24. スポーツ科学部
センター試験を終えた受験生は忙しい。
土日の試験ですべてを出し切った僕たちに休息の時間は与えられない。翌日月曜日には登校させられ、学校に自己採点の結果を報告しなければならないのだ。教室には解答が用意されており、公開された解答を調べ損ねたという言い訳は通用しない。
皆の前で採点したがる者など存在しないため、僕たち受験生は試験の終わった日曜日にまめまめしく正誤を記録する必要がある。僕は同時に試験を終えた直人を連れて愛さんと合流すると、近所のファミレスに陣取ることにした。
「とりあえずお疲れ」
僕たちはメロンソーダで乾杯をする。試験時間のすべてを費やし、自分の持ち得るすべてを使って問題を解き続けた脳にわざとらしいメロン味がガツンと響く。僕たちは同時に深くため息をついた。
「本当に疲れたね」
愛さんが遠い目をしてそう言った。僕は頷き空になったグラスを手に取る。「おかわり注いでくるよ。愛さんは何がいい?」
同じものを要求されたので僕は2杯のメロンソーダをグラスに満たした。緑色の原液と透明の炭酸水が定められた割合でグラスに放出されるのをぼんやり眺める。あやうく溢れそうになり、あわてて僕はグラスを引いた。
「危ないな。そんなに疲れたのか?」
隣でジンジャーエールを注ぐ直人がそう訊いた。
「疲れた。でも今日の試験でというよりも、これまでの抑圧から解放された疲れなのかもしれない」
「センターを追えて一気に疲労がきたわけか。もし何だったら俺は先に帰ろうか?」
「いや、いてくれた方がいいかもしれない。頭脳労働の疲労にもっとも効くのは他愛のないおしゃべりだから、適当に話してくれた方がありがたい」
「そんなもんかね」と直人は言った。
席に座ると僕らが注文していたチーズの入ったハンバーグが来ていた。僕は愛さんにメロンソーダの1杯を与え、シルバー入れから箸を取った。割った肉からドロリと出てくるチーズを目の当たりにして空腹に気づく。どうやら愛さんも同様のようで、僕たちは言葉少なにカロリーを摂取した。
そんな中、気を遣ってか直人は饒舌に話してくれた。それにつられて僕らも次第に発言を重ねる。調子が出てきてからはハンバーグで摂取したエネルギーを用いて適当なことを言い合った。今回の食事のハンバーグの感想、愛さんの作るハンバーグの味、ハンバーグにチーズを入れる難しさについて。そして受験が終わったら何をするかや将来的にやりたいことと、話はどんどん膨らんでいく。
「僕の住処も今後議題となるだろう」と僕は言った。
「あら祐輔、あんたうちから出ていくの?」
「おそらく母さんはそうさせようとするんじゃないかと思うんだ」
「あたしはこのままでもいいんだけどな」
「僕もそうだよ。正直うちは大学からはちょっと遠いし、今の生活費で置いてくれるなら、交通費でペイされるんじゃないかとも思うんだけどな」
「なんだ、祐輔は一人暮らししないのか?」
「直人はするのか?」
「するさ、やっと大学生になれるんだ。一人暮らしできないなら県外の大学に進学すると言ったらすぐに許してもらえたぜ」
「お金があるのは素晴らしいね」
大きく肩をすくめて僕は言った。凝り固まった筋肉がほぐされたように、僕たちの舌は滑らかに回るようになっている。愛さんが直人に話しかける。
「直人くんは住むところの目星はついてるの?」
「家が大学の近くにマンションをもってるから、その一室をいただくつもりだよ」
「あら、直人くんってお金持ちなの」
「そうだよ。こいつはイケメンで身長も高いくせに金持ちだ。死んだ方がいい」
「ひどい言われようだな。まあでも確かにうちは金持ちで、おかげさまで俺は好きな生物学の学科に進む。道楽で学んで適当に遊んでそのうち家の手伝いをしてもいい。そんな感じの人生になる予定だ」
なんとも羨ましい限りだった。今となってはおそらく僕の方が直人より成績は上になっていて、世間的に高学歴と言われる学部に合格しやすい状態になっている。1on1のバスケでも打ち負かしてやったつもりだ。しかしこのイケメンはおそらくそれらをコンプレックスのように感じることなく、自分の好きな道を好きに歩んでいくのだろう。
だから遠慮なく打ち負かすことができるし、上下関係を気にすることなく接することができる。はたして自分の方が勝っていると自覚している分野でこの男に追い越された場合、僕は同様に振る舞うことができるだろうか?
いい男だなと素直に思った。育ちがいいというやつだろう。改めてそう感じていたこともあってか、僕は浮かんだ羨望と願望をそのまま口に出していた。
「いいなあ。僕の分も頼んでおくれよ」
「いいぜ。約束はできないけど、訊いてみるのは構わない」
「ほんとに?」僕は驚いて訊き返す。
「何の保証もないけどな」
「直人は本当にいいやつだなあ」
「手の平をを返されないよう頑張るよ」と直人は言った。
愛さんは携帯電話を取り出し何やら調べているようだった。直人が手に入れ僕もご相伴できるかもしれない住居の様子を調べるのだろうかと思っていると、愛さんは画面を大きく見せてきた。
「これ、あんたにも来てるんじゃないの?」
それはメッセージの受信画面だった。送り主は黒川先生。携帯電話を取り出してみると、僕にも同様のメッセージが来ていた。
僕と愛さんは翌日の夕食に招待された。自己採点の結果を訊かれ、今後の方針を話し合うのだろう。僕たちに断る理由はない。
承諾する返事を送り、食事を終えた僕たちはちまちまと自己採点を開始した。自分の選択の正誤に一喜一憂しながらも一定の速度で作業は進む。すべての正誤を付け終わり、点数を計算して加算する。
そして間違いがないように何度か計算をやり直す。僕は愛さんより何度も入念に計算のやり直しを行った。
計算間違いを期待していたのだろう。なぜならセンター試験本番で、僕は目標であった9割の得点を達成することができなかったからだ。
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招かれた先はすき焼き屋だった。これまで食べたことのない上等な肉を片手に黒川先生と井手先生はビールを飲んでいて、僕と愛さんは白米を食べている。
タレと呼んでいいのだろうか? おそらく醤油ベースの甘じょっぱい液体を焼いた肉に垂らしてじうじうと唸らせた後、それを卵にくぐらせ口に放り込む。神様の食べ物かと思うほど旨かった。すき焼きは焼き料理なのだ。鍋物と思っていた僕はこれまでの認識を改めた。
むしろ薄い肉と独特のタレで作った焼肉といった印象の第一弾を楽しむと、そのあとは野菜や豆腐を軽く焼いて肉も一緒にタレで煮た、僕が知っているすき焼きの形になった。すき焼きで焼き豆腐が用いられるのはこういうことかと僕は納得した。
野菜や豆腐の方が酒のつまみには適しているのかもしれない。箸のスピードが速くなった井手先生が、何でもないような口調で訊いてきた。
「それで、狩井は何点だったんだ?」
「801点です」と何でもないような口調で僕は答えた。
「ふうん」と黒川先生はビールジョッキを傾ける。「愛は?」
「あたしは818点」
「それは凄いな」
「ふたりとも、採点表は持ってきた?」
もちろんのことだった。僕たちの採点表を手元に置き、黒川先生はまず僕のものを熟読した。続いて愛さんの分をさらりと眺める。
「祐輔は完全に社会が足を引っ張ってるね。まあわかってたことだけど」
「でも70点取れたんですよ。僕としては及第点で、どちらかというと国語で168点だったのが失敗でした」
「愛は地理で90点取ってる。あなたたちの得点差は、客観的にみると社会でついてるのよ」
「やっぱり明確な弱点がある状態で9割とるのは難しいな。俺は今でも満更不可能ではないと思ってるけど、本番は一発勝負なわけだから、不確定要素が大きすぎる」
僕としては何か反論したいところだったが、現実として9割取れなかった以上説得力がないことだろうと思われた。バスケで言うところの“シューティングチームは勝てない”というやつと同様だ。実際にそれで優勝するチームが現れるまで、それは常識のように語られており、反論するのは難しかった。
僕は黙って卵をくぐらせた肉を口に運ぶ。この否定しようのない旨さだけが味方だった。
「でも、社会以外は悪くないですよね? 9割取ってないって言っても800点はあるわけだし、パーセンテージで言うと89%になるわけだし」
愛さんはそう言い僕を弁護した。味方はほかにもいたらしい。黒川先生はそれに頷く。井手先生も同意した。
「もちろんそうだ。というか、とても良い数字だと思う。特に今年は英語が難しかったから、そこで高得点取れているのは強い」
「このまま医学部を受験しても戦えるだろうというのがわたしたちの意見だよ。だよね?」
「そうだ」と井手先生は言った。「仮に傾斜配点を利用してもっと受かりやすいところを探すなら、より有利になるだろう。今日はそんなことも含めて俺たちのお願いを聞いてくれないかという接待なんだ。ここのお肉は旨いだろう?」
「これ、接待だったんですか」
「大人な感じ」と愛さんは言った。
あいにく僕に志望校を変えるつもりはなかった。仮に受験の点数として社会を必要としない医学部が探せばあったとしても、僕は地元でもあり愛さんと同じ学校となるであろうぶどうが丘大学以外に進学するつもりはない。
その旨先生方に説明すると、予想の範囲内といった感じで簡単に頷かれた。頷かれただけでなく「そう言うと思ったよ」と井手先生に笑われた。
「大手予備校のシステムへの入力が済むまでボーダーラインはわからないが、せいぜい狩井の点数はボーダーマイナス10点くらいだと思われる」
「英語が難しかったならボーダーは下がるんじゃないですか?」
「残念ながら世の中に医学部志望者はごまんといて、その中には点を取ってくるやつが多いんだ。不思議と医学部や難関校と呼ばれるところのボーダーは下がらない」
医学部の中でも難関と呼ばれる大学はまた違うのかもしれないが、一般的にセンター試験が難化した場合、より上の大学を志望していたが思ったより点が取れなかったというテの人たちが降りて受験してくるらしい。そのためぶどうが丘大学のような中堅大学医学部のボーダーはあまり変わらない。納得がいく話だった。
「ぶどうが丘大学の入試は国語を100点に換算した800点満点をさらに半分に圧縮した400点満点に縮められるから、今言ったボーダーマイナス10点というのはだいたいマイナス5点くらいに相当する。2次の記述が600点満点だからほとんど誤差の範囲と言うこともできる」
十分戦える点数だよ、と井手先生は言った。
「満更悪くないような気がしてきました。それで、お願いっていうのは何なんですか?」
「お願いは、センター利用の受験についてだ」
「おそらくふたりともセンター利用の願書を出すつもりってないんじゃない?」
「ありませんね」と愛さんが言う。
僕はよくわからなかった。「それってどういうことですか?」と訊いてみると、いつも受験に関する知識を教えてもらうときに見る呆れ顔を愛さんに見せられた。
「私立の中にはセンター試験の結果を利用して受験できるところがあるのよ」
「ああ、聞いたことはありますよ、流石に。でも自分には関係ないことだと思ってました。もちろん利用するつもりもありません」
「そうでしょう? これは完全にわたしたち大人の都合なんだけど、できたばかりの塾って合格実績が数字として大事なのよねえ。費用はわたしたちが出すから、受けてくれないかしら」
「なるほどね。お金がかからないならあたしは別にいいですよ」
愛さんは快諾した。僕はシステムに詳しくないため必要となる負担を確認した後同意した。
「それで、僕らの成績だったらセンター利用ってどこに受かりそうなんですか?」
軽い気持ちで尋ねた僕はその返事に驚いた。なんとこのセンター試験の成績であればほとんどのセンター利用で受けられる大学に合格し、学部によっては難しいところもあるだろうが、それさえ選ばなければ僕でも知ってる有名大学にでも行けるだろうと言うのだ。
「すごい」と僕は言った。
「そんなことも知らずにこれまで受験勉強できてたあんたも凄いわ」
僕は反論の材料がなく黙るしかなかった。そんな僕に「こんなのもあるわよ」と黒川先生はある大学のセンター利用受験募集要項を携帯電話のディスプレイに見せてきた。
それは僕でも知っている一流と呼ばれる私立大学で、傾斜配点により社会の成績を使わずとも受験可能な学部の一覧だった。様々な学部が受験可能だ。その中にスポーツ科学部なるものがある。
その学部の受験に必要な科目の点数を概算すると、僕の成績は予想ボーダーをはるかに超えていた。
この大学のバスケ部は強いのだろうか? 僕は好奇心を刺激されていた。




