1.逮捕はいつも早朝に
「飼柳シュンさん、飼柳シュンさんいらっしゃいますか」
ごんごん、ごんごん。
残暑の残る9月2日、午前7時30分。
いつも通りの時間に朝食を済ませ、テレビを見ながら着替えを終えたところで
玄関からドアをノックする音と俺を呼ぶ声がした。
声は大きく強く、それでいて高く整った恐らくは女性のものだった。
その響きや淀みない発声から何らかの公職についてる事が予想される。
俺はテレビを消しながら「母さん、出てー」と母に伝えた。
この時点で嫌な予感はしていた。
「はいはい、今出ますよ」
母の飼柳エミコが洗い物を途中で止め、エプロンをつけたまま玄関にそそくさと向かう。
我が家には父はいない。
父が5年前に亡くなって以来、母は大変な苦労をしながらも一人で俺を育ててくれた。
俺はそんな母の姿と生前俺たちを養ってくれていた父をふと重ねる。
こんな俺でも将来は母の助けになるよう、せいいっぱい努力しているつもりだ。
とりあえずは来週から始まる学科試験でよい点数を取り、
それから価値ある人間としての評価を一つ一つ積み重ねていこう。
将来的には皆から信頼される公職に就き母から自慢の息子であると誇りに思われたい。
しかし、そんなあぶくの夢は一瞬で砕け散る。
母がドアを開けると、そこには栗色の巻き毛がキュートな女性がいた。
黒縁の小ぶりな眼鏡をかけ、髪の色を濃くしたような茶色のスーツが彼女のスレンダーな体形とよくマッチしている。
「奥様の飼柳エミコさんですね。中央公安局のものです。シュンさんのご同行をお願いしに参りました」
声の主であった女性が胸元から繊細な金細工のついた手帳を見せながら母に言う。
球体を囲うように二つの円が描かれ、それを襲う二本の槍を食い止めている模様である。
俺はあの模様を知っている。いやこの国に住んでいる者ならだれでも知っているだろう。
国を動かし取り締まり公共の安全と利益と福祉とその他諸々を守る国家権力の証である。
つまり現状を説明すると国家権力が朝一番に俺を家まで逮捕しに来たという形になる。
母の顔が凍り付く。
後方で顔を覗かせていた俺の顔も凍り付く。
そんな時、女性と目が合った。
「目標発見、確保急いで!」
女性の両サイドから屈強な男二人が現れ土足で家に上がり込む。
母の横を通るときギリギリこちらまで聞こえる程よい声で失礼しますと言っているのが聞こえた。
こんな場面でなければとても好感触を持てる人だったのかもしれない。
「シュン! なにやったの!!」
「なにもやってねぇよ!!」
母の叫びに大声で答える。実際身に覚えがない。
生を受けて17年。万引きもしたことがなければいじめに加担した覚えもない。
喧嘩はした記憶があるがあれは教師も交えた親同士の話し合いで決着がついたはずである。
何故だ。
「目標確保!」
男は俺の両手に手錠をかけると大声で宣言する。
容疑者とか被疑者みたいな事いうんじゃないの、こういうときって。
両腕をつかまれ呆然とする俺をスーツの女性は真っ直ぐに見据えた。
心の中ではノルマ達成やったぜ今日は焼肉だなとか思ってるんだろうなこんちくしょうめ。
青と白の2色で塗られた公安局専用車両。
日常でも目にすることは稀にあるが乗る機会はめったにない。
あるとすれば公職である公安局に努めるか、
「俺みたいな犯罪者になるかか…」
ふとつぶやきが漏れる。
左手に座る屈強な男は何も答えない。
俺の位置は右後であり前方には運転席。
そこではもう一人の男が姿勢正しく運転している。
助手席には先ほどの女性が座っており、時折どこかと連絡しているようだが
会話の断片から内容を推察することは難しい。
俺が諦めの境地に達し、助手席に座る女性の巻き毛の先端を数えていると、突然巻き毛が大きく動く。
女性が運転席に座る男の方を向いたらしい。
「田村くん。このまま第7管理部に向かってちょうだい」
「直接ですか? 流石にあんまりでは…」
「そういう指示なの。私たちは従うしかないわ」
ちらりと女性がこちらを見る。
すぐに視線は運転席の男に戻ったが、その一瞥には哀れみや同情ではない何かを感じた。
「…了解しました」
男の声にはどこか悔しさややるせなさが籠る。
俺はその感情に対して何かを訴えようとした。
今行動すれば変わるかもしれない。この狭苦しく重い場所から逃げ出せるかもしれない。
しかし、できなかった。
俺を心配しているであろう母に迷惑をかけたくはない。
無駄な足掻きは俺の将来にとって障害になるかもしれない。
世間から冷たい反応を向けられるかもしれない…
そんなくだらない鎖が俺を締め付けて離さない。
何もできないまま、時間だけが過ぎていく。
二時間ほど経っただろうか、周囲には放置された民家や瓦礫が目立ち、
道路も整備が甘いようで時折がたんと大きく揺れる事がある。
進路の先にはあまりに異質な壁のように並ぶ銀色の施設。
そして目線をあげると、そこにあるのは…
空に浮かぶ巨大な球体とそれを囲う欠けた輪。
そして輪を砕き球体を貫く二本の槍。
「あ、あぁ…」
今更になって自分の置かれた状況を知る。
少しでも暴れればよかった。悪あがきでも何でもすればよかった。
しかしもう何もかも手遅れである。
俺はこれから、死刑に等しい刑罰を受ける。
このページに目を通し、ここまで読み進めて頂いて本当に有難う御座います。皆さまにお楽しみ頂けるよう全身全霊で執筆していく所存です。