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15. オープンキャンパス


 主に受験勉強にどっぷりと漬かり、なけなしの自由時間をバスケに捧げる。そんな僕の生活は驚くほど速く時を進めた。ついこの間夏になった筈なのにもう季節が変わろうとしているのだ。朝晩の冷え込みのようなものが発生している。ミノムシのように毛布に包まれた僕は寝床であるソファから身を起こし、キッチンの方に目をやった。お湯を沸かす気配がしたからだ。


 キッチンでは寝間着の愛さんが欠伸をしながら電気ケトルを眺めていた。


「おはよう。寒くない?」


 愛さんはティーパックをマグカップに入れながらそう訊いた。


「ちょっと寒くなってきた」

「祐輔も飲む?」

「いただくよ」


 愛さんはティーパック入りのマグカップをもうひとつ用意し、ケトルから沸きたてのお湯をチミチミと注いだ。僕は毛布を抜け出しトイレに向かい、排尿してから手を洗う。洗面所の歯ブラシコーナーには愛さんの使う黄色い歯ブラシと僕の使う青い歯ブラシが並んでいる。鏡には寝起きの僕の顔が映っていた。未だに時折不思議になるが、これが僕の現実だ。


 愛さんは朝食の準備をしてくれていた。僕はテーブルの上に散乱したままになっている勉強道具を片付ける。拭いたらそのまま食卓だ。トーストとサラダと夕食の残りのスープを並べ、お茶もそこに添えられた。


 テレビはニュースを流している。流れてくる情報に沿って僕らは受験上の知識を関連付けて話題に挙げ、お互いの知らない知識を教え合うと同時にアウトプットすることで自分の知識の定着をより強固にする。内容がつまらない場合はザッピングし、面白いものがなければ子供向けの英語教育番組を映す。ちゃんと解説しようとすれば、子供向けの体を取っている番組であっても難易度は決して低くなかった。


 愛さんの家のテレビのチャンネル権は愛さんにある。サッカーの話題が出ている番組で愛さんのザッピングが止められた。


「これこれ、こいつよ。内藤昂」

「ないとうたかし?」

「嘘でしょ忘れたの? あの、河相さんと仲が良いサッカー選手」

「ああ、あの人か。全然名前を覚えてなかった」


 僕はぼんやりとテレビに目をやった。どうやら内藤昂が1試合で2度ほどゴールを決めたらしい。サッカーに造詣が深いと言えない僕であってもそれが凄いことであるのはわかる。テレビではゴールシーンのリプレイが流れはじめる。


 内藤昂は背の低いフォワードだった。フィールド内を縦横無尽に駆け抜けドリブルで相手を引き裂きゴールする。確かに見ていて楽しい選手だろうと思われた。


「見事だね」と僕は言う。

「内藤は生え抜きのスター選手になりそうだしね。皆注目してるのよ」

「みんな?」

「何事にも例外は存在するようだけど」


 愛さんは冷たい目を作ってジトリと僕を見た。皆が注目すべきスター候補生の名前すら覚えていなかった僕の肩身は狭い。


「サッカー選手の名前は試験に出ないからね」


 受験生であることを理由にやり過ごそうとした僕を、愛さんはあえて追い詰めはしなかった。僕は代わりにこれまでの人生で培ってきたサッカー雑学の披露を試みる。


「サッカーの起源みたいなものは知ってる?」

「村同士の対抗戦みたいなやつだっけ? お祭りみたいな」

「そうそう。じゃあ、ラグビーとサッカーの関連性については?」

「確か元々”フットボール”で同じ競技だったのよね。だからH型みたいなゴールの、ラグビーは上の方を、サッカーは下の方を使うような感じになってる。サッカーは飛び出た部分がもうないけれど」

「よく知ってるね」と僕は言った。


 愛さんはフフンと笑った。そもそもの興味が少ないサッカーに関する知識で戦うべきではなかったのかもしれない。


「NBAトリビアなら負けない自信があるけど」

「バスケの話であたしに勝って、それで何か嬉しいの?」

「だからやらない」

「賢明ね。続けるならあたしも祐輔にダーツ談義を施すわ」

「それは受験が終わったらお願いするよ」


 僕は両手を挙げて降参した。


 そして何気なく携帯電話に目をやると、何かメッセージが届いていた。


「ちょっと、調べて戦うのはズルいわよ」

「違うよ。返信するだけだ」


 メッセージは直人からのものだった。その内容はぶどうが丘大学オープンキャンパスへのお誘いだった。


-----


 結論を述べると、僕たちは3人でオープンキャパスに行くことになった。見られ得るのは直人の希望進路である理学部と愛さんの希望進路である薬学部だ。僕の希望進路である医学部は日程が異なり、今回は対象外となっている。


「なんでこんなことが起きるんだ?」


 移動中に僕が不満を口にすると、愛さんと直人は同時に呆れたような顔をした。


「あんたひょっとして医科歯科キャンパスのこと知らないんじゃない?」

「なにそれ?」と僕は純粋な声を出した。

「ぶどうが丘大学にはキャンパスがふたつあって、ひとつは大学病院に併設された医学部歯学部用のもの、もうひとつはその他すべての学部用のものなんだ」

「それぞれのキャンパスはほとんど独立してて、行事の日程は一緒じゃないの。たぶん文化祭みたいなやつも別日程だし、オープンキャンパスも別日程」

「入学試験は?」

「2次試験はあらゆる国立大学が同日に行うから、当然どちらも同じ日だ」

「なるほどね」と僕は言った。

「こいつと話してると、賢ぶってるくせに時々本当は馬鹿なんじゃないかって思わない?」

「わかるそれ」愛さんは笑って頷いた。


 さすがの僕もオープンキャンパスなる大学の内部を見学できるイベントがこの世にあることは知っていた。それ以上の興味がなく、直人に言われるまでまったく行く気がなかったのは、内部がどんな状態だろうと受験の意志に影響しないであろうからだ。


 地元にある、評判が悪いわけではない国立大学。医学部や薬学部といった国家資格を得られる進路にこれ以上の何かが必要あるのだろうか?


 僕は自分にとって最大のモチベーションである愛さんを眺めた。”かわいいあの娘に気に入られたい”以上に影響力のある動機を僕は知らない。


 とはいえ直人と愛さんをふたりにするつもりはなかったので、両名共が行くと知ってしまった以上、僕は自分に関係のない学部のオープンキャンパスに付いて行くことにしたわけである。


「まったく関係ないわけじゃないだろ?」と直人は言った。「じゃないとお前を誘わないよ」

「でもキャンパス自体違うんだろ? どこで関係してくるんだ?」

「全学ってわかるか? 一般教養って言われたりもすると思うけど、それらの授業はこっちの校舎で受けるんだ」

「全学の教師はこっちのキャンパスにいるわけだからね」愛さんが補足する。「だから、全学が終わるまで、医学部生はふたつのキャンパスを行ったり来たりよ」

「うへえ」と僕は弱音を吐いた。


 とはいえ自由勝手に校舎内を見られるわけではなく、カリキュラムのようなものが用意されているらしかった。薬学部と理学部は同じ時間帯に組まれているため両方に全員が参加することはできない。


 当然愛さんは薬学部の方へ、直人は理学部の方へと向かう。僕は少し考え、直人に付いて行くことにした。


「彼女の方に行くんじゃないのか」と道すがらに直人が言った。

「だって女の子に付いて自分の志望でもない学部の見学に参加するような男で、しかも訊いてみれば実際の志望は医学部なんて、なんだかあんまりな気がしないか?」

「確かにすこぶる格好悪いな」


 納得した直人は僕を受け入れた。


「それより彼女、かわいいじゃん」

「そうだろう?」

「何かあれから進展は?」

「ないよ。泊まってもエロい展開にならないのは慣れたものになってきた」

「凄いな。秘訣は?」

「寝室を分けることだ。僕は居間で寝泊まりしている」

「凄いな」と直人は言った。「これまで”俺のところに泊まりにくる”ことなんてほとんどなかったのに、怪しまれずにやれてるのか?」

「それは既に自白したよ。かえって面倒くさくないと思ってさ」

「母子家庭の一人息子がよその女の家にお泊りなんて、激昂されてもおかしくなさそうだけどな」

「そこは母さんの器のでかさと、模試の結果なんかで明らかに僕の学力が向上しているところで何とかなってる」

「なるほどね。数字は強いな」

「意外とやればできるもんだと驚いているよ」


 実際僕には自分の偏差値の上昇が不思議だった。確かに最近の僕は勉強している方だと思うが、他の受験生も勉強はしている筈で、相対的な学力や順位はそれほど激しく変わらない方が自然に思える。


「なんだ自慢か? 僕は地頭が良いんです、って?」

「そういうわけじゃないけどさ。まあでも僕には愛さんがいるからな。モチベーションが違うよ」

「自慢じゃなくて惚気か。でも確かに俺も、エロにかける情熱で勉強できれば医学部に行けない気はしない」

「そうだろう?」

「しかもこういう力は童貞の方が強そうだ」

「馬鹿にしてる?」

「尊敬してるよ」と直人は言った。


 直人は僕が知らないうちに生物系の体験学習を選択していたらしく、なし崩し的に僕もそれに付き合うことになった。顕微鏡を使って細胞を観察し、様々な機械にかけてそこからタンパク質を取り出したらしい。タンパク質に反応する試薬をそこに入れ、緑色に発色できるようになったら実験成功だ。実験は見事に成功したが、僕には何が面白いのかサッパリわからなかった。


「タンパク質を抽出し、って教科書とかには簡単に書いてるけど、実際はこんな一連の処理をする必要があるわけだ。このやり方を作った人はどうしてこんなこと思いつくんだろうな?」


 生物好きの友人は面白味がわかるらしく、目を輝かせてそう言った。ある分野について素質があるかどうかは面白味がわかるかどうかで判断できる。僕にはおそらく生物学の素質がないのだろう。


「僕にはそれよりタンパク質に色々な種類がある方が驚きだった」

「中学の理科で習わなかったか?」

「少なくとも覚えてないな。栄養素のひとつとしか認識してなかった」

「ビタミンにもAとかCとか色々あるじゃん。色々あって働きが違う。それと同じだよ」

「なるほどね。確かに言われてみればタンパク質はアミノ酸から構成されているわけだから、すべてが同じじゃない方が自然だな」

「それは覚えてるのか。じゃあ問題、タンパク質をアミノ酸に分解するのは?」

「消化酵素」

「その消化酵素もタンパク質の一種だ」

「共食いじゃん」と僕は言った。


 体験学習を終えた僕たちオープンキャンパス参加者は一堂に会され軽く感想を言い合ったり軽い討論のようなものをさせられたりした。そしてお礼を言って解散すると、愛さんの方も解放されたようだった。


「ここはひとつ、学食ってやつに行ってみるか」


 僕たちがウキウキしながら大学の学生食堂に向かうと、同じことを考えたような若者が群れを成していた。その場が混乱していなかったのはボランティアの大学生らしきお兄さんが整理してくれているからだ。腕章に”生協”と書かれている。立派なことだなあと僕は彼の働きぶりをぼんやり眺めた。


 そして気づいた。僕はこのお兄さんを知っている。


「大原さん?」と僕は訊いた。


「祐輔じゃん」と大原さんは笑って言った。「ああそうか、お前受験生だったっけ」

「知り合い?」と愛さんが訊く。

「松尾さんのコートでたまに会うんだ」

「またそれ?」

「世界は狭いね」と僕は言った。


 大原さんの誘導で大学に慣れない若者たちもスムースに食券を購入し、飲食物と交換できているようだった。


「この後暇なら体育館来いよ。飯を食うなら軽めにしとけ」


 順番がきた僕たちに大原さんはそう言った。僕は口元が緩むのが自分でわかった。


「でも僕たち何も持ってませんよ?」

「バッシュは何とかなる。服はしょうがないからそれでやれよ」

「バッシュ、何とかなるってよ」


 僕は直人に目をやった。直人は大きく肩をすくめた。


「行くんだろ? 付き合うよ」

「愛さんは?」

「しょうがないから行ってあげるよ」

「なんだ受験生、お前の彼女か?」

「そうですよ」と僕は頷く。

「血祭りにあげて幻滅させてやるからな」


 大原さんは挑発的な笑みを浮かべた。


「どうなるか見てみましょう」と僕は言った。



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