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11. 良いボーラーになる資質


 友人と後輩の追求から這う這うの体で逃げ出した僕は、愛さんのメッセージをひとりで読んだ。


「今日時間ある?」


 簡潔にそう書かれていた。今日は追い出しマッチに参加するため塾には行かないつもりである。つまり僕には時間があった。その旨愛さんに返信すると、時間と場所を指定して呼び出された。


 場所は愛さんの家の近くの公園だった。遊具の類はない広場だけの公園で、緑豊かなベンチと遊歩道に囲まれている。数人の子どもたちがサッカーボールを蹴り合っているが、それを座って眺める保護者たちはどこにもいない。


 僕は見るともなしに行き交うボールを眺め、弱い風の吹き方によってわずかに変化する木漏れ日と共に愛さんを待った。いったい何の話をされるのだろう。久しぶりに愛さんに会えるであろう喜びと、何の話をされるかわからない不安が3対7くらいで入り混じっていた。


 やがて愛さんが現れた。僕の好きなレモン色のワンピースを着ている。立ち上がって迎えるのも変な気がしたのでそのまま待っていると、愛さんは僕の隣に腰かけた。


「おまたせ」と愛さんは言った。

「久しぶり」と僕は返した。


 おそらく話があって呼び出したのだろうが、愛さんは即座に話を切り出さなかった。唇を噛んだりワンピースから伸び出た足をぶらぶらさせたりしている。


 そのため僕は遠慮なく愛さんの様子を観察した。


 大きな目の下にうっすらクマが浮かんでいる。疲れているのかもしれない。頬も心なしかこけているように見えた。すっきりとした首は暑さのためかうっすら汗ばんでいる。


「あの、話しづらいんですけど」


 やがて愛さんはそう言った。僕は小さく笑って謝った。


「少し痩せた?」

「痩せたかも」

「疲れてる?」

「疲れてるかも」

「勉強してる?」

「あまりできてないかもしれない」

「医学部受験生が勉強以外で疲れるだなんて!」


 僕は大げさに驚いてみせた。愛さんは小さく笑った。


「バスケを続けてる祐輔には言われたくないな」

「実は今日、部活の追い出しマッチをやってきたんだ」

「追い出されたんだ? ていうか部活辞めてなかったの?」

「追い出されたし、実はまだ部に所属していたらしいんだ。驚きだったよ」

「自分でも知らなかったなら、それは驚きだね」

「驚きだったんだ。同時になんだかムカついた」

「なんで?」

「なんでって――」


 なんでだろう。色々そのとき考えた気もするが、こうして時間を置いて改めて考えるとなるほど不思議だった。


「なんでだろう。大人はズルいと思ったのかもしれない。だって僕は自分なりに葛藤した末やってられなくなって辞めたのに、あっさり”おれは怒ってないしあいつを責めないでやってくれよ”って態度を取られたら、なんだか僕がただ駄々をこねてる子どもみたいじゃないか」

「そうじゃないんだ?」

「まったくそうじゃない。というかそういう問題じゃない。確かに先生たちから見たら僕はただの子どもで、駄々をこねてるように見えるかもしれないけど、そうじゃないんだ」

「そう」と愛さんは相槌を打った。


 そして愛さんは僕を眺めた。僕は視線を合わせているのに耐えられず、広場で遊ぶ子どもを眺めた。なるほど、観察されているというのは話しづらいものである。


「あの、話しづらいんですけど」


 僕が笑ってそう言うと、愛さんは一緒にくるくると笑った。


「ちょっと詳しく話してみなよ」

「詳しく?」

「祐輔が何に腹を立てたのか」

「なにそれ。そんなの聞きたい?」

「とても聞きたいね」

「そうかい。それじゃあちょっと考えてみるよ」


 そして僕は考えた。どうして腹が立ったのだろう?


「ーーたぶんバスケットボールの話になるから愛さんにはよくわかんないかもしれないよ」

「そこをなんとかひとつ、あたしにもわかるように話してごらんよ」

「ひどい注文だな」


 僕は少し笑ってしまった。笑ってしまったら負けである。なんとか愛さんにもわかるように、できるだけ基本的なところから説明してみることにした。


「まず前提として、バスケットボールはチーム競技だ。ひとつのチームで一丸となって勝利に向かってプレイする。その指揮官が監督で、監督の指揮のもと、僕たちは戦うわけだ」


 バスケットボールへの考え方は人それぞれで、当然そこには多様性がある。しかしチームとしてまとまるために、皆がひとつの共通認識の元働かなければならない。そしてその共通認識は監督が作ったものであるべきだ。


 それが当然なのだが、僕には監督の考え方がどうにも納得いかなかった。監督の目指すバスケはいわゆる”確実性”を求めるもので、極力ジャンプシュートを減らしてインサイドで戦おうとする。


 インサイドに強い選手がいれば良いだろう。実際監督はそのバスケでかつて黄金時代のようなものを築き、インターハイ出場も果たしたらしい。特別な伝統のない公立の進学校での快挙は監督の名声を高くした。


 それと同時に、その強烈な成功体験は、監督から戦術的な柔軟性をひどく失わせることになったのだ。


「バスケットボールにおける勝利条件は相手よりも高く得点していることだけだ。相手より多く点を入れるのでもいいし、相手の得点を自分たちより低く抑えるように戦ってもいい。点の入れ方だって、ジャンプシュートでもレイアップでも、スラムダンクでもいいわけだよ。それをひとつのやり方しかしないというのは、どう考えてもナンセンスだ」

「なるほどね。でも、ひとつのやり方を突き詰めるからこそできる強さみたいなものもあるんじゃないの?」

「確かにそうだ。それで強くなるなら、何なら勝てるならいいんだよ。ルールに則った範囲であれば何をしても構わないんだから」


 僕は大きくひとつ息を吐き、足元の木漏れ日をじっと見つめた。話しているうちに思い出してきた当時の葛藤が僕の内部にうごめいている。


 監督と僕のバスケ観は相いれないもののようで、しかしそれは比較的よくあることのようにも思われた。僕の抱えたジレンマのうちもっとも頭を悩ませたのは、実はそれ自体ではなく、むしろ僕の人間性のようなものに関するところである。


 緩く風が吹いている。揺れた枝葉が木漏れ日の形を変える。愛さんは先を急かすわけでも何か発言をして話題を変えるわけでもなくただ僕の隣に座っていた。


 季節が明るさを保ってくれているが、子どもたちは公園から帰る時間帯となっていた。陽は傾き夕暮れ時になろうとしている。


 やや細長く変形した木漏れ日の一部に愛さんのつま先が照らされていた。編み上げのサンダルを履いている。そのグラディエーターのように縛られた足首に向かって僕は言葉を何とか吐き出した。


「納得できないし勝利にも結び付かない戦い方にエネルギーを捧げるのはうんざりだったんだ。バスケ自体は好きだし、やるなら僕はハードワークしたいんだけど、やりがいというものがそこにはなかった」


 しかしながら、僕のチームメイトたちは僕ほど監督に対して拒否的でなかった。それもあって僕は辞めるまで監督批判のようなことを表だってしたことはない。


「でもそんなことはどうでも良かった。最終的にもっとも僕が悩んだのは、僕は良いボーラーになる資質を持っていないんじゃないかということなんだ」


 良いボーラーになる資質。そんな形のないものを話題にされ、しかし愛さんは戸惑っているようにも興味をなくして退屈しているようにも見えなかった。話し始めた僕は小さく浮かべられた愛さんの微笑みに促されるように言葉を続ける。


「相性の良くない監督の下でも腐らず頑張り結果を残したり、どうにか自分の考えを擦り合わせて適合していく選手たちはいくらでもいる。僕はどちらかというと個人のエゴでチームを台無しにする選手が嫌いで、選手は黙って己の持つすべてを捧げるようにプレイすべきだと思っている方なんだ」

「献身的だね」

「正当な理由なしにハードワークできない選手はコートに立つべきじゃないと思ってるくらいだよ。時間が与えられた範囲では、僕は自分にできるチームにとってプラスになる最大限のプレイを続けてこられたんじゃないかなと思ってる」


 その点だけは自信があった。しかし、それがチームにとって本当に最大の利益をもたらしただろうか?


 たとえば僕がどうにか自分の考えを曲げ、監督の意図する通りにプレイしたとする。統計上僕が放ったスリーポイントシュートが4割程度入るとしても、ボールを持ち込みあるいはパスを出し、せいぜい5割程度しか入らない2点を狙う。期待値上は1.2点から1.0点に効率が下がるわけだが、それを一貫して狙い続ければ、あるいは様々な要因によっていつか報われる日が来るかもしれない。


 最初の1年間はほとんど出場機会がなかった。次の半年は監督の意図に完全に則ったプレイを続けた。しかし最後の半年は、僕は結果が伴わず納得もできない戦術に自分のすべてを本当に捧げてこられただろうか?


「僕は自分の考えるチームに最大の利益をもたらすプレイをしたつもりだけど、それは自分の独りよがりなエゴに過ぎなかったのかもしれない」


 そして僕はその葛藤を続けることから逃げ出した。部を辞めたのだ。それまで苦楽を共にしてきた仲間を裏切る代わりに僕は平穏な日々を手に入れた。


「受験勉強は割合好きだよ。自分の思う通りに頑張って、僕は今のところ成績が向上している」

「ひょっとしたら向いているのかもね」

「バスケが向いてなかったとは思いたくないけどね」

「そういう意味じゃないよ、ごめんごめん」


 愛さんは笑って謝った。僕は愛さんに笑い返し、大きくひとつ息を吐く。


「ひょっとしたら医者になるのは良い選択なんじゃないかと思うんだ。僕はこの通りおそらく上司も部下も選ぶだろうし、ひょっとしたら組織の利益より自分の納得を優先させるかもしれない」


 その点医者はおそらく患者を第一に考えることが許される筈だ。仮に僕がこのまま医者になれたとして、患者の利益のためにハードワークすることには自信がある。


「確かに資格があればある程度自分で環境は選べるものね」

「たとえば顧客のために働くべくして働いて、自社の利益を優先させなければならないような事態が続いたときに、僕は平気でいられる自信がない」

「生きづらいね」

「生きづらいんだ。まあでも自分の性分だから、ある程度仕方ないなと思ってる」

「いいね」と愛さんは言った。


 僕はこれまで誰にも話せたことのないような内容の話を聞いてもらえてなんだかとてもスッキリしていた。晴れやかな気持ちで愛さんの顔を見る。木漏れ日が瞳に映って明るい茶色に光っている。なんと美しい色だろう。


 いつまでも眺めていたい気持ちだったが、愛さんと会ってだいぶ時間が経っていることに気がついた。


「ところで、僕に話があるんじゃなかったの? なんだか僕ばかり話を聞いてもらっちゃったけど」

「そうだね。なんだかいざとなったら言い出しづらくて」

「僕もなかなか話しづらいけど、結構ヘビーな内容の話をしたよ」

「そうだね」と愛さんは笑った。「聞けてよかったよ」

「僕も聞いてもらえてよかったと思う。なんというか、ありがとう」


 愛さんはエヘヘと笑って僕の左手を触ってきた。驚いて触られるままにしていると、僕の指を摘んでは動かして、指遊びをしているようだった。


「あたしも思いきって話してみようかな」

「どうぞ」と僕は言った。

「実はね」と愛さんは話し始めた。


 その内容は確かに衝撃的だった。僕は何も返答できず、僕の指をいじる愛さんの手を呆然と眺めた。感触だけではわからないが、その中指には僕のものより年季の入った立派なペンだこがあることだろう。愛さんのこれまで積み上げてきた学習時間は僕とは比べ物にならない筈だ。


 その愛さんが言ったのだ。医学部受験を諦めることにしたのだ、と。



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