13. 持ちつ持たれつ
「それで、お泊りしてきたのか?」
コンビニの袋を片手に下げた直人が僕に訊く。僕は小さく頷いた。
「してきた。たぶん何も訊かれたりしないだろうけど、一応直人のところに行ってることになってるからよろしく」
「任された」
直人はニヤリと大きく笑った。
親に言いづらい外出や外泊の場合にお互いの名前を使い合うというのはこの長身バスケットボーラーが本格的にモテだしたころに提案された作戦で、しかしながら、これまで僕の方が活用するような機会には恵まれてこなかった。なんとなく得意な気持ちになった僕の足取りは軽い。
「祐輔もようやく脱童貞か。なんだか感慨深いものがあるな」
詳しく話してみろよと直人は言った。しかし僕には不可能だった。
「それはできない」
「なんでだよ? 俺とお前との仲じゃないか」
心の友よと言い出しかねない直人に僕は続ける。
「なぜなら、僕はまだ童貞を脱していないからだ」
僕たちは校門を通過した。靴を履き替え教室に向かい、夏休みの期間中受験生のために解放された教室の机について勉強の準備を進める。
僕は愛さんの家にはじめて泊まった夜のことを思い出していた。
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お泊りを提案された僕はひどく狼狽していたが、なんとか平静な態度を取られていたのではないかと思う。空いているコーヒーカップを飲もうと手に取り、「入ってないよ」と笑った愛さんに自分の分を差し出され、口をつけたところで向かいの飲み口に残った愛さんの飲み跡を目にして動揺を重ねた事実には目を瞑りたい。
コーヒーカップから顔を上げると、愛さんはこちらを向いたままだった。
「どうする少年?」と愛さんは言った。
「泊まるよ」と僕はようやく答えた。
「親には何て言うんだい?」
「僕には悪い友達がいて、そいつとは持ちつ持たれつの関係なんだ。お互いの名前を利用しあって秘密の行事に参加できる。何か追及されたら口裏を合わせることになっている」
「つまり?」
「僕の家は放任主義なんだ。”生石と遊んでる。帰りはたぶん朝になる”とかなんとか送っておけば、具体的な迷惑をかけない限り何かを言われることはないよ」
平常心を取り戻してきた僕はすっかり泊まっていく気になっていた。携帯電話を駆使して母親へメッセージを送る。いつも通り素っ気なく、やたらと言い訳がましい文言にしないことが重要だと聞いている。
「経験豊富だね?」
「僕にはノウハウを教えてくれる友達がいるんだ」
「それがオイシ君?」
「そう。生石直人。僕と違ってバスケに適した身長をしているイケメンポイントガードだ」
「モテそうだね」
「実際ずっと僕は”持たれて”きた。”持ちつ”の方ができるのは、実はこれがはじめてのことだよ」
「ふうん」と愛さんは面白そうに笑った。
そして僕はこれまでの女性遍歴を洗いざらい話させられた。とはいえ内容はごく単純で、「そんなものはない」ですべてが片付けられた。ないものはない。無い袖は振れない。捏造するノウハウも持ち合わせておらず、僕にはどうしようもないことだった。
「祐輔はピュア・ボーイなんだね」と愛さんは言った。
「愛さんはピュア・ガールなのかい?」
「実はあたしもそうなんだ。興味がないわけじゃないし、告白されてお付き合いしてみたこともあるけど、そういうことをする前に別れちゃった」
「振ったの?」
「振った。だってちっとも楽しくなかったんだもん」
そしてその一連の顛末を母親に報告兼相談した際、事件が起こったのだと愛さんは言った。
「これは祐輔にとって、とても残念なことかもしれないけど、聞きたい?」
「聞かないわけにはいかなそうだからね、聞きたいよ」
「どういう流れでそうなったかも忘れちゃったし、冗談めいたノリだったんだけど、あたしはお母さんと約束したの。20歳になるまで処女でいます、って」
「どんな約束だよ」僕はどちらかというと笑ってしまった。
「あたしもそう思うんだけどさ、お母さんいなくなっちゃったし、なんだかそんな約束してたな~って覚えてるの。別に大事なことでもないだろうし、あの世で会ったときに怒られたりもしないだろうけど、できることなら守った方がいいことあるんじゃないかと思うわけだよ」
「願掛けみたいなものかな。気持ちはわからないでもないし、僕はそれでも構わないよ」
「本当?」
「そりゃあとても残念ではあるけれど、別にセックスするために告白したわけではないからね」
「なるほど」と愛さんは言った。
そして愛さんは立ち上がり、僕の空のコーヒーカップを手に取った。
おかわりを煎れにいくのだろう。ぼんやりそう思っていると、愛さんは座っている僕に滑るように素早く近寄り、驚く間もなく口づけをした。
それはこれまでの人生で味わったことのない、表現の仕様がない感触だった。
愛さんが離れる。僕は愛さんの腕を掴んでそれを阻止した。
軽く腰を浮かせ、今度は僕の方から近寄った。愛さんはそれを受け入れる。僕たちはしばらく唇を重ね合わせた。
「キスをするのもはじめて?」
やがて愛さんがそう訊いた。僕は小さく頷いた。
「はじめてだよ」
「あたしもよ」
「それじゃあ、”こんなのはじめて”って言ってごらん」
「なにそれ?」
「男のロマンだよ」
「馬鹿みたい。こんなのはじめて!」
「それじゃあちょっと文脈が変わってきちゃうな」
僕たちは受験生らしく指示語の用法を確認し合った。指示語の内容を把握するには総合的な言語力のようなものが必要となるので、言語学の試験ではよく設問に利用される。つまり国語や英語だ。
「今思えば、確かに英語が得意なのに国語が苦手ってありえないね」
「それ、先に言ったのあたしだからね」
「覚えてるよ。当時は正直納得してなかったんだ」
「国語の何が嫌いだったの?」
「今思えば設問が気に食わなかったんだと思う」
「なにそれ?」
たとえば筆者の気持ちを考える問題だ。そんなものが僕たち読者にわかる筈ないと思っていたし、そんな問題に対して何か答えなければならないというのが僕には苦痛だった。たとえば小説の問題で、ある人物がある行動を取り、その動機や理由を答えさせられるとしよう。しかしその人物にはその人なりの人生をこれまで歩んできた筈であり、その行動の引き金になったものが何かは答えられるかもしれないが、動機や理由を完全に答えることができるわけない、と僕は思ってしまう。
「生きづらいことを考えるものだね」と愛さんは言った。
「だからセンター試験の問題は好きだよ。選択問題で、もっとも適当な答えを選ぶのは得意かもしれない」
「英語の記述問題はイケるの?」
「英語はイケる。ワンクッション置いてるからかな。あまり深読みしないで解くことができる」
「あたしが教師だったとしても、あんたを生徒に持ちたくはないわ」
「僕は愛さんが教師だったとしたら、是非教えを乞いたいものだと思うよ」
僕はそう言い愛さんを引き寄せ、もう一度キスをした。
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「それで、どこまで進展したんだ?」
昼ごろまで勉強した僕と直人は各自お弁当を広げていた。すぐさまそう訊く直人は果たして午前中勉強に集中できたのだろうか。
「キスはした」と僕は答えた。
「お泊りデートで、キスをして、よく童貞でいられたな」
「言うは易く行うは難かった。地獄のような一夜だったよ」
「意志の強さが誰の利益にも繋がらない場合もあるという良い例だな」
「そうかな。現状僕とセックスはしないという明確な考えを聞いた上でそれを尊重するのは彼女の利益に繋がると思うけど」
「本当に手を出されたくないなら、お泊りのお誘いをする筈がないと思わないか?」
「どちらかというと、恋人に対して本音と建前を使い分けるべきでないと思う」
「悪役になってあげる優しさというのもあるんだよ」
経験豊富なモテる男は渋い表情を作って遠くを眺めた。僕はそれを無視して自分の弁当を平らげた。




