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14. スポーツライター


 黒川井手塾に日常が戻ってきた。


 僕にとっての日常だ。つまり黒川先生や井手先生の授業を受け、自習をし、質問をしたり分野によっては答案の添削をお願いしたりする。そして僕の隣には愛さんが座るのだ。


 しかし、今日はいつもの日常と少し違った。井手先生が他の学年の授業を行う間、僕たち3年生は自習をしている。いつもはその自習室に黒川先生が侍っていて、質問などを受け付けてくれるのだけれど、今日は教卓に誰もついていなかった。


「来客かな」僕は呟く。

「そうかもね」と愛さんが言った。


 これはそれほど珍しくないことだった。実際僕が塾の見学に来た時も黒川先生に対応されている。僕が残念だったのは、せっかくこしらえてきた自由英作文を黒川先生に見せることができないからだ。


「お、自由英作文?」


 何気なく自分の答案を眺めていると、愛さんに開示を要求された。僕は素直にそれに応じ、代わりに物理の問題集を取り出した。


 力学の問題を解く。色々と複雑になってはいるが結局のところ跳ね返り運動を主題としたもので、僕は上手にそれを解いてあげた。そして板に球を当てた場合の話だったので、否応なしにバスケットボールを連想した。


「何考え込んでるの?」


 自由英作文の答案をチェックし終えた愛さんが小声で訊いてきた。僕はそれを受け取り、ぐりぐりと不細工な図を何重にも書いている紙を畳んで封印した。


「フィンガーロールの力学について」と僕は答えた。

「なにそれ?」

「バスケのレイアップシュートの技術のひとつで、ボールにわざと回転をかけてボードにぶつけるんだ。すると普通に当てた場合と比べて、意図的に挙動を変えられる」


 球に回転を加えて意図的に挙動を変えるという意味ではおよそあらゆる球技に同様の技術があることだろう。角度のあるボールの跳ね返り問題で、回転による運動への影響を考慮する必要がある。


「跳ね返り係数やボールの重さ、速度なんかをを与えれば、ボールの軌道を計算で求められる気がするんだ」

「確かにできるかもしれないね」

「でもこの回転による力の伝達は、ボール・ボード間の摩擦によって伝わる筈だろ? 摩擦係数を与える必要があると思うんだけど、動摩擦係数を使うべきか静止摩擦係数を使うべきか、そこでちょっと悩んでた」

「なるほどね。動いているボールの運動だしその後運動を続けるわけだから、字面的には動摩擦係数のような気がするけどね」

「ただ力の伝達はボールとボードが触れた瞬間に行われると考えるべきで、その局面では静止していると考えるべきだと思うんだよね。すると静止摩擦係数の方がふさわしい気もする」

「でも、それならそもそも摩擦係数って何? って感じになっちゃうね」

「そうなんだ。摩擦係数って僕らは与えられて使うだけで、その実態はよくわからない。おそらく、あるふたつの物体間の相互作用に利用できるだけで、それをほかの物体との動きに対して応用したり、何か広がりを持って考えられるようにはできていないんじゃないかと思うんだ」

「つまり?」

「つまり、これが出題されるとすると、”この場合に利用する摩擦係数”みたいなものが与えられる筈で、こんなことを考える意味はどこにもないんだ」

「散々考えて得られた結果がそんなことを考える必要なし、っていうのは残念なことだね」

「受験生がやることではないかもね。ところで僕の自由英作文はどうだった?」

「平易な単語と文法で構成されていて、減点の要素がないね。見事なものだよ」

「僕はあらゆる受験勉強の分野において、自由英作文がもっとも得意かもしれない」

「まあなんて羨ましい」


 愛さんは眉を上げ、わざとらしくそう言った。どちらかというと愛さんは”うまいこと言いたいタイプ”で、自分の知識にある難解な熟語や複雑な構文を使って英作文をしたがる方だ。そこに不備を突かれて減点していく。それに対して僕は語彙力自体がないためそんな背伸びはそもそもできない。前回の模試でも自由英作文に関してのみはすこぶる高得点だった。


 結局黒川先生は自習室に姿を見せなかった。次は黒川先生の授業の時間だ。まさか連絡なしに授業をすっぽかすことはしないだろうと考えながら授業部屋に入ると、黒川先生は教卓についていた。


 ほっとしたが、同時に僕は驚いた。教室の隅に知らない女性が座っていたからだ。すらりとした印象の美人だが、明らかに高校3年生ではない。浪人生にしても不自然だった。


「いつまで見てんのよ」


 愛さんが僕を引っ張って席についた。仰せの通り隣に座る。僕がその女性から目を離せなかったのは美人だからではなく、知らない人だと直感したのに見覚えがあるような気がしたからだ。


「いや、見たことがある人な気がしてさ」

「知り合い?」

「少なくとも知り合いではないと思う」

「じゃあどうでもいいんじゃない?」


 確かにどうでもいい筈だった。僕は頷き前を向く。黒川先生が口を開いた。


「あそこにいる部外者はわたしの友達で、河相玲奈さん。見学したいらしいから気にしないでね。授業が終わった後何か訊かれても答えなくていいけど、答えてもいいから好きにして。記者さんだから、載ろうとして色々話すのはいいけど馬鹿なことは言わないように」

「よろしく」河相さんはニコリと微笑んだ。


 それで僕は思い出した。この人とは松尾さんのコートで会っている。女連れボーラーに連れられていた側の人で、実際のところはプロを目指すストリートボーラーを取材している記者だと言っていた。


「思い出したよ。あの人は記者さんだ」

「それ今先生が言ったよね?」


 愛さんは不機嫌そうにそう言った。


-----


 案の定というべきか、僕は河相さんに呼び止められた。まさか僕に会うために来たのではないだろうが、予想していたので驚きはしない。


「かわいい彼女も一緒にどうかな」


 お茶とケーキを約束され、僕たちは近くのファミレスへと連れ立った。愛さんが拒絶的でなかったからだ。あるいは”かわいい”かつ”彼女”と称されたことが嬉しかったのかもしれない。この”彼女”が単なる三人称として使用されている可能性は否定できないが、はたして僕たちの関係は講師陣に筒抜けだろうか?


 何を頼んでも良いと言われたので、僕は遠慮なくお茶やケーキではなくライス大盛のハンバーグセットを注文した。愛さんはチョコレートパフェだ。河相さんはフライドポテトをつまんで食べている。


「この会談は取材というより雑談に近い。どうぞリラックスして、好きに話してくれれば嬉しいよ」


 河相さんはコーヒーをすすってそう言った。


「その割には録音するんですね」と僕は言う。

「一応ね」

「何が訊きたいんですか?」

「特別、具体的なものは実はないよ。君たちに興味があるだけだ」

「あたしたち? こいつだけじゃあなくて?」

「君たちだ」と河相さんは言った。


 僕がハンバーグとライスを胃袋に収め、愛さんがパフェを平らげる間に河相さんは僕たちについて確認をした。つまり僕が松尾さんのコートに顔を出すボーラーもどきの受験生で、愛さんはスポーツ経験は一応あるがそれほど熱心に取り組んできたわけではない女子高生。ついでに僕は医学部志望で愛さんは薬学部志望。学力的にも点数的にも僕より愛さんの方が総合的に優れている。


「こんなところで間違いはないかな」

「よく知ってますね」と僕は頷く。黒川先生から聞いたのだろうか。

「それと、これは答えなくてもいいんだけど、君たちは付き合ってるの?」


 僕が横目で愛さんの様子を伺うと、「そうですよ」と彼女は答えた。


「そうか。黒川も喜ぶよ」

「黒川先生が?」

「藤間さんはご家族が大変だったんだろう? 心配していた」

「こんな時期に彼氏なんか作って、怒られるかと思ってました」

「黒川が君たちを叱ることはないんじゃないかな。良い生徒たちだと褒めていたよ」

「本当?」


 愛さんは嬉しそうに笑って訊いた。河相さんは頷いた。


「わたしはスポーツライターだ。専門はサッカーだったんだが、最近はちょっぴり評価されてきたのか、バスケや他の競技についても関わる仕事が増えている。狩井君は知っているかもしれないが、先日はストリートバスケからプロを目指す選手の記事なんかを書いていた」

「そのとき松尾さんのコートで会ったことがあったんだ」

「なるほどね」と愛さんは言った。


 そして僕たちは取材というより雑談に近い時間を過ごした。あるいは僕たちがそう意識しなかっただけで河相さんからしたら必要な情報を引き出せていたのかもしれないが、おそらく僕たちが訊き河相さんが答える時間の方がその逆よりも長かったのではないだろうか。


「誰か特別仲良い選手っているんですか?」


 会話の弾みに愛さんがそう訊いた。河相さんは少し考え、「すごく有名な選手ではないけれど、いることはいるよ」と答えた。


「誰ですか?」

「サッカー選手の内藤昂とかね」

「知ってる!」愛さんが声をあげた。


 あいにく僕は知らなかった。サッカー選手の名前なんて、日本代表のエースストライカーくらいでないと覚えていないし、その名前を挙げたところで「そいつは中盤の選手だ」と言われても不思議でないくらいの知識しかない。愛さんはそれなりに知っているようで、内藤選手について河相さんと話を弾ませた。


「ひょんなことがきっかけで、ちょっと内藤とは繋がりがあるんだ。それからずっと追いかけている」

「あたしも内藤は好きだな。ダイナミックなプレースタイルで、見てて楽しいですよね」

「彼はいいね。まだまだ一流という評価は受けていない選手だと思うが、時間の問題だね。いずれこんなものじゃなくなると思うよ」


 もちろん未来のことはわからないし、可能性の話だけどね、と河相さんは付け足した。僕は河相さんを強く見つめる。


「そういった可能性がある選手とない選手って、いったいどこが違うんですか?」


 僕は河相さんにそう訊いた。単純に才能の有無だろうか。それをどうやって判別するのだろう?


「見ればわかる、といいたいところだけれど、おそらくどこを見ればいいのか知りたいんだよね? 見るのは態度だ。日々の送り方と言ってもいい」

「才能、とかではなくて?」

「才能は見えない。もちろん感じることはあるけれど、才能を見るという点ではわたしの目はそれほど優れていないんだ。もちろん才能をちゃんと見られる人もいるんだろうが、わたしからすると、プロになれるような選手は皆才能に恵まれているね。その中の優劣はいわば誤差の範囲のようなものなんじゃないかとわたしは思う」

「態度っていうのは何ですか? 品行方正じゃなくてもスーパーなプレイヤーはたくさんいると思いますけど」

「おりこうさんって意味ではないよ。態度とは、簡単にいうと細部がちゃんとしているかどうかだ。カタカナ語でディテールなんて言うね。意図せずそうしている選手もいるだろうが、ディテールを詰めずに勝利するのは難しい」


 そして河相さんは具体例として内藤選手の話をしてくれた。チームや個人の練習において、彼はいつも集合時間より1時間程度は早く来ているらしい。


「早く来ること自体が大事なんじゃあないけどね。彼はそこで毎回基礎的なところをすべて確認してから練習に臨む。練習中も、正しい動きで正しい結果を残すまで誰にも何も言われなくても何度でもやり直す。結果的に良かった場合を見過ごさず、正しい成功体験を身に刻むんだ。おそらく彼はそれを苦痛と思わずにやっていて、むしろ楽しみなんじゃないかとすら思えるよ」


 これを常人が真似することはできない、と河相さんは断言した。真似して同じ振る舞いを努めて続けてみたとしても、それを喜びをもって続けている人間に敵うはずがない。とても説得力のある話だと思った。


「”神は細部に宿る”という言葉がある。わたしはこの言葉が好きで、ディテールを詰める重要性を表していると思うんだ。日々をそうして過ごせる人間かどうかが可能性の有無を決めるんじゃあないだろうか」


 そう言い河相さんはコーヒーをすすった。「ちょっと語ってしまったね。暑苦しい大人みたいだ」


「いえ、とても良い話を聞いた気がします」

「そうだといいね」と河相さんは言った。


 その夜家に走って帰りながら、僕は自分がディテールの詰まった生活をできているか自問自答した。今すぐ熱心に勉強をしたい気持ちとボールを触りたい気持ちが同時に体中を巡っている。


 内藤選手の話を聞いたからか、元々その方が好きだからか、後者の方が衝動として強いことに僕は少し戸惑った。




河相と内藤は『ピザまんフットボール』という短編にも出てきたキャラクターです

今更ながらひどい題名だな

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