表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
10/31

10. ワンオンワン


 松尾さんのコートを使って自主練のようなものは行っているものの、この数ヶ月の間に僕のバスケットボール能力は一部衰えているようだった。考えてみれば当然で、僕が5人対5人の規模でボールを触るのは、あのトランジション・スリーを鮮やかに決めた試合以来はじめてのことである。


 僕のポジションはポイントガードだ。フロア全体を見渡し、そのすべてを把握して自分のコントロール下に置かなければならない。しかし僕のゲーム勘のようなものはこの数ヶ月間で失われており、これまで何もしなくても自然と集まっていたフロア上の情報を、ひとつひとつ自分で取りに行かなければならないような有様だった。


 結局のところ、僕は後輩相手の追い出しマッチに参加している。参加しても監督に会わずに済ませられるところが決め手となったのだ。皆に意外なほど歓迎されたのは、ひょっとしたら少なからず気を遣われているのかもしれない。


 納得のいくゲームメイクができないことを悟った僕は、早めに直人にボールを渡すことにした。意外そうな目で直人が見てくる。確かに結果だけをみればターンオーバーを犯すことなくふたつほどアシストパスを通しているので、僕がポイントガードから降りる理由はないかもしれない。しかし、僕にとってはチームがより良く機能することの方が大事であって、今の状態を前提に考えるならば、直人がポイントガードを務め、僕はシューティングガードのような仕事をする方が良いように思えた。


 試合勘のようなものはしばらくプレイを続けていれば戻るだろう。そのとき僕の方が良いポイントガードとして働けるならそうすれば良いし、このまま今日はウィングの仕事に終始しても良い。僕は味方のスクリーンを利用してフリーになると、直人のパスを呼び込んだ。


 少し遅い。しかし十分良いパスだ。僕は茶色のボールを受け取ると、よどみなくシュートの動作に入った。


 シュートは入る。試合勘不足だが、どうやらシューティングの調子は良いらしい。練習そのものが足りないわけではないのだ。僕が衰えているのはゲーム勘のような部分だけで、塾からの帰りを走っているおかげか体力面にも余裕があった。


 ボールが手につく。ハンドリングも悪くない。松尾さんのコートで他人と行う練習はほとんどが1on1であるため、そのための技術はむしろ向上しているのかもしれなかった。あるいは、かわいい女の子に成果を見られ得ることが原因かもしれない。


「やりますね」僕に対峙する後輩が言った。「年寄りのくせに」

「来いよクソガキ」


 ボールを持って抜こうとしてくる彼に対するディフェンダーは僕だ。腰を落とし、前傾姿勢になって睨みつける。プレッシャーをかけられ隙あらばスティールも狙えるのがこの守り方の長所である。短所は単純にしんどいことと、足が動いていなければ目も当てられない抜かれ方をすることだ。


 僕はプレッシャーをかけつづける。今日のために手入れをしたバッシュのソールが体育館の床と擦れて音が立つ。ハードワークの奏でる小気味の良い音だ。僕は背が小さいが、身長の割に手が長い。手の長さは守備の局面で役に立つ。


 彼はボールを持ちすぎだ。加えてステップワークがあまり良くない。ほら手が届くぞ。無防備とは言わないが十分な注意を払われていないドリブルの隙間に僕は右手を軽く伸ばす。過剰反応して不自然な守られ方をしたボールにさらに右手を大きく伸ばす。指先がボールに触れたことが感触でわかる。


 ボールハンドラーのコントロール下から抜け出したボールがフロアに転がる。ラインを割らない良い角度だ。僕に対峙していた後輩は振り向いて追いかける必要があるため、そのまま走れる僕に勝つことは不可能だ。


 トップの位置でスティールに成功した僕を阻むものはどこにもなかった。ドリブルしながら僕は独走の体勢に入る。


「スリー!」


 スリーポイントシュートを煽られる。明らかに僕の引退を決定づけた場面を連想しての発言だ。ただし事情が少し違っていて、僕に点差を気にする必要はなく、並走する者は誰もいなかった。


 結局僕はゴール下までボールを運び、丁寧にレイアップシュートをリムに収めた。やじ馬からはブーイングが飛ぶ。


「まだ交代したくないんだよね」と僕は言った。


-----


「下手になってないじゃないですか」


 スポーツドリンクをくれた菊池という後輩がそう言った。彼は2年生で、おそらく僕や直人のいなくなったポイントガードをこれから務めることになる。そういえばあの試合の日にも彼は交代してベンチについた僕に声をかけドリンクをくれたものだった。


 なんとなく感慨深いものを感じながら、僕はもらったドリンクに口をつける。


「どうかな。コートビジョンがひどいけど」

「確かにパスはイマイチでしたね。でも、ボールは手についてるみたいだったし、シュートタッチもしばらくシューティングしてないようには見えませんでしたよ」

「引退したらボールに触ってはいけないって法律はないからね」

「どこかで練習してたんですか?」

「していた。僕は思ってた以上にバスケットボールが好きみたいだ」

「てっきり祐輔さんは天才なのかと思ってました」

「それはそのまま思っててくれてもいいんじゃないかな」


 追い出しマッチはひと段落つき、後輩チームの勝利となっていた。僕はいくつか満足できるプレイができたが、結局ポイントガードとしては悔いが残る内容だった。松尾さんのコートで日常的に3on3でもできないものか、提案した方が良いかもしれない。


 なんとなく向けている視線の先には直人がいた。ボールをもって近づいてくる。


「やろうぜ」と直人が言った。


 僕はニヤリと笑って見せた。


 直人がボールを保持する形で対峙する。身長にして10㎝以上僕より高いだろうが、ボーラーとして彼より劣ると思ったことはない。中学生の頃からの付き合いで、度々1on1を行ってきたが、おそらく僕が勝ち越している筈だ。


 僕は両手を構えて腰を落とし、前傾姿勢で直人を睨む。「お相撲さんの立ち合いみたい」と愛さんにかつて言われたことのある体勢だ。


 ジャブステップ。反復横跳びのようにソールを鳴らし、僕はあらゆる動きに対応する。掌は大きく広げ、ボールの行方を追尾する。あくまで1on1と考えるならばパスやジャンプシュートの選択肢を除いても良いのだけれど、僕はガードの選手としてディフェンスを続けた。


 やがて意を決したように直人がドライブをしかけてきた。体を入れて進行方向をゴールからそらす。スピードが削れた。


 勢いを失った直人は半身になってボールを保護し、少し僕から距離をとる。とらせなかった。僕はピッタリと直人についていき、自由な動きを妨害しつづける。


 直人は背中を軸に、僕を巻き込むようなターンを試みた。これが成功すればゴール下に潜り込める。僕の手が十分長ければそれでもボールを弾けたかもしれないが、あいにくそこまでの長さは僕にはない。スティールを試みるのではなくターンの先に体をねじこむようにステップを踏んだ。成功だ。少し意外そうな顔。体格に勝る直人はよくこのムーブで僕から点をとったものだった。


 結局直人はそこからのシュートを成功させた。身長が10㎝以上高いということは、下手したら上に伸ばした腕の先は20cmほど高くなるのだ。僕の腕は標準より長いためそこまでの差は生まれないが、直人がジャンプして放つシュートをブロックするのは不可能だ。


 精一杯の妨害は行うが、シュートの機会自体を削ぐことは難しい。それでも放つシュートを難易度の高いものに選択させることは可能で、今回の場合はレイアップシュートやそれに準ずるゴール下からの容易なものを許さなければよい。及第点ではある筈だ。


 次のシュートは失敗に終わった。僕は直人に簡単なシュートは許さず、フック気味に放ったタフショットはリムに当たって跳ねかえる。リバウンドはなしの約束なので、次は僕の攻撃となる。


 大きくひとつ息を吐く。不思議と直人の構えにプレッシャーを感じなかった。


 ジャブステップ。いきなり鋭い動きを見せると、直人が過剰な反応を見せた。フロントチェンジ・クロスオーバーで逆をとり、直人の体が入ってこない軌道を通って直線的にゴールへ切り裂いた。


 最後はレイアップ。100回連続で成功させろと言われても応じられるイージーショットだ。


「いいね」と直人が呟くようにして言った。

「だろ」僕は次の攻撃を開始した。


 直人との1on1は控えめに言ってボロ勝ちだった。僕は自分のある面での衰えと共に、ある面での成長を実感することができた。この内容の1on1なら愛さんに見られても恥ずかしくないことだろう。


 彼女からの返信はまだ受け取っていない。何度もこちらからメッセージを送るような勇気はなく、黒川先生に軽く訊いても事件性のようなものはなく心配いらないとのことで、それきりだ。


 僕はひとりでも勉強を続けたし、バスケの練習も続けた。外部の人間からみた僕の生活はほとんど何も変わっていないことだろう。


 しかし僕の気持ちは常に一部が沈んでいた。止まない雨を窓から眺めているようなもので、僕自身は濡れないし、他のことに集中しているとその間は気にならないが、ふとした拍子に音が聞こえる。雨は止んでいないのだ。窓を眺めると雨が降り、景色を濡らす様子が目に入る。そんな感じだ。


 気を沈めたままにしていても良いことはないので極力気にしないようにはしている。しかし、やはりふとした拍子に沈んでいくのだ。


「勉強は順調?」


 帰り支度をしながら直人が話しかけてきた。僕は軽く頷く。


「そういや模試はD判定だったけど」

「Eじゃないのか」

「なんとかね」

「医学部だろ。この時期で、現役で、4月まで部活してたにしてはいいんじゃねえの?」

「実は僕もそう思っている」

「え、祐輔さん医学部受けるんですか?」


 菊池が会話に入ってきた。面倒になったら逃げようと心に決めながら僕は頷く。


「実はそうなんだ」

「そんな素振り、全然これまでありませんでしたよ。それに医学部ってお金がかかるんじゃないですか?」

「私立には行かないから」

「国立でも他の学部よりはかかるんじゃないのか?」

「え、そうなの?」

「調べとけよ」呆れたように直人が言った。

「奨学金もらってバイトでもすれば、なんとかなるんじゃないかと思ってた」

「医学部って頭がいい人が行くんじゃないんですか?」

「実は試験で点さえ取れれば合格するんだ」

「世も末ですね」と菊池は言った。


 同じポジションということもあって、菊池と僕らは仲が良い。ほかの皆はこの三人の会話に入ろうとはせず、流れ解散となっていった。


「志望動機は何なんですか?」

「実はモテたくてね」

「動悸が不純だな」直人は呆れ顔だ。

「いや、純粋にモテたいんだ」

「なんだそれ」

「僕は純粋に不純なんだ」


 僕たちは軽口を叩きあった。そして何気なく携帯電話に目をやると、愛さんからメッセージが返ってきているのに気がついた。とっさに直人と菊池から隠したが、それがかえって目立ったらしい。


「ひょっとして、それが純粋に不純な動機か?」


 直人が菊池とニヤついていた。面倒なことになりそうだ。はたして僕は逃げられるだろうか。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ