花吹雪
薄桃色の桜の花びらが舞い散り、舞い上がる。古来より、こぞ今年の桜まで、人に世に愛され続けている桜。花吹雪。ときに入れ墨になり人の目を驚かせたり、潤ませたりもする。花吹雪舞う、なこその関、騎乗した源義家に降りかかる桜花。いかにも、美しい風情ではないか。はかなき人の生の、これぞ名場面のひとつ。(ここまで太宰治『花吹雪』の引用である)
そんな花吹雪を浴びる情景は、誰にでもあろう。かくいう私にだってあるのだろう。
「おい、ちょっと、花びらの量、少なくないか?」
なーんて、小道具に難癖をつけているようでは、まだまだであろう。
しかし、わたしの人生にだってあるのだ。吹雪のごとく桜が舞い散っていても、いっこうに、咲いた桜もなくならない、そんな瞬間が必ずやあるはずなのだ。
あーもうやだ、こんなに頑張ってるのになんか上手くいかない。おれには才能がないのか? ふてくされて、万年筆をゴトリと机に置き、えいやっとばかりに、仰向けに大の字に寝そべる。ここはこうじゃないはずなんだ。背に畳の堅い感触を味わいながら、落ち着かなげな視線は天井を這いまわる。梁に答えがあるではあるまい。煙草の煙で黄ばんだ天井板に答えがあるわけでもあるまい。しかし、嘆かわしさを抱えた心がじっとしていない。あーもういやだ、ごろりと寝返りをうって、我が手を見る。意味もなく、ぴくり、ぴくりと指を動かしてみる。指に答えがあるではあるまい。煙草のヤニがこびりついた指に答えがあるわけでもあるまい。しかし、汚い指だ。いったい何本吸えばこう黄ばんでくるのだろう? 当然、答えがわかるはずもない。掌を裏返してみる。手の甲に答えがあるわけでもあるまいに。あーもうやだ、おれは一体何をしている? 思わず目を閉じる。とたんにはじまる夢の世界。ぼやけていたはずの思考は冴え、女房の顔が浮かぶ。話しかけてみれば、
「あらまあ、わたしがそんなことを知っているわけがありません」
などと、一言で答えなぞあるわけがないと微笑みやがる。小憎たらしい限りだ。仕方なく、おぼろげに浮かんだ女房の顔を消して、隣町に住む友人の顔を瞼の裏に浮かべてみる。
「考え過ぎなんだよ、君は」
友人の、つれない声が聞えた。
あーもうやだ。あーもうやだ。あーもうやだ。いたたまれなくなった私は、ガバと起き上がって、台所を目ざし、水道の蛇口を、ソレ! とばかりに動かし、手と顔を洗い、傍らにあったコップをエイヤ! っとひっつかみ、それでもって、ガブガブと水を飲み、ゴロゴロと喉を動かす。
机の前に戻ると、不思議にもなんだか書ける気がしてくる。
太宰治、ここでやにわに煙草を一本取り出し、火をつける。
開け放たれた障子の先には縁側があった。陽が傾きはじめたことを知らせるように、縁のそこここに長い影が見えた。せわしなく鳴き交わす鳥の声が聞えた。紫煙を通した太宰の視線の先には、咲きはじめた桜の木が一本、堂々と彼を見つめている。
にんまり、にんまり、さらににんまりと太宰の眼は光を取り戻してゆく。
「思いついたよ。これでいこう」
ボソボソとした頼りない声が、静まり返った書斎に響いていた。
私が太宰の作品を読んでいて思いうかべる氏はこんな感じだ。うだうだしながら、だらだらしながら、めそめそしながら、それでも自分の為すべきことに気づき、それが自分の使命だと思い、見た目には、ひたぶるとは言えないまでも、とにかく明らめの悪い男――それを人は努力というのだが――そのみっともないところを憂えず作品にも盛り込んでゆき、ユーモア溢れた作品で、人を慰める。
こんなわてかて、なんとか生きてます。みなはんも、がんばりまっしょ。なんてことを言いたいのだろう、太宰の微笑が眼に浮かぶのだ。
確かに、毅然として振舞い、何の迷いもなく突き進む姿ばかりを見せられる人もいよう。しかし、そいつはなかなかに難しい。私などの場合、どちらかというと、太宰にそっくりだ。あーもうやだ、あーもうやだ、やりたくなーい。そして、ジタバタする。そして、めそめそする。そして――以下略。
でも、それでも、そんな姿であっても人を励ますことは出来ると思っている。
太宰もきっとそう思っていたことだろう。
(以下、太宰治『花吹雪』から引用)
日陰の道ばかり歩いて一生涯を消費する宿命もある。全く同じ方向を意図し、甲乙の無い努力を以って進みながらも或る者は成功し、或る者は失敗する。けれども、成功者すなわち世の手本と仰がれるように、失敗者もまた、われらの亀鑑とするに足ると言ったら叱られるであろうか。人の振り見てわが振り直せ、とかいう諺さえあるようではないか。この世に無用の長物は見当たらぬ。
~完~