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21. クリスマス


 世間にクリスマスの影響を感じる季節になった。街が電飾に覆われていき、人々はふわふわと浮かれてくる。同時に僕たち受験生の中にも落ち着きが足りない者が出てきているが、これは多くの場合クリスマスが近づいているからではない。


 12月に入ってからというもの、僕と愛さんの勉強はほぼセンター対策にシフトしていた。センター試験には歴史があり、傾向と対策が歴然として存在する。学力は確かに必要だけれど、それを点数に効率よく反映させる必要が僕たちにはあった。


「勉強というよりは研究だね」


 ある晩、僕は鍋をつつきながらそう言った。餅を咥えて伸ばした愛さんが頷く。


「限られた試験範囲でマーク式で、傾向がはっきりしてるからね」

「愛さんくらいこれまで勉強してた人なら、わざわざ対策しなくても高得点取れそうなものだと思ってたんだけど、そうじゃないの?」

「そうじゃないわよ。そりゃたとえばトータルで7-8割取りなさいって話なら何もしなくても取れるかもしれないけど、あたしたちは9割くらいは欲しいでしょ? だったら、点を取る技術というよりは点を落とさない技術の方が重要になるわけ。天才か、もっとすごぉく勉強してるか、ノウハウがなければそんなの無理よ」

「難儀なものだね」と僕は言った。


 迫りくる脅威であるためそれに対する愚痴を述べるのが僕たちのストレス発散法なのだが、しかし実際のところ、僕はセンター試験の勉強がそれほど嫌いでなかった。これには井手先生の話が色濃く影響している。


「センター試験は凄い数の人間が解くんだよ」と先生は言った。「受けるのは受験生だが、解くのは受験生だけじゃない。俺たち塾講師も解くし、学校の教師たちも解くし、ちょっと興味をもった元学生たちも解くだろう」


 だからケチのつけられ方が凄いというのだ。数学や物理のようにそれ以外に解答が存在しない科目であればそれを咎めるのは難しいが、国語や英語のような文系科目はその限りではないらしい。だからセンター試験の解答はそのひとつ以外が答えとなり得ないように、受験生を惑わす不正解の選択肢には否定できる要素が必ずある。


 4択のひとつが正解だった場合、残りには不正解と言える根拠が用意されているというわけだ。


「正解にはいくつかレベルがあって、絶対正解、たぶん正解だろう、これが正解にみえるがよくわからないとか、お前らも自分なりにあるだろう。絶対正解といえる場合はそれを選べ。それで間違える奴は身の程知らずだ。絶対正解が選べない場合は、ほかの選択肢を否定しろ。4択で3つ否定できればお前の勝ちだ。それらができずになんとなくで正解しているやつは、一生高得点は得られない」


 己を知れ、と井手先生は言った。


 僕はこの考えが気に入った。少なくとも国語の試験で登場人物の心情を推し量れと言われるより断然良い。センター試験の問題は、正解を答えなければならないのではなく、もっとも適切なものを選ぶのだ。


「本文内の適切な箇所を選び取れって問題で、それを書かせるか選ばせるかの違いでしょ? 確かに選択問題の方が難易度が下がるかもしれないけどそんなに気にする意味がわかんないわ」


 愛さんにそんなことを言われたこともある。そのとき僕は当然反論した。「全然違うよ。センター試験には押しつけがましさがない」


「押しつけがましさって」と愛さんは笑った。「そのこだわりの強さは面白いわね。あんた、本当は国語が大好きなんじゃないの?」


 虚を突かれた僕は絶句した。僕は国語が好きなのかもしれない。これまで僕は科目の好悪に疑いをもったことなどなかった。


「国語っていうか言語かな。だから英語も好きなんだし、自由英作文が好きなんじゃないの?」

「そうかな。よくわかんないけど」

「だとしたらツンデレね。さっさとデレてあげたら?」

「それは意味がわからない」


 僕はそう言いしばらく黙って食を進めた。愛さんはそれ以上僕を追い込むことなく話題を変える。世界にはクリスマスが近づいているのだ。


「祐輔って敬虔なキリスト教徒だったりする?」

「キリシタン? 違うけど」

「じゃあクリスマスは何して過ごす?」

「井手先生は勉強しろって言ってたよ」

「休憩も必要だって言ってたわ」

「クリスマスにどこかに出かけるのが休憩になるとは思えないな」

「あんたが人混み嫌いなのは知ってるわ。別に出かけなくてもいいじゃない」

「いいんだ? それならいつもと違いがわからないけど、愛さんは何かプランがあるの?」


 愛さんはニヤリと笑った。このいたずらっぽい顔が僕は好きだ。クリスマスらしい格好でもしてくれるのだろうかと妄想に花を咲かせていると、「シチューを作るわ」と愛さんは言った。


「シチュー?」

「特別なやつをね。お家でお母さんと過ごすつもりじゃないなら、あたしと一緒に食べようよ」

「ああ母さんのことを気にしてたんだ?」


 確かに僕の家は母子家庭で、僕と母さんの仲は悪くない。毎年家で過ごしている可能性を考えることは自然だろうと思われた。


「母さんは毎年クリスマスは夜勤だよ。特別手当が出るし、病院のクリスマスディナーが食べられるからウキウキだ」

「なるほどね。じゃあこれまで祐輔は毎年何して過ごしてきたの? 直人くんと遊んだり?」

「いや、直人は女が絶えないからね、僕に構ってはいられないよ。僕はたいてい何をするでもなく過ごしてきた。本を読んだり走ったり、バスケを観たりさ」

「クリスマスに抗ってきたわけだね」

「悪くないよ。世界にひとりだけのような気分になれて、僕はそれが嫌いじゃないんだ」

「強がっちゃって」と冷やかし口調で愛さんは言った。


 僕はそれを小さく笑った。そして手を伸ばして僕の90度隣に座っている愛さんの頭を撫でた。頭頂部から後頭部を降りて首筋を軽く触り、小さな耳の感触をコリコリと楽しむ。そして訊いた。


「プレゼントはどうしよう?」

「何か考えてるの?」

「正直まったく。希望があれば聞くだけ聞くよ」

「それじゃ、あたしはプレゼントとしてご飯を用意するから、祐輔はプレゼントとしてケーキを買ってきてくれない?」

「そんなのでいいの?」

「あたしはね。見たところあんたもそういう方が好きそうだと思うんだけど、どうかしら」

「僕はとても気に入った」


 愛さんは僕に身を寄せ、得意気な笑顔を見せてきた。「じゃあ褒めて」


「とても偉いよ」

「もっと!」

「愛さんはかわいい上に偉いよ。尊敬に値する」

「尊敬に値する? よくそんな偉そうな褒め方ができるわね」

「偉そうより偉いの方が偉いんだからいいじゃないか」


 僕は愛さんを押さえつけてキスをした。


-----


 愛さんのシチューは絶品だった。


 分類としてはビーフシチューなのだろう。濃い茶色のスープに旨みが凝縮されており、骨についた巨大な肉はスプーンでそぎ落とせるほど柔らかかった。ほろほろと繊維状にほぐれた肉自体は口に含むとあっさりしていて、濃厚なスープと絡んで僕の舌を楽しませる。


 ガーリックトーストが添えられているのも良い。明日の口臭など知ったことかと言わんばかりの芳醇なニンニクの香り。外側はパリリと焼き目をつけられており、中はしっとりとガーリックバターに味付けられていた。


 口に含んだご馳走から鼻腔へ風味が通りぬける。僕は口数少なくシチューを食らい、行儀が悪いと思いつつも骨にこびりついた肉片をしゃぶるように回収した。


「ああ旨かった」


 僕はすっかり満足してそう言った。「これ、何の肉?」


「牛の尻尾よ。テールシチュー」

「はじめて食べたよ。とても旨いね」

「でしょ。これはお母さんが毎年クリスマスに作ってくれる料理だったの。手はかかるけど安くて美味しいから、特別でいられるように年に1回しか作らないって言ってた」

「味は再現できた?」

「思い出補正が入るから勝てないね。でも美味しかったでしょ?」

「すごくね。また食べたいな」

「残りがあるから明日にね。あとは来年のクリスマス」

「クリスマスが待ち遠しいなんて、子どもの頃以来だ」


 思えばケーキが残っていた。僕の好みで選んだとにかく生クリームのたくさん乗ったショートケーキだ。競争に勝って小さめのホールを用意できた僕は鼻が高い。


 愛さんがコーヒーを煎れる間に僕はテーブルの上を片付け拭いた。コーヒーを飲みながらケーキをつまみ、勉強をはじめられる体勢を整える。


 このテーブルは食事にも利用する。勉強する場合はスペースを広く使えるように対面で座り、食事をする場合は話しやすいようにコーナーを使って90度の角度で座る。勉強できる状態にはしたけれど、愛さんは今回どこに座るだろうか?


 ホールケーキを4分の1ずつに切って煎れたコーヒーと一緒に運んできた愛さんは、僕の90度隣に腰かけた。食事の距離で愛さんを眺める。愛さんはニコリと微笑み、僕の前ににコーヒーとケーキを並べた。


「残りは明日の朝食にしましょ」

「味見した?」

「した。美味しかったわ」

「それはよかった」


 そして僕たちは食事の前に片付けておいた勉強道具をそれぞれ取り出し、食事の距離であまり集中していない勉強を行った。どちらかというと会話がメインで勉強とケーキをその種にしている感じだ。受験生としては切り替えて勉強に向かうのが正しいのだろうが、正直おしゃべりをしながら愛さんの様子を眺めている方がそれよりよっぽど楽しいことで、このままずるずると時間を浪費するのが目に見えていた。


 それは愛さんも同様だったのだろう、彼女はケーキが皿から消えたのをきっかけにして立ち上がった。勉強の距離に離れるのだろうかと思っていると、「ダーツしよっか」と提案してきた。


「ダーツ?」と僕は訊き返す。

「ダーツよ。今日はもう勉強って感じじゃないでしょう?」

「まあね。確かに集中する振りはできても、これからちゃんと勉強できるとは思えない」

「アリバイ的に勉強することに意味はないわ。だからほら、ダーツしようよ」

「いいよ。屋内でできるしね。せっかくだし教えてよ」


 現在ほとんど僕の部屋として利用させてもらっている和室に向かい、愛さんは通称へたくそ板をダーツ盤へ設置した。その間に僕は自分の荷物や布団を片付け、円滑にダーツが進められるように整理する。


 結局これまでの間に僕がダーツを投げてみることはなかった。自分ひとりで投げるには壁への穴あきリスクが気になったし、ダーツを一緒に投げる時間を作るよりもバスケットボールに触れる時間を作る方が僕にとって有益だったからだ。愛さんがひとりダーツを投げ込む様を座って眺めることはあったが、愛さんの全身を一方的に観察する機会は意外と少ないため、僕はその時間をかえって貴重に思っていた。


 愛さんがやって見せながら僕に投げ方の作法を説明する。


「あくまであたしのやり方だけど」


 そう前置きをして、ダーツの持ち方、立ち方構え方、視線の置き方にダーツの投げ方、そしてフォロースルーの重要性を僕は習った。そしてダーツを3本与えられ、確認しながら投げてみる。緊張の一瞬だった。僕の放ったダーツはなんとかダーツ盤に達し、ストンと静かな手ごたえを残して愛さんが言うところの”18シングル”に突き立った。


 続けて残りの2本も投げてみる。同じ動きで投げているつもりだが、3本のダーツはそれぞれバラバラな位置に突き立った。


「肘が動いてる」と愛さんは言った。

「ひじ?」

「ダーツを引いたときに、肘の位置が違ってる。だからグルーピングしないのよ」


 愛さんは空気のダーツを引く動きをして僕の肘がどのように動いているのかを説明した。僕はグルーピングがダーツを1ヶ所に集める技術であることを理解した。


 3本投げるたびフィードバックを受け、僕はしばらくダーツを投げ続けた。そして思い出す。愛さんは以前フリースローはダーツに似ていると言っていた。僕もそう思う。ダーツはフリースローに似ている。


「いいねこれは。楽しいよ」

「集中できるでしょ? しばらく無心で投げてると頭がスッキリするの」

「瞑想みたいだね。でもどうして僕のダーツは集まらないんだろう?」

「そりゃ投げ込みができてないからね。ダーツは感覚的なものだから、毎日投げないと下手になるわよ」

「僕の道のりは険しそうだ」


 手を放した後のダーツがダーツ盤にストンと刺さる。その感触は何とも言えない心地よさで、確かに感じるのが不思議だった。しかしそれはバスケットボールも同様だ。手を放した後のボールがリムに収まる感触が僕たちにはわかるし、極まったシュートはボールが指を離れた瞬間どのような軌道でゴールするかが手に取るように感じられるものである。


「あんたひょっとして利き目わかってないんじゃない?」


 僕が無心を心がけていると、愛さんが口を挟んだ。「なんか構えの時点でブレてる気がする」


「ききめ?」と僕は訊き返す。

「利き目よ。右? 左?」

「言ってることがわからない。利き目ってあるんだ」

「あるわよ。人間にふたつついてる器官には何でもあるんじゃないの? 手、足、そして目!」

「そういえば右脳派左脳派なんてのもあるね。利き目か、考えたこともなかった」


 愛さんは僕に利き目の調べ方を教えてくれた。丸めた手に隙間を作ってそこから何かを注視し、右目左目と順番に片方を瞑る。良く見える方が利き目だ。


 どうやら僕の利き目は左らしい。


「左か。手は右利きだよね。ものは利き目で見ちゃうから、利き目と狙うところの直線状にダーツを構えてまっすぐ引いてまっすぐ放るってのが定石なんだけど、利き目が左だとちょっと体と頭をひねる形になるから、意識して右目で見るようにするか、ちょっと歪んだフォームにするか、投げやすいやり方を探す必要があるのよね」

「大変だね」

「やりがいがあるって考えるのはどう?」

「いいね」と僕は言った。


 そしてダーツを投げながら僕は考えた。利き目についてこれまで意識したことはなかった。これはひょっとしたらバスケにも応用できる知識なのではないだろうか。僕の今のシュートフォームは小さいころ当時の監督に教えられ、その後の投げ込みによって固められたものである。その時どのような教えられ方をしたかは覚えていないが”正しいフォーム”のようなものを教わり、時には窮屈に感じながらも実践してきたものだ。少なくともその”正しさ”の中に利き目の概念はなかったように思われる。


 シュートフォームは最重要項目ではなく、入るかどうかがもっとも大事だ。様々なフォームでボールを放る名プレイヤー達を知って僕が得た結論はこれだ。しかし僕のフォームは”正しいフォーム”という固定観念に縛られているのかもしれない。


 愛さんは軌道を意識しろと言った。それはバスケにおいても同様の筈だ。ただし軌道の始点の細部に関して意識したことがこれまでなかった。これはまさにディテールではないだろうか。


 ディテールを詰めなければならない。僕の利き目は左目であり、リムを狙うときそれを見る目はおそらく左目なのだ。これがズレていたならば、多少なりともシュートの軌道に影響してくる筈である。


 対策可能な改善点がシュートフォームにあるかもしれない。この気づきに僕は興奮していた。



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