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19. 立花さん


 寒さを理由にバスケットボールに触らない日はなかったし、受験が近づいてきたからといってバスケットボールに触れなくなることも僕にはなかった。


 僕はそれまでの生活様式を変えることなく日々を送った。朝起きる。愛さんと朝食を取りながら雑談し、準備をして学校に向かう。学校へは毎日ひとつテーマを決めて持ち込むことにしており、直人と会ってそれぞれがそれぞれの課題をこなすのだ。


 たまに直人に乞われて勉強を教えることがあった。元々直人の方が僕より勉強ができる印象だったため不思議に思ったものだが、直人がそれを気にしてムキになって猛勉強をはじめることもなかったし、それを恥と感じているようにも見えなかった。


 ひとに勉強を教えるのは楽しかったし、非常に有効な復習ができるという点で僕にも利益があった。漠然と理解していたものを口に出すことによって自分の知識が整理されるのだ。この効果に気づいてからは、進んで直人や愛さんに自分の理解の仕方や暗記方法などを披露させてもらっている。今のところ苦情は出ていない。


「それは非常にいいやり方だね」


 質問ついでの雑談でこのことについて話した際、黒川先生にも褒められた。「アウトプットはとても大事よ。是非今後も続けなさい。愛は良い生徒となってそれを受け、意地悪な生徒となって知識の粗を指摘する。それをお互いやれば復習法としてこの上ないわ」


 僕たちは深く頷き、それは日常的に行われるようになったわけである。


 暗記に関しても自分なりに努力をしたつもりである。丸暗記が僕には向いていないため、語呂を考えたり何かにこじつけて覚えたり、英語であれば原義のようなものを把握したりして何とか脳みそに刻んでいった。依然として暗記科目には弱いが、最低限のものは手に入れたような気がしないでもない。


「結局社会は何で受けるんだ?」


 そんなことを直人に話すと、彼は笑ってそう訊いた。センター試験の社会には様々な選択肢が用意されている。その中でも、一般的に楽したい者が受ける科目というイメージのある現代社会を僕は選択していた。


「現社だ」

「現社! 変わってないのか」


 直人はやはり笑った。「誰でも6割は取れるけど、超勉強しても8割以上取るのは難しいでおなじみの?」


「7割程度は取れるようになってるから、僕はそれで満足だよ」

「凄いな、それで合計9割取るんだろ? お前のほかに医学部志望者で現社一本槍のやつなんているのか?」

「さあね。うちの塾で医学部を志望してたのは僕と愛さんだけだし、実際受けるのは僕だけだ。だから採用率100%といっても嘘じゃないよ」

「地理とか勉強すればいいじゃん。それほど暗記ばかりって感じじゃないだろ」

「そう聞いて少し頑張ろうとした時期もあったんだけど、結局その時間をほかの科目に充てた方が成績的にも精神的にも有意義だろうという結論に至った」

「塾の先生は何て言ってるんだ?」

「当初は呆れられたが、今は諦められてるかもしれない」

「彼女は?」

「馬鹿じゃないの? と言われたけど、そのくらいだね」

「キスをして黙らせた?」

「それは想像に任せるよ」


 昼過ぎまで直人と過ごし、ひと段落ついたら自宅へ帰る。夜勤明けの母さんが寝ているかもしれないのでそっと入って状況を把握し、必要に応じて荷物を整理したり、洗濯をしたりする。たまに気が向いて材料がそろっていたら寝起きの母さんが食べられるようにご飯を用意し、自分も勝手に食べたりもする。愛さんの家ではあまり披露することがないけれど、母子家庭で育ったため、僕は一通りの家事ができるのだ。


 そして塾が開くまで自宅で過ごしたり、一旦愛さんの家に戻って過ごしたりする。塾に行って授業を受け、松尾さんのバスケットボールコートに行ってボールを触る。ボールを触らずステップワークを磨くこともあるし、シャドーボクシングのようにイメージしながら動きをひたすら確認することもある。ディテールを詰めるのだと僕は自分に言い聞かせ、正しい動きを意識する。


 そして大抵の場合愛さんの家に帰っていく。今では自宅に帰る方が稀であり、僕はダーツ盤のある和室に布団を敷くことを許されていた。


 これが僕の平日だ。土曜日の午前中は松尾さんのコートに行ってストリートボーラーたちと技を競い合い、日曜日の午前中はぶどうが丘大学全学バスケ部の練習に参加する。いずれも午後からは塾に行き、愛さんと並んで勉強をする。


「お前受験生だろ、こんなことしてていいのか」


 そんなことを各ボーラー達に言われたりもするけれど、その度僕は「いいと思います」と言って行動を改めなかった。そのうちそんなことを僕に対して言う人はいなくなり、本格的に冬が訪れても僕は基本的にこの毎日を繰り返した。


 バスケットボールは積み重ねの競技であり、どちらかというと偶然の要素で勝敗が決まることは少ないと言われている。得点機会が多いからだ。45%の確率で成功するプレイと48%の確率で成功するプレイの選択は優劣が見えづらいが、それを正確に把握し後者を選び続けられるチームが勝利する。100回ずつそれぞれ攻撃する機会があり、シュートが1本2点だとすると、90対96で後者のチームが勝利するのだ。


 ディテール。正しい選択を見極め、選べるようにしなければならない。


 そしてそれは受験勉強にも似ていることだった。ある知識に対しての理解や把握の仕方は各々異なる部分があるけれど、それを正確に、正しく行わなければならないのである。ある試験を受けたとしてその差が必ずしも点数に表れるわけではないかもしれないが、その積み重ねが最後に結果として出てくるのだろう。


 そしていずれも結果は勝利か敗北かのふたつにひとつだ。決められたルールの範囲内であらゆる手段を用いて勝利しなければならない。それまでどのようなものを積み重ねていたとしても勝利できなければ意味がない。


 意味がないのだ。受験生として、僕たちの生活は現在合格のみを勝利条件としてデザインされている。合格しなかった受験生としての生活には意味がない。そのシンプルさが僕には心地よかったし、年末が近づくにつれ何とも言えず深まっていく周囲の雰囲気も、試合が近づく部活の日々を彷彿とさせた。


-----


「寒いな」


 ある晩いつも通りに松尾さんのコートを借りていると、松尾さんが声をかけてきた。その日は愛さんと一緒ではなく僕はひとりでハンドリングを行っていた。


 確かに気温はとても低く、僕は長袖のジャージを着ている。しかし十分に動いた体は芯に熱を保持しており、空気と地面に熱を奪われるボールを常時触っている手も感覚を失っていなかった。


 いつもなら平日のこの時間に松尾さんが来ることはない。店の仕事があるからだ。その不自然さに驚いたが、僕はすぐに挨拶をした。ここは松尾さんのコートなのだ。


「お疲れさまです。今日はどうしたんですか?」

「今日はお前のために抜けてきた。というのは嘘で、友達が遊びに来たからバイトに店を任せてきたんだ」

「バイトなんていたんですか」

「そりゃ、何店舗も持ってるからな。おれひとりではできないよ」

「この店何店舗もあるんですか」

「お前、おれのこと全然知らないな」と松尾さんは言った。「こんなに使わせてやってるのに」

「教えてくれないのは松尾さんじゃないですか。僕は訊こうとしたことありましたよ」

「そうだっけ? まあいいや。それよりお前もやってくか?」

「バスケですか?」

「じゃなかったら、こんな寒いのにこんなところに来やしないよ」


 ああ寒い、と松尾さんは身を震わせた。そんなに寒いのが嫌ならどこか体育館でも借りればいいのにと思っていると、松尾さんの後ろから見たことのある顔が姿を見せた。


 いつ見たのだろうと考えて思い出した。河相さんの取材対象だった男だ。ストリートバスケからプロを目指している人だ。


「こんにちは」と彼は言った。


 挨拶もそこそこに、その男はウォームアップをはじめた。松尾さんと協力してストレッチを施しボールを使った運動で体を温める。ボールを使いだしてからは僕も加わり鬼ごっこを応用したような走りまくるゲームをしばらく続けた。


「こいつは祐輔、受験生のくせにバスケばっかやってる不良だ。そこそこ上手い。祐輔、このお方は立花様というお名前で、ストリート出身でプロ契約を勝ち取ったという素晴らしいお人だ」

「なんですかその言い方は」と立花さんは言った。

「今日はプロになったお礼参りって感じでこのくそ寒い中いらっしゃったので、おれのような下賤の者はしおらしく屋外コートで接待するわけだ」

「そんなに嫌だったんですか」

「まあでも来てくれて嬉しいよ。早速やろうぜ」


 形式としては1on1の連続だった。まず松尾さんの攻撃に立花さんが守備につき、攻撃が成功すれば立花さんと僕が替わり、失敗すれば松尾さんが僕と替わる。いずれも勝利した側が次の攻撃の権利を得る。つまり下手くそは休み休みの守備しかできず、つまらない思いをただ耐えるというわけだ。


「いくぜ」松尾さんが呟いた。


 立花さんは前傾にならず、腰と膝を軽く曲げて対峙した。シュートも含めたあらゆる動きに対してケアできる姿勢だ。これをどのように攻略するのか注視していると、松尾さんはおもむろにその場でボールを放った。


「な!」

「そうきたか」


 立花さんが少し笑ってボールを目で追う。ボールはそのままリムを通ってゴールした。


「油断大敵だな?」松尾さんが笑った。立花さんは髪を手櫛でかき上げた。


 立花さんが僕と交代し、松尾さんが攻めて僕が守る形になった。確かにシュートを視野に入れるならば立花さんのように身を立てたスタンスでの対峙も有効であると思われたが、僕はいつも通りに前傾姿勢をとって松尾さんを睨みつけることにした。


「久しぶりだな」松尾さんが話しかけてくる。

「そうですね」短く答え、松尾さんの周りの空気に目を凝らす。


 ひとによって1on1の守備でどこを見て守るかは違うのだろうか。僕はどこか1点を注視するのではなく、全体を見るともなしに見るのが常だった。意識してはいないがある時は手を見ているのかもしれないし、ある時は足を見ているのかもしれない。その証拠に、松尾さんのフェイントに小さく反応しては戻ることを繰り返している。


 屋外で履くのは以前大学からもらったシューズではなくこれまで履いてきたものである。僕の足によく馴染んだ相棒だ。ゴムチップか何かを敷き詰めて作成されたバスケットボールコートを掴み、地面を蹴るのを助けてくれる。


 よく集中できているのだろうか? 松尾さんの動きがわかる気がした。ジャブステップ。これはおそらくフェイントだが、僕は小さな反復横跳びのようにそれに対応してまた戻る。同じステップから突破を図られても必ず阻止できる動きである。


 ポンプフェイク。そろそろ来るか? 来た! ドカンと体全体を使うように加速し、突破を図る。僕はそれを阻止するように体を寄せる。寄せられなかった。想像と違う進路だからだ。松尾さんはドライブを大きく踏み込んで停止させ、そこから横に飛び退いていた。


 僕は必死に食らいつき、手を伸ばしてシュートを阻止する。しかしサイズで劣る僕の腕が松尾さんのシュートに影響を及ぼすことはなく、放たれたボールは綺麗にリムに吸い込まれた。


「やるじゃん」


 再び守備についた立花さんが言う。「へへん」と松尾さんはボールを構えた。


 先ほどと同じスタンスで立花さんが対峙する。松尾さんは今度はすぐにボールを放ることはせず、ジャブステップを挟んでボールハンドルを開始し、立花さんを左右に揺さぶろうと試みた。


 試みは奏功しない。立花さんは左右に小さく反応しつつも過剰なリアクションやバランスの崩れは見せなかった。上手い守備だと僕は思った。僕ならどう攻略しようかと考えていると、松尾さんがドライブを試みるところだった。


 立花さんは見事なステップワークでそれを妨害し、勢いが削がれたところで松尾さんは半身でボールを守るポストプレイのような形になった。強引にレイアップを狙っても利益がないと考えたのだろうか。


 松尾さんはそこからスピンムーブを用いてエンドライン方向への突破を試みた。立花さんは読んでいたのか両手を挙げて壁のように立ちはだかり、リムを越えた突破からリバースレイアップ気味に放られたボールをしっかりと撃ち落した。


「ブロック!」立花さんが得意気な声を上げる。

「ファールファール!」

「そのアピールは面の皮が厚すぎるでしょ」


 客観的にみてもごく正当なディフェンスだったため、松尾さんはすぐに黙った。


 足元に転々と転がってきたボールを僕は拾った。バウンドパスして立花さんに渡す。スリーポイントライン上で僕と立花さんは対峙する。


「いくぞ受験生」


 立花さんはそう言った。これから味わうのはプロになる人のプレイだ。僕は小さく身震いする。寒いのか? 違う、これは武者震いというやつだ。


 鳥肌が立っているかもしれない。僕は自分の体が臨戦態勢に入り、唇の端がキュッと上がるのを自覚した。


「よろしくお願いします」


 僕は呟き、靴の裏をコートに噛ませて前傾姿勢で立花さんを睨みつける。体の底からエネルギーのようなものが沸いてきており溢れないようにしっかり閉じ込めているような状態だった。このまま焦らし続けたら爆発してしまうかもしれない。


 立花さんがボールをついた。




ついに書き溜めたものが尽きたので、以後は不定期更新になります

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