18. 三者面談
寒さが深まっていくにつれ、僕の愛さんの家に泊まる頻度が高くなっていった。塾にも大学にもバスケットコートにも近いため、受験勉強・バスケットボールの両面において極めて便利だからだ。高校通いも止めていないためその点だけは不便だが、拠点を自宅と愛さんの家のどちらに置くのが効率的かは考えるまでもない。
問題点は世間体と、愛さんは否応なしにほとんど自立させられた状態だが、僕は依然として保護者をもつ子どもに過ぎないというところである。僕の取る行動には母親の許可が原則として必要で、母さんの寛容さと僕の成績の向上によって許されていた自由が判断を迫られようとしていた。
「祐輔、ちょっと来なさい」
帰宅したところを母さんに呼び寄せられた。玄関に立って待っていたわけではないが、顔を合わせるどころか靴もまだ脱いでいない時点での声かけに僕は正直驚いた。こんな声のかけられ方は小学校の時分に門限を破ってしこたま遊んで帰った時以来ではないだろうか。
「何の話をされるかわかる?」
母さんは僕を椅子に座らせそう言った。僕は装着しているリュックを降ろし、煎れられたお茶で喉を湿らせた。
「お茶ありがとう。そうだな、あまり良くない話なんじゃないかとは思ってる」
「あんたの外泊のことだけど」と単刀直入に母さんは言った。「自分ではどう思ってるの?」
母さんはまっすぐに僕を見た。僕は少しの間黙って自分の考えを整理し、言葉を選んで口を開いた。
「愛さんに対しては感謝と恩義を感じてる。今は正直無理だけど、受験が無事終わったら恩返しをするつもりだ。母さんに対しては少し後ろめたい感情と、申し訳なさのようなものをもっている。全体的には皆さんの好意に甘えさせてもらってる状態だと思っているよ」
「そう。最近それが度が過ぎると思わない?」
「愛さんの提案に乗った形とはいえ、最初から度が過ぎた甘え方をさせてもらってるんじゃないかと思ってるんだ。だから最近が特別そうだとは正直思わないな。母さんはどう思う?」
「私自身は別に困りはしないし、ひとに迷惑をかけるんじゃなければあんたがどこで何しようと構わないと私は思うの。ただそれが心配で、その愛さんは迷惑と思ってないのかしらと思ってる」
「どうかな。僕には迷惑そうには見えないけど、本当のところはわからない。訊いてみたこともあるけど迷惑だとは言わないよね」
「言わないでしょうね。私は確かめる必要があるんじゃないかと思ってる」
「はじめてできた息子の彼女に会ってみたい気持ちもあるんじゃない?」
「それは否定できないわね」と母さんは言った。
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「と、まあそんなわけで」と僕は前置きをして言った。「母さんが愛さんに会いたいと言っている」
「わあ。親に挨拶ってやつね」
「どちらかというと、僕がお世話になってる件でこちらがそちらに挨拶って感じかな」
「なるほどね。あたしは学校の制服か、綺麗めな格好で行くわけね。会うのはどこで?」
「なんだかずいぶん乗り気だね」と僕は言った。
「だって祐輔あんまり家の話をしないんだもん。知らないことだらけだよ」
「隠してるつもりはないんだけどな。会うのは愛さんが会いたいところでいいみたいだけど、どうする? うちくる?」
愛さんはニッと笑った。「行かせてもらおう」
そして愛さんは服装を考えだした。派手すぎないけれども清潔さを感じさせる上品な服装で、家のことを手伝う機会があった場合に備えて動きやすい格好にするらしい。ご苦労様なことである。
会う旨母さんに連絡すると、トントン拍子に事が運び、気づくとその日の昼過ぎに僕の家に向かうことになっていた。
「今日行くんだ?」
呟くようにそう言うと、「いつ行くの?」と愛さんに言い返された。「今でしょ」
そして愛さんは支度を済ませると、ケーキ屋に立ち寄ってお土産を用意し、僕と一緒にバスに揺られた。天候の悪い日は流石に走って帰らないため公共の交通機関での交通手段を知っていたことに僕は胸を撫でおろした。
「お土産なんて気を遣わせたらまた僕が怒られそうだけど」
「これは好意じゃなくて自衛よ。あたしお菓子の正しい食べ方なんてろくに知らないもの」
「お菓子に正しい食べ方なんてあるの?」
「知らないけど、たとえばミルフィーユなんかをフォークと出されたとして、どう上品に食べるっていうの?」
「確かにそれはわからない」
考えてみれば当然で、処理の仕方のわからないものを出されて困るリスクを避けるために土産を持参するというのはとても賢いように思われた。あるいはかつていたと言っていた元カレとの歴史から学んだのかもしれない。
そんな僕の想像を見越しているのか、愛さんは話を続けた。
「友達にお金持ちの家の子がいたの。その子の家に行くと、いつも素敵なおやつが出るのよ。あたしはそれまでアップルパイをフォークで食べたことなんてなかったし、フォークで食べるパイ生地の難度を呪ったことなんてもちろんなかった。でもその子は上手にフォークで食べてて、あたしはすごく格好いいなと思ったの。その逆のことを初対面の、しかも彼氏のお母さんに見られたくない」
「色々考えるものだね」
「女の子は大変なのよ」と愛さんは言った。「そういえばお母さんのことよく知らないんだけど、何してる人なの?」
「母さんは看護師だよ。とてもよく働くえらい人だ。父はいない。理由は、隠してるわけじゃないけどよく知らない。」
「出た、祐輔のよく知らないやつ。気になって訊いたことないの?」
「そりゃ子どもの頃は訊いたこともあるだろうけど、覚えてないし、覚えてないくらいの回答しかなかったんじゃないかな。物心ついたときにはいなかったし、どうしても欲しいと思ったことがないからあまり気にならないんだ」
「寂しくない?」
「よくわかんないな。元々いないようなものだったからね。持っているものを奪われたら喪失感があるだろうけど、元々ないものをどうこうは思わない」
そして僕は考えた。愛さんは元々いた両親を失い、それまで家族で住んでいた家にひとりでいる。それはとても寂しいのかもしれない。今の生活で僕が母さんと顔を合わせることは時間的にも頻度的にも非常に少ないが、それでも失えば与えられる影響は大きいことだろう。
「なに?」
しばらく黙って愛さんを見つめる僕に愛さんはそう訊いた。僕は「別に」と言って愛さんの腰に手を回し、ほんの少しだけ彼女の体を引き寄せた。
「ひとに言うと“強がっちゃって”みたいな反応をされるけど、本当に父親がいなくて困ったり寂しかったりしたことはないんだ。でも仮に今愛さんを失うとしたら、とても寂しくなると思うよ」
「寂しくなるだけ?」と愛さんは笑った。
「泣くかもしれない」
「いやあ、あんたは泣かなそうだわ」
バスが僕の家の最寄のバス停に着くまで僕は愛さんの腰に手を添えたまま揺られた。愛さんはそれを解かず、回された手の上に片手を乗せて時折僕の指を触って遊んでいた。
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愛さんを連れて家に帰ると、すっかり大掃除が済んでいた。家の中でこれまで履いたことなどないスリッパなるものが2足玄関に並べられている。母さんも家での服装とは思えない小ざっぱりとした出で立ちで、しかしながら、とても自然な笑みを浮かべていた。見事だ。
「いらっしゃい。どうぞあがってくださいな」
そのまま通過しようとしたら静かに睨みつけられたので、僕は大人しくスリッパを履いた。とても慣れずに気持ちが悪い。愛さんは可愛らしく挨拶し、お土産を母さんに手渡した。
「つまらないものですが」
「まあまあどうも、すみません」
茶番のような立派なやり取りが交わされる。母さんは僕たちを椅子に座らせ、素早く愛さんの土産を取り出しコーヒーを添えて僕たちへ振る舞った。
「改めて、はじめましてこんにちは。私は藤間愛です。祐輔さんとお付き合いさせてもらってます」
愛さんはピンと背筋を伸ばしてそう言った。就職活動の面接はこんな感じなのだろうか。呑気にそんなことを考えていると、母さんは僕を睨みつけた。
「あなたは?」
「僕? 僕は狩井祐輔です。母さんの息子で愛さんとお付き合いさせてもらっていて、どちらにも大変お世話になってます」
「そうね。私は狩井祐子、祐輔の母です。いつも愚息がお世話になってます。本当に。今日は愛さんにも会ってみたかったんだけど、そのことをいつか話しておかないとと思ってて、こんなに遅くなってごめんなさいね」
「いえいえ、私の方がお世話になっているようなものですから」
ホホホという感じで笑い合い、とても本音を出せるとは思えない空気で世間話がはじまった。母さんはやんわりと愛さんのことを探るように話を進め、愛さんは言い方を考え抜いてきたような返答でそれをいなしていく。僕は時折相槌を打ったり簡単な発言をするが、この話し合いを建設的なものにするため一体どうすればいいのかわからなかった。
しばらくそんな時間が続いたが、コーヒーのお替りを煎れて戻った母さんは、どっしりと座ってこう言った。
「そろそろ本音の話をしましょうか。愛さんもその方がいいでしょう?」
「実はあたしもそう提案しようかなと思ってました」
ニコリと彼女たちは笑い合った。
「一番の問題、というか今日中に話し合っておかなければならないことは、祐輔がお世話になりすぎてないんじゃないかということなんだけど、正直愛さんは迷惑じゃない?」
「正直あたしは迷惑じゃありませんね。むしろお母様に迷惑、というか心配かけてませんか?」
「私? 私は看護師してるんだけど、仕事が夜勤もあったりして不規則な生活だし、この子も部活やったり塾行きだしたりと勝手にやってくれてるから、まったく迷惑じゃないし心配もしてないわ。グレてるわけじゃなさそうだしね」
「本当にそうなんですか」
愛さんは驚いたようにそう言った。母さんは少しバツが悪そうに笑い、「うちってほら片親だからさ」と続けた。
「私は自分の選択に後悔したり恥ずかしいところはないと思ってるんだけど、子どもには申し訳ないと思うしあまり偉そうなこと言えないなあと思ってるんだよね。ひとに迷惑をかけたりグレてきてたりしたら流石に何か介入するつもりなんだけど、意外とこいつ、あまりそういうことにならなくって。だから愛さんが本当に迷惑じゃないんだったら好きにさせてやって欲しいというのが私の本音なんだけど、絶対迷惑だと思うのよね。食費もタダじゃないじゃない?」
「確かに食費はタダじゃありませんね」愛さんは笑ってそう言った。「あたしは本当に迷惑じゃないんですけど、こういうのって、たぶんいくら言っても気を遣ってるだけなんじゃないかと思っちゃいますよね。あたしも本当はお母様は心配なんじゃないかと思いますもん」
「そうなのよ。何か良い方法はないかしら?」
迷ったが、僕は口を挟むことにした。「スネをかじってる僕が提案するのはなんともやりにくいんだけど」と前置きをする。「母さんが、僕の食費を愛さんに払うのはどうだろう」
「具体的なプランを言ってごらん」母さんは先を促した。
「たとえば月に20日ほど1食ずつお世話になってるとしよう。1回の食費を500円として月に1万円、これを払えばお互い少しは気を遣わずに済むんじゃない?」
「なるほど。あんたの立場からよく言えるわねというのは置いといて、愛さんはどう思う?」
「あたしは全然構いませんよ」
「それじゃ、迷惑料も含めて月に2万円渡しましょう。それでこいつを世話してくれないかしら?」
「任されました」愛さんはニッと笑った。
「連絡先教えてちょうだい。私、あなたのこと気に入ったわ。よかったら毎月祐輔ミーティングを簡単に行って、そこで金銭のやり取りと傾向対策を練りましょう」
「いいですね」と愛さんは言った。
こうして三者面談は終わりを告げた。僕は帰りも愛さんを送り、ふたり並んでバスに揺られた。座席に座った愛さんは一仕事終えた大人のように大きくひとつ息を吐く。
「おつかれ」
そう言い僕は愛さんの頭を撫でた。愛さんは頭をぐいぐいと僕の手に押し付けてきた。
「疲れたよ。でも面白いお母さんだね。ちょっと羨ましくなっちゃった」
「気に入ってもらえてよかったよ。愛さんは立派だね」
「えらい?」
「かわいい上に偉いと思うよ」
愛さんはウヒヒと笑った。僕は頭を撫でていた手を首筋に降ろし、最寄りのバス停に着くまで首から肩までにかけてを労うようにやさしく揉んだ。愛さんはやがて寝てしまったようで、僕はひとりで窓からの風景を見送った。
季節は冬になろうとしている。地軸の傾きと地球の自転・公転によって作られる季節や日夜の変動について僕は考えるともなしに考え、時間つぶしに頭を遊ばせた。やがて僕の頭の中の地球はバスケットボールに変化していき、僕はインアウトからクロスオーバーに繋がる動きで景色にある様々な障害物を突破した。スピンムーブから最後はリバースレイアップで締める。フィンガーロールをボールに伝えるように指を動かすと、くすぐったかったのか、首筋に刺激を受けた愛さんが小さく動いた。




