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12. 先生方に知られたら発狂ものの案件


 愛さんが塾を休んでいたのは身内の不幸が理由だったらしい。


「事故でね。お父さんもお母さんも死んじゃったんだ」

「それは、なんて言えばいいか――とにかく大変だったね」

「大変だったの。両親がいなくなっただけでも大変だったのに、相続問題っていうの? ああいうのにも巻き込まれちゃってさ」


 努めて明るくしているのか、笑って愛さんはそう言った。どう返していいのかわからず、先ほどまで僕の指で遊んでいた愛さんの右手を僕は自分の左手で覆った。愛さんの右手はひんやりとして小さかった。


「本当に大変だった。よくわかんない肩書の大人たちと話させられて、子どもなあたしは手の中で転がされてさ。簡単に言うと、あたしは両親からもらうべきだったあらゆる財産を手放して、その代わりにしばらく生きていくのに必要なお金と住む家を手に入れたってわけ」


 愛さんは一人っ子で祖父や祖母は既に他界していたらしい。そこに両親が共に亡くなったため、親戚筋が後見人のような立場になった。”おじさん””おばさん”と彼らを呼ぶときの愛さんはとても距離を置いた言い方をしていて、少なくとも良い関係になかったことが伺える。血縁関係も実際は遠いのかもしれない。


「黒川先生には相談に乗ってもらってて、もうちょっとあたしにとって有利そうな条件を目指して戦うこともできそうだったんだけど、戦うこと自体が面倒くさくなっちゃって。だってあいつら法律事務所か何かで働いてるらしくて法律関係には詳しいし、あたしが高校3年生ってことも知ってるから、どうしようもないんだよ」


 愛さんは空いた左手だけで肩をすくめてみせた。皮肉っぽい笑みを浮かべて僕を見る。


「残念なことに僕たちは子どもだ。大人たちに吠え面をかかせるのは難しいよ」

「ありがとう。諦めるなよ! 戦えよ! って言われたらどうしようかと思ってた」

「そんなことは言わないよ。確かに実際ここで思う存分戦った場合にどうなるかは今後気になることもあるだろうけど、少なくとも受験生がこの時期にやることじゃあない」

「そうだよね。しかも、おばさんは特にあたしのことが嫌いで、まああたしも嫌いだからお互い様なんだけど、嫌がらせをしたいだけって面も絶対あるのよね。あたしが受験に失敗すればいいと思ってるんだ」


 どうやら彼らにも息子がいるようで、その息子は現在浪人生をしているらしい。憎い小娘が受験に失敗すると思えば、ただ交渉を長引かせて消耗させるだけのようなやり取りもしてくるだろうことは容易に想像できた。


「それで医学部をやめたんだ?」

「そう。おそらく確実に合格できて、入学した後も授業料の全額免除を卒業まで受けられそうな薬学部にすることにした」

「薬学部か」


 相槌代わりにオウム返しをしたところで、僕に薬学部の知識はまるでなかった。医学部の知識もろくにないのだから無理もないことだろう。


「怒った?」


 少し黙った僕の顔を覗き込むようにして愛さんが訊いた。僕は笑って否定した。


「怒るわけないよ。そりゃあ正直とても残念ではあるけれど、理由があって、考えて、結論を出したことに僕が怒る資格はないよ」

「そっか」と愛さんは口を尖らせた。「てっきりあたし、祐輔は目標を失って路頭に迷ってしまうんじゃないかと思っていたよ」

「確かに目標のひとつは失ったかもしれない」

「そうだろう?」


 愛さんはニヤリと笑って僕の左手を強く握った。そして「祐輔の手は大きいね」と言った。


「手が大きいと有利だからね。腕が長くて手が大きいのはボーラーに適した体なんだ」


 僕は空いてる右手を横に伸ばし、指先も広げて長く大きく愛さんに見せた。


「バスケに向いてるのかもしれないね」

「是非そう思いたいところだね」


 僕たちは笑いあった。そのせいだろうか、そうするのが自然な気がして、僕はその開いた右手を下ろすのではなく愛さんの左肩に伸ばして触れた。愛さんは体を動かすことなく僕の右手を受け入れた。


 しばらく見つめあう。先に耐えられなくなったのは僕だった。軽く吹き出し視線をそらしてしまう。自分で起こした行動なのに、信じられないほど恥ずかしかった。


「どうした少年」


 おそらく目をそらしていない愛さんが言う。僕は「ちょっと待って」と感情の爆発に耐える。


 少し平常心を取り戻し、愛さんの顔に視線を戻すと、途中で髪の間から覗く小さめの耳が目についた。


 愛さんの耳は薄暗くなってきていてもはっきりわかるほど赤くなっていた。


 それで僕は落ち着いた。本日の予定にはなかった発言をする。


「僕は愛さんが好きだ。想定外の進路を選ぼうが、それが変わる筈ないよ」

「ありがとう」と愛さんは言った。「あたしも好きよ」


 こうして僕たちは付き合いだした。受験生が夏に恋人を作るだなんて先生方に知られたら発狂ものの案件かもしれない。しかもそいつは模試がD判定の医学部進学を狙っているのだ。


「しかし」と僕は考える。


 この先僕の生活様式や学習態度が変わることはあるだろうか。おそらくないような気がする。モチベーションはどうだろうか。愛さんを失っていたこの何週間かを振り返るに、おそらく向上するのではないだろうか。


 精神面では安定がもたらされ、おそらく受験生生活自体はほとんど変わらない。良いことずくめだ。そう思っていたのだが、会話を続けるうちに変化する可能性が生じてきた。


「これからうちくる?」と愛さんが言ったのだ。


-----


 挙げようと思えば断る理由はいくつでも思いついたが、そんなことは不可能だった。僕は誘われるまま愛さんの家にお供し、その道すがらに懸念点を口にした。


「今は外だから耐えられているかもしれないけれど、おそらく僕は今尋常じゃなく汗臭いよ」


 今日は追い出しマッチを行い、その後1on1で体を苛めたのだ。着替えは行ったので汗が滴ってはいないけれど、シャワーすら浴びていない僕の体は強烈な状態であることだろう。


「そういえば試合してきたって言ってたね。ひょっとして、パンツまでぐしょぐしょになってたりするの?」

「もちろん直後はそうだったけど、幸いなことに着替えを用意してきてたんだ」

「じゃあ着いたらまずシャワーを浴びてくるといいよ。なんなら洗濯もしてあげよう」


 促されるまま愛さんの家に着いた僕はまず身を清めた。


 汗が埃と化学反応を起こして肌を覆っていた何かが洗い流され、疲労がぼんやりと全身に広がる。何ともいえない快感に包まれながら、僕は今自分が使用したシャンプーや石鹸が愛さんの体にも使用されてきたのであろうことを考えとても不思議な気持ちになった。


 着替えはワンペアしかなかったため着てきたものを再び着用した。運動中に身に着けていたものはゴウンゴウンと洗濯機の中で踊らされている。与えられたタオルは愛さんを連想させる香りをまとっており、僕は顔を拭くついでにこっそり大きく匂いを嗅いだ。


 愛さんの家はマンションの一室だった。キッチンから食卓とリビングが一続きの大きな部屋となっており、ドアをくぐった僕は左手のキッチンに愛さんが立っているのに気がついた。


 エプロンをつけて何か野菜を刻んでいる。文字で保証されないとほうれん草と小松菜の区別が僕にはつかないが、緑色の何かの野菜だ。賭けるならばほうれん草を僕は選ぶが確信はもてない。


「さっぱりした?」


 軽く振り返って愛さんが訊いた。僕はその様子を目に焼き付けながら頷いて礼を言う。


「すごくね。色々ありがとう」

「こちらこそ。うちは共働きだったからよくお料理はしてて、作るのも好きなんだけど、自分が食べるためだけの料理ってなんだか気合が入らなくてね。来てくれて嬉しいよ」


 愛さんからコップに入った麦茶を受け取った僕は、食卓の一角に腰かけた。料理する彼女を眺められる位置だ。頬杖をついて眺めていると、愛さんはこちらを向いてニッと笑った。


「うちにはダーツがあるのだよ」


 そう言われて僕はいつか一緒にダーツに行こうとお誘いあわせしていたことを思い出した。機会を逃しているうちに意識の端に追いやられていた約束だ。


 僕は愛さんに促されてリビングから続くドアを開けた。愛さんの部屋だろうかと胸を高鳴らせたものだったが、実際に出てきたのは和室の書斎だった。壁一面に本棚があり、その本棚に埋め込まれるようにしてローデスクが設置されている。窓を覆っているのであろうカーテンの脇にダーツ盤が設置されていた。


 近寄って観察すると、ダーツ盤のまわりの壁には何かが突き刺さったような穴がいくつも空いていた。カーテンの向こうは出窓になっているらしく、カーテンを開けると長細いケースがふたつ並べられている。


「ダーツだ」ケースを開けた僕は呟いた。


 てっきり銀色に鋭く光るものだと思っていたが、ダーツの先端は黒いプラスチックでできているらしかった。1本を手に取ってみると何とも言えない重さをしている。畳にスローラインを直感させる目印があるのに気が付いたので、そこに立ってダーツ盤を眺めると、その小ささに驚いた。


 適当に構えてみる。とてもじゃないが的に当てられる気がしなかった。投げる勇気は当然起こらず、シュッと口で鳴らして投げる真似をして振り向くと、愛さんがニヤニヤと立っていた。


 ひとに見られていると思っていなかったので、僕はとても恥ずかしかった。


「投げてごらんよ」と愛さんが言う。

「無理無理。壁に穴が空いちゃうよ」

「もうたくさん空いてるよ」


 愛さんはそう言うと本棚の隙間から板のようなものを引き出した。大きな平面は段ボールか何かでできているらしく、中央に丸く穴が空いている。その穴はちょうどダーツ盤の大きさになっているようで、愛さんはダーツ盤自体に引っかけるようにしてその板を設置した。


「これは通称へたくそ板。的を外しちゃっても壁やカーテンが痛まない」

「賢いね」

「お父さんは賢かったの」

「これがあるなら、なんで壁に穴が空いてるのかな」

「人は思い上がるものだからね。往々にして、初心者より初級者の方が怪我をしやすいものなのだよ」


 僕を退かせ、ダーツを1本握った愛さんはスローラインにピンと立った。背筋が伸びて軽く前のめりになっている。


 真剣な表情。フリースローの時と同じ顔だ。僕がもっとも魅力的だと思う顔のひとつである。


 引き絞った弓の弦から指が離されたように、愛さんの腕がしなってダーツが一直線に飛んでいく。行先はダーツ盤のど真ん中だった。小さく赤い円に矢が突き刺さっている。プラスチック製の先端でもちゃんと刺さることに僕は小さく驚いた。


「ぽーん!」と愛さんが高い声を上げた。

「なにそれ?」と僕は訊く。

「ブルに当たったらこういう音が鳴るのよ」


 得意げな顔で愛さんはそう言った。「まあまあ、それよりご飯を食べようよ」


 そして僕たちは愛さんの作ったオムライスとオニオングラタンスープを食べた。どちらも非常に美味だった。


「たとえばこのスープ。自分のためには作らないね」


 愛さんはスプーンで僕を指してそう言った。単純に不思議で僕は訊く。


「こんなに旨いのに?」

「面倒くささに勝つのはとても難しいのよ」

「確かにそれはそうかもしれない」


 たとえば英文を読んでいるとき、文脈からおよその意味が把握できた未知の英単語に遭遇すると、その度これを機会に覚えれば良いと思うものだが、実際に暗記作業をしたり辞書で自分の把握が正確だったか調べ直すのはとても難しい。ある作業が大切かどうかや手間がどれほどかかるかよりも、人間の行動は面倒くさいかどうかに依存するのだ。


 僕たちは受験生だ。ご飯を食べ終えた僕たちは、愛さんの家にある材料から勉強道具を広げ、愛さんの煎れてくれたコーヒーを飲みながらしばらく頭を働かせた。意外と集中できるものだなと思いがてら、設問の合間に愛さんの顔を覗き見ると、彼女としっかり目が合った。


 そして愛さんは何でもないことのような口調でこう訊いた。「今日泊まってく?」


 どう返答していいものか、僕の脳はおそらくこれまでの人生で一番速く回ったことだろう。とりあえずコーヒーを飲もうとカップに手を伸ばしたが、僕のカップは空だった。



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