23. センター試験
直感的な確信によって新たなシュートフォームを得てからは試行錯誤をする必要がなくなった。あるいはいずれまた疑問を持ち、その答えに対して調整することもあるかもしれないが、現時点では必要ない。
ハンドリングにしてもシューティングにしても、僕は何らかの練習をする間、常に何かプラスアルファの動作や思考を取り入れるように習慣づけていた。それはその練習をただの反復作業にしないためであり、ある時はリズムの異なるステップを無理やり組み込んだり、またある時は動作の一部で地面に触れたり何か障害物を乗り越えたりした。
最近の流行は愛さんとの問答だ。テーマはその都度異なるが、たとえば英語の場合だと、愛さんは僕にボールを投げながら何か短めの英文を唱える。僕はそれを受けてシュートしたりハンドルしたりする間にその英文を解説する。使われた文型や構文といった文法的な知識を披露し、その知識を元に試験問題をするとしたらこのような設問で、この知識を罠として利用する、といった次第だ。
解説が済んだら愛さんにボールを渡す。僕の解説に付け足すことがあればそれを補足し、なければ何か褒め言葉を寄越す。そして今度は僕が出題する番となり、これをお互い延々と続けるのだ。
最初はとてもぎこちなかったが、僕も愛さんもじきに慣れた。今ではボールへの集中も問題への集中も切らすことなく、さらに少しの余裕をもって周りの状況を捉えられるようになっている。愛さんもずいぶんボールの扱いが上手になったのではないだろうか。
まだ投げ込みが十分でなく、シュートフォームが固まっていないのだろう。僕のシュート成功率はその日によってずいぶん違うが、しかし良い日は実に良い。その感触に後押しされるように僕はボールを投げていた。
「こんな寒い中よくやるな」
ひとりでボールを投げ続ける僕に声がかけられた。僕はボールを掴み、声の主に顔を向ける。「直人」とその男の名前を呼んだ。
直人はダッフルコートにニット帽を被り、両手をコートのポケットに入れたボーラーらしからぬ恰好をしていた。僕は当然上下共ジャージだ。どちらの吐く息もはっきりと白い。
「雨だったり、雪が降るか地面が凍るかしてたらさすがにやめるよ」
「今年は雪降ったっけ?」
「降ってないね。少なくとも僕が外に出ようと思った日には」
「しかし当日の朝にやることかね、これが」
「直人も一緒にどうだい?」と僕は言った。
本日は1月第3週の土曜日、センター試験1日目の朝である。
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直人はダッフルコートの下に学生服を着ていた。まったくやる気が伝わらない格好だ。それを知った僕は口を尖らせる。
「なんだよその恰好は」
「いやこっちの台詞だろ。まさかそのまま行くつもりか?」
「そうだけど、制服着ないといけないんだっけ?」
「特別規則があるわけじゃないと思うけど、普通現役は制服で受けるんじゃないか」
「普通ね。普通社会は2科目受けるもんじゃないかな」
「それもこっちの台詞だろ。医学部受験性は、普通2科目受けるもんだと思うぜ」
「ふふん」と僕は笑ってボールを放った。
社会や理科はひとによって受験科目数が異なることが多いため、いずれもそれぞれの試験日の最初か最後の科目になっている。社会は1日目の最初だ。僕は現代社会しか受けないが、愛さんは地理と倫理を受けるため、僕たちの試験開始時間は異なる。科目ひとつぶん愛さんは早く始まるわけだ。直人は日本史しか受けないので僕と会場に行く時間が合う。
そこでお誘いあわせの上僕と直人は一緒に行くことにしたのだった。僕はぐっすり眠って早朝目を覚まし、愛さんと朝食を食べて出発を見送り、松尾さんのコートにやってきた。直人もそこに呼び出した。すると直人は学生服を着てきたというわけだ。これは僕に対する裏切り行為ではないだろうか?
「バスケットボールコートにやってきてボールを触らないって、ボーラーとしてどうなんだ?」
「俺はもう引退済みだ」と直人は言った。
どうやらこの男は大学に入った後は本気の部活をするつもりがないらしく、これからは華やかなキャンパスライフを彩る道具としてバスケットボールを利用することにしたらしい。
「嘆かわしい」と僕は言った。そして気づいた。直人はバッシュを履いてきている。「その足元はファッションかい?」
「これか。まあ少しはやってもいいなと思ってな」
直人はそう言いコートを脱いだ。学生服だ。その上着も脱ぐと、中から動きやすそうな長袖のTシャツが現れた。
「おお寒い。早くはじめようぜ」
「時間はあと何分くらい?」
「余裕をもっていくなら30分くらいだ」
「それじゃあ40分後にアラームを鳴らそう」
僕はそう言い携帯電話のアラーム機能をセットした。直人は簡単に準備運動を施し、スリーポイントラインの内側に立っている。
「来いよ。練習の成果を見せてみろ」直人は挑発的な目を向けてくる。
「吠え面をかかせてやるよ」と僕は言った。
立ったままボールを保持する。トリプルスレットと呼ばれる形だ。この形からはシュートもドリブルもパスもできるため、3つの脅威ということでそう呼ばれる。1on1でパスの脅威はないけれど、それでもシュートとドリブルの脅威は残る。
直人は明らかに僕から離れすぎていた。
距離にすると半歩ほどのもので、傍から見ると大したことはないと思われるかもしれない。しかし僕には十分だった。
ドライブの脅威を意識させるためのジャブステップ。動かした右足をそのままシュートフォームの位置に向かわせ、僕は軽く半身に近づく。内股気味にエネルギーを蓄えた両足を飛ばせればジャンプの最高点となる前にボールが放たれる。
チェックの位置が遠かった上反応の遅れた直人に妨害するのは不可能だ。軽くバックスピンのかかったボールは高く空中に弧を描き、ネット以外のどこにも触れずゴールした。
「いいね」と僕は言った。今日は良い日かもしれない。ボールを放つ指先の感覚が冴えている気がする。
直人はボールを拾い、しばらく僕とボールを見比べた。
「フォーム変わった?」
「少しね」
「ずいぶん変わった気がするけどな」
「どうだい、僕のシューティングフォームは?」
「リリースが早い。それで安定して入るなら、だいぶ脅威になるんじゃないか。それにしても思い切ったな」
「思い切ったんだ。正解だったかもしれない」
直人と僕はアラームが時間を告げるまでプレイを続けた。おそらく引退してからろくに体を動かしていない直人はほとんど相手にならなかった。点数的にはそこまで差がついていないかもしれないが、攻めるにしても守るにしても、僕の想像内の出来事しか起こらなかった。
僕の脅威は増しているかもしれない。シューティング技術が向上したことでむしろドライブの成功率が増した気がする。シュートが脅威であればあるほど相手は近くでケアしなければならないからだ。
シュートが安定して入るならば相手をわざわざ抜く意味がない。ドライブなし縛りの1on1をしばらく試みても良いかもしれないと考え出す頃にはアラームが出発の必要性を僕らに知らせた。
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僕らのセンター試験会場はぶどうが丘大学の全学キャンパスだった。僕は直人と並んで4月からも通うつもりの門をくぐる。予備校講師の応援らしき熱気が点在しており少し離れたところに黒川先生の姿が見えた。こちらに気づいた先生は僕の方に近づいてくる。
「おはよう」と黒川先生は白い息を吐いた。
「先生。おはようございます」
「緊張はしてなさそうね」
「わかります?」
「緊張してるコはジャージで来ないでしょ」
黒川先生は僕の服装を指してそう言った。ダウンコートを上に羽織ってはいるが、その下がジャージであることは一目瞭然らしい。
「頑張ってね」と先生は言い、僕にチョコバーのようなお菓子をくれた。語呂合わで受験の縁起物と言われているお菓子だ。
「黒川先生がこういうのくれるのって、なんだかあまり似合いませんね」
「そう? わたしはいつも神頼みだよ。それより結構ギリギリに来たね。もう行きな」
「行ってきます」と僕は言った。
直人も自身がお世話になっていたらしい塾講師と何か話しており、ちょうど解放されたところだった。同様のお菓子をもらっている。
僕たちは会場となる教室へと歩き、その道すがらにチョコバーのようなお菓子を食べた。
「こんな寒い中あんなところに立って、塾講師は大変だね」
「あれって何時からやってるんだろうな? 社会を2科目受けるやつのためにも立ってたんだろうか」
「想像したくもない話だね」
「まあ祐輔はその間ずっとバスケしてたんだろうけどな」
「確かにそうかもしれない」
「バチの当たりそうな話だな」と直人は言った。
反論の材料はいくつかあったが、本場開始直前に討論を行う必要はなかった。僕らは割り当てられた教室へ入り、割り当てられた席に着いた。受験票や筆記用具を机に広げ、時計を見やすい位置にセットする。携帯電話の電源を切った。
周りの受験生たちは冊子やノートを手にして知識の最終確認を行っている。僕も最初の受験科目となる現代社会の知識の詰まった書き込みまくりの冊子を眺めた。そしてぼんやり考える。僕は受験生としてバスケを続けていて良かったと思うのだ。
体を動かすこと自体もあるいは良かったかもしれないが、僕はバスケを通して様々な気づきを得てきた。たとえばシュートフォームひとつをとっても、指導者に習ってそれまで正しいと理解していたものにほかの正解が存在しうることを僕は知っている。これは指導者の教えの中に誤りが含まれている可能性と、正しく受け取ったと自覚しているものの中にも不十分なものがある可能性を僕に教えてくれた。
おかげで僕はそれまでと比較してより広い視野で物事を見られているような気がしている。こうした気づきはバスケに限ったことではなく、様々な分野に応用できる考えなのではないだろうか。
言葉にするとそれは容易で、誰にでもできることのように思えるかもしれない。よく考える。視野を広くもつ。先入観を排除し、曇りなき眼で見定める。しかしそれを実践できている人は意外と少ないのかもしれない。
そんなことを考えているうちにセンター試験の開始時刻が迫ってきていた。マークシートの束が配られ、注意事項が述べられる。いずれも当たり前のような内容だ。僕はそれらを聞き流し、用意してきた鉛筆の鋭さをチェックする。
やがて問題用紙が配られた。模試や過去問で見慣れた表紙だ。シンプルで飾り気のないただの冊子だが、これまで時間を費やしてきた対象だと思うとスタイリッシュなデザインであるようにも見えてくるものである。
そんなことを考える余裕が僕にはあった。緊張も多少はしているのだろう。コート上でティップオフを待つ選手のように、僕は緊張と興奮の狭間で闘志を燃やした。
センター試験の1日目は文系科目で、僕はこれから社会をはじめ、国語と英語を受験する。1問の配点が大きくミスが許されない科目だ。今日の出来の如何でこれまでの受験生生活の可否が問われるわけである。
「いいね」と僕は思った。
この緊張感は好きだ。これから解く問題で僕は悩むこともあるだろう。どうしても最後の2択からひとつを否定できない8点問題があるかもしれない。そのどちらをどうやって最終的に選び、結果としてそれが正解となるのかどうか。学力というよりは徳の高さや人間力のようなものが最後は必要になるのかもしれない。どんな言い訳をしようと失われた8点は戻ってこないのだ。
僕は今朝のシューティングを思い出し、ボールをリリースする右手を眺めた。人差し指と中指を並べて親指で擦る。今日は良い日だった。理想的な弧を描くボールの感触が指にまだ残っている。
試験開始の鐘が鳴った。




