2. 適当人間
チャンスの神様には前髪しかないらしい。
ギリシャ神話のカイロスという神様がこの言葉の由来で、意味としてはチャンスはすぐに掴もうとしないと後から捉えることはできませんよ、というようなところらしい。確かに一理あるだろう。後からあれは好機だったと悔やむことに意味はない。
僕はこれまで好機を逃さぬよう思い切った行動を取れてきた方だと思う。他人の視線や評判に左右されることなく、自分なりの価値観や良心に従って選択してきた。今のところは概ね成功してきた筈である。
「それにしても」と僕は思う。
3年春の時点で部活を辞めたのは流石に軽率だったかもしれない。夏まで信頼のおけない監督に従って部活を続け、大会予選のどこかで敗退してから他の3年生と一緒に引退するという選択肢も確かにあった。
「しかし」と僕は同時に思う。
これが僕だ。チームの勝利のためならあらゆる犠牲を払うのに躊躇はないが、納得できない采配で敗れ続けるのは我慢できない。これまで高校生活3年間のうち、2年間を無条件で差し出してきた。そして3年生になった最初の練習試合で相変わらずの采配に愛想をつかし、試合後監督と口論した後退部してきたというわけだ。
「ちょっと待てよ!」
ロッカールームの整理もそこそこに、ひとりで帰宅しようと歩いていた僕を生石直人が呼び止めた。長身長のイケメンポイントガードだ。彼に対しては少しばかり悪いと思う。
「なんだよ。言い訳はしないぜ」僕は歩みを緩めなかった。
「いいやしてもらう! まったく意味がわからない」
どうやら諦める気はないらしい。僕はたまたまあったハンバーガーショップを顎で示した。
「それじゃあ買い食いでもしていくか?」
「望むところだ」
「一応校則違反になるから、ばれたら退部になるかもしれないぜ?」
「望むところだ!」
まったく冷静に話せそうになさそうだった。
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机上のフライドポテトを挟んで座り合った僕と直人はしばらく無言でポテトを齧り、手元のジュースをちうちうと吸った。
「それで、何を話せばいいのかな」
そのままでは時間ばかりが過ぎていくため、僕は直人にそう訊いた。直人は口を尖らせた。
「なんでバスケ部辞めるんだよ? ずっと一緒にやってきて、やっと3年生になったんじゃないか。どうしてもレギュラーじゃないと嫌ならおれが控えに回ってもいい、でも祐輔がそんなことを考えるとは思えない」
驚いたことに、直人は僕が彼の控えであることが許しがたい不満だと思っているらしい。
「ベンチスタートが不満で辞めるわけないだろ」
「そうだろ? だから理由がわからない。夏まで頑張ればいいじゃないか」
「まあね、でもうんざりなんだ。逆に訊くけど、直人は今日の試合をどう思った?」
「俺か? はっきり言って、いつも通りの堅実な試合だったと思う」
「いつも通りの、堅実に見えるが効率的でなく、ただじりじりと負けていくのを受け入れるだけの試合、だろ?」
「そんなことはないだろう。負けたのは残念だけど」
僕は直人に腹が立った。
「僕にはそうとしか思えないんだ。直人たちと引退の感動を共有するためにその非効率性とアホらしさに目を瞑って夏まで付き合うのも悪い選択肢ではないかもしれないけど、6点差の場面でトランジション・スリーを沈めた僕を直後に交代させた瞬間、僕は心底失望した。あんな自分のこだわりのためにチームを勝利から遠ざけるような監督の下で、大会に向けて一致団結できる筈がないと思ったんだ。もしチームが一枚岩になれるとしたら、それは僕がそこにいない場合だけだ」
「監督には監督の考えがあるんだろ。選手はそれに従うべきだ」
「賭けてもいいけど、ないね。あるのはこだわりだけだ。昔ながらの、苔のむしたような常識で、トランジションではレイアップかゴール下の合わせ、ポイントガードは積極的にシュートを打ってはならない、主軸となるのはセンターのポストプレーだ。それら自体が間違っているわけではないけど、今の僕たちの特性にはまったくフィットしない考え方だ。思考が停止してるんだよ。それを考えがあると表現するのは許せない」
言いたいことを言った僕はジュースを飲み、ポテトを食べた。直人はしばらく黙って窓を見ていた。何度か言葉を探すように机を指で叩いたり唇を噛んだりしていたけれど、結局僕を説得させられそうなものは見つかりそうもないようだった。
「ほかに質問は?」
僕は直人にそう言った。直人は大きくひとつ息を吐いた。
「バスケ、辞めるのか?」
「バスケは辞めない。好きだからね。どこかでどうにかしてプレイするさ」
「部活以外にそんな場所があるのか?」
「なんならこの1年は受験勉強に費やしてもいい。大学に入ったらいくらでもあるんじゃないかな。でも、想像だけど、探せばどうにかなるところはあるんじゃないかと思ってる」
「ポジティブシンキングだな」
「僕はポジティブ人間なんだ。でないと簡単に部活を辞めたりできない」
「そうかもしれない」と直人は言った。
話はそこで区切りがついた。「そういえば」と直人は話題を変え、僕らはしばらく友人同士として高校卒業後の進路について談話した。僕たちの通う高校は一応進学校に数えられるため、高校卒業後は大学へ進学するというのが一般的だ。
僕も直人も理系のクラスに所属している。比較的彼のほうが成績が良い。偏りなく点を取るからだ。僕は好きな科目である英語や物理の成績は良いが、興味のない国語や社会の成績は壊滅的だ。
「祐輔はそれじゃ、結局何も考えてないのと一緒じゃないか?」
「なんだよ。直人は志望校決まってるのか? バスケに漬かった3年の春に?」
「もちろん」
まったく具体的なプランを持っていない僕に直人は胸を張った。そして大学名をいくつか挙げる。本命、滑り止め、記念受験と既に学部や学科まで考えているようだった。
「すごいな」と僕は言った。
「普通じゃないか? 祐輔ももうちょっと考えておいた方がいいぜ」
「でもウチはお金がないからな。滑り止めを受ける余裕はない。結局センター試験の結果をみて、そのときの学力からして行けそうなところを受けるだけだよ」
「適当だな」
「僕は適当人間なんだ。でないと簡単に部活を辞めたりできない」
「それもそうだな」と直人は笑った。「そろそろ帰るか」
おそらくは直人のおかげで、僕は思いがけずフレンドリーに退部後のやり取りを切り抜けられた。しかし、彼らはこれから夏の大会に向けて気合の入った練習を団結して消化していくことになる。その団結の中に僕はいない。少なからず僕は疎外感を味わうだろうし、彼らとの間に気まずさのようなものを感じるだろう。
それが僕の選択の結果だ。もしかしたらその関係の悪化は高校卒業まで続くかもしれないし、あるいはその後も残るかもしれない。僕に文句をいう権利はまったくない。
僕は直人が席を立った後もしばらく空になったフライドポテトの箱を眺め、氷が少し溶けるごとにジュースの容器をストローで吸った。
窓の外では風が吹いているようだった。やがて街路樹の葉が風に吹かれる様が見えづらくなり、ジュースの容器からは氷がすべてなくなった。
「帰ろう」と僕は呟いた。答えるものは何もなかった。
友人の名前は生石直人
オイシ ナオトという読み方です