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17. 諸行無常


 大原さんと連絡先を交換した僕は、毎週日曜日の午前中、ぶどうが丘大学全学バスケ部の練習に混ぜてもらえることになっていた。


「やっぱり大学の部活ってレベル高いの?」


 朝食のパンを齧りながら愛さんがそう訊いた。今日は塾に行く平日だ。僕はバナナの皮をむきながら浅く頷く。


「低くはないね。でも思ったほどじゃなかった。どうも聞いたところによると、そもそもぶどうが丘大学のバスケ部自体、そんなに強くないらしい」

「ふうん。でもまあ確かに体育学部なんかがあるわけでもないし、私立じゃないし、そうかもね」

「でも設備は良いし、何より人がいる。ゲームをやるにしても僕は目の敵にされるから、悪くない環境だよ」

「目の敵にされるの? いじめ?」

「いじめじゃないよ」僕は笑った。「だって考えてごらんよ。僕はまだ高校3年生で、しかも志望は医学部だ。生意気に見える方が自然じゃない?」


 たとえるなら僕たちと並んで中学生が塾の授業を受けてくるようなものである。「なんだこいつ」と思うし「こいつにだけは負けられない」と思うだろう。


「しかも僕は背が低いからね。僕に対峙した先輩方は絶対こいつにだけはやられないぞと思うだろうし、当たりも必然強くなる。心配しなくても普通の練習のときにはちゃんと扱ってもらえてるし、悪意をもって怪我させてくるような人はいないよ」


 僕は丁寧に皮をむいたバナナを平らげた。必要最低限の勉強道具をリュックに詰め込み体に密着する形に装着する。走りやすくするためだ。


「それじゃ、いってきます」

「いってらっしゃい」


 愛さんは玄関で僕を見送りそう言った。


 夏休みを終えた受験生への対応は学校によって大きく異なる。公立ということもあってか、僕や直人の学校は一応授業を行なっているものの、参加は基本的に自由となっている。中途の入退室は迷惑となるため原則として禁じられているけれど、授業の出欠を確かめられることはない。


 それに対して愛さんの学校は授業自体がほとんど無いに等しくなっていた。センター試験の対策講座や難関校2次試験数学の過去問解説といった集中授業のようなものが催されており、興味があるものにだけ参加すればいいらしい。


「先生によって参加者数が全然違ってきそうだね」


 その話を聞いたとき僕はそう言った。愛さんはニヤリと笑って頷いた。


「とても残酷よ。知らないけど、参加者数とか評判によってボーナスなんかの査定に響いていてもおかしくないわね」

「愛さんはどのくらい参加するの?」

「ほとんどしないわ。薬学部は医学部に比べてセンターの配分が高いし、そのセンターは9割くらい取れてればほとんどトップになるらしいし」

「まあ確かに、センターで9割取れた理系の生徒で前期に医学部を挑戦しない例は少ないだろうね」

「だから今のうちに生物の勉強もしようと思って。2次数学を何個かと、一応センター対策と、生物の講座を取るつもり」

「生物の勉強をするんだ?」


 意外な選択に対してオウム返しに訊くしことしかできなかった僕に愛さんは再びニヤリと笑った。


「だって医療従事者の仕事の対象は生き物でしょ? おそらく入学後その知識は必要になるだろうし、特に薬学部は薬の効くメカニズムを理解する必要があるから、生物は必須知識になるのよ」

「なるほどね。入学後のことなんてちっとも考えてなかった」

「ま、あたしもほとんどそうだったけどさ。この間のオープンキャンパスで大学生から聞いたのよ」

「なるほどね」と僕は言った。


 入試の難易度を落として確実に合格する道を選び、準備の時間を合格後の日々に対して費やす。それはある程度理にかなっているように思われた。


 しかし、と僕は考える。それほど余裕があるなら前期試験は医学部に挑戦し、少なくなるかもしれないが、なお余裕があると思われる後期試験を薬学部にあてれば良いのではないだろうか。


 愛さんがその選択肢を候補に思いつかない筈がなかった。おそらく前期試験の医学部に失敗し、後がなくなった状態で後期試験に臨むことを何としても避けたいのだろう。そしてそのプレッシャーには仲の悪い親戚関係も絡んでいる。それがどのような大きさの重圧なのか、僕には想像もつかないことだった。


 僕が愛さんの立場だったらどうするだろうと考えた。おそらく前期試験では医学部を志望するのではないだろうか。少なくともセンター試験の結果を得るまではそのつもりで勉強する筈だ。


 僕が欲する何かを諦めるには、自分には無理だと証明するか、その価値が割に合わないと納得する必要がある。しかし愛さんはそうではないのかもしれない。手を伸ばせば届いたかもしれないものを横目に過ごし、どう自分に折り合いをつけていくのだろうか。


 脚部の運動は血行を促進させるのだろう。単調なリズムと目に入る景色の変化は脳に良い刺激となり思考を促す。僕は走りながらぐるぐると様々なことを頭に遊ばせ、やがて僕の通う高校が視界に現れるまでそれは続いた。


-----


「そりゃお前、価値観は変わるもんだろう」


 井手先生はバッサリとそう言った。


 放課後、塾へ持っていく道具を取るため愛さんの家に行く道すがら、井手先生に遭遇したのが発端だった。先生は塾のある通りから少し外れたコンビニの前に立ってアメリカンドッグを食べていた。塾の外で話しかけるのは迷惑なのではと思いつつ、しかし無視するのも失礼に当たりそうで中途半端な礼をしたところ、僕を呼び寄せた井手先生は雑談をはじめたわけである。


 そして「何か青春らしい甘酸っぱい悩みを聞かせろよ」と井手先生は僕に青さを強要してきた。ちょうど走りながら答えの出ない問答をひとり続けていた僕はそれを打ち明け、簡単に切り捨てられることとなったのだ。


「決断したら切り替えないとな。お前の言い方を借りるなら、藤間はリスクをとってわざわざ医学部を受験することを割に合わないと考えたんだろ」

「割に合わない?」

「そうだよ。お前も日頃決断を迫られる度、それぞれの選択に対して良い面と悪い面を天秤にかけて、どうにか自分の人生をより良いものにしようとしてるんじゃないのか?」

「それは確かにそうですね」

「藤間もそうしただけだろ。そしてそんなことはお前もわかっている筈で、その判断の基準がわからないからうじうじ悩んでいるわけだ」

「先生にはわかるんですか?」

「俺に? わかるわけねえだろ。でも想像はつく。たとえば薬学部に志望を変えた後で薬剤師がどんな仕事を実際にするのか調べてやりがいがありそうだと思ったとか、結婚・出産をいずれ考えると想定したとき医師より薬剤師の方がむしろ働きやすい職業だと思ったとか、そもそも薬剤師にもならずに企業に就職しようと思ったとかな。可能性ということではいくらでも挙げられる。お前にはどれか思い至ったか?」

「全然です。先生は凄いですね」

「そうだな。確かに俺は凄いかもしれない」


 そう言い、井手先生は得意気に笑ってみせた。食べ終わったアメリカンドッグの棒を袋で包み、指揮棒のようにリズミカルに振る。そして続けた。「でも元々凄かったわけじゃないぜ?」


「じゃあどうやったら凄くなれるんですか?」

「考えることと、知ることだ。何を大切にして何をどうでもいいと思っているのか、その人の価値観をな。そしてその価値観は変化する。世の中に変わらないものは何もない」

「諸行無常ですね」

「だから数ある選択肢から正解を選ぶのはとても難しいが、とても簡単とも言える」

「禅問答みたいですね。正解って何です?」

「お前が正解だと思ったものがお前にとっての正解だよ。そしてそれは他人にとっては不正解かもしれない」

「価値観は多様だから?」

「その通り。幸せになるのはとても簡単で、勝手に幸せだと思えばいい。ただそう思えなければいけないから、幸せになるのはとても難しいんだろうな」


 悦に入ったようにベラベラと喋った後、「何が言いたいんだったっけ」と井手先生は呟いた。


「たぶん俺が言いたかったのは、自分が大事にしたい人の価値観を正しく把握し、その変化に敏感になれ、って感じのことだと思う」

「肝に銘じておきますよ」

「なんだか説教くさい話になったな。俺はもっとこう、ときめく若者のキラキラ恋愛相談みたいなものを期待してたのに」

「じゃあ、クリスマスって何して過ごしたらいいと思います?」

「勉強だよ受験生」と井手先生は言った。


 別れの挨拶をして再びひとりになった僕は、愛さんの家から塾に持っていく道具をリュックに詰め直しながらぼんやりと考えた。確かに愛さんの価値観に何らかの変化が起こり、今では本心から薬学部への進学を望んでいるのかもしれない。その前提で考えるならば、その進学へ必要なだけの学力を得た後は進学後に必要となる知識に勉強時間を充てるというのもアリだろう。それによって得られる利益もゼロではない筈だ。


 そうかもしれないし、そうでないかもしれない。正確な本音を愛さんに問う必要性は低いように思われた。そもそも口に出すことのできる本音と実際自分の心の奥底に横たわる本音が必ずしも一致するとは限らないのだ。


 塾に向かうと愛さんは既に机に着いていた。僕に気づくとニヤリと笑い、隣に座った僕に見える位置に落書きで”カレーを作ったから食べよう”とメッセージを送ってくる。僕は余白にサムズアップを模した絵を描き”いいね!”と伝えた。



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