さんのバスケットボールコートから走って帰る間にも僕は松尾さんの言葉を反芻していた。ボーラー、成功者。おそらく松尾さんにとっての成功と僕にとっての成功は形が違うことだろう。それはおそらく十人十色で、しかも同一人物に対してであっても、あるいは考える時期によって答えが異なるものなのかもしれない。


 成功者になりたいものだ。足を動かし白い息を吐きながら、僕は漠然とそう思った。




思ったより長引きましたがようやく表題に辿りつきました。

おそらくあと1話か2話くらいで大学受験編は終わりです。

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